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すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

体育の先生の脳ミソは筋肉なのか?

2005-11-02 20:59:11 | エッセイ
 忙しい。何がって仕事がだ。新しくエントリを立てることはおろか、以前のエントリにいただいたコメントにすら返事できないでいる。実はほとんど完成しているブログ用の草稿が10本近くある。みんな何かの瞬間にパッと思いついて書いた。あとは推敲し、結末をつけるだけだ。しかもそれらを書いたのはもうけっこう前である。なのにしばらく自分がブログをもっていたこと自体、忘れていた。本当の話だ。私は重要な複数のことがらを同時に遂行できないのだ。

 以前にも書いたように、何かひとつのことに没頭すると話しかけてくる人間の声すら聞こえなくなる。えっけんさんが本当にやっちゃった「最近のトラックバックスパム」のギャグにも反応できずじまいだ。

 しかも私はつねに見張られている。ふと気づくと押入れの戸が3センチほど開いており、湿った暗闇の向こうから黒装束の男がのぞいている。

 あるいはトイレに入ったときも同じだ。閉めたはずのドアの隙間から、ワコールのナイティウェア「Salute」(サルート)を着た半裸の女性がこちらを見つめている。大小の蝶のアップリケがチャーミングである。

 いや冗談だ。どこからが冗談なんだ? 2段落目の「しかも私はつねに見張られている」以降がすべて真っ赤な冗談だ(日本語じゃないな)。説明しておかないとまた誤読されてしまうじゃないか。

 確かにいま私はこのギャグを書くためだけに、わざわざグーグルでワコールのサイトを調べた。女性の下着なんてサッパリわからないからだ。だが遊んでいるわけではない。決してない。いまはメシの時間なのだ。

 私はいまメシ屋にいる。パソコンはいつも持ち歩いている。頼んだペペロンチーノはもう食べ終わった。で、アイスコーヒーを飲むほんの30分間だけ、店でパソコンをエアエッジにつないでいる。30分後には仕事場にもどり、また原稿を書くのである。

 さっきペペロンチーノをもってきた店の女性が、ワコールのナイティウェア「Salute」が映し出された私のパソコンの画面を見て、著しく眉をしかめた。だがそんなことは知ったこっちゃない。

 滞り、もう終わったかに見える自分のブログに「更新お休みのお知らせ」を書くためだ。しかも単なるお知らせじゃなく、おもしろいお知らせを書くための検索だ。(ただしこれがおもしろいかどうかは別の話である)

 私は激しく後悔している。忙しくなり始めた頃に、あらかじめお知らせを書けばいいのだ。10月20日の時点でそうしておけばいい。だがあいにく私はいつも一気に仕事になだれ込み、その時点ではそんなものを書くことなんて思いつかない。

 いや正確にいえば平常時なら、「お知らせを書けばいいんだよな」と頭でわかっている。だが忙しくなった時点で、すっかり頭から飛んでいるのだ。生まれたときからそうだから、もう一生直らないだろう。

 ちなみに「もう一生」とか「絶対に○○できない」と考える人は、認知がゆがんでいる可能性がある。「全か無か思考」(オール・オア・ナッシング)、「誇張と矮小化」、「過度の一般化」、「破局的な見方」に相当する。私じゃなくて一般論としてだ。

 いや今回はその話じゃない。いまふざけて「もう一生直らないだろう」と書いた瞬間に、あとから「認知のゆがみ」という言葉が頭に浮かんだだけだ。

 精神医学は私の得意分野のひとつである。認知のゆがみの件は冗談ではない。その知識が必要な人に、何かの参考になればと思って触れた。で、「こんなふうに深刻な事態をジョークで笑い飛ばし、やりすごすのもひとつのテだよ」と信号を送った。

 実は「生きることがしんどい」と訴えかける重要なトラックバックやコメントを、少し前に何本かもらっている。個の確立にかかわる内容である。現代日本が抱えるもっとも深刻な問題だ。

