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日刊イオ

月刊イオがおくる日刊編集後記

第40回迎えた在日朝鮮学生美術展

2011-09-30 09:35:39 | (相)のブログ
 今週火曜日から近畿地方に出張中です。イオの次号は朝鮮幼稚園・幼稚班の特集。この間、大阪、京都、滋賀など近畿地方の朝鮮幼稚園・付属幼稚班をいくつか訪れて取材しています。イオではこれまで何度も民族教育および朝鮮学校に関する特集を組んできましたが、朝鮮幼稚園・幼稚班を単独で扱うのはたぶん今回が初めてだと思います。初めての試みなので、取材にも力が入ります。11月号をご期待ください。

 話は変わって、この場で一つ宣伝を。
 9月初めから在日朝鮮学生美術展の巡回展が日本各地で催されています。在日朝鮮学生美術展とは、日本各地の朝鮮学校に通う児童・生徒たちの美術作品を展示するもので、今回が第40回目の開催となります。
 開催期間は来年2月末まで。計10ヵ所で行われます。神戸展、大阪展がすでに終わり、現在は北海道展が開催中(9月26日~10月1日、北海道朝鮮初中高級学校)。その後も広島、東京、神奈川、京都、鳥取、名古屋、福岡と続きます。
 



 写真は神戸展のようす

 今回の応募作品は1万2314点。その中から選ばれた724点の入賞作品のうち約600点の作品と多数の佳作、各地方入選作品が展示されます。 絵画はむろん、立体、写真、映像、アニメーションなど作品ジャンルも幅広いのが特徴です。私が学生の頃はこんなに幅広い内容ではありませんでした。ちなみに、美術的センスゼロの私は出品すらできなかったような苦い記憶があります。

 今回は第40回という節目の回。40周年記念として、日本各地にある朝鮮学校に通う幼稚園・幼稚班から高級部までの全児童、生徒の姿を写した巨大写真パネルや、現在新潟で学校生活を送っている福島朝鮮初中級学校の子どもたちが地元を発つ前に描いた作品をはじめ各地から寄せられた児童・生徒の作品をフォトモザイクにしたものを展示するなど、新たな試みも行っています。40周年記念プロジェクトの名前は「花の種」。若い美術教員たちのアイデアだそうです。

 写真パネルがこちら。

 拡大したものがこれ。

 フォトモザイク作品の一部


 今回の美術展は東日本大震災復興支援という目標も掲げています。日本全国のウリハッキョ児童・生徒たちが写っている写真パネルは各地を巡回後、被災した東北地方の朝鮮学校に送られ、卒業式の場でも展示される予定です。パネルに写る子どもたちはみな手に花を持っています。日本全国の友だちとともに被災地のウリハッキョ児童・生徒たちの卒業を祝おうというすばらしい試みだと思います。
 サッカーやラグビーなどスポーツ分野での活躍に比べると華やかさや注目度は劣るかもしれませんが、朝鮮学校に通う子どもたちの豊かな内面世界を垣間見ることができる絶好の機会だと思います。子どもたち一人ひとりの感性が美術作品を通して視覚的に伝わり、観る人の心に響くはずです。
 在日同胞のみならず、日本の方々も多く会場に足を運んでくれることを願っています。
 巡回展の場所や日時など詳しい情報は、http://www.gakubi.com/まで。(相)

権利の主体は? 横浜教育フォーラムを終えて

2011-09-29 09:00:00 | (瑛)のブログ
 いつの日か取材を終えた帰り道、何気なく入った喫茶店でコーヒーを飲みながら、Mさんは外国人の子どもの母語教育に携わるようになったご自身の出発点について話してくれたことがある。Mさんは、日本の公立学校で日本語が不自由なゆえに、行き場のなかった南米の子どもの母語教育や居場所作り、ルーツを訪ねる沖縄旅行、朝鮮学校と日本学校との交流に熱心に取り組む教育者だった。
 それは差別に苦しんだ母親が自ら命を絶ったという話で、私は脳天が衝かれるほど衝撃を受けた。差別や偏見が人を殺すことがある。当時、在日朝鮮人を取り巻く社会的な不条理を取材していたものの、自分の存在を脅かされるほどの経験を持ち得なかった私は、差別の厳しさを思い知らされた。

 25日に横浜で開かれた神奈川朝鮮中高級学校創立60周年記念・民族教育フォーラムは、在日朝鮮人にとってかけがえのない民族教育を知ってほしい、との思いから企画された。私たちが異国で何代にもわたって続けてきた民族教育は、言葉や名前―すなわち人格を根こそぎ奪われた植民地支配が日本で克服されていないことから、幾多の試練を越えなければならなかった。しかし残念ながらこれらの事実や、日本の公教育で満たされない教育ニーズが日本社会にどれだけ伝わっているだろうか。少なくとも、日本政府が朝鮮学校だけを高校無償化の対象外にする、というレイシズムを公然とやってのける社会である以上、伝わっているとはいいがたい。

 知る場、分かちあう場はもっとたくさんあっていい。
 朝鮮近現代史の研究者、日本人弁護士や学者、朝鮮学校教員や保護者をパネラーに迎えたフォーラム。参加した同胞の中からは日本の人にもっとたくさん来て欲しかったという声があがっていたが、次につなげてほしいと切に思う。

 1998年に日本弁護士連合会の一員として、日本政府に朝鮮学校差別の是正を勧告した鈴木孝雄弁護士は、アイデンティティについて私たち同胞自身がわかってない、とアリストテレスから始まる持論を展開してくれた。権利の主体は誰か。その自覚なくして厚い壁を突き破ることはできないだろう。(瑛)

モンダンヨンピルと「高校無償化」からの朝鮮学校排除に反対する連絡会が共同声明

2011-09-28 09:00:00 | (K)のブログ
 月曜日(26日)の(里)さんのブログでも書かれていましたが、東日本大震災で大きな被害を受けた朝鮮学校を支援しようと結成された韓国の市民団体・モンダンヨンピル(ちびた鉛筆という意味)のメンバーらが来日し、栃木で行われたセッピョル学園の場で朝鮮学校への1次支援金(1000万円)をNPO法人「ウリハッキョ」の李東潤理事長に手渡しました。23日のことです。

 一行は、その翌日の24日には、東京都江東区にある東京朝鮮第2初級学校を訪問しました。夕方からは東京の某所で、「高校無償化」からの朝鮮学校排除に反対する連絡会の方々と会合と交流会を持ちました。
 会合では、両団体が今後も連携をとりながら朝鮮学校を支援していくことが確認され、ブログの最後に紹介した「共同声明」を採択しました。

