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新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

レッチェのドゥオモで警察官の結婚式に遭遇した・・・レッチェ②

2016-09-27 | レッチェー南イタリア

 サン・マッテオ教会から西に曲がってドゥオモ広場に向かう。このドゥオモは12世紀に創設されたが、17世紀になってジュゼッペ・ジンバの手で華やかな装飾付きのバロックに生まれ変わった。正式名称はサンタ・マリア・アッスンタ大聖堂。

 ここの大聖堂の特徴は、2つのファザードを持つこと。1つは奥まった所にある入り口側面のファザード。しかし、ドゥオモ広場の進入口からは第一のファザードが見えない構造になっている。そこで、広場進入口から真正面の、見える位置にもう1つのファザードを設けた。
 これによって、広場全体が調和を保った形となり、劇的効果が加わった。

 午後、レッチェの街は急にゴーストタウンになる。店は閉まり、市民は街路から姿を消す。多くは昼食を摂りに自宅に帰り、シェスタ(昼寝の時間)を過ごして、午後遅くに再び仕事に復帰するのが、この地方の習慣なのだという。
 人口9万人を数えるプーリア州の中心都市の市街地で、本当に人っ子一人いなくなる時間帯があるなんて、日本では到底考えられない現象だ。

 

 夕方、やっと人が集まりだしたドゥオモ広場にやってきた。と、何やら盛装をした人たちがいる。それも警官が何人も。「何かあるんですか?」と聞くと、「これから結婚式」だという。

 「どうして警官が?」「だって、警官の友人が結婚するから」。なるほど。納得。

 ほどなく花嫁さんが車で到着した。ここはバイクじゃなかった。

 あでやかな花嫁衣裳の新婦に子供が何やら話しかけている。ほほえましい光景!

 父親に引率されて、ヴェールを被った花嫁は教会の中へ。

 素晴らしい聖堂で素晴らしいカップルが颯爽と式を挙げる。

 友人たち警官の盛装した姿もなかなか凛々しかった。

 式の後外に出たら、雨が降った後。空を見上げたら虹が出ていた。新郎新婦を祝福するかのよう。そして、私自身イタリアで初めて見た虹!
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バロック建築であふれる興奮の街「バロックのフィレンツェ」・・・レッチェ①

2016-09-24 | レッチェー南イタリア

 レッチェはイタリアのかかとにある。つまりイタリア半島を長靴に例えれば、その一番下のヒール部分に位置する。
 この街の特徴を一言でいえば≪バロックの街≫。古代ローマから文明の開けたイタリアは、時代時代で様々な文化と建築を蓄積しながら、都市の姿を変えてきた。

 従って異なった時代の様式が複雑に絡み合った都市空間を形成している。


 だが、ここレッチェはちょっと違う。この街は16~18世紀のナポリ王国支配下の時代に急速に発展したため、その時代に流行していたバロック様式がほぼ都市全体の形を覆い尽くしてしまったのだ。

 それで、レッチェは「バロックのフィレンツェ」と呼ばれる。ルネサンスを開花させたフィレンツェがルネサンスの代名詞として語られるのと同様に、「バロックならレッチェを見よ」と例えられる街なのだ。

 
 レッチェに入ったのは真夏の暑い盛りだった。先に南イタリア入りしていた友人と待ち合わせて、駅で合流。半日を彼と行動を共にした。

 まず訪れたのは、サン・トロンツォ広場。

 レッチェの守護聖人聖オロンツォの像が空中高くそびえる広場だ。円柱の高さ24m。その上に5mの像が載っている。

 大きなガラスのはめ込まれたこちらの建物は旧市庁舎。今は観光案内所になっている。

 バロックの街とはいってもわずかながら古代の痕跡は残る。5千人を収容するローマ劇場跡だ。ギリシャ悲劇などがここで上演されるという。

 広場で軽い食事を済ませた後、街歩きを始めた。イタリアの各都市は通常、主となる教会を中心としてその前に広場が造られ、教会がランドマーク的な役割を果たしている。

 だが、レッチェの場合、中世までの都市構造を残したままで教会を建設したので、狭い街路を曲がると突然目の前に半分だけ教会が姿を見せるといったサプライズが連続する。

 その典型がサン・マッテオ教会だ。駅からサン・ピアージョ門をくぐって進むと、狭い両側の建物の中からヌッと教会が現れる。手前の建物の影から、夏の強烈な太陽を浴びて教会のファザードがギラギラと輝く光景は、レッチェならではだ。

 そのファザードは、1階部分が凸面、2階部分が凹面と、正反対の曲面で構成された特徴的な建築だ。アレッキ・カルドゥッチ設計。彼の代表作だ。
 手前も建物が影になっている

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アドリア海に臨む岸壁の町・・・ポリニャーノ・ア・マーレ

2016-09-20 | ポリニャーノ・アマー...

