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玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

「ただの馬鹿」呼ばわりされたthessalonike4氏

2006年05月30日 | 「世に倦む日日」鑑賞記
古人曰く「過ちを改むるに憚ること勿れ」「過ちて改めざる、これを過ちと謂う」
自分の間違いを認めてそれを直すのは恥ずかしいことではない。

  世に倦む日日 : 預言者のオーラル・パフォーマンスと変革主体二論 - MarxとWeber

  finalventの日記 - 「予言者」が「預言者」の誤字でなければただの馬鹿

finalvent氏の指摘を受けてのことかどうかはわからないが、thessalonike4氏が誤字を訂正なさったのは立派である。さすがSTOP THE KOIZUMIブロガー同盟のカリスマ的リーダー。

私はマックス・ウェーバーの思想については完全に無知である。だから、finalvent氏が
 それと。

 まあ、馬鹿馬鹿いうのも下品なんだが、「麻薬には絶対に手を出さないという最低限の禁欲倫理を保持できるウェーバー的中間層」という表現は、全然ヴェーバーが読めてない。
と指摘なさっていることの当否についてはわからない。
もしこの指摘がthessalonike4氏の胸に刺さるものがあるとしたら、finalvent氏の忠告に従って「きちんと、マックス・ヴェーバーのプロ倫を読」み直したほうがいいと思う。

がんばれ、thessalonike4氏。負けるな、「世に倦む日日」。
なんだかタイムボカンシリーズの悪玉トリオを応援するような生温かい気持が胸にこみ上げてくる。

オープンソースの対話法

2006年05月28日 | ネット・ブログ論
たしかずいぶん昔に読んだ司馬遼太郎の小説(「竜馬がゆく」とか「世に棲む日日」とか「花神」といった幕末を舞台にした小説のどれか)の「以下、余談として」部分に「維新の志士たちは相手が隣の家に住んでいても複雑な問題については会って話すより手紙を往復させることのほうが多かった」といったことが書かれていた。
いや、もしかしたら丸谷才一のエッセイだったかも。出典についてはちょっと自信がない。

それはともかく、幕末当時の日本語はまだ不自由で、明治になってから作られた翻訳語(「科学」とか「経済」とか)も存在せず、抽象的な議論をするのはなかなか難しかった。自分の考えを明確に表現するためにはどうしても文語を用いて手紙を書く必要があった。結果として直筆の手紙がたくさん残されており、一級の歴史資料となっているという。
そのことを知った当時少年だった自分は、「昔の人はなんて筆まめなんだろう」「とても真似できないや」「今なら電話で済ませてしまうから資料が残らないな」と思ったものである。
だが、ネット時代になってから幕末の志士のような文書(テキスト)による意見交換の形が復活している。

  月も見えない夜に。 - 直接対話のメリット(?)
「ことのは問題」に関して直接対話を呼びかける声が聞かれるが、マジな話、私には直接対話をネットでのコミュニケーションに優先させて考える発想はない。おんなじじゃんとか思う。

  BigBang: GripBlog報道メディア設立企画書について思うこと(7)----泉さんの回答に関して
泉さんと私が会って、仮に冷静に話ができる可能性はゼロではないでしょうが、それができるなら今でも冷静なエントリーのやりとり、TBのやりとりなどができるはずです。会ってお話を聞くことに、仮に泉さんが同意されても、泉さんが今までと同じような論理の繰り返しであれば、正直意味がありません。
対面でインタビューを行っても、中途半端な結果になれば物事は進展するどころか混迷を極めるというのは、今までになされた松永さんのインタビューが示すとおり。

「ことのは」問題については、私にはよくわからないので言及しない。

私は BigBang 氏の直接対話へのクールな姿勢に共感する。私も「冷静なエントリーのやりとり、TBのやりとり」ができない相手と会って話しても納得できる結果が得られるとは思わない。
仮に問題が感情的なものであるなら、会って話せばその場で百万語にも勝る共感(あるいは反感)が生まれて問題が解決する(あるいは決定的に決裂する)可能性は高いだろう。だが、BigBang 氏は(たぶん)論理的な問題の解決を望んでいるので、直接対話を行ってもあまり意味がないと考えるのは自然なことだ。

BigBang 氏が(おそらく)望んでおられるような「冷静なエントリーのやりとり、TBのやりとり」による対話は、読者にも経緯がわかり、議論の方法を顰に倣ったり他山の石として利用することができる。これをオープンソースの対話法、と言っていいのだろうか。コンピュータ用語には無知なので言葉の使い方が間違っているかもしれない。

ネット時代以前には一部の人々にしかできなかった「公開討論」「完全な記録」が誰にでも可能になったのはたいへん結構なことである。さまざまな問題(ネットイナゴとか望まないプライバシーの暴露とか)もあるけれど、中島義道の言うところの「対話」を実現する手段としてインターネットの可能性を信じたい。

