たしかずいぶん昔に読んだ司馬遼太郎の小説(「竜馬がゆく」とか「世に棲む日日」とか「花神」といった幕末を舞台にした小説のどれか)の「以下、余談として」部分に「維新の志士たちは相手が隣の家に住んでいても複雑な問題については会って話すより手紙を往復させることのほうが多かった」といったことが書かれていた。
いや、もしかしたら丸谷才一のエッセイだったかも。出典についてはちょっと自信がない。
それはともかく、幕末当時の日本語はまだ不自由で、明治になってから作られた翻訳語(「科学」とか「経済」とか)も存在せず、抽象的な議論をするのはなかなか難しかった。自分の考えを明確に表現するためにはどうしても文語を用いて手紙を書く必要があった。結果として直筆の手紙がたくさん残されており、一級の歴史資料となっているという。
そのことを知った当時少年だった自分は、「昔の人はなんて筆まめなんだろう」「とても真似できないや」「今なら電話で済ませてしまうから資料が残らないな」と思ったものである。
だが、ネット時代になってから幕末の志士のような文書(テキスト)による意見交換の形が復活している。
月も見えない夜に。 - 直接対話のメリット(?)
BigBang: GripBlog報道メディア設立企画書について思うこと(7)----泉さんの回答に関して
「ことのは」問題については、私にはよくわからないので言及しない。
私は BigBang 氏の直接対話へのクールな姿勢に共感する。私も「冷静なエントリーのやりとり、TBのやりとり」ができない相手と会って話しても納得できる結果が得られるとは思わない。
仮に問題が感情的なものであるなら、会って話せばその場で百万語にも勝る共感(あるいは反感)が生まれて問題が解決する(あるいは決定的に決裂する)可能性は高いだろう。だが、BigBang 氏は(たぶん)論理的な問題の解決を望んでいるので、直接対話を行ってもあまり意味がないと考えるのは自然なことだ。
BigBang 氏が(おそらく)望んでおられるような「冷静なエントリーのやりとり、TBのやりとり」による対話は、読者にも経緯がわかり、議論の方法を顰に倣ったり他山の石として利用することができる。これをオープンソースの対話法、と言っていいのだろうか。コンピュータ用語には無知なので言葉の使い方が間違っているかもしれない。
ネット時代以前には一部の人々にしかできなかった「公開討論」「完全な記録」が誰にでも可能になったのはたいへん結構なことである。さまざまな問題(ネットイナゴとか望まないプライバシーの暴露とか)もあるけれど、中島義道の言うところの「対話」を実現する手段としてインターネットの可能性を信じたい。
いや、もしかしたら丸谷才一のエッセイだったかも。出典についてはちょっと自信がない。
それはともかく、幕末当時の日本語はまだ不自由で、明治になってから作られた翻訳語(「科学」とか「経済」とか)も存在せず、抽象的な議論をするのはなかなか難しかった。自分の考えを明確に表現するためにはどうしても文語を用いて手紙を書く必要があった。結果として直筆の手紙がたくさん残されており、一級の歴史資料となっているという。
そのことを知った当時少年だった自分は、「昔の人はなんて筆まめなんだろう」「とても真似できないや」「今なら電話で済ませてしまうから資料が残らないな」と思ったものである。
だが、ネット時代になってから幕末の志士のような文書(テキスト)による意見交換の形が復活している。
月も見えない夜に。 - 直接対話のメリット(?)
「ことのは問題」に関して直接対話を呼びかける声が聞かれるが、マジな話、私には直接対話をネットでのコミュニケーションに優先させて考える発想はない。おんなじじゃんとか思う。
BigBang: GripBlog報道メディア設立企画書について思うこと(7)----泉さんの回答に関して
泉さんと私が会って、仮に冷静に話ができる可能性はゼロではないでしょうが、それができるなら今でも冷静なエントリーのやりとり、TBのやりとりなどができるはずです。会ってお話を聞くことに、仮に泉さんが同意されても、泉さんが今までと同じような論理の繰り返しであれば、正直意味がありません。
対面でインタビューを行っても、中途半端な結果になれば物事は進展するどころか混迷を極めるというのは、今までになされた松永さんのインタビューが示すとおり。
「ことのは」問題については、私にはよくわからないので言及しない。
私は BigBang 氏の直接対話へのクールな姿勢に共感する。私も「冷静なエントリーのやりとり、TBのやりとり」ができない相手と会って話しても納得できる結果が得られるとは思わない。
仮に問題が感情的なものであるなら、会って話せばその場で百万語にも勝る共感(あるいは反感)が生まれて問題が解決する(あるいは決定的に決裂する)可能性は高いだろう。だが、BigBang 氏は(たぶん)論理的な問題の解決を望んでいるので、直接対話を行ってもあまり意味がないと考えるのは自然なことだ。
BigBang 氏が(おそらく)望んでおられるような「冷静なエントリーのやりとり、TBのやりとり」による対話は、読者にも経緯がわかり、議論の方法を顰に倣ったり他山の石として利用することができる。これをオープンソースの対話法、と言っていいのだろうか。コンピュータ用語には無知なので言葉の使い方が間違っているかもしれない。
ネット時代以前には一部の人々にしかできなかった「公開討論」「完全な記録」が誰にでも可能になったのはたいへん結構なことである。さまざまな問題(ネットイナゴとか望まないプライバシーの暴露とか)もあるけれど、中島義道の言うところの「対話」を実現する手段としてインターネットの可能性を信じたい。
世間は狭いなー。
泉さんの読解力と表現力が決定的に問題なんですよ。
もちろん彼方側で意図的にそれを利用してる可能性もある訳ですが、彼女の場合は折衝を続ければ続けるだけ周囲にとって問題が拡散する方向にしか理解も表現もできないみたいなんですよ。
誰かブレインについてガイドしないとどうにもならないような気がしてます。
>折衝を続ければ続けるだけ周囲にとって問題が拡散する方向にしか理解も表現もできないみたいなんですよ。
ぷっ。
お前に言われたくないだろ。
恥ずかしい奴だなw
プログラムなんかもネットでオープンで相談しながら作ってますしね。
やたらと直にあって、とか言う人も多いんですけど、そんなんネットの利点がないじゃん、何で直に会わないとあきまへんの、て感じはします。
会わないと信用できない、熱湯欲の攪乱だ、というセンセはいるみたいですけどねw
(総会、お流れになって大変残念です、センセ)
このエントリはあくまで一般論として書いたつもりなので、コメントで特定の誰かを批判するのは歓迎できません。
>とおりすがりさん
批判はけっこうですが、ただの罵倒はやめてください。
>funさん
テのつく人のことでしょうか。
ああいうクローズなやり方だと先細りするんじゃないかと心配です。
謝ります。
謝っていただく必要はありません。あまり気になさらないでください。