戦後最初のヒット曲と呼ばれる「リンゴの唄」。そのサビは誰もが知っている。
「リンゴはなんにも いわないけれど リンゴの気持は よくわかる」
何も言わなくても気持が伝わる、という「以心伝心」こそ日本人の理想のコミュニケーションであり、わざわざ言上げするのは必要に迫られ仕方なしに行うのである。雄弁は銀、沈黙は金。
人間社会の現実においては「言わなければ判らない」ことのほうがずっと多いのだけれど。
1980年のヒット曲
「ダンシング・オールナイト」では、もんたよしのりがハスキーな声で「ダンシング・オールナイト 言葉にすれば ダンシング・オールナイト 嘘に染まる」と繰り返している。言葉は完全に自分の気持や考えを表現しない。言葉にすれば言いすぎたり言い足りなかったりして誤解が生じ、誤解を放置すればやがて齟齬が成長して嘘になる。
誤解されるのを避けるには、表現を工夫し、自分の書いた文章を他人の目でチェックする必要がある。
だが、新聞・雑誌・書籍では編集者がいて厳しくチェックしてくれるのに対し、ブログでは自分の文章を全世界に公開する前にダメ出しするのは自分しかいない。「他人になったつもりで批判的に自分の文章を読む」というのはなかなか難しいことだ。
コメント数がついに3000を超え、空前の炎上ぶりを見せている元・日本テレビアナウンサー
藪本雅子氏のブログも、もとはといえば「言葉にすれば嘘に染まる」陥穽に躓いたのかもしれない。
藪本氏はアナウンサーだったのだから、生放送で自分の意見をコメントすることもあったはずだ。それなのにどうしてここまで言葉の怖さに対して迂闊なのかは理解しにくい。まあ、彼女は自ら
「女子アナ失格」という本を書いているのでそういうことなのだろう、たぶん。
決して彼女を擁護するつもりはないけれど、
…と書くと、読者のほとんどは「ああ、この後には擁護する文章が続くんだな」と予想するものである。「通り抜け無用で通り抜けが知れ」という
川柳もある。いや、意味がちょっと違うか。それはともかく、たぶん彼女自身としては盗撮アナや日本テレビを擁護するつもりは本当になかったのだと思う。
藪本雅子ブログ 盗撮で思う日テレの若い社員が盗撮した件で、
やってしまった行為を擁護するわけではないのだけど、
おばさんは思う。
男の子は、それはもう幼稚園の頃から、
女の子のパンツが見たくて見たくてしょうがない生き物である。
まあ何というか、呆れつつ感心するほど無邪気な文章だ。「読者がどう受け取るか」を考慮せず「自分が言いたいこと」に向かって一直線に突き進んでいる。中学生や高校生の作文なら「面白いね、でももうちょっと書き方を工夫したほうがいいよ」と励ますこともできる。だが大学生なら眉をひそめるし、社会人(それも30過ぎ)の文章としてはあまりにも稚拙だ。
おそらく彼女は「日テレの若い社員が盗撮した件」そのものについて特別な関心はなく、事件をマクラにして若い女の子の無警戒を嘆く一般論を書いたつもりなのだろう。
「ミニスカートをはいている子達は、パンツを
見られない努力をしなさい!」
という彼女にとっての正論を主張することに熱意のほとんどが向けられている。
「基本的には男っていうのは、女の子のパンツが見たい。
目の前にパンツが見えそうなかわいい子が歩いていたら、
必死になってのぞこうとするのが男だ。」
という男性への偏見は彼女にとってあくまでも「オバサンの正論」を補強するためのものでしかない。
「出来心であっても、結果は重い。重すぎる。・・・・・・・・。」というまるで盗撮アナ擁護のような文章が結語になっているのも、彼女の意識としては「盗撮アナ」ではなく「必死になってパンツを覗こうとする男性全般」を庇おうとしたのだろう。そんな「男性全般」は彼女の頭の中にしか存在しないのだけれど。
ベタなドラマやマンガで、恋愛に夢中になった女子高生が友達とどんな話をしていても「カレ」の話に持っていってしまい、本人以外はすっかり白ける、という描写があるけれど藪本氏の文章はそれに近いものがある。
人が聞きたがっていることに無関心で、自分の言いたいことにしか興味がないのだ。
「元・日本テレビ社員」であり現在は「ジャーナリスト」を名乗る彼女のブログに対して、読者の多くは「隠蔽」にはしるマスコミ(日本テレビ)への批判を期待した。だが彼女は自分に何を求められているのか理解せず、ひたすら
「ミニスカートをはいている子達」への警告を叫んだ。あるいは、
「私の最も信頼する」かつての仕事仲間に起きた事件への個人的感情を語った。この認識のギャップが史上空前のブログ大炎上という悲喜劇を生んだ。
もし彼女が本気で日本テレビと盗撮アナを庇おうとする意図のもと、ごまかしのためパンツや仕事仲間の話を持ち出したのなら悪質だが、私にはそのようには思えない。彼女にはとてもそんな策略をする能力はなさそうだ。
私には彼女の言おうとしたことの7割は理解可能な気がするし、半分は同意できる。
だが、
「擁護するわけではないのだけど」で始まり
「結果は重い。重すぎる。・・・・・・・・。」で終わる文章を「盗撮アナと日テレ擁護のための文章」と受け取る人がいるのは自然なことだ。藪本氏が自分の文章を読み返して「これでは誤解される」「ジャーナリストとして恥ずかしい文章だ」と気付かなかったのはあまりにも情けない。
私は藪本氏が何を書くのも自由だと思う。いや、私がどう思おうと思うまいと藪本氏は好きなことを書く権利がある。
だが、彼女がこれからもジャーナリストを名乗り続けるのであれば、自分の書いた文章が読者にどのように受け取られるのか、最低限の想像力を持ってほしいと切に願う。