ブログには編集者はいない

2006年05月26日 | ネット・ブログ論
戦後最初のヒット曲と呼ばれる「リンゴの唄」。そのサビは誰もが知っている。
 「リンゴはなんにも いわないけれど  リンゴの気持は よくわかる」
何も言わなくても気持が伝わる、という「以心伝心」こそ日本人の理想のコミュニケーションであり、わざわざ言上げするのは必要に迫られ仕方なしに行うのである。雄弁は銀、沈黙は金。
人間社会の現実においては「言わなければ判らない」ことのほうがずっと多いのだけれど。
1980年のヒット曲「ダンシング・オールナイト」では、もんたよしのりがハスキーな声で「ダンシング・オールナイト 言葉にすれば ダンシング・オールナイト 嘘に染まる」と繰り返している。言葉は完全に自分の気持や考えを表現しない。言葉にすれば言いすぎたり言い足りなかったりして誤解が生じ、誤解を放置すればやがて齟齬が成長して嘘になる。
誤解されるのを避けるには、表現を工夫し、自分の書いた文章を他人の目でチェックする必要がある。
だが、新聞・雑誌・書籍では編集者がいて厳しくチェックしてくれるのに対し、ブログでは自分の文章を全世界に公開する前にダメ出しするのは自分しかいない。「他人になったつもりで批判的に自分の文章を読む」というのはなかなか難しいことだ。

コメント数がついに3000を超え、空前の炎上ぶりを見せている元・日本テレビアナウンサー藪本雅子氏のブログも、もとはといえば「言葉にすれば嘘に染まる」陥穽に躓いたのかもしれない。
藪本氏はアナウンサーだったのだから、生放送で自分の意見をコメントすることもあったはずだ。それなのにどうしてここまで言葉の怖さに対して迂闊なのかは理解しにくい。まあ、彼女は自ら「女子アナ失格」という本を書いているのでそういうことなのだろう、たぶん。

決して彼女を擁護するつもりはないけれど、
…と書くと、読者のほとんどは「ああ、この後には擁護する文章が続くんだな」と予想するものである。「通り抜け無用で通り抜けが知れ」という川柳もある。いや、意味がちょっと違うか。それはともかく、たぶん彼女自身としては盗撮アナや日本テレビを擁護するつもりは本当になかったのだと思う。

  藪本雅子ブログ 盗撮で思う
日テレの若い社員が盗撮した件で、
やってしまった行為を擁護するわけではないのだけど、
おばさんは思う。

男の子は、それはもう幼稚園の頃から、
女の子のパンツが見たくて見たくてしょうがない生き物である。
まあ何というか、呆れつつ感心するほど無邪気な文章だ。「読者がどう受け取るか」を考慮せず「自分が言いたいこと」に向かって一直線に突き進んでいる。中学生や高校生の作文なら「面白いね、でももうちょっと書き方を工夫したほうがいいよ」と励ますこともできる。だが大学生なら眉をひそめるし、社会人(それも30過ぎ)の文章としてはあまりにも稚拙だ。

おそらく彼女は「日テレの若い社員が盗撮した件」そのものについて特別な関心はなく、事件をマクラにして若い女の子の無警戒を嘆く一般論を書いたつもりなのだろう。
 「ミニスカートをはいている子達は、パンツを
 見られない努力をしなさい!」

という彼女にとっての正論を主張することに熱意のほとんどが向けられている。
 「基本的には男っていうのは、女の子のパンツが見たい。
 目の前にパンツが見えそうなかわいい子が歩いていたら、
 必死になってのぞこうとするのが男だ。」

という男性への偏見は彼女にとってあくまでも「オバサンの正論」を補強するためのものでしかない。
 「出来心であっても、結果は重い。重すぎる。・・・・・・・・。」というまるで盗撮アナ擁護のような文章が結語になっているのも、彼女の意識としては「盗撮アナ」ではなく「必死になってパンツを覗こうとする男性全般」を庇おうとしたのだろう。そんな「男性全般」は彼女の頭の中にしか存在しないのだけれど。

ベタなドラマやマンガで、恋愛に夢中になった女子高生が友達とどんな話をしていても「カレ」の話に持っていってしまい、本人以外はすっかり白ける、という描写があるけれど藪本氏の文章はそれに近いものがある。
人が聞きたがっていることに無関心で、自分の言いたいことにしか興味がないのだ。
「元・日本テレビ社員」であり現在は「ジャーナリスト」を名乗る彼女のブログに対して、読者の多くは「隠蔽」にはしるマスコミ(日本テレビ)への批判を期待した。だが彼女は自分に何を求められているのか理解せず、ひたすら「ミニスカートをはいている子達」への警告を叫んだ。あるいは、「私の最も信頼する」かつての仕事仲間に起きた事件への個人的感情を語った。この認識のギャップが史上空前のブログ大炎上という悲喜劇を生んだ。
もし彼女が本気で日本テレビと盗撮アナを庇おうとする意図のもと、ごまかしのためパンツや仕事仲間の話を持ち出したのなら悪質だが、私にはそのようには思えない。彼女にはとてもそんな策略をする能力はなさそうだ。

私には彼女の言おうとしたことの7割は理解可能な気がするし、半分は同意できる。
だが、「擁護するわけではないのだけど」で始まり「結果は重い。重すぎる。・・・・・・・・。」で終わる文章を「盗撮アナと日テレ擁護のための文章」と受け取る人がいるのは自然なことだ。藪本氏が自分の文章を読み返して「これでは誤解される」「ジャーナリストとして恥ずかしい文章だ」と気付かなかったのはあまりにも情けない。

私は藪本氏が何を書くのも自由だと思う。いや、私がどう思おうと思うまいと藪本氏は好きなことを書く権利がある。
だが、彼女がこれからもジャーナリストを名乗り続けるのであれば、自分の書いた文章が読者にどのように受け取られるのか、最低限の想像力を持ってほしいと切に願う。