 私は交流会から参加したのですが、朝鮮学校という存在を介して、韓国から来た人々、日本の人々、そして在日同胞が一堂に会し、朝鮮学校を守るのだという同じ思いのもとに人と人とが純粋に繋がった、本当に素晴らしい空間が作り上げられていました。政治や立場や言葉などの壁はまったく消え去っていたと思います。

 交流会が盛り上がってくると、当然のように歌が始まりました。
 モンダンヨンピルの共同代表のクォン・ヘヒョさんとイ・チサンさん、シンガーのソン・ビョンヒさんが「子どもたちよ、これがウリハッキョだ」を披露しました。この曲は在日の詩人、許南麒氏の同名の詩をもとにイ・チサンさんが作曲したものです。
 在日同胞が歌うとき、一部で最後の歌詞を変えて歌っている場合がありますが、ちゃんともとの詩により忠実に「니혼노 각고오요리 이이데스(日本の学校よりいいです)」と歌っていました。(写真下)



 その後も、いろんな人たちが前に出て、いろんな人たちが肩を組んで、いろんな歌を披露していました(クォン・ヘヒョさんとソン・ビョンヒさんは二人で長渕剛の「乾杯」も歌ってました。クォンさんはギターも歌も上手かった。写真下)。



 「ウリハッキョ」の監督のキム・ミョンジュンさんは、朝鮮学校に何年も泊り込み映画を撮影したので、朝鮮学校のことや在日同胞のことはよく理解していますが、今回来た人たちの中には、朝鮮学校を初めて訪れた、在日同胞と初めて深く話をしたという人もいました。
 私と同じテーブルに座った労働運動をしているというチョさんもそうで、朝鮮学校を訪問した感想を聞くと、「何十年にも渡って、抑圧と差別の中、民族を守るために朝鮮学校を建て運営してきた在日同胞の努力に驚嘆するしかありません」と語っていました。

 交流会に参加して全体として感じたのは、韓国の人たちが朝鮮学校を支援する日本の人たちの存在を非常に心強く思い感謝の気持ちを抱いているということでした。
 そして、韓国、日本、在日の3者がこのように集まるというのは、朝鮮学校のもつ正当性というか、素晴らしさを証明するものではないでしょうか。

 交流会の最後、モンダンヨンピルの共同代表のクォン・ヘヒョさんとイ・チサンさん、そして、「高校無償化」からの朝鮮学校排除に反対する連絡会の事務局長である長谷川和男さんの3人が、この日に採択された共同声明に署名しました。(写真、左からイ・チサンさん、長谷川和男さん、クォン・ヘヒョさん)



 この共同声明は、あまり全文が掲載されることがないと思うので、このブログで全文を紹介したいと思います。


共同声明

 東北大震災で被災した朝鮮学校を支援する韓国の市民団体モンダンヨンピルと「高校無償化」からの朝鮮学校排除に反対する連絡会は、日本政府や地方自治体など行政による朝鮮学校差別をこれ以上許さないという共通理念のもとに、2011年9月24日、東京で合同会議を持った。
 昨年度から始まった「高校無償化」は、日本にあるすべての高校、専修学校、外国人学校に差別なく適用されるという画期的なものであった。しかし残念ながら法律が施行された昨年4月から、朝鮮学校だけを排除するという状態が続いてきた。1年を遥かに超えた今年8月、菅直人前首相が自ら行なった朝鮮学校に対する高校無償化適用審査手続き「凍結」を「解除する」と指示したことによって、審査手続きが再開され「高校無償化」の朝鮮学校適用に向けて、やっと動き出すこととなった。
 1年半にわたって朝鮮学校だけを排除してきた日本政府の対応は、一方で東京都をはじめとする一部の自治体がこれまで出してきた補助金を止めるといった事態を誘発している。
 日本政府や地方自治体は、すべての子どもの学ぶ権利と民族的アイデンティティを保障した国際人権規約、子どもの権利条約そして人種差別撤廃条約を遵守し、植民地時代に奪われた民族性の回復を積極的に保障するという責務を果たさなければならない立場にある。
 民族教育の保障は外交や政治に左右されてはならない基本的人権の問題であり、子どもを外交や政争の具にするかのような対応は、断じて許されることではない。
 朝鮮学校で育つ子どもたちは、日本と朝鮮学校の架け橋となり、東北アジアの平和に貢献しうる存在である。
 私たちは、このような認識のもと、さしあたり次のことを強く訴える。

1.再開された「高校無償化」審査手続きを迅速に進め、一日も早く、2010年度に遡って就学支援金を支給すること。

2.東京都をはじめとする一部の自治体は、従来の補助金を不支給とした措置を直ちに撤回すること。

2011年9月24日・東京

モンダンヨンピル(ちびた鉛筆)
「高校無償化」からの朝鮮学校排除に反対する連絡会

(k)


焼き肉を食べに

2011-09-27 10:03:38 | (麗)のブログ
ひょんなことから先輩と「焼き肉を食べに行こう」ということになった。


二人で話しているときに何気なく出てきたこの話題。
テンションが上がって、ついでに奢ってもらおう!とかワイワイキャッキャとはしゃいでいたのだが、
何だかんだその発言から数ヵ月経ってしまい、いまだに実現していない。

どちらかの予定が駄目になったり、出張が重なってしまったり、
やっとみんなの予定が合い「いざ行かん!」という日に、
この前の台風で中止になってしまったり。


その日は「それでも行きましょう」と血迷ったことを言ってしまったが、
吹き荒れる風と雨に打たれながら全身びしょ濡れになって家に帰り、
テレビを点けると都心の駅前の人だかりや、倒れた木にタクシーが下敷きになっている映像を見た。


幸い4時過ぎに会社を出ていたので、無事電車に乗ることが出来たけれど、
ほんの数時間後には一時運転見合わせになっていたことを考えると黙って帰ってよかったと思った。
それと、何というか、無謀なことを言ってしまったというか、どんだけ焼き肉食べたかったんだと思った。



それもようやく叶うので喜んでいます。(麗)

第3回セッピョル学園

2011-09-26 09:14:29 | (里)のブログ
先週、「第3回セッピョル学園」が栃木朝鮮初中級学校で開催されました。
「セッピョル学園」とは東北・北関東にある朝鮮学校6校(東北、福島、新潟、茨城、群馬、栃木)
の生徒たちが一緒に寝泊りしながら、さまざまなイベントを通じて交流を深めるという試みです。
おととしから始まって今年で3回目。
1、2回目とも茨城朝鮮初中高級学校で行なわれてきましたが、今年は東日本大震災による影響を考慮し、
1泊2日で栃木での開催になりました。


