Location via proxy:   
[Report a bug]   [Manage cookies]                

ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Rachel Kushner の “Creation Lake”(3)

  去年今年貫く棒の如きもの
 ご存じ虚子の名句だけど、ぼくも去年の宿題をひとつのこしたまま年が明けてしまった。うん? 句の意味とはちと、ちがいますな。
 さて前回(2)では、カルト集団の教祖 Bruno の哲学的瞑想が退屈とクサした表題作だが、あと半分、「ミステリ部分はけっこう面白い」。
 Bruno の瞑想とは、じつは主人公の「わたし」がハッキングしたメールの本文で、「わたし」は「アメリカの中年女性でフリーの秘密諜報員」。本名は明かさず、今回は Sadie Smith と称して、「南仏の田舎に居住するカルト集団的なコミューンに潜入。ミッションは、巨大地下貯水池の建設に反対する環境運動家たちの動静を監視し、扇動工作によって組織を壊滅へと追いこむことだ」。
   ネタを割りすぎない程度につけ足すと、その運動家たちが環境テロをおこなう可能性があり、それを未然に防ぐのが Sadie の任務である。
 エコテロリズムと聞いてぼくが思い出したのは、だれの名画だったか、ペンキかなにかをぶちまけるという蛮行くらい。が、Wiki によると、もっと組織的で明らかに危険な、文字どおりテロ行為の場合もあるらしい。
 これを上のようにスパイ小説として取り扱った例は、ハヤカワ文庫版『新・冒険スパイ小説ハンドブック』にも載っていない。おそらく本書がはじめてなのではないか。
 冒険スパイ小説といえば、ぼくは忘れもしない2000年の夏、"Anna Karenina" を英訳で読む直前まで、Dick Francis やら Robert Ludlum やら、その手のエンタメばかり読んでいた根っからのファン。ひさしぶりに昔の血が騒いでしまった。
 なにより Sadie Smith のスパイぶりがいい。けっして美人ではないがデカパイ。「冷静沈着でハニー・トラップを得意とするなど狡知にたけ、濡れ場もありニヤリとさせられる」。
 もし映画化するなら、と思って『ソルト』や『レッド・スパロー』、『アトミック・ブロンド』など、わりと印象にのこっている女スパイ映画を再チェックしてみたが、どれもヒロインはアクション系。ハニトラでメロメロではなく、キック・パンチでボコボコにされそうですな。
 美人すぎるしデカパイでもないけど、冷静沈着、奸計で男を籠絡しそうなのは、『愛の嵐』(1974)や『さらば愛しき女よ』(1975)のころのシャーロット・ランプリングか。彼女は当時、30歳前。いやあ、彼女ならぜひハニトラを仕掛けてもらいたい。

 とそんな脱線はさておき、本題にもどると、「作者はこうしたマタ・ハリの流れをくむスパイ小説に飽きたりず、組織の教祖ブルーノの思想を冒頭から開陳」。これがいけない。「エコテロリズムエコロジーだけという安易な物語を避けた点は評価すべきだが」、いっそエコロジーにしぼり、その路線でいろいろ工夫する手はなかったのか。
 あるいは、えらく退屈な瞑想を要領よくカットするか。
 ともあれ、ムダに長すぎる。「作者がもしここで純文学とエンタテインメントとの融合を試みたのだとしたら、その意気やよしと賞賛すべきか、それとも無残な結果におわったことを嘆くべきか。評価のわかれそうな水準作である」。
 とレビューは結んだけれど、ホンネをいえば、往年のシャーロット・ランプリングを思い出させる美女の主演映画で鬱憤を晴らしたいところです。(了)

2024年ぼくのベスト小説

 今年ももう大晦日。去年の今日はトマム・スキー場にいたので、二年ぶりにわが家で第九を聴いている。

 今年は年頭、「もっと本を読むぞと決心」したのはいいけれど、じっさいは八月まで十九世紀英米文学の古典巡礼。おかげで読んだ冊数は激減した。

 その後、いつものようにブッカー賞レースを追いかけ、きのうやっと、最終候補作の落ち穂ひろいがほぼおわったところ。とりあえず、その総括をしておこう。(以下途中まで、「2024年ブッカー賞ぼくのランキング」に転載しました)。