 青く澄んだアドリア海に面して白い建築群が建ち並ぶ。海辺の町ポリニャーノ・ア・マーレにやってきた。
これまでの南イタリアの町々は、海からは少し離れていたが、この日はたっぷりと海を感じよう。

 岸辺はリアス式海岸。垂直に切り立った岸壁が続く。

 その岩に沿って人間一人がやっと歩ける細い道があり、そこを歩くと浸食された岩のあちこちに洞窟が。

 その1つの洞窟では、レストランが営業していた。

 旧市街の外れにラーマ・モナキーレ橋という背の高い橋がある。

 この橋から見下ろすと、海水浴場になっている海岸が見つかった。

 そこに降りてみた。砂浜ではなく岩場の海水浴場だが、

 8月の真っ盛りだけに、沢山の人たちが思い思いに楽しんでいた。

 駅に向かう途中、イタリア人のグループとすれ違った。と、向こうから「ジャポネーゼ!」と声をかけられた。よく見ると、彼女らは数日前にアドリア海の対岸の街ドブロブニクで出会い、お互いに写真を撮りあったグループだった。再会を祝して、ここでもベストショットを1枚。

 帰りがけ、発車予定より20分ほど早く駅に着いた。駅舎は閉まっていて誰もいない。事前にネットで時刻表を調べて往復切符を買っているので特に問題はなかったが、誰もいないのはちょっと不安。
 すると、家族連れのイタリア人がやってきた。と、私に「列車は何時に来ますかね?」と質問してきた。
「時刻表によると、あと10分ほどで・・・」と答えたが、よりによって、イタリア人から日本人の私が列車時間をきかれるとは・・・。

 その10分を過ぎたが、列車はまだ来ない。何かこちらに責任があるような気になってジリジリ。

 5分遅れでやっと列車がやってきた。ほっと一安心! とにかく南イタリアのローカル線は無人駅が多いうえ、日曜日などは極端に本数が減るのでご用心を。
 
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町の復活と世界遺産登録・・・マテーラ③

2016-09-17 | マテーラー南イタリア

 どこまで歩いたのか、わからなくなるくらいの迷宮状態のサッシ徘徊だ。

 このアーチからの眺めは格別。

 イドリス教会の十字架が見えた。ようやく位置関係が把握できて来た。


 サンフランシスコ・ダッシジ教会。ここはカヴェオーゾ地区とバリサーノ地区とのちょうど中間にあたる場所だ。

 大きめの道のあるところに戻った。サッシ地区を見下ろす。

 通りにこんなサッシの模型が飾られていた。

 改めて高台から見下ろすサッシ地区。ゴーストタウン化した苦難の時代から今は徐々に復活を遂げつつある。


 それを後押しするように、1993年にはユネスコの世界遺産に登録され、賑わいを見せ始めた。

 建物の内部は、外からは想像できないほどモダンな店が出来ているところも。

 イドリス教会を眺め直して、

 唯一無二の奇観の町を後にした。
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神も見放した土地 住民総退去命令で無人地帯に・・・マテーラ②

2016-09-13 | マテーラー南イタリア

 イドリス教会のすぐ近くにカヴェオーゾ教会がある。この教会だけは、建物の前に広めの広場を持っている。

 塔も高く、付近の教会の中では一番目立っている。

 入り口の横にアーチ状の展望スペースがあった。映画スターのようなカップルがその風景にすっぽりはまって、とても絵になる瞬間があった。

 同じアーチの場所で、対岸のバッサーノ地区を眺める。

 崖下の方向に、岩とそれをくり抜いた穴があちこちに見られた。

 かつてはこうした洞窟に多くの住民が住み着いていた。

 この地域は柔らかい石灰岩で形成されており、6世紀に北からやってきたランゴバルド族がそこを占拠して要害化していった。
 しかし、徐々に都市化していくと、洞窟中心のサッシ地区は住みにくく、富裕になった住民たちは次第に隣接した平たんなピアーノ地区に移って行った。

 そんな中で取り残されたサッシの住民は極貧と非衛生な生活に追い込まれていく。

 そんな時、イタリアの作家カルロ・レーヴィが反ファシズム活動によって流刑となり、この地域にやってきた。そして直面したマテーラの貧困に驚愕し「キリストはエボリにとどまりぬ」という著書で、その窮状を克明に描写した。

 エボリとは、マテーラからナポリ側に約200キロ離れた町。キリストさえもこの悲惨なマテーラまでは来てくれず、救いの手は差し伸べられなかった・・・という隠喩を込めたタイトルだ。

 これがきっかけとなり、マテーラは「国の恥」とされ、国はサッシの住民の総立ち退きを命じ、サッシは無人の街=ゴーストタウンと化した。
 ようやく70年代になりマテーラのあり方を巡って論議がなされた結果、改めてこの地区は都市開発の歴史上独自、唯一の価値を持つと再評価された。これによって保護と活性化の努力が始まり、近年目に見えて復興の足取りが前進している。

 見上げると、なぜか日本の日の丸がイタリア国旗と一緒にはためいていた。

 急坂を上り下りしながら、サッシ地区一周を目指した。


 廃墟になっている昔の住居があった。少しのぞいてみよう。


 どこまでも穴が続いていて、真っ暗。ちょっと気味が悪くなって、途中で引き返した。
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