●1日目


今年は初級部から高級部まで209人の生徒が参加しました。


「開園式」で各学年ごと(高級部は除く)の「セッピョル担任先生」が発表されるようす。


学級活動の時間に、まず自己紹介をしている初級部1年生の子どもたち。



夕飯は栃木のオモニたちが心を込めて作ってくれたカレーライスがふるまわれました。


1日目のクライマックス(!?)だったといえる、フォークダンス。
始まる前にとある女の子が「好きな人と早く一緒に踊りたい!」と言っていましたが、
フォークダンス終盤、「好きな人、もう一人増えちゃいました!」と笑顔で話していたのが
印象的でした。笑


教室に敷かれた布団の上で、さっそく枕投げをはじめる男の子たち。

実は1日目、東北ハッキョの子どもたちは参加できませんでした。
高速道路で起こった事故の影響で何時間も渋滞を抜けれず、
夜遅くにやっと到着したのでした。
本当に残念でした。



●2日目

この日は「セッピョル運動会」が行われました。
生徒たちの保護者をはじめとする多くの同胞たちも、各県から訪れました。
本来のセッピョル学園の目的に加え、今年は震災で被災した地方の同胞たちを激励する場となるよう、
運動会が企画されました。


今回のセッピョル学園を準備した栃木青商会はじめ、各地方の青商会メンバーたちも気合十分。


20代の若い人たちも早朝から準備に協力していました。


力強い行進!いよいよ運動会の幕開けです。


東北地方出身の朝鮮大学校の学生たち。
後輩たちの姿をカメラにおさめていました。
今回、ボランティアも頑張っていました。


まずは徒競走。


赤のTシャツに身を包み、応援を繰り広げる宮城の同胞たち。


初級部低学年の玉入れ競技。


あまりに楽しそうだったのか、途中から子どもが飛び込んできました。笑



こちらは女子生徒たちの棒争奪戦。一言で「熾烈」でした。


男子生徒たちの騎馬戦も大盛り上がり!


縄跳び。息を合わせてジャンプ、です。


子どもたちだけでなく、大人たちのリレー走も行なわれました。
実は手にしているプレートは…、


裏にその地方の「ご当地もの」が描かれていました。ユーモアにあふれています。



運動会の2部では参加者みんなで焼肉を囲みながら、


朝鮮大学校軽音楽団の公演がスタートしました。


東北出身の先輩の歌声に聞き惚れている女の子たち^_^。



続いてセッピョル学園に参加した6校ごとにそれぞれ小公演を披露しました(写真は東北初中級学校生徒らによる農楽)。


そして宴もたけなわとなった頃、スペシャルゲストが。


この笑顔の人は…??









そう、「冬ソナ」に出ていた韓国の大物俳優、クォン・へヒョさんです!

今回、東日本大震災で被害を受けたウリハッキョを支援する韓国の団体「モンダンヨンピル」の方たちが
わざわざ支援金を伝達するために、栃木ハッキョに訪れたのです。
映画「ウリハッキョ」を手がけたキム・ミョンジュン監督や歌手のイ・ジサンさんはじめ、
10人以上もの方たちが駆けつけてくれました。


被災したウリハッキョへの1次支援金(1000万円)が、NPO法人「ウリハッキョ」の李東潤理事長に伝達されました。

クォン・へヒョさんが話した言葉は、ジーンとくるものがありました。
「60余年の間、ウリマル、ウリクル(民族の言葉と文字)を守ってきたみなさんが、私たちをここに導いてくれたのです。本当に感謝しています。
みなさん、決して疲れないで(屈しないで)ください。
私たちも共にたたかいます」
力強い言葉に、思わず涙している同胞もいました。
在日同胞に連帯してくれる彼らのような存在は、本当に温かいです。



今回セッピョル学園を初めて取材して、
改めてその意義を実感することができました。
セッピョル学園での出会いは子どもたちにとって、
時に人生を変えるほどの出来事になる可能性を秘めているな、と思いました。

中級部のとある生徒たちが、こんな会話をしていました。
「俺はもう高校は朝高に行くって決めてるよ。お前は?」
「俺はわかんない。日本学校行くかも」
「へぇ~、そうか。でもさ、俺らこのメンバーで朝高一緒になったら楽しいんじゃない??」
「う~ん、まぁね。まだわかんない。もしかしたら朝高行くかもしんないし!」


セッピョル学園で育まれた友情が、子どもたちの将来の糧になってくれればいいですね!




(里)







ハルモニから玄葉外相への手紙

2011-09-24 09:00:00 | (淑)のブログ


 先週のブログに「慰安婦」問題の賠償請求権問題について書きましたが、今日は関連した資料を紹介します。元「慰安婦」のハルモニたちが玄葉光一郎外相に宛てた手紙です。たくさんの人に読んでいただきたいので、全文引用したいと思います。(写真は8月12~14日ソウルで行われた「日本軍『慰安婦』問題解決を目指すアジア連帯会議」)

(以下、引用)

 玄葉 光一郎 外務大臣 殿
 私たちは、韓国に住んでいる日本軍「慰安婦」被害者です。
 今回新たに誕生した野田佳彦内閣で外務大臣となられ、今後私たちの問題に直接かかわっていくことになられる玄葉光一郎新外相に、日本軍「慰安婦」問題の根本的な解決に積極的に対処されることをお願いするため、不躾ですが手紙を送らせていただきます。
 私たちは、日本の植民地時代に日本軍「慰安婦」として連行され苦痛の生活を強いられました。戦後も被害者として保護されるどころか、傷と苦痛を隠して生きなければなりませんでした。日陰で暮らしながらも20年前、それでも死ぬ前に踏みにじられた名誉を取り戻したいと勇気を出しました。そして日本政府に問題解決を訴えてきました。しかし、この20年間私たちが叫んできた叫びを日本政府は聞きいれませんでした。むしろ日本政府の言葉を聞くよう強いられてきました。韓国政府も私たちの要求を解決するため、外交的努力に積極的ではありませんでした。その間に多くの被害者が亡くなり、「被害者」として名乗り出た234名の登録者中、69名だけが生存している状況です。
 しかしご存じのとおり、8月30日に韓国の憲法裁判所は韓国政府が日本軍「慰安婦」問題解決のための具体的措置をとらないことで基本権が侵害されたとし、政府の不作為にたいし「違憲決定」という画期的な判決を下しました。これを受けて9月15日、韓国政府がすぐに日本政府に二国間協議を提案しました。これは、私たちにとって大きな喜びを与えるニュースでした。過去66年間の苦痛と20年間の努力が、結実を迎えたのだなという希望を再び持つことができました。
 新しく出帆した日本の内閣が韓国政府の提案を受け入れ、日本軍「慰安婦」問題解決のための協議をはじめることを期待しています。そして解決までの時間を引き延ばさないよう願っています。私たち日本軍「慰安婦」被害者は、日本と韓国の間に明るい未来が来ることを心から望んでいます。胸の中にある「無念」も「怒り」も「傷」もすべて解き放ち平穏な心を持ちたいと思います。これ以上日本政府に向かって大声を張り上げたくありません。そのためには、まず過去の歴史を正しく清算することが第一だと考えています。私たちに与えた日本の罪を認め、歴史的で法的な責任を取るという態度を見せるのが大切だと考えます。
 1992年1月8日から毎週水曜日にソウルの日本大使館前で行われている水曜デモは、今年12月14日に1000回を迎えます。私たちは、日本政府が1000回の水曜デモを待つことなく要求を聞き入れ速やかに問題を解決してくれることを要請します。
2011年9月15日
日本軍「慰安婦」被害者 53 名