迂闊な人

2006年05月24日 | ネット・ブログ論
なんだかなあ。

 藪本雅子ブログ 盗撮で思う
 藪本雅子ブログ おことわり
 藪本雅子ブログ 返信

・ 3エントリ連続でコメント数が1000を超えているけれど、それほど叩く価値のあるネタとは思えない。

・ 「(元)女子アナ」の肩書きに過剰反応している人もいるだろう。藪本氏本人が実名と写真を出すことを選んだのだから、そういう風に見られるのは当然ではあるけれど。

・ 藪本氏は「迂闊な人」ではあるけれど、邪悪さや頑なさは感じられない(彼女への忠告は小飼弾さんの記事ですでに言い尽くされている)。

・ だが、なにしろ迂闊なので、意図せずに読者を怒らせてしまうようだ。花の女子アナとしてチヤホヤされたせいなのか、それともご本人の生まれつきの性格なのか。

・ 藪本氏本人が「おばさん」と自称しているのは完全に正しい。それは、パンツがどうたらと若い女の子を叱るからというより、自分の身の回りのことばかりに意識が囚われた社会性の乏しさからである。

・ ネットに渦巻くマスコミ不信の標的になった藪本氏は少々気の毒ではある。だが、もう40歳に近いのにこの迂闊さでは、積極的に庇う気にもなれない。

・ ざっとコメント欄を見ると、まともに批判しているのはせいぜい半分ほどで、煽りや罵倒、荒らしのほうが多い。他人の尻馬に乗って騒ぐのは格好悪い。

・ この手の「自分の価値観を絶対的に正しいと信じ、それ以外の価値観は完全否定しかしない頭がところてんでできている人」をネットイナゴと呼ぶべきだという説あり。
一部では「ネット右翼によるコメントスクラム」とも呼ばれているけれど、右翼とか左翼という思想性よりも集団化した攻撃性の暴走(と、言ってもコメントにとどまるのだからおとなしいものだが)のほうが目立つので「ネットイナゴ」は適切な用語だと思う。

ソ連の有人宇宙技術は世界一!!!

2006年05月22日 | 日々思うことなど
ソ連の有人宇宙飛行技術はアメリカを凌駕していた、らしい。

Soviet Conquest of Space
ソ連の宇宙開発は「計画の事前発表は全く無く、失敗したことは隠し、成功したことのみ公表した。
時には、成功したことすら隠した。しかし、失敗したことを成功したと偽ることは絶対にしなかった」といったところです。
この「成功したことすら隠した」というのが最大のポイント。驚くべき情報・映像が、今でもガンガン、リークされている。
大抵の人は「何だいまさらソ連なんて」と思うでしょうが、そんなわけでタイムリーなのだ。
99.99%の人は、このトップページを見ただけで去ると思うけど、まあ、観ていってください。驚くことも多いはず。
驚いた。そして、もの凄く面白かった。これはほとんどSFだ!
「もし第二次大戦で枢軸国が勝っていたら…」といった "if" 世界を空想したSFは多いけれど、現実味のあるものは少ない。だが、「ソ連がアメリカより先に月へ到着」「ソ連が有人火星飛行を実施」が実現する可能性はたしかに存在したのである。

特に面白かったのは「ソ連有人月旅行計画」。1968年12月9日に二人の宇宙飛行士を乗せた「ソユーズL1」を打ち上げ、人類史上初の月周回飛行を実現する計画が完全に準備されていたという。ちなみに、アポロ8号の月周回飛行(1968年12月21日打ち上げ)の12日前である。
しかも、「ぶっつけ本番」だったアポロ8号とは違い、ソユーズL1の打ち上げは完全自動操縦のリハーサルを2回行った後に実施されることになっていた。そして2回のリハーサルはほぼ完全に成功したのだが…

驚くのは、ソ連の有人宇宙計画のコンセプトが「完全な自動操縦」と「人命尊重」であることだ。
ソ連邦崩壊後の宇宙ステーション「ミール」は資金不足でずいぶんひどいことになっていたが、全盛期ソ連の有人宇宙飛行にかける志はアメリカを超えている。ソユーズ計画は全自動操縦が前提であり、事前に無人での完全リハーサルを行った後に有人飛行を実施していた。宇宙飛行士の手動操縦に頼るアポロ計画では不可能な方法だ。
人命尊重は幻の「有人月着陸計画」においてその極に達する。何しろ、1974年11月に行われる予定だったソユーズL3計画では自動操縦の予備機が月軌道と月面に用意され、有人機にトラブルが起きたときは予備機に乗り換えて地球に帰還することが可能なのだ。何と用意周到なことだろう!
まるで常に予備機を引き連れて飛ぶ政府専用機なみだ。

"Soviet Conquest of Space"の著者、太田順治氏は以下のように米ソ両国の有人月着陸計画をまとめている。
アポロは、とにかくソ連より早く有人月面着陸をするのが動機だったので、やっつけ仕事で作った人命軽視の宇宙船。

ソユーズL 3は、動機が「アメリカと同じ事をする」というもので、計画スタートがアポロより3年以上遅れたので、アポロより月面着陸が遅れるのを知った上で、徹底した人命重視から石橋を叩いて渡るように準備周到に作られた、安全第一の宇宙船。
全ての労働者の故郷、ソ連邦の宇宙計画は人命尊重で素晴らしい。ウラー!
資本主義アメリカの宣伝のため宇宙飛行士に命がけの冒険を強いるアポロ計画とは違う。
誰が何と言おうと、ソ連の有人宇宙技術は世界一!!!