 まず受賞作の "Orbital" だが、どうしてこんなものが選ばれたのか、とニュースを知って絶句。これほどぼくの口に合わない作品はひさしぶりだ。要は、国際宇宙ステーションからながめた時々刻々変化する地球の風景が描かれ、それに呼応して、宇宙飛行士たちの脳裡に去来するいろいろな思いが綴られるだけ。前者はドキュメンタリー映画か、雑誌「ニュートン」の写真で代用できそうだし、後者は平凡なトピックスの羅列にすぎない。選評は未読だが、ぼくの見すごした美点が評価されたのだろう、というしかない。
 1位に推した "James" は、名づけて「ハックルベリー・フィンの冒険外伝」。ハックは助演にまわり、原典で脇役だったジム(ジェイムズ)が大活躍。今年の全米図書賞に輝いたのもおおいにうなずける会心の冒険小説だ。しかしそれ以外の要素がいただけない。ジムとヴォルテール啓蒙思想家との奴隷制談義など、人種差別を扱うさいの紋切り型から脱しようとした試みは評価できるが、議論そのものは不発。ほかのブンガク的工夫も突っこみが足りない。
 "Stone Yard Devotional" はコロナ禍を描いた作品。破局的な状況に焦点を当てず、ホームステイ生活を余儀なくされたのが、じつは自己検証に絶好の機会だったと思い起こさせるところがいい。が、検証される内容は死別の悲しみや、あやまちと赦しなど、ありきたり。
 "Held" は「人生の断片集」。人生のさまざまなピースをちりばめた「叙情的な散文詩と観念的で晦渋な瞑想」の世界だが、その瞑想の先にあるのが「大略、愛と死」ときては、解読に要した時間をかえしてくれ、といいたくなる。
   "Creation Lake" は落ち穂ひろいの途中。書きのこした点を要約すると、これはエコテロリズムをスパイ小説の技法で描いたもの。その「ミステリ部分はけっこう面白い」のだけど、あと半分の哲学的瞑想が退屈。
 以上まとめると、月なみな感想だが、「もはや語るべきことは語りつくされてしまった現在、あとは状況と語り口で攻めていくしかない」という文学の閉塞状況が見えてくる。"Orbital" の受賞は典型例だろう。この程度でブッカー賞受賞とは、文学の水準低下を物語っているような気がしてならない。(転載はここまで。上の「ぼくのランキング」で、ブッカー賞の総括をさらにつづけました。主旨は、「いでよ、21世紀の George Orwell!」)。
 と思ったら、年末に読んだ今年のピューリツァー賞受賞作、"Night Watch" は出色の出来だった。これがなかったら、今年はベスト作品なしでおわるところだった。

 むろん本書でも、南北戦争時代の精神病院という、おそらく文学史的には目新しい状況が設定されている。が、それにたよることなく、やはり手垢のついたホメことばだが、波瀾万丈の物語、涙の感動作に仕上がっている。
 この "Night Watch" といい "James" といい、"Orbital" より上回っているのは、ぼくの色眼鏡では明らか。ゆえに今年は("Night Watch" は去年の作品だけど)、アメリカ文学のほうが勢いがあったように思える。来年はどうでしょうか。
 みなさま、どうぞよいお年を。

Rachel Kushner の “Creation Lake”(2)

 長い、長すぎる。
 400ページちょっとの本だから超大作ではないし、現代の作品ではむしろふつうの分量といえるけど、それでも長い。
 そう感じるわけは、ひとえに、本書の主な舞台、南仏の田舎に居住するカルト集団的なコミューンの教祖、Bruno Lacombe の瞑想が散漫だからだ。
 冒頭 Bruno は、組織の実務リーダー Pascal Balmy にメールでネアンデルタール人の話をする。Neanderthals were prone to depression, he said. / He said they were prone to addiction, too, and especially smoking.(p.3)
 ついでホモ・サピエンスが顔を出すなど(p.8)、以後、こうした先史時代の人類の話題はなんどもくりかえされるが、最初のうちこそ興味ぶかかったものの、やがて飽きてしまった。学術的な意義はさておき、上の引用例でわかるとおり、だからどうした、とミもフタもない感想しかもてなくなったからだ。
 そこで眠気ざましにパラパラめくっていたのが、『ビジュアル版 46億年の地球史』。これはスグレモノです。