(引用終わり)

 韓国憲法裁判所の判決言い渡し後の9月18日、請求人のお一人である、キム・オクスンさんがお亡くなりになりました。2006年には109名いた請求人は、現在60名となってしまいました。時間がありません。キム・オクスンハルモニのご冥福を心よりお祈り申し上げるとととに、日本政府には、ハルモニたちを半世紀以上も苦しませた罪をしっかりと踏まえ、韓国政府の協議要請に誠実に応じることを強く求めます。今回の判決が、どうか「慰安婦」問題の解決につながりますように。

 以下のリンクから韓国憲法裁判所の判決文原文、日本語訳などが読めます。ぜひご一読ください。
http://www.wam-peace.org/index.php/archives/1060

 明日25日、午後1:30から早稲田大学国際会議場3F第3会議室にて、2011年VAWW-NET ジャパン総会シンポジウムが行われます。シンポジウムでは、戦時下の北海道における炭鉱・鉱山「慰安所」について報告があります。

 また、27日には「慰安婦」問題の解決を求める集会があり、韓国憲法裁判所決定の内容と、日本に及ぼす効果などについて話し合われます。衆議院第一議員会館国際会議場で、正午から。ぜひご参加ください。(淑)



台風の日に思ったこと

2011-09-23 09:00:00 | (相)のブログ
 先日、日本列島を襲った台風15号。
 各地で大きな被害をもたらし、22日午前までに死者10人、行方不明5人に達しました。紀伊半島を中心に甚大な被害を出した9月上旬の台風12号も合わせて、今年は台風の「当たり年」なのでしょうか。
 みなさんは無事でしたか。
 私は、というと、台風が関東地方に上陸した21日は「早く帰るように」という会社の勧告もあり退勤時間を早めて4時ごろ会社を出たのですが(今考えると遅すぎる!)、駅に向かう途中、通勤に利用するJR路線の電車運行見合わせの報に接しました。その時はまだ危機感はあまりなく、その時点でまだ動いていた地下鉄など私鉄を乗り継いで帰ればいいとたかをくくっていました。
 雨宿りに状況の様子見も兼ねて喫茶店でコーヒーを飲んでいたのですが、当たり前というべきか、時が経つにつれて状況はどんどん悪化。自宅に向けて動き出した頃には私鉄の運行も雪崩式にストップ、帰宅の足を完全に失い、見事に一時帰宅困難者、いわゆる帰宅難民の仲間入りを果たすことになりました。
 しかし幸いJR、私鉄ともに深夜前に順次復旧したおかげで、電車を乗り継ぎながら夜中12時ごろに何とか千葉の自宅に戻ることができました。
 「帰宅難民」。この言葉を聞くと、東日本大震災に襲われた3月11日のことを思い出します。結局、あの日私は帰宅手段を完全に絶たれ、社内で一晩を過ごしました。「これから一体どうなるのか」。震源地から遠く離れた東京にいながらも形容しがたい不安と恐怖に襲われた、あの「3・11」の夜に比べたら、今回の台風とそれによる帰宅の苦労なんて大したことじゃない、そう思えます。

 台風の翌日にこのブログを書きながら、「もし東日本大震災と今回の台風が同時に襲ってきたら」。そんな世にも恐ろしい想像をしてしまいました。自然がひとたび牙をむけば、人間という存在はあまりに小さく、営々と築き上げてきた文明も儚く崩れてしまうものなのかもしれません。

 以下、21日に感じたことを脈絡なくいくつか書きます。
 台風の日における無用の長物=傘。
 街はさながら「傘の墓場」でした。裏返った傘、骨組みだけになった傘、空高く舞い上がる傘布、そして原型を留めないほど破壊され道端に捨てられた残骸…どんな丈夫な傘も今回の台風の猛威の前では無力。高価なブランド傘から安物のビニール傘まで、昨日一日でどれほど多くの傘が破壊されたのか、まったくもったいない。壊れるとわかっていて傘を広げて、そして壊れた。いわば確信犯的破壊、「傘の虐殺」。
 私は、というと、早々と無駄な行動はやめて傘をたたみ、猛烈な雨風の中を歩きました。安物のビニール傘とはいえ、無意味に壊したくなかったので。あの状況で、傘は雨を防ぐという本来の目的を果たせないばかりか、壊れた傘が他の通行人に危害を加えるおそれもあります。台風の時には傘をさすのをやめましょう。

 もう一つは、帰宅難民について。自分のことを相当棚にあげて書きます。
 東日本大震災に続いて、今回も首都圏で大量の帰宅難民が発生しました。「何でこの人たちは超強力な台風が来るとわかっていて、こんな時間にのろのろと帰ってるんだ」と思いませんか?
 3月11日の大地震(地震は常に突然起こりますが)と違って、今回の台風15号は間違いなく関東地方を直撃すると予報が出されていました。いわば「鉄板中の鉄板」。名古屋では100万人以上に避難勧告が出されていましたし、関東の人たちもこの台風の猛烈な威力を当然想像できたはず。しかし、普段と変わらぬ行動を取る(取らざるを得なかったのか)サラリーマンや学生たち。
 予想通りというべきか、台風が近づくと鉄道が動かなくなり、多くの帰宅難民が発生し、駅や街が混乱し、電車運転再開後も混乱が必要以上に長引きました。これはひとえに会社や企業の危機管理能力、状況判断能力の欠如によるものではないでしょうか。交通手段がマヒしたことそれ自体は台風という自然災害が原因ですが、大量の帰宅難民発生や駅での混乱など一連のパニックは人災だと思います。会社を休みにするか、早い時間からどんどん帰宅させるか、仕事の関係でそうできない人は職場に留まり台風が過ぎ去るのを待つかすれば、あれほどの混乱は起こらなかったはずです。
 私の職場では午後の早い段階からすぐに帰宅するよう勧告がありましたし、知り合いの職場では午後から全社員を帰らせたそうです。一方で、一部の朝鮮学校では児童、生徒たちの下校時に交通手段がストップし、保護者たちが車で救出作戦を展開したとか。
 最悪だったのは、中途半端な時間に退勤して会社にも戻れない、家にも帰れないというパターン。まさに私がそうですが、これは自分の危機意識の希薄さが招いた結果です。
 
 今こそ惰性から脱皮して、自然災害に対する新たな備えを個人そして企業、社会レベルで構築すべきだと思います。(相)

25日は横浜へ!