…と、楽しい夢を見るのはこれくらいにしておこう。
それにしても、独ソ戦チェルノブイリ原発事故>、そして収容所群島におけるソ連のすさまじい人命尊重ぶりと、有人宇宙飛行計画での人命尊重はあまりに対照的でとても同じ国のこととは思えない。
奇妙奇天烈、摩訶不思議。崩壊して十数年たった今も、ソ連はやっぱり謎の国である。

リンゴの唄の歌い方

2006年05月18日 | テレビ鑑賞記
17日の「その時歴史が動いた」「リンゴの唄」の話だった。戦中戦後の庶民の哀歓が伝わってくるなかなかよい番組である。
あまりにも有名な曲なので、私も当然「リンゴの唄」のメロディーを知っている …つもりだった。
だが並木路子さんの歌う「リンゴの唄」を聞いて、自分がこれまでサビの部分で間違った歌い方をしていたことに気付いた。

私はこれまで「りーんごーのきもちーはー」と緩急を付けずだらしなく歌っていた。
正しくは「りーんーーごっのきもちぃはー」と歌うのである。「んー」を長く伸ばして「ごっのきもちぃ」を短くまとめる。

正調では「んーー」のタメが「ごっのきもちぃ」で一気に解放される感覚があり、当時の国民が抱いた「盧溝橋事件満州事変から十数年続いた戦争がやっと終わった!」という実感にシンクロしているかのようだ。
私が間違って覚えていた「りーんごーのきもちーはー」というメリハリのない歌い方は、平和な時代にのほほんと生きてきた日本人(私のことだ)には自然で歌いやすいものに思えるけれど、戦後初のヒット曲としてはふさわしくない。

もしどこかで「リンゴの唄」を歌う機会があれば(なさそうだけど)、そのときは間違えずに「タメと解放」の正調で歌うことにしよう。

死刑囚を「医学資材」にする社会

2006年05月15日 | 日々思うことなど
「中国では一般人からの臓器提供はほとんどない。九割以上が死刑囚からの臓器」だという。

「台湾の声」中国が臓器移植法「死刑囚ドナー」認める
中国が臓器移植法 「死刑囚ドナー」認める 近く公布、管理強調

 中国誌「財経」(十一月二十八日号)によると、中国の黄潔夫・衛生次官が国際会議で「人体器官移植条例(臓器移植法)を公布し、死刑囚からの臓器提供に関して管理、規定する」と述べた。死刑囚をドナー(臓器提供者)にする「死刑囚ドナー」の不透明な実態を法で管理する方針を打ち出した。臓器移植法は近く公布される見通しで、不透明な臓器売買を禁止し、死刑囚ドナーも、死刑囚本人か、家族の同意を求める方向だ。
(中略)
 世界的ドナー不足にもかかわらず、中国でドナーが多いのは「死刑囚をドナーにしているからだ」と指摘されてきたが、「今年七月の世界肝移植大会で黄次官は中国政府として初めて、中国の大部分の利用臓器は死刑囚からだと認めた」(「財経」)。