 ともあれ、「ブルーノは、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスの比較、人類の進化と文明の進歩、戦争の悲惨、資本主義の功罪などを論じながら、よりよい未来のために現代人が目ざすべき道を模索する」。
 というのも、こんな一節があるからだ。All attempts to categorize people, Bruno said, whether by astrology or anthropology or blood, answer to a root desire: to know the future. And by knowing it, we hope that we might prepare for it, or even control it. / ... He had looked to species to locate where we'd gone wrong. He had believed it was Better Before, ... / He had been vaguely aware of a flaw in his thinking. ... / Was it Better Before? I honestly can't say, he wrote. In looking back, what I really wanted was to know how we navigate with the knowledge we have. What future do we imagine for our present?(p.367)In my assessments, he said, I have lost my bearings, and I will have to find new ones.(p.368)
 虫食いの引用につき、わかりにくい文脈でスミマセン。ただ、「散漫な瞑想」の一端はうかがい知れよう。とりわけガクっときたのは、最後のワン・センテンス。なんじゃこれは!?
 せっかく眠い目をこすりながら、このくだりをはじめ、「人類の進化と文明の進歩、戦争の悲惨、資本主義の功罪」など、しち面倒くさい話につきあってきたのに、あの努力はいったいなんだったのか。「高尚なトピックスに発展したわりには竜頭蛇尾」もいいところだ。
 ここで本書カバーの折り返しに目をやると、Beneath this taut, dazzling story ... lies a profound treatise on human history. という紹介が載っていた。profound ですか。too profound じゃないかしらん。
 と、やけにクサしてしまったけれど、Bruno の瞑想をほとんどカットすれば、たしかにこれは taut, dazzling story。「ミステリ部分はけっこう面白い」。そちらの粗筋に大半の紙幅をさいた折り返しの記事は、ま、版元の商策ですな。(つづく)

Samantha Harvey の “Orbital”(3)