2011-09-22 09:00:00 | (瑛)のブログ
今週25日の日曜日、4月に創立60周年を迎えた神奈川朝鮮中高級学校が主催する民族教育フォーラム「未来への架け橋」が開かれます。

フォーラムの目的は、朝鮮学校に学ぶ子どもたちの姿を日本の皆さんに知ってほしい、という一言に尽きます。「未来への架け橋」というタイトルは、朝鮮学校という存在が、国籍、民族の違いを越え、人をつなげる可能性を持っている、との思いが込められています。

フォーラムのパネラーは、1998年に日弁連勧告を書いた鈴木孝雄弁護士、国際人権問題に詳しい阿部浩己・神奈川大学教授、神奈川中高勤務30年の張末麗先生、朝鮮近現代史専攻の李柄輝朝鮮大学校教員、専門学校理事長の宋成烈理事長の5人。60年を振り返る映像や、横浜朝鮮初級学校と近隣の青木小学校の子どもたちの合唱も見ものです。

神奈川中高は横浜駅から10分ほど歩いた高台にあります。
ご存知の通り、神奈川県は横浜港を抱える国際都市。とくに1970年代からは「民際外交」を掲げ、足もとの国際化を進めてきました。

「民際外交」とは、長洲県政(1975~95年)を象徴する言葉の一つで、国家間の交渉である「国際外交」にたいして、民衆同士、地域同士の国境を越えた交流を意味する造語で、地方行政の立場から世界平和の実現に寄与することを目的として展開された政策群を指します」(神奈川県のホームページから)

この方針のもと、神奈川県や川崎市などでは朝鮮学校への理解が進み、民族教育を支援する行政の努力が積み重ねられてきました。

神奈川県には、日本で最も古い歴史を持つ外国人学校・サンモール・インターナショナルスクールをはじめ、ドイツ、中華、朝鮮学校が根を張ってきましたが、近年はブラジル、インド、イスラム系のインターナショナルスクールなど新興の外国人学校が生まれています。外国人学校同士が集まって公演をしたりと、ネットワークも進んでいます。これほどバラエティに富む外国人学校を抱えているのは神奈川県の財産ではないでしょうか。

しかし残念なことに、教育と政治を結びつけ、行政自らが教育本来の可能性を狭めようする動きも見られます。

フォーラムには、朝鮮学校に足を踏み入れたことがなく、知り合いに朝鮮学校出身者のいない日本の方々に来ていただきたい!

神奈川朝鮮中高級学校創立60周年記念民族教育フォーラムは、KAAT神奈川芸術劇場ホール(みなとみらい線・日本大通り駅)、13時スタートです。(瑛)

韓国労働者の母・李小仙さんの死

2011-09-21 09:00:00 | (K)のブログ
 昨日の日刊イオでも書かれていましたが、この月曜日にイオ編集部の(愛)さんの結婚式がありました。無事に、盛大に、結婚式が終わりホッとしています。
 結婚式があったために参加できなかったのですが、同じ日に東京では、脱原発の集会とデモが行われ6万人(主催者発表)が集まったようです。その前のデモで少なくない逮捕者が出ていたということで、注目されていました。社会的な問題のために日本で6万人が集まるというのは近年ないことで、脱原発の社会的な盛り上がりはさらに大きくなっているようです。
 しかし、この集会・デモの報道の仕方は、各社様々なようで、小さいあつかいしかしていない社もありました。原発に関しては各社の主張はいろいろで、脱原発の動きに待ったをかける論陣を張るマスコミもあります。この期に及んで、原発を存続させたいというマスコミがいることに驚かされます。


 少し前の話になりますが、9月3日、韓国で1400万労働者のオモニと呼ばれた李小仙さんが亡くなられました。81歳でした。李小仙さんは、故全泰壹烈士のお母さん。
 ソウルの平和市場にある被服工場の労働者だった全泰壹烈士は、1970年11月13日、労働条件のあまりにもの劣悪さを改善するため、「勤労基準法を守れ!」「俺たちは機械ではない!」と抗議しながら焼身自殺します。彼の死は、韓国の労働運動に火をつけ、学生や知識人に労働運動へ目を向けさせる大きなきっかけとなりました。彼の命日はその後、大きな労働運動が繰り広げられる日となりました。
 李小仙さんも、息子の死から労働運動の世界に身を投じて労働運動の前進に大きな影響を与えシンボル的な存在となっていくわけです。
 李小仙さんが韓国の労働運動にとってどれほど大きな存在であったかは、李さんが亡くなった後、各地で追悼の集会や夜会が行われていることでもわかります。9月7日にはソウルで「労働者のオモニ李小仙 民主社会葬」が行われ約2000人が参列したと伝えています。


 李小仙さんのお話を一度だけ直接うかがったことがあります。2003年11月に李さんは娘さんと初めて来日しました。日本で「全泰壹評伝」という本が出版されたことを記念して来日されたのだと記憶しています。そのとき何ヵ所かで講演をされたのですが、東京で行われた講演会に、何としてでも参加しなければと仕事を抜け出して足を運びました。
 その時、李小仙さんが強調されていたのは、労働者たちが富の創造者であること、労働者たちが当然与えられるべき自らの権利をもっと自覚しなければならないこと、労働者たちが団結・連帯しなければならないということでした。
 その講演会で日本の労働運動について厳しく語っていたと、私自身が当時とある文章で書いていますが、具体的にどのように語っていたのか当時のメモが残っておらず定かではありません。ともかく日本の労働運動に厳しい目を向けていたことが印象に残っています。


 日本は韓国の労働運動と無関係ではありません。
 韓国では、70年代半ばから、韓国の馬山自由貿易地域へ日本企業が進出しますが、それは安い労働力と労働争議のないこと企業にとっての「好条件」を求めてのことだったわけです。
 しかし、韓国社会で民主化闘争が大きな成果を収める中で、労働運動も新たな段階に入り、韓国労働者の賃金も上がってきます。そうすると、メリットを感じなくなった日本企業の撤退が始まるわけですが、非人道的な非常に無責任な形で引き上げるといったことがありました。1989年に韓国スミダが450人の労働組合員を解雇した韓国スミダ電機(日本スミダ電機の韓国法人)や、2007年にファックス1枚で労働者71人全員の解雇と工業廃業を通知した韓国山本(日本の山本製作所が100%出資で作った会社)などがその典型的な例です。
 日本企業は今も安い労働力を求めてアジア諸国に進出しています。


 原発の問題だけでなく、労働者の問題や在日外国人問題などなど、社会的に解決されなければならない問題で、今回のように何万という規模の人間が集い行動する、ということが、日本社会でもっとあってもよいと思います。(k)