 国際人権団体アムネスティ・インターナショナルによれば、中国における死刑執行件数は昨年で三千四百人。
(中略)
 粟屋教授の現地調査によれば、中国では一般人からの臓器提供はほとんどない。九割以上が死刑囚からの臓器だ。死刑囚ドナーのメリットとして、(1)麻薬歴、肝炎やエイズのウイルス感染の事前チェックが可能になる(2)事前にドナー発生の日時と場所が分かり移植を受ける患者(レシピエント)の選定や待機が簡単にできる(3)死刑囚には若くて健康な人間が多い-が挙げられ、特に中国の場合、死刑執行が多く、大量の臓器が確保できる。臓器移植の需要が死刑執行を増加させ、銃殺せずに死刑囚に麻酔をかけて臓器を摘出するケースもある。
死刑が存在する世界で移植治療が進歩すれば、こういうことが起きるだろうと40年前から予測されていた。中国のような独裁国家だけではなく、民主政治の国であっても「死刑囚一人の死=何人もの有権者の生命」という公式が成り立てば恣意的に死刑を増加させる要因になりうる。以下はあるSF小説からの引用である。
 審理はきのう終わったところだが、どんな判決が出るかは明白この上もなかった。ルー(ルイス)は有罪なのだ。もし誰かが疑念をはさんだとしても、検察側の証拠は鉄壁である。明日の十八時、ルーは死刑を宣告される。プロクストンは、何らかの理由を立てて控訴するだろうが、控訴は棄却されるだろう。
 監房はいごこちよく、小さく、壁にパッドが貼られていた。囚人の正気を疑っての処置などではない。もっとも、精神異常はもはや、法を破ったことのいいわけにはならなかった。
 (中略)
 老人のほうは、ルーの声に顔をあげた。にがい皮肉のこもった口調で、「ぬれぎぬでも着せられたのかね?」
「いや、でも……」
「少なくとも、あんたは正直もののようじゃな。何をしでかしたのかね?」
 ルーは事情を話した。声に無実のうらみがこもるのを、どうしようもない。老人は嘲りの微笑をうかべ、思ったとおりといわんばかりにうなずいた。
「愚かものめが。いつの世も、愚かさは罪の中核じゃ。どうせ処刑されるなら、どうしてもっと大きなことをやらなかったのかな?あっちの小僧を見たかね?」
「もちろん」ふり向きもせずに、ルーは答えた。
「あの男は、臓器故売犯(オーガンレッガー)じゃよ」
 ルーはショックで顔面が凍りつくのを感じた。
老人たちは臓器故売犯(人をさらってきて臓器を摘出し闇で販売する)の一味だった。監房にいないもう一人の男はすでに判決を受け、裁判所のとなりの病院に運び込まれている。
 処置にあたるのは、コンベアベルトでつながった一群の装置だ。男の体温があるレベルに達すると、ベルトが動き出した。最初の機械が、胸部に一連の切開をほどこした。みごとな、しかし機械的な手さばきで、心臓が摘出された。
 これで男は公的に死んだことになる。
 彼の心臓は、ただちに貯蔵室にいれられた。ほとんど一枚つづきになった皮膚が、ぜんぶまだ生きたまま、そのあとを追った。変形しやすくこわれやすい、おそろしくこみいったジグソー・パズルを解体するような、精妙な手順で、男はバラバラにされていった。脳は一瞬に焼きつくされ、その灰が埋葬用にとっておかれた。が、残りの全身は、どろどろの液体や小さなかたまりや紙のようにうすい層やひとつづきのチューブとなって、病院の臓器銀行の貯蔵庫におさまった。それらどの部品も、要請ありしだい輸送ケースに詰められ、世界中どこへでも一時間以内にとどけられる。もし無駄が出なければ、もししかるべき人々がしかるべき病気でしかるべきときにいあわせれば、この臓器故売犯は、彼がうばった以上の数の生命を救うことになる。
 それがかんじんな点であった。
ルーと話していた老人は臓器故売犯の医者(解体技師)だった。彼は自分が「豚みたいにバラされる」のをおそれて体内に埋め込んでおいた自殺用の爆弾を爆発させる。爆発によってできた穴から脱出したルーは、裁判所のとなりの病院にもぐりこむ。だがたちまち見つかってしまう。
 だだっぴろい室内を占めているガラスのタンクの一群。高さは天井まであり、図書館の書棚のように、細い通路を残して立ちならんでいる。タンクの内容は、およそナチ収容所も顔色ないほどみだらな見ものだった。なぜといって、それは、かつて男であり女であったものなのだ!とても見ている気にはなれない。
 (中略)
 彼にはまず、しなければならないことがあった。
 やつらがやってくるまでに、何か、本当に殺され甲斐のあることをやってやる。
 タンクの面は、ガラスではなくプラスティック―‐ それも特別な種類のプラスティックだった。その面に触れる無数の貯蔵死体部品に拒絶反応を起こさせないためには、独特の性質が要求されるのである。だが、衝撃に耐えることまでは、誰も考えていなかった!
 それはみごとにくだけ散った。
つかまったルーは裁判を受ける。

 だが結局のところ、検察側は、臓器銀行破壊のことなど、口にもしなかったのだ!
 法廷にすわって、ものうい裁判儀礼のやりとりをききながら、ルーはプロクストン氏の耳に口をつけて、そのことをたずねた。プロクストン氏は、にんまりと笑ってみせた。「どうしてそんなことをもちだす必要がある?向こうは、このままでも充分いけると踏んでいるのさ。もしきみが、このラウンドに勝ったら、そのときには、貴重な医学資材の理不尽なる破壊ということで攻撃してくるだろう。だが、そうはなるまいと確信しているわけだ」
 (中略)
 検察側が起訴状を読みあげた。うすいブロンドの口髭の下から出てくるその声は、運命の声のようにひびいた。ワレン・ルイス・ノウルズの顔は、気をわるくし、怒っているようにみえた。しかし、彼はもはやそのように感じてはいなかった。彼はたしかに、死刑に値することをやってのけたのだ。
 すべての原因は、臓器銀行にあった。優秀な医師と、臓器銀行に充分な在庫とがあれば、納税者は、いつまでも生きる望みがあるのだ。永遠の生命に反対票を投じる投票者がいるだろうか?死刑はすなわち彼の不死であり、従って彼は、どんな罪に対しても、死刑の票を入れることになるのである。
 ルイス・ノウルズは、それに一矢むくいたのだった。
「以上の陳述で、当ワレン・ルイス・ノウルズは、前後二年のあいだに、総計六回にわたり、意識的に赤信号を無視して車を走らせたことが証明されます。同じ期間に、同ワレン・ノウルズは、制限速度を十回にわたり超過し、うち一度は時速十五マイルに及んでいます。この経歴は最低と申せましょう。逮捕暦では、2082年の飲酒運転があり、このとき彼が無罪となったのは、単に……」
「異議あり!」
「異議を認めます。検察官、無罪放免となっている以上、当法廷も彼を無罪と認めなければなりません」
「ジグソー・マン」("The Jigsaw Man" 1967) ラリー・ニーヴン 小隅黎・訳 (「太陽系辺境空域」ハヤカワ文庫SF348)
*強調は引用者によるもの*

私は臓器移植治療それ自体に反対ではない。ドナーカードも持っている。だが、死刑囚を量産して「医学資材」にするようなやりかたはおぞましく受け入れがたい。ニーブンのSF世界では、臓器銀行の時代はようやく500年後(!)に終わり、クローニングによる治療が実現する。現実の地球ではいったいどうなるのだろうか。
私はES細胞の研究の迅速な発展を望む。黄禹錫教授の研究成果が捏造だったのを残念に思う。

海外の知識人はthessalonike4氏を説得せよ!