 そしてこれらのトラバやコメントは、ひょっとしたらエマージェンシーを知らせているのかもしれないのである。

 私はロジャーズが確立したカウンセリング手法「クライエント中心療法」(client-centered therapy)を知っている。だから彼らの気持ちがよくわかる。同時にこのテーマがいかに切実かも認識している。こんな急場しのぎな書き方じゃだめだ。

 これらのトラックバックやコメントには、微力ながら私のできる範囲で彼らが生きて行くために何か参考になることを書こうと考えている。まじめな話だ。だが時間がない。もう少し待ってほしい。

 さて、いま「認知のゆがみ」とか「私は見張られている」と書いた瞬間、すでに誤読している人が167人いる。わざわざ更新お休みのお知らせを書いている件もそうだ。

「松岡の認知はゆがんでるのか?」、「こいつは見張られていると感じてるんだ」、「こんなブログなんかだれも読んでないだろう。なのにお休みのお知らせって何だ? 思い上がりも甚だしいぞ」

 いやそうじゃない。

 私はこういう誤解されやすいギャグをよく思いつくのだ。いわゆるブラックジョークの出来損ないである。で、本当にそれを原稿に書いてしまう。

「167人に誤解されるぞ。でも14人にはウケるにちがいない」

 そう思うともう誘惑に勝てない。

 説明しよう。「認知のゆがみ」についてはすでに述べた。一方、「見張られている」は、リアル世界の知り合いが私の実名ブログを読んでることにひっかけた冗談だ。こんなものはごく一部の人間にしかわからない。だけど意味がわからなくても笑う人は笑うだろう。それだけの話だ。ああ、お休みのお知らせもあったな。

 たとえば隣の家に住んでる島田さんの奥さんが、カルチャースクールに夢中になった。島田さんの頭は、「次の教室でテイスティングするワインはボルドーかしら? それともブルゴーニュかしら?」でいっぱいだ。

 そして自分が実はブログをもっていたことすら知覚できず、更新を怠った。で、島田さんは食事している最中にそれを思い出したのである。

 ただしそのブログは田上さんの奥さんと、七条さんの奥さんしか読んでいない。読者は世界に2人だけだ。

 だけど更新をサボった島田さんの奥さんには、こんな心理が働く。

「あっ、気がついたらブログを更新してなかったわ。田上さんの奥さんと七条さんの奥さんとは、最近お話もしてないし。そうよ。いつもあらかじめお知らせを書けばいいんだわ。どうかしてるわ最近の私。あらやだ目尻に小じわが2本できてるじゃないの」

 私は島田さんの奥さんである。いや私はあくまで松岡であり島田さんじゃない。だが形而上学的、かつ象徴的な意味で島田さんなのだ。そうだ私はローマのアンドロニコス、じゃなくてアリストテレスだ。

 アンドロニコスは編集しただけの男だ。書いたのはアリストテレスである。

 いやまた冗談だ。ローマのアンドロニコスが編集したアリストテレスの中心著作である【形而上学】「ta meta ta physika」14巻なんて私は読んだことがない。それどころか、私がいま使った「形而上学的」なる比喩の使い方が正しいかどうかさえおぼつかない。たぶんまちがっているだろう。

 だからブログのコメント欄で詭弁だと言われるのだ。

 いやその話じゃない。書いたのはアリストテレスだ。いやその話ですらない。今回はそうじゃない。

 本当のところは、単にいま小学生のときに読んだ松本零士「男おいどん」のワンシーンを思い出しただけだ。夜間高校中退であるマンガの主人公の大山昇太が、かっこつけた大学生に「形而上学的には~」などと、こむずかしい話をイヤイヤ聞かされる。子供の頃に読んだそのシーンが発作的に思い浮かんだのだ。

 ああ、「形而上学的には」と言ったのは、背伸びした大山昇太自身だったかもしれない。だが困ったことにそんなことを確認しているヒマはいまの私にはない。

 いずれにしろ、突然過去の記憶の扉が開いたのである。

 もちろんこんな説明をしても、ごく一部の人にしかわからないのはわかっている。説明になっていない。「わからないのはわかっている」とわかりながら、パソコンの前にいる私を外側から観察しているもうひとりの私がいる。主観と客観の問題である。だけどいまはその話じゃない。

 いやまてよ。とすれば私は松本零士氏のギャグを構造ごとパクった、ということか。これは盗用か。著作権侵害なのか? 