先輩の結婚式

2011-09-20 09:48:47 | (麗)のブログ
昨日、編集部の(愛)さんの結婚式が都内で行われました。
同じイオのデザイン担当として指導をしてくれる(愛)さん。
式の準備期間、毎日電話が鳴りっぱなしでとても忙しそうでした。

一生に一度の晴れ舞台で、古典衣装を身に纏った(愛)さんは本当に綺麗で、始終、幸せそうな柔らかな表情だったのが印象的でした。
一言で言うと「妖精さん」といった感じでしょうか^^

決定的な写真を撮ろうと頑張ってみましたが、ブレブレなダメ写真ばかりで、半分あきらめが出ました。(笑)
が、あとで先輩が撮ったベストショットを頂いたので、満足です。


式の終盤でご両親に送った手紙が一番感動したシーンでした。泣きながら手紙を朗読する(愛)さんを見ながら、すでにウルウルしていた私。
イオ編集部で3年間ともに過ごしてきたことを思い出すと更に涙腺がゆるく…。
「あ、だめだ。泣いてしまう」と思い、ふと周りを見ると先輩方がすでに号泣していました(笑)



本当に素晴らしい結婚式だったと思います。式場のテーブルに置いてある小物などにも、楽しめるようなアイディアがたくさんあって、さすがイオのデザイナー!と感動しました。

(愛)さん、末永くお幸せに…。(麗)

奈良の「再起動」総会!

2011-09-19 09:00:00 | (里)のブログ
9月11日、奈良県青商会の「再起動」総会が行われました。

(総会のようす)


(宴会の席で舞台に立ちあいさつする奈良県青商会のメンバー)


(青商会の旗を持って力強い行進(?)で会場に入ってくる奈良青商会のメンバー)





(宴会のクライマックスでは会場が一体となって「統一列車」)


(奈良青商会を激励する同胞たち)


奈良では県内にたった一つあったウリハッキョが休校となってから、
地域のトンポ社会に暗い雰囲気が漂っていました。
「暗い」という一言では片付けられない、悲しく、重たい空気です。

ハッキョがなくなり、奈良に住む子どもたちは、お隣の大阪にあるウリハッキョまで通わなければならなくなりました。
しかし、奈良ハッキョの休校にともない、ウリハッキョに子どもを通わせ(られ)なくなった方もいたそうです。
そうして次第にトンポのコミュニティから離れていっってしまった人もいました。
そんな現象をはじめ、ハッキョがなくなってから2、3年の間、奈良のトンポ社会は複雑に分かたれていってしまったのでした。

しかしそんな中、奈良の30代が奮起しました。
活動が停滞していた奈良県青商会の「再起動」とともに、奈良同胞社会も「再起動」させようと立ち上がったのです。
もちろんその裏側では、長年、奈良のコミュニティを築いてきた同胞たちも、彼らを積極的にサポートしました。
「自分たちはもう歳。でも、青商会のトンムたちが私たちの気持ちを代弁してくれている」と、ある方は言っていました。


この日の総会の前には、「総会前夜祭」ともいえる納涼祭(青商会主催)が8月に行われました。




納涼祭のクライマックスはお決まりの「チュムパン」。
あんなに盛り上がりまくったチュムパンは見たことがありません!
「奈良の人たちってこんなにノリノリだったの?!(笑)」と感じるほど。
「いつもなら絶対に踊りださないような年配の方」まで舞台の前に出てきてオッケチュムを踊っていたといいます。
若者が地域を盛り上げようとしている姿に年配の方たちは再び力を得て、
よろこんでいる同胞たちを見た青商会のメンバーたちも、
大きな手ごたえを感じたのだと思います。
「『良かった時の奈良』を彷彿とさせる」「若い子がよう頑張ってるな」など、
奈良の同胞たちは話していました。


私が奈良に初めて取材に行ったのは2009年。
「奈良の同胞社会紹介!」という企画のため訪れました。
あの頃はちょうど奈良ハッキョが休校となって1年後という時期でした。
ハッキョの話が持ち上がると、同胞の方たちの表情がサッと曇り、
なんともいえない空気が流れるのでした。
奈良を後にする時、胸がぎゅーっと締め付けられる思いだったのを覚えています。
みんなハッキョが大好きで、つながっていたはずなのに、どうにかしたいという思いはあるのに、
現実的に、同胞たちがハッキョという拠りどころを失くして、散り散りになっていく…。

「現実的な打開策」として、今まで数々のウリハッキョが「統合」されてきましたが、
それがどこまで正しい選択であったのか、
その裏で、奈良のような苦しさに直面した地域ががいくつあったのか…など、考えさせられました。
とにかく、「ハッキョがなくなることは苦しいこと」だと、身をもって体感させられました。


納涼祭では、2年前にお世話になった懐かしい面々にたくさんお会いすることができました。
印象的だったのは、その方たちの表情の変化です。本当に明るくなっていたんです。
その姿にまた、胸が熱くなりました。
本当にうれしかった!!


奈良の青商会の方たちは、冷静に今のトンポ社会の現状を分析し、
自分たちがこれから向かうべき道すじを立てていました。
「奈良の同胞たちの幸せのために、何をどうすべきか」、
今後いろいろと提案し、具体的に実践していってくれると思います。
「もう、『再起動』しません!」
総会でのこの言葉に、奈良青商会の意気込みがにじみ出ていると思います。

奈良青商会!応援してます!!


一つ余談ですが。
今日は同じ編集部の(愛)さんの結婚式です!
私もチョゴリを着て参加します。楽しみです!!
(愛)さん、おめでとう!!(里)

「慰安婦」問題をめぐって

2011-09-17 10:10:29 | (淑)のブログ


 元「慰安婦」被害者のハルモニが公然と名乗り出て20年。「慰安婦」問題をめぐる動きが見られます。

 韓国では8月30日、元「慰安婦」の賠償請求権について韓国政府が具体的な措置を取ってこなかったことは「元『慰安婦』の基本権を侵害している」とし、憲法裁判所が「違憲」と判断しました。この判決は有意義で、今後具体的な実行が伴うことを願うばかりですが、これまでの韓国政府の対処の遅さを度外視することはできないと思います。

 一昨日の15日、韓国政府は前述の賠償請求権の問題で、日本政府へ政府間協議を提案。これに対し日本政府は「1965年の日韓国交正常化交渉のなかで解決済み」と、拒否する立場を示しました。
 ニュースに触れ、この問題への日本政府の対応の不誠実さに、はらわたが煮えくり返る思いでした。依然として日本政府による責任の認定と公式謝罪、法的賠償がなされていない「慰安婦」問題。民主党は野党時代、野党3党の共同でこの問題の解決のための法案を8回国会提出しましたが、すべて棄却となりました。与党になり期待を寄せたものの、法案提出の兆しは一向に見えません。今回のことでかすかな希望も雲散霧消しました。