2006年05月09日 | 「世に倦む日日」鑑賞記
「世に倦む日日」久々の傑作。

世に倦む日日 : ビッグネーム・オルグ - 村上春樹・宮崎峻・中田英寿・宇多田ヒカル
「海外ネット署名運動」と「平和憲法デイ」に続く三つ目の機動戦の提案は、「ビッグネーム・オルグ」のストラテジーである。二十代から四十代の若い人間を護憲でコンビンスさせるためのエバンジェリスト・オルグ作戦。具体的に名前を挙げよう。まず第一のターゲットは村上春樹。村上春樹を護憲陣営にリクルートする。この件については二年前にすでに触れた。村上春樹は恐らく今年ノーベル賞を取る。賞を取った後は護憲のエバンジェリストになって政治を論じて欲しい。村上春樹を口説き落とすことのできる人間は日本人にはいない。村上春樹を説得できるのは、例えばチョムスキーとか、センとか、海外の知識人だけだ。だから、それをやらなくてはいけない。チョムスキーに村上春樹を説得するように説得しなければならない。そして平和を願う世界中の知識人が村上春樹に手紙を書いて、村上春樹に日本で護憲に立ち上がるように懇請しなくてはならない。まさに本物の国際運動となる。

第二のターゲットは宮崎駿。彼はなぜ護憲の立場を積極的に表明しないのだろう。思想的には護憲のはずだが、まさか改憲ではないだろうが、「九条の会」は真面目にアプローチしているのだろうか。村上春樹と宮崎峻の二人は現代日本における国民的文化人の代表格であり、すぐにでも文化勲章を受賞する立場にある。二人を護憲陣営に獲得することができれば、その説得力は嘗ての司馬先生のそれに匹敵する。強力だ。宮崎峻への説得は、まず筑紫哲也が担当して、そしてやはり動かすことができるのは海外の文化人や知識人だろう。欧州の映画人脈とか、そのあたりを動かさなければならない。で、ここでイマジネーションの跳躍だが、できれば、夢のような話だが、スピルバーグをアーティクル9の国際陣営に引き込めないか。スピルバーグを獲得できれば、日本人の三分の一は、若者世代の二分の一は取れたも同然になる。スピルバーグにプロポーズできる人間はいないのか。

うーん、素晴らしい。
再読三読に耐える。いやむしろ読み返すほど味わい深い。
thessalonike4氏(ブログを引越ししたので名前が変わったらしい。それにしてもなぜ「2」の次が「4」なのだろう?)の持ち味が存分に生かされた名文だ。まるで童話のような不思議なファンタジー感覚。高校生でも恥ずかしくて書くのをためらうだろう都合のいい空想を大真面目に力説するthessalonike4氏のロマンティシズムに感動する。
村上春樹は恐らく今年ノーベル賞を取る。賞を取った後は護憲のエバンジェリストになって政治を論じて欲しい。村上春樹を口説き落とすことのできる人間は日本人にはいない。村上春樹を説得できるのは、例えばチョムスキーとか、センとか、海外の知識人だけだ。だから、それをやらなくてはいけない。チョムスキーに村上春樹を説得するように説得しなければならない。そして平和を願う世界中の知識人が村上春樹に手紙を書いて、村上春樹に日本で護憲に立ち上がるように懇請しなくてはならない。まさに本物の国際運動となる。
「ノーベル文学賞を取った護憲のエヴァンジェリスト」はすでに一人いたような気がする。誰だっけ。たしか筑紫哲也とよく対談してたり朝日新聞に寄稿したりする人だ。「自分には帰るべき朝鮮がない」と嘆いた人だ。
それはともかく、チョムスキーや「平和を願う世界中の知識人」を動かさないと「護憲のエバンジェリスト」になってくれないのか、村上春樹って人は。私は村上氏の作品を3冊くらいしか読んでないのでどんな人か知らないけれど。そんなもったいぶった熱意の乏しい人に頼らざるを得ないという時点ですでに護憲運動の未来は暗いんじゃないか。
宮崎峻への説得は、まず筑紫哲也が担当して、そしてやはり動かすことができるのは海外の文化人や知識人だろう。欧州の映画人脈とか、そのあたりを動かさなければならない。
宮崎駿はたぶん筑紫哲也みたいなタイプは嫌いだと思う。特に根拠はないけれど。
マンガ版ナウシカ雑想ノートを読めば、宮崎駿がけっして一筋縄ではいかない人の悪いオジサンであることはわかる。筑紫とか「海外の文化人」に対しては共感よりむしろ反感を抱いていそうである。
私なら宮崎駿を動かすために「海外の知識人」ではなく清純な美少女を使う。
ラナとかクラリスとかシータのような少女に「どうか力になってください」とお願いされたら、宮崎駿は決して断れない。
ここでイマジネーションの跳躍だが、できれば、夢のような話だが、スピルバーグをアーティクル9の国際陣営に引き込めないか。スピルバーグを獲得できれば、日本人の三分の一は、若者世代の二分の一は取れたも同然になる。スピルバーグにプロポーズできる人間はいないのか。
…なぜ今さらスピルバーグ?
どうしてthessalonike4氏はスピルバーグが「日本人の三分の一」「若者世代の二分の一」に決定的影響力を持っていると思うのだろう?
本当に不思議だ。
「E・T」や「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のころならともかく、今のスピルバーグが若者から熱い支持を集めているという話は聞かない。今の若者に対してはスピルバーグよりむしろレイザーラモンHGのほうが影響力ありそうな気がする。
レイザーラモンは言いすぎか。それなら松本人志。あるいはKAT-TUN。もしくはエビちゃん。

