かつて半農半漁の小さな漁村だった横浜は、1859年(安政6年)に開港すると、たちまち外国商人が集まり、一気に繁栄することになりました。 外国商人が集まった最大の理由は、安価で良質な日本産の生糸がここで手に入ったからです。当時、ヨーロッパでは蚕の伝染病「微粒子病」が大流行し、生糸の生産量が激減。最大の輸出国だった中国(清)はアヘン戦争後、太平天国の乱などが起きており、輸出どころではありませんでした。 そうしたなか、脚光を浴びたのが日本です。居留地には商社・銀行・ホテルなどの建物が並び、「売込商」と呼ばれた日本人商人が生糸を中心に大量の物産を販売しました。 1872年(明治5年)には、群馬県に官営・富岡製糸場ができ、関東一円から横浜に絹が運びこまれました。生糸は外貨を獲得する大産業となり、日本の発展を支えていきます。まさに「貿易立国」日本の誕生で、もし絹糸の輸出が振るわなければ、日本の近代化が