 同じ日、賠償問題をめぐる政府と被害者との顔合わせで、元「慰安婦」のイ・ヨンスさん(83)は、「かわいそうなおばあさんが苦しみながら次々と亡くなっているのに、韓国政府はなぜ、今ごろになって日本と協議するというのか。賠償金は、みんな死んでから墓に届けてくれるのか」「1992年から19年間、在韓日本大使館の前で水曜集会を開いてきたが、その間、韓国政府は何をしていたのか。結局、裁判をしなければ胸の内は分からないのか」と涙を浮かべながら2時間近くも訴えたそうです。

 また、看過できないのが「歴史教科書」問題です。この問題においては、日本の侵略の歴史を美化し史実を歪曲する教科書の、来年度からの使用が認められました。各地では教科書採択をめぐって対立などが起こり混迷しているようです。
 採用された教科書には、歴史歪曲の筆頭である自由社、育鵬社版を含め、すべての社が「慰安婦」問題について一言も言及していません。「慰安婦」問題に限らず、強制連行・労働や領土問題など、あげればきりがありません。このような歴史を直視しない歪んだ史実を学ぶ人たちの、一人ひとりの誤った歴史認識が、根強い植民地主義を形成していくのだと思います。現に朝鮮人への蔑視や差別は、形を変えながら何度も繰り返されています。その最たるものが「高校無償化」からの朝鮮学校排除ではないでしょうか。

 ハルモニたちが92年から始めた抗議の水曜デモは今年末、1000回を迎えます。問題の解決を見ぬまま、すでに多くの被害者が亡くなっており、ご存命のハルモニたちも80歳を越えています。リミットははるかに過ぎています。この問題においては1日、いや1秒でも早い解決が必要とされているのです。日本大使館の前で声を振り絞るハルモニたちを見るたびに、いい加減これ以上待つことなんてできないと、胸が締め付けられる思いです。(淑)

もう一つの「9・11」

2011-09-16 10:02:50 | (相)のブログ
 2001年9月11日、米国で同時多発テロ事件が起きてから今年で10年を迎えました。
 しかし、世界にはもう一つ忘れてはいけない「9・11」があります。この事件の28年前、1973年の同じ日に、ニューヨークでのテロにも匹敵する惨劇として現代史にその名を刻まれている事件が南米のチリで起こっています。
 当時陸軍司令官だったアウグスト・ピノチェトによる軍事クーデター。民主的選挙によって成立したサルバドール・アジェンデ大統領の社会主義政権が倒されました。大統領宮殿にこもり最後まで抵抗を続けたアジェンデは殺害され、チリは民主主義とは名ばかりの軍事独裁体制となったのです。
 軍事クーデターは米国の支援を受けて行われ、チリは米国の都合のいい国になりました。当時は冷戦時代の真っ只中。ピノチェト軍政の治安作戦は苛烈を極め、反体制派はことごとくとらえられ処刑されました。後の政府公式発表によると約3,000人、人権団体の調査によると約30,000人が殺害され、数十万人が強制収容所に送られ、国民の約1割に当たる100万人が国外亡命したと言われています。米国はピノチェトの所業を見て見ぬ振りをしたばかりか、後押しすらしました。
 また、軍事政権は当時ミルトン・フリードマンらシカゴ学派によって提唱されていた新自由主義経済政策を導入、徹底的な民営化政策は「チリの奇跡」と呼ばれ一時は成功したかに見えましたが、実際にはGDPの成長率は落ち込み、貧富の差は急激に拡大し、貧困率はアジェンデ時代の倍の40%に達しました。
 チリで始まったグローバリゼーションの実験はその後、英国、米国、そして日本にも受け継がれ、現在の新自由主義万能、市場至上主義にいたります。こう見ると、チリの「9・11」は孤立した一つの事件ではなく、現在の状況とも密接につながりを持つ出来事だといえます。
 チリが民政に移行して久しく、ピノチェトも数年前に死亡しましたが、彼の亡霊はいまだ消え去ってはいません。「9・11」と言えば、ほとんどの人が2001年のニューヨークを思い浮かべるかもしれませんが、「9・11」の悲劇は米国の独占物ではありません。チリで起こったもう一つの「9・11」も記憶し、想起すべきだと思います。1973年の前にも後にも、そして2001年以降も米国の関与の下で無数の「9・11」があったのだという事実とともに。

 チリ軍事クーデターと関連して印象深い曲があります。英国の歌手スティングの"They Dance Alone(Cueca Solo)"。ピノチェト政権によって殺害された男性達の残された家族が抗議するという意味で一人でダンスを踊る様子を歌った曲です。サブタイトルにある「cueca」とは、チリに古くから伝わる求婚の踊り。「Cueca Solo」とは言うなれば「一人ぼっちのダンス」。同曲の日本語タイトルも「孤独のダンス」です。
 ピノチェト政権下のチリでは激しい左翼狩りが行われ、多くの運動家の男性が虐殺や拉致の末に行方不明となりました。文字どおり「消され」てしまった人も多く、家族が遺体を見るどころか消息さえもわかっていないケースが多いといいます。行方不明になった人々の妻や娘、母親たちが悲しみと抗議の意を表し、彼らの返還を求める無言のメッセージとして、チリの民族舞踊で本来男女のペアで踊るべきcuecaを女性一人(solo)で、胸に男性の写真をつけて踊ったそうです。
 スティングがこの曲を発表したのは1987年、ピノチェトが独裁者として君臨していた時期です。
 この曲はアルバム「Nothing Like The Sun」に収録されています。スティングは大学時代からずっと聴いているのですが、これは個人的にも好きな曲です。曲とともにPVの映像も心に響きます。ぜひご覧になってみてください。
 Sting - They dance alone

 以下は、日本語訳詞。(一部)

あの女性たちはなぜ一人だけで踊っているんだろう?
なぜこんなに悲しそうな瞳なんだろう?
なぜ兵士たちがここで見張っているんだろう?
石のように凍りついた表情で?
彼らが何を軽蔑しているのかわからない
彼女たちは行方不明になった人と踊っている
彼女たちは死んだ人と踊っている
彼女たちは消された人と踊っている
彼女たちは苦悩について語らない
彼女たちは父たちと踊っている
彼女たちは息子たちと踊っている
彼女たちは夫たちと踊っている
彼女たちは一人で踊る。彼女たちは一人で踊る