とりあえず、thessalonike4氏は「××は○○を説得せよ!」と檄を飛ばすより先に、ご自分で村上春樹や宮崎駿・中田英寿・宇多田ヒカルに訴えてみてはいかがだろう。彼らはみな日本語を母語とする日本人なのだから、「海外の知識人」が英語で語るよりもthessalonike4氏が熱く説得したほうが伝わりやすいはずだ。
いや、もしかしたらこの提案も海外の知識人に頼んでthessalonike4氏を説得しないといけないのか?
ああ、なんて面倒なことだろう!

一歩と百歩 その2

2006年05月08日 | 日々思うことなど
「一歩と百歩」の続き。
図書館で辞書を調べてみた。田舎の町立図書館なので本の数は少ない。
どの辞書にも「一歩を譲る」の意味として最初に「引けをとる、見劣りする」が載っているけれど「一歩」と「百歩」の比較とは無関係なので引用を省く。

「岩波書店 広辞苑」
一歩を譲る 自分の主張を一部ひっこめ、相手に少し譲歩する。
(百歩譲って) 記載なし


「三省堂 国語辞典」
一歩を譲る  相手の言うことをすこしみとめる。
百歩譲っても 大幅に相手の言うことをみとめても。


「三省堂 大辞林」
一歩を譲る  (自分の説を一部ひっこめ)少し譲歩する。
(百歩譲って) 記載なし


「三省堂 新明解国語辞典」
一歩譲って〔=議論を先に進めるために、かりに相手の主張を認め〕…としても
百歩譲っても〔=教養範囲内で大幅に相手の主張を認めるにしても〕


「三省堂 故事ことわざ・慣用句辞典」
一歩譲る 相手の意見や主張を全面的に否定しようとせず、ある点においては受け入れる。「一歩を譲る」とも。「仮に一歩を譲って部下が勝手にやったことだとしても、君が責任をとるべきだ」
百歩譲っても 相手の言い分などをある程度受け入れて考えたところで、基本的な部分には変わりがないということを表す言葉。「百歩譲って…としても」の形でも用いられる。「不可抗力に近かったという君の言を信じ、百歩譲っても、責任は免れないだろう」


「小学館日本国語大辞典」
一歩を譲る 自分の主張や意見を一部ひっこめて、相手の説を少しとりいれる。 坊ちゃん(1906)〈夏目漱石〉「よしんば今一歩譲って〈略〉下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで」 田舎教師(1909)〈田山花袋〉「彼はまた、仮に一歩譲って、人間がさういふ種類の動物であると仮定しても」
百歩譲って 相手の考えを大幅に認めて。 自己の問題として見たる自然主義的思想(1910)〈安倍能成〉「よし百歩を譲って此等を対岸の火災とくらゐに見ても」 小学校の教科書(1949)〈中村光夫〉「かりに百歩譲って、一部の子供がこんな妙な言葉を使っているとしたら、こういう間違った言い方を直してやるのが、大人の役目であり」


私には「三省堂 故事ことわざ・慣用句辞典」の説明がいちばんわかりやすかった。
「岩波書店 広辞苑」と「三省堂 大辞林」には「一歩」は載っていても「百歩」は載っていない。もしかするとこれは「一歩」のほうが古い言い方で「百歩」は新しい用法(もとは誤用?)であることを表しているのかもしれない。だが、Googleの検索結果では「百歩」の用例が「一歩」のそれよりもずっと多いし、他の辞書には載っているのだから、「百歩譲って」という言葉を誤用とするよりも「広辞苑」「大辞林」のミスと見たほうがよさそうだ。

「百歩譲って」という言い方が「一歩譲って」の誤用ではないことはどうやら確からしい。
だが、それでも私は「百歩譲って」という言い方が好きになれない。「百歩」というのが大げさだし、「譲る」というのも恩着せがましくて嫌らしい。「一歩譲って」と「百歩譲って」について考えているうちに、私が嫌っているのは「百歩」の部分よりも「譲る」のほうじゃないかと思えてきた。

俗論しか語らない「専門家」は不要

2006年05月05日 | 政治・外交
専門家がマスコミで発言するときは、それらしい専門知識を語ってほしい。
たとえば軍事専門家であれば、米軍のイラン攻撃の可能性を問われたら「軍事的に可能かどうか」「結果はどのように予想されるか」といった内容を望む。「戦争は悪なのでやってはいけません!」などと断罪するのは専門家でなくてもできる。エセ道学者の仕事は「評論家」や「コメンテーター」に任せておけばいい。
…といったことを以下の記事を読んで考えた。

「靖国」は表現の自由か 小泉首相、参拝正当化に条文総動員
  憲法学者の見方 「論理的に筋が通るのか」 「憲法問題より政治問題」 (朝日新聞 5月3日朝刊 11面より)
 首相にも個人としての「表現の自由」はある。ただ、その舞台に靖国神社はふさわしいのか。憲法を扱う首相の手つきをどう評価すればいいのか。憲法学者に聞いた。
 大石眞・京大大学院教授は、参拝の説明に表現の自由を挙げることについて「利用できそうなものを利用するのは不思議なことではない」とし、参拝自体は「憲法問題というより政治問題」と割り切る。
 「中韓も、参拝が憲法違反だからどうこうと言っているわけではない。政治的な選択や行動が賢明かどうかは常に問題になるし、不見識と批判するのはいいことだが、憲法問題ではない」