 本書で描かれる国際宇宙ステーションには、日本人宇宙飛行士 Chie も乗りこんでいる。
 そのせいかステーションが日本上空を通過する場面もあり、ぼくたちはニヤリとさせられるはず。... Asia slides away to the starboard side. Shikoku and Kyushu pass beneath, and everything else is ocean; the same ocean that raids the shore by the wooden house, getting closer to the garden ...(pp.22 - 23)
 the same ocean 以下はむろん眼下の風景ではなく、Think of a house. A wooden house on a Japanese island near the sea, with sliding paper doors wide to the garden and tatami floors sun-blanched and threadbare.(p.21)という「三周目:降下」の冒頭の一節を受けたもの。
 このくだりの直後から、ある女性の人生が描かれ、やがてそれが Chie の亡き母とわかる。But since when did death wait, and what sort of a homecoming would it be anyway? To die on her daughter's [Chie's] arrival on earth.(p.22)彼女の人生行路はなかなか興味ぶかく、しんみりさせられる。
 それは Chie の祖父母が長崎の犠牲者・被爆者だったというエピソードとも関係している。Her grandfather unwell the day of the bomb and sick from the work and left with the baby [Chie's mother], while her grandmother went to the market. There were no remains of her grandmother. There were few remains of anyone at the Nagasaki munitions factory where her grandfather worked ... (p.59)
 Chie にかぎらず、ぼくたちは父母や祖父母、その他の家族や友人知人など、すでに鬼籍に入ってしまった人びとの人生を思うと粛然となる。そのとき多少なりとも、喪失の悲しみをおぼえるのはいうまでもない。
 ここで一連の素人悲劇論にもどろう。いまや大半の場合、「喪失の悲しみ」が小説の題材として「悲しい劇」という悲劇、つまり melodrama でしか描かれなくなったのはなぜか。
 答えは簡単だ。現代には King Lear も Captain Ahab も、Robert Jordan もいないからだ。彼らに比肩しうるヒーローが、みんないなくなってしまったからだ。
 以前も引用したことのある "For Whom the Bell Tolls" の幕切れはこうだ。Robert Jordan lay behind the tree, holding on to himself very carefully and delicately to keep his hands steady. He was waiting until the officer reached the sunlit place where the first trees of the pine forest joined the green slope of the meadow. He could feel his heart against the pine needle floor of the forest.
 つぎもおなじみの引用だが、Captain Ahab はこう叫びながら海の底へと沈んでいく。Oh, now I feel my topmost greatness lies in my topmost grief. おお、いまこそ感じるぞ、おれの至上の偉大さは、おれの至上の悲しみにある。
 Jordan が感じた胸の鼓動は、Ahab の宣言は、ぼくたちを高揚させる。それはたしかに、I feel my topmost greatness lies in my topmost grief. という感覚と近いものだ。そしてそれは King Lear をはじめ、シェイクスピア悲劇の主人公たちの破滅に接した当時の、および現代の観客の感想にも近いのではないか。
 偉大なヒーローがいなくなった。ゆえにその死も描かれなくなり、それに代わって、一般ピープルの「喪失の悲しみ」が melodrama の題材となった。
 なんだ、ジョージ・スタイナーの『悲劇の死』の安っぽい焼き直しじゃないか。
 いやはや、まったくそのとおりです。バレバレですな。
 では、なぜ偉大なヒーローはいなくなったのか。その論証は容易ではないが、ごくおおざっぱに暴論を述べると、人間が昔より神から、人間以上の至高の存在から遠くなったから、という気がする。
 その一例が "Orbital" だろう。前回紹介したように、ここでは神は禅問答でしか扱われず、ぼくたち日本人読者だけのことかもしれないけれど、唯一「心にしみて秀逸」といえそうなのは、上のような Chie とその母や祖父母の話。つまり一般ピープルの「悲しい劇」だ。
 そんな本書がブッカー賞受賞とは、あくまでぼくの色眼鏡で見た印象ですが、現代文学の水準低下を物語っているのでは、と思えてなりません。(了)

(宇宙が舞台の映画は、星の数ほど、といわないまでもたくさんあるけれど、『インターステラー』、なかなか面白かった記憶がある)

 

Samantha Harvey の “Orbital”(2)

 えっ、いったいどうなっとんねん!?
 本書が今年のブッカー賞を受賞と知ったときは、ほんとうに驚いた。
 novella といってもいいほどの薄い本で、取りかかる前は楽勝と思ったものだけど、いざ読みはじめると、舞台の国際宇宙ステーションが地球を三周したあたりでスローダウン。以後、ものの一、二ページ進んでは目が止まり、手近にある本や画集、写真集などをパラパラ。なかでも雑誌「ニュートン」の別冊は気晴らしにうってつけだった。