これが彼女たちに許されたたった一つの抵抗のやりかた
沈黙を続ける彼女たちの表情は、大きく叫びたがっている
その言葉を声に出せば彼女たちも消されてしまう
仲間だった女性は今拷問台の上にいる。彼女たちに他に何ができるだろう
彼女たちは行方不明になった人と踊っている
彼女たちは死んだ人と踊っている
彼女たちは消された人と踊っている
彼女たちは苦悩について語らない
彼女たちは父たちと踊っている
彼女たちは息子たちと踊っている
彼女たちは夫たちと踊っている
彼女たちは一人で踊る
彼女たちは一人で踊る

いつか私たちは彼らの墓の上で踊るだろう
いつか私たちは自由を歌うだろう
いつか私たちは喜んで笑うだろう
そして踊るだろう
いつか私たちは彼らの墓の上で踊るだろう
いつか私たちは自由を歌うだろう
いつか私たちは喜んで笑うだろう
そして踊るだろう


(相)

17年ぶりのウリハッキョ①チョソンサラムチャッキ

2011-09-15 09:00:00 | (瑛)のブログ



 「オンマ、朝鮮人ってどうやったら探せるの?」
 初夏のある日、ハッキョ(学校)から帰ってきた息子から聞かれた。おもしろいことを聞くなぁと思いつつ、「これって在日朝鮮人にとって長い命題なんだよ」と6歳の問いにしばし考え込んでしまった。息子は「이름이 뮈니(お名前なぁに)って聞けばいいの?」とハッキョで習ったばかりの慣用句を無邪気に話す。心の中で私は叫ぶ。(ウリマル(朝鮮語)」を知らないチョソンサラム(朝鮮人)もいるから、それは適切ではないかもね。けれど君のように無邪気にみんなに聞けて答えられたらどんなにいいだろう)

 この問いは、色んなことを思い起こさせてくれた。

 これは彼自身が置かれた環境を物語っている。学校から帰ってきて遊ぶ公園や児童館にコリアンはいない。少しずつ、自分が少数者だと気づき始めている、そんな気がした。

 エラのはった、目の細い…、どこからどう見ても、この人はコリアン!という方は時々いらっしゃる(笑)。けれど多くの場合、名前を名乗らない限り、私たちは日本人と同じように見られる。
 同じように見られても、私たちは違う。日本に渡ってきた歴史、日本社会へのまなざし…。それはいろーんな日本人がいるのと同じように。

 チマチョゴリ制服を着て学校に通っていた20数年前、この制服の賛否が同胞社会に大きく渦巻いたことがあった。朝鮮を取り巻く国内外の政治の振り子が揺れるたびにチマチョゴリを着た朝鮮学校の女生徒が首を絞められたり、制服が切り裂かれる事件が起き、同胞社会ではわが子を案じる保護者を中心に緊張が走った。
 大小の場で保護者たちが話し合いを続けるなか、近所の知り合いが「私たちはアフリカ人のように日本人と見分けがつかない。何か象徴が必要なのでは」と話されていたことを覚えている。
 身を守るためには着ない方がいい。けれど、その保護者の問いは今でも続く。チョゴリに替わるものは何? 私たちのルーツを確認する器、プライドって?
 
 今、コリアンの多くは日本名で暮らしている。日本人と結婚して日本国籍を取る方も多い。そしてそのカップルから生まれる子どもの多くは日本国籍を取得し、日本名を名乗る。数年前に「30代のコリアン」をテーマにルポを書いたとき、日本の女性との結婚を機に日本国籍を取ったが、家族の姓はすべて民族名にした、と話す男性がいた。「この選択が合っているのかまだ自信がない」と話しておられたが、その姿からは彼が振り絞ったひとつの答えの重みがひしひしと伝わってきた。

 血縁、言葉、名前、文化、国籍…。

 コリアン社会全体を見渡したとき、日本の植民地支配によって、ここに暮らすようになった私たちと、日本人との「違い」は、朝鮮半島にルーツを持つ「記憶」になっていくと思っている。この記憶を持つ人たちはどうつながっていけるのか。見た目でわからないなら気持ちでつながっていくしかない。私の名前は…と自己紹介できるように。

※ ※
 今春から私はウリハッキョ(朝鮮学校)の保護者になり、17年前に卒業したウリハッキョを追体験している。毎日の宿題、放課後の遊び…家に帰ってきて飛び出るウリマルやハッキョの様子はとっても新鮮で、私は民族教育を新たに吸収している。春からの日々を何度かに渡って綴っていきたい。(瑛)


残暑の中、昨年からの暑さの中で

2011-09-14 09:03:17 | (K)のブログ


 9月も中旬だと言うのに、この二三日、本当に暑い。昨年に引き続き、今年の夏も暑かった。

 今年の夏はいつもと違って九州、中国地方によく出かけた。取材のほとんどは、同胞の子どもたちのためのキャンプであったり、朝鮮学校の納涼祭や草刈であったり、子どもたちのために頑張るおじさん世代の活動であったり、休校になった朝鮮学校でのアートプロジェクトであったりと、朝鮮学校=民族教育に関することであった。


 昨年の夏はうだるような暑さの中で、「高校無償化」からの朝鮮学校排除に反対するいろんな動きを取材した。今年の夏の終わりに、大きな進展があったけれど、そもそもこんな問題が発生すること自体がおかしいんじゃないか、こんなに解決が長引くのはおかしいんじゃないか、とぶつぶつ思いながら、さらに、適用審査再開に猛反発する日本社会の少なくない世論や大手マスコミ、与野党の政治家、もろもろの団体に対して沸き起る猛烈な怒りをどうすればいいのかと、戸惑うのである。


 在日同胞たちは、朝鮮学校を守り同胞の子どもたちに民族教育を施すために、この夏、炎天下の中で学校に生えた雑草を黙々と刈り、キムチを売り、屋台を出し、仕事を休んでキャンプのスタッフとして働き…といろんなことをやってきた。
 自分たちが守らないと誰も守ってくれないからだ。朝鮮学校がなくなれば、在日同胞社会もなくなってしまうということがわかっているから。だから、誰かに強制されるのではなく自分たちの信念に基づいて、付け加えると、非常に楽しそうに行動している。

 今までも、そのような光景は見てきたが、この間の「高校無償化」を巡る日本社会の状況の中で、同胞たちの朝鮮学校を守ろうとする動きが、また新たな新鮮さを持って目に飛び込んできた。1世たちがそうしたように、新たに朝鮮学校を作り上げようという思いを持った3世たちが具体的に行動し始めたという感じがある。

 個々人として、朝鮮学校や在日朝鮮人を支援し自分の問題として取り組む日本の方々は多いけれど、朝鮮学校を自分たちの力で守らなければという今の比較的若い世代の同胞たちの思いや実際の行動は、日本社会に対する諦めというか苛立ちの、裏返しの一つではないのかという気がしないでもない。
 まあ、一番苛立っているのは、朝鮮学校を支援している日本の方々だと思うのだが。(k)