 これに対し、長谷部恭男・東大教授は首相に「自家撞着」を見る。
 「首相は多様な思想、表現の自由を保障する現憲法の枠組みを前提に、靖国参拝を議論する。では靖国とはどんな神社か。現憲法とは異なる体制、天皇に主権があって天皇との距離ですべての価値が決まる『国体』。それを守るために死んでいった方々を祀るのが靖国だ。そこに現憲法下の自由を掲げて参拝するのが、果たして論理として筋が通っているのか」

 毛利透・京大大学院教授も「悪質だ」と手厳しい。
 首相は、中韓からの批判を理由に参拝に反対する「日本人」を「理解できない」と退ける。自分の表現の自由の主張に力を込め、他人の表現の自由は顧みないかのようだ。
 「批判しあうのが民主主義なのに、外国の名前を使って封じようとしている」

 戦前生まれの憲法学者は、匿名を条件に「表現の自由だ、と首相が好きなことをやり出したらどうなるか。敗戦が生んだ憲法に対する政治のけじめが失われた」と憤る。

大石教授は専門家らしく、自分の専門分野を超えた発言を避けている。まともだ。

長谷部教授の言っていることは私にはわけがわからない。
首相は公務員として憲法遵守義務があるのだから、「多様な思想、表現の自由を保障する現憲法の枠組みを前提に、靖国参拝を議論する」のは当然だろう。それとも長谷部教授は小泉総理に憲法を否定してほしかったのか。
 「現憲法とは異なる体制 ~ それを守るために死んでいった方々を祀るのが靖国だ」
歴史ある神社のほとんどは現憲法とは違う体制・価値観によって建立されている。たとえば明治神宮にしても、それほど歴史は古くない(大正9年〈1920年〉創建)けれど、天皇を神とする価値観のもとに官幣大社としてつくられている。「現憲法の価値観と違う理念を持つ神社に参拝するのは論理的に筋が通っていない」という長谷部教授の批判は一見すると論理的なようだが、現憲法をあたかも宗教の聖典のごとく絶対視して他宗教を否定しているだけだ。
さらに言えば、個人の宗教行為を(信仰をともにしない)他人が「筋が通っていない」と批判するのも滑稽だ。宗教は世俗の論理を超えたところに存在価値があり、「誰が見ても筋が通っていると納得する」ような宗教は宗教としての力を持ちえない。たぶん長谷部教授は「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。」という親鸞の言葉を理解できないだろう。

毛利教授の言うことも私には「憲法学者」というよりも飲み屋の酔漢レベルに思える。
地の文が毛利教授の発言内容なのかそれとも記者の感想なのかはっきりしないのだが、たぶん毛利教授の言ったことなのだろう。
 「他人の表現の自由は顧みないかのようだ」
根拠不明な印象論だ。憲法学者の肩書きで発言するなら「権力者が他者からの批判を『理解できない』と退けるのは憲法21条(表現の自由)の侵害だ」とか斬新な憲法論を語ってほしい。納得はしないけれど感心はする。
 「批判しあうのが民主主義なのに」
小泉総理はまさに反対派と「批判しあっている」。もし小泉総理が「反対派は非国民だ、靖国参拝への批判は許さない」と言えば「批判の封殺」になるだろうが、「私には理解できない」というのは「批判を受け入れない」だけのことだ。

最後の「戦前生まれの憲法学者」氏にいたっては実在さえ疑わしい。「戦前」というのがいつのことなのかはっきりしないが、「昭和16年12月8日」以前という意味であれば彼が物心ついたのは戦後のことであり「敗戦が生んだ憲法に対する政治のけじめ」を実体験のように語るのはおかしい。昭和5年以前の生まれであるとしたらその点は問題ないが、すでに75歳を過ぎ(おそらくは)功成り名を遂げた学者が「匿名を条件に」語るのは不思議だ。若い学者であれば軋轢を恐れて匿名にする、というのもわかるけれど、長老クラスの人がいったい何を遠慮しているのだろう。もしかしたら、名前を出すと敬意が集まるよりも嘲笑される類の学者なのか。
 「表現の自由だ、と首相が好きなことをやり出したらどうなるか」
国民が納得する行為なら支持され、反感を呼べば支持を失う。それだけのことであり、何も老学者が心配する必要はないと思う。

それにしても、靖国参拝反対派である長谷部・毛利の両教授とも憲法20条(信教の自由と政教分離)違反だと言っていないことは興味深い。朝日新聞(参拝反対派)は政教分離論による総理大臣の靖国参拝「禁止」をあきらめたのだろうか。
今回の朝日の記事は、首相の靖国参拝を憲法20条で禁止できないことは不承不承認めても、憲法学者に一般的反対論を語らせることであたかも違憲であるかのように印象操作している。姑息なやり方だ。
一般的な(私は陳腐とさえ言いたい)道徳論を語るのなら「憲法学者」を持ち出す必要はない。それとも朝日は日本国憲法を政治家や国民に倫理を説く聖典だと思っているのだろうか。