 おかげで、上の発表時になってもまだ片づかず、のこりは読み流してしまった。いつもまめにメモを取るぼくとしては、こんなこと、ちょっと記憶にない。
 それほどまでに乗れない作品がなんと栄冠に輝いたのだから、まさに晴天のヘキレキ。でもまあ、文学とその作品評価にはいろいろな立場や考えかたがあって当然で、これひとつ、と決めつけてしまうと、どこかの国の大統領と同じ発想になってしまう。選評は未読だけど、きっとぼくが見すごしてしまった美点があるのだろう。
 ともあれ本書では、地球を一日16周するという国際宇宙ステーションの「一日の記録が即物的に淡々と綴られる。台風の動きは立体的で興味ぶかく、美しい日の出のシーンにも目を奪われるが、いや待てよ、これならいっそドキュメンタリー映画のほうが、より感動的なのでは」。
 とそんな気がしたのは、「地球は青かった」というガガーリン、最近では広瀬すずちゃんのことばを思い出したからだ。上の印象的な事例は、要約すると、「地球は青かった」のたぐいと似たり寄ったり、といえばいいすぎか。
 時々刻々と変化する地球の景色と同様、宇宙飛行士たちの脳裡にうかぶ思いもさまざまだ。「神の存在や宇宙の歴史、地球環境の変化、『宇宙船地球号』の乗員としての人類といったテーマが俎上に載ることもあるが、どれも月並みで、しかも深掘りされず、つぎつぎとリレー式に進む」。
 とりわけガッカリしたのはこのくだり。Nell wants sometimes to ask Shaun how it is he can be an astronaut and believe in God, a Creationist God that is, but she knows what his answer would be. He'd ask how it is she can be an astronaut and not believe in God. They'd draw a blank.(p.44)
 宇宙から地球をながめる目とは、いわば「神の目」である。なのに神の話題がたったこれだけとは。せめて、『ワイルド・スピード SKY MISSION』に出てくる「ゴッド・アイ」くらいの扱いはしてほしかった。っていうジョークはさておき、まあ、神の存在なんて、どうでもいいトピックなんだろな。それなら上のような禅問答は、神ではなく紙のムダ。
 彼らがじっさい目にしたもののひとつはこうだ。When they look at the planet it's hard to see a place for or trace of the small and babbling pantomime of politics on the newsfeed, and it's as though that pantomime is an insult to the august stage on which it all happens, an assault on its gentleness, or else too insignificant to be bothered with.(p.73) One day they look at the earth and they see the truth. If only politics really were a pantomime. If politics were just a farcial, inane, at times insane entertainment ... if that were the beginning and end of the story it would not be so bad. Instead, they come to see that it's not a pantomime, or it's not just that. It's a force so great that it has shaped every single thing on the surface of the earth that they had thought, from here, so human-proof.(p.74)
 通り一遍の政治論である。政治に翻弄された結果、戦争やテロで多くの人びとが血を流している国の読者なら、なにが human-proof だ!と怒り心頭に発するのではないか。たしかに戦争もテロも、じつは human-proof にはちがいないのだけど、それをそうと明言せず、そのゆえんを論証もしない以上、「通り一遍の政治論」というしかない。
 つぎもそらぞらしい。Humankind is a band of sailors, ... a brotherhood of sailors out on the oceans. Humankind is not this nation or that, it is all together, always together come what may.(p.134)
   ひろい読みした終章の一節だけど、いやはや、ヒドさもヒドし。そりゃ宇宙から見ると、地上の流血の惨は目に入らないでしょう。でもまさか、これが結論ってことはないでしょうね、Samantha さん!
 あれあれ、なんだかバリザンボーばっかり。堅苦しいレビューとちがって、落ち穂ひろいは気軽な楽屋話ということで、つい口が、パソコンのキーを打つ指がすべってしまった。でもいちおう、酷評の理由は述べたつもりです。
 とはいえ、もちろん心にのこったエピソードはある。それが「喪失の悲しみ」とかかわっているのです。(つづく)

Jayne Anne Phillips の “Night Watch”(1)

 今年のピューリツァー賞受賞作、Jayne Anne Phillips の "Night Watch"(2023)を読了。Jayne Anne Phillips(1952 - )は1970年代後半から短編を書きはじめ、"Machine Dreams"(1984 未読)で長編デビュー。第四作 "Lark and Termite"(2009 ☆☆☆★★)は、2009年の全米図書賞ならびに全米批評家協会賞の最終候補作だった。つづく "Quiet Dell"(2013 未読)のあと、十年の沈黙をやぶって世に問うたのが "Night Watch" である。さっそくレビューを書いておこう。

[☆☆☆★★★] 十九世紀中葉、南北戦争時代の物語とくれば、戦争の悲惨さか、奴隷制の過酷さを訴えたもの。とそんな紋切り型から脱した秀作の誕生である。むろん激しい戦闘場面はあり、戦争の申し子といえる人物たちも顔を出す。が戦争そのものは主題ではない。また差別の現実も描かれるが、ここで虐げられるのはアイルランド系移民だ。その家族が戦争で生き別れ、数奇な運命をたどったのち、やがて再会する。なんだ、よくある話ではないか、と侮るなかれ。その「再会」のしかたが尋常ではなく、おおいにツイストが効いている。主な舞台はウェストヴァージニア州ウェストンの山中と、街に実在したトランス・アレゲニー精神病院。タイトルどおり夜間警備員のジョン・オシェイが主人公だが、本名ではない。このことからして、彼の家族が尋常ならざる運命の荒波にもまれた一端がうかがい知れよう。戦闘以上にすさまじいアクションシーンに思わず息をのみ、一家の別離から再会へといたる経緯にしばし絶句。終盤ややダレるくだりがあるものの、大団円でふたたび盛り上がる。「苦難を乗りこえる力は忍耐と勇気」という単純な真実をあらためて教えてくれる感動作である。