 そう考えると人間が書く文章というのは、はたして本当にその人の能力なのか? それとも借り物でありコピーにすぎないのか? に思考が移って行く。水が高いところから低いところに流れるかのように移って行く。

 別に文章だけじゃない。たとえばサッカーだってそうだ。

 ある局面で攻撃的ミッドフィルダーが、ゴール前のフォワードに向けて目にもあざやかなスルーパスを出した。するとたちまち周囲の人間は言う。

「すごい才能だ」、「あいつは天才だ」

 だがはたしてそれは生まれついての才能なのか? ひょっとしたら、彼がいままでに観た数え切れないほどの「サッカーの名試合」、「名シーン」の残像にすぎないんじゃないか? ある局面で瞬間的に記憶の扉が開き、彼はそれを忠実に実行しただけではないのか?

 とすれば人間の素質なるものは計測できるのか? 先天的な才能か、それとも後天的な努力なのか。はたまたそれを見分けることはできるのか? こんな哲学的な問いかけが、11月のさわやかな秋風のように私の頭をよぎっていく。

 というわけで30分たった。さよならだ。

 今日は朝の5時に起き、ずっと原稿を書いていた。ノリノリで楽しい時間だった。とてもはかどっている。そしていまはまだ夕食の時間だが、私はまた仕事場にもどるのである。

 私は仕事をサボってブログを書いたのではない。書いたのはあくまでお知らせにすぎない。私は島田さんの奥さんなのだ。しかもあくまでメシの時間に設定した30分だけである。この現象が形而上か、それとも形而下の出来事なのかは関係ない。ペペロンチーノはうまかった。ただそれだけだ。

 もうすぐ波は去る。あと数日の話だ。そうすれば私はまたブログを書くだろう。167人以上が読んでくれているかどうかは知らない。というか実は「167人」というのも、私が小学生のときに体育の先生が言ったギャグなのだ。これも突発的な記憶の扉現象である。

 あれは雨の日だった。学年全部の生徒が体育館に集められ、校長先生の訓示が始まった。でも小学生だからそんなものはお経にすぎない。聞いているのは馬の群れだ。生徒の雑談は止まらない。校長先生は「静かにしなさい」と繰り返すが、いっこうにおさまる気配がない。

 するとそれまで黙って聞いていた、みんなから恐れられている体育の先生がスッと前へ進み出てこう叫んだ。

「いまは校長先生が話してるんだ。なのにグジャグジャ騒いでるヤツが83人もいる。この83人は前へ出てこい。俺がケツペッタンしてやる」

 その瞬間、生徒の雑談はピタリと止まった。爆笑の渦だ。もちろん83人なんてのはギャグである。わかりもしない数字を意図的に細かく言い、笑わせようって魂胆だ。ただし「ケツペッタン」は意味不明だ(方言か?)。

 その体育の先生の脳は、どうやら筋肉でできてるわけじゃなかった。それどころか先生はたちまちその日から、私たち生徒のヒーローになった。

 こんなふうに「そのときジョークが言えるかどうか?」で、人間の器が決まる話は今回の話とはまるで関係ない。

 ではまた近いうちに。もうだれも読んでないだろうけどな。ちっちっ。

[ご注意]

島田さん、田上さん、七条さんの各・奥さんはあくまで架空の人物であり、実在する企業および団体、従業員、あるいはその奥さんとは一切関係ありません。

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