Anne Michaels の “Held”(3)

 肉親の死、家族との別れ。それは文学史上、古典古代の昔から語り継がれてきた永遠のテーマのひとつであり、実人生でも、いつかはだれでも経験する万人共通のテーマである。
 ゆえにこれを扱った作品なら必ず読者の共感を呼びそうなものだが、やはり出来不出来があり、古い話だけに過去の傑作名作と比較され、平凡陳腐とのそしりを受けやすい。状況や語り口をよほど工夫しないかぎり、なかなか涙の感動作は生まれにくい。
 とそんなハンデをものともせず、"Held" はおおいにがんばったほうだとは思うけど、結果は、まあ読んでおいていい程度。共感をおぼえるひともいるかもしれないが、その共感もおそらく読者の人生観、価値観を左右するほどのものではないだろう。
 ここでもういちど、共感 sympathy の定義を確認しておこう。Longman Dictionary of English Language and Culture によると、小説と関係がありそうなのは、1 sensitivity to and understanding of the sufferings of other people, often expressed in a willingness to give help  2 agreement with or understanding of the feelings or thoughts of other people.
 さて、冒頭に挙げたような喪失が、こうした sensitivity to and understanding of the sufferings ... や、agreement with or understanding of the feelings or thoughts ... を呼びさますのは、死が、死別が万人共通の悲劇だからである。ではその「悲劇」とはなにか。
 同じく Longman によると、tragedy の第三の定義とその用例はこうだ。a terrible, unhappy, or unfortunate event: Their holiday ended in tragedy when their hotel caught fire. | It was a great tragedy that she died so young.
 つまり、ほぼほぼ「悲しい劇」というわけだが、tragedy には第一および第二の定義がある。1 a serious play ends sadly, especially with the main character's death, and is often intended to teach a moral lesson: 'Hamlet' is one of Shakespeare's best-known tragedies. 2 plays like this considered as a branch of literature. (Ibid.)
 たった一冊の辞書だけで tragedy を論じるとは無謀もきわまれりだけど、いまここで古今の名著をひもとくゆとりはない。
 ともあれ、ぼくが死は悲劇といったとき、それは a terrible, unhappy, or unfortunate event「悲しい劇」という意味であって、moral lesson のことはまったく脳裡になかった。と同様に、"Held" でも、その前に採りあげた "Stone Yard Devotional" でも、moral lesson への言及はいっさいなく、そこにはただ喪失の悲しみがあるだけだった。すべてはそこに原因があるのではないか。
 悲しみと悲しみへの共感があるだけで moral lesson はない。moral lesson のない「悲しい劇」とは、文学的には悲劇というよりむしろ、melodrama なのではないか。(a type of) exciting play, full of sudden events, very good or very wicked characters, and (too) strong and simple feelings.(Ibid.)
 死という sudden event が、悲しみという strong and simple feeling をもたらすだけで、moral lesson がない。ゆえに読者は「共感以上のもの」が得られない。「共感の次元をはるかに超えた高みや深み」へと引き上げられ、引きずりこまれることがない。そこに大半の現代文学が melodrama と化してしまった、つまりは文学の水準低下の一因が認められるのではないか。
 なんていう話もじつは平凡陳腐で、だからこそぼくは Longman 一冊で片づけてしまった。
 疑問はまだつづく。「すべてはそこに原因が」と書いておきながら、ではなぜ、いまや文学は melodrama が主流になってしまったのか、という問題がのこっている。この点については次回、いよいよ今年のブッカー賞受賞作 "Orbital" の落ち穂ひろいをしながら考えたいと思います。(了)

(直近で見た映画は『世界一キライなあなたに』(2016)。原作が Jojo Moyes の "Me Before You"(2012 ☆☆☆★★)と知ったのは、なんと今年の7月だった)