タロスミサイル巡洋艦「リトルロック」艦内探訪、
メインデッキの艦内博物館のスペースを抜けると、士官区画です。
博物館の区画は、CPOと兵員用の区画となっていました。
まず登場したのが「オフィサーズ・メス」。
テーブルは床に固定されているので、おそらく現役当時の姿のままでしょう。
兵のためのメスとは違い、床のタイルからして特別感が漂います。
テーブルは床に固定されているので、おそらく現役当時の姿のままでしょう。
兵のためのメスとは違い、床のタイルからして特別感が漂います。
今まで歩いてきたのはセカンドデッキという、上甲板の下階ですが、
ここでも士官区画は艦の前方に位置しており、
特に艦長の執務室は(ついでに従軍牧師のオフィスも)
この際前方にあることがお分かりいただけるかと思います。
(Chip Chapin というのはおそらくタイプミス)
ここでも士官区画は艦の前方に位置しており、
特に艦長の執務室は(ついでに従軍牧師のオフィスも)
この際前方にあることがお分かりいただけるかと思います。
(Chip Chapin というのはおそらくタイプミス)
プライベートラウンジは右舷、ギャレーは左舷にあります。
メスにはオフィサーズ・ラウンジ、士官用ラウンジも含まれます。
床は相変わらず市松に配したPタイルで、ちゃんとしたソファもあります。
床は相変わらず市松に配したPタイルで、ちゃんとしたソファもあります。
説明によるとこのスペース「は」エアコンが装備されていたそうです。
(ちょっと待て、下士官兵用区画にはなかったのか?)
(ちょっと待て、下士官兵用区画にはなかったのか?)
大変充実したホームページを運用しています。
手前に見えている模型の船は、USS「コンステレーション」です。
手前の紹介文を翻訳しておきます。
手前に見えている模型の船は、USS「コンステレーション」です。
手前の紹介文を翻訳しておきます。
USS CONSTELLATIONはスループ・オブ・ウォーで、
アメリカ海軍が設計・建造した最後の帆船である。
アメリカ海軍が設計・建造した最後の帆船である。
1797年9月に建造され、1853年に解体されたフリゲート、
USS「コンステレーション」から少量の資材を引き揚げ、
1854年に建造された。
USS「コンステレーション」から少量の資材を引き揚げ、
1854年に建造された。
単甲板の 「スループ 」であるにもかかわらず、
フリゲート艦の同型艦よりも大きく、
より強力な砲弾発射砲を装備している。
フリゲート艦の同型艦よりも大きく、
より強力な砲弾発射砲を装備している。
このスループは1854年8月24日に進水し、
1855年7月28日にチャールズ・H・ベル大尉を指揮官として就役した。
1855年7月28日にチャールズ・H・ベル大尉を指揮官として就役した。
1954年に退役するまで、1世紀近くにわたって活躍した。
現在は博物館船として保存されている。
コンステレーションは全長199フィート。
最も幅の広いところで43フィートのビームを持つ。
最大喫水は21フィート(満載排水量1,400トン時)。
乗組員は士官21名、下士官265名。
当初のコンステレーションは、16門の8インチ砲と
4門の32ポンド砲を主砲甲板に搭載していた。
4門の32ポンド砲を主砲甲板に搭載していた。
スパー甲板には一対の追撃砲が搭載され、
艦首には30ポンド砲パロット・ライフルが、
艦尾には20ポンド砲パロット・ライフルが配置された。
艦首には30ポンド砲パロット・ライフルが、
艦尾には20ポンド砲パロット・ライフルが配置された。
また、3門の12ポンド榴弾砲も搭載していた。
1860年以前は、地中海とカリブ海、そして「アフリカ艦隊」で活躍。
アメリカ南北戦争では、多くの任務に就いた。
戦後は、アメリカ海軍士官候補生の訓練に従事し、
地域作戦を支援するためヨーロッパ各地に派遣された。
地域作戦を支援するためヨーロッパ各地に派遣された。
1914年、コンステレーションは、米国国歌、
「星条旗」作詞100周年を記念する式典に参加。
「星条旗」作詞100周年を記念する式典に参加。
1926年5月15日、フィラデルフィアに曳航され、
USSオリンピアと並んで係留された。
USSオリンピアと並んで係留された。
それから1926年7月4日、独立宣言調印150周年記念式典に参加した。
式典の後、メンテナンスのためフィラデルフィアで乾ドックに入れられ、
11月にニューポートに曳航された。
11月にニューポートに曳航された。
最終的に1955年2月4日に退役し、ボルチモアに曳航され、
8月15日に海軍登録から抹消された。
8月15日に海軍登録から抹消された。
修復作業が完了した後、1961年7月4日、ボルチモアの
コンステレーション・デッキ(メリーランド州)に永久停泊した。
コンステレーション・デッキ(メリーランド州)に永久停泊した。
1963年5月23日に国定歴史建造物に指定され、
1966年10月15日に国家歴史登録財に指定された。
1966年10月15日に国家歴史登録財に指定された。
彼女は、アメリカ南北戦争から現存する最後の無傷の海軍艦艇である。
この模型ですが、細部までこだわった力作でした。
よく見ると、その時代の格好をした乗組員が、船首に一人、
船長らしい帽子を被った人が中央マストに一人、船尾にも一人います。
帆船は帆船というだけあって、帆を張るためのリグが
縦横無尽に張り巡らされていますが、全て正しく再現されており、
サービスのためにサイドの砲は全てハッチを開けた臨戦態勢となっています。
船長らしい帽子を被った人が中央マストに一人、船尾にも一人います。
帆船は帆船というだけあって、帆を張るためのリグが
縦横無尽に張り巡らされていますが、全て正しく再現されており、
サービスのためにサイドの砲は全てハッチを開けた臨戦態勢となっています。
部屋に設られたテーブルには、かつてのオフィサー使用のグッズ各種。
コーヒーカップには海軍のマークが金で刻まれています。
タイプライターはスミス-コロナ(Smith-Corona)社製。
電動式ではないので、インクリボンさえ購入できれば今でも使えます。
コーヒーカップには海軍のマークが金で刻まれています。
タイプライターはスミス-コロナ(Smith-Corona)社製。
電動式ではないので、インクリボンさえ購入できれば今でも使えます。
スミス・コロナ社はかつては名の知られたタイプライター、
および計算機メーカーでしたが、1980年代中盤以降、
ワードプロセッサ台頭の波を受け業績が悪化するという困難を経て、
現在は製品カテゴリーを熱転写関連商品に絞り経営しています。
「Glad Rags to Rich」(ボロから富豪へ)
および計算機メーカーでしたが、1980年代中盤以降、
ワードプロセッサ台頭の波を受け業績が悪化するという困難を経て、
現在は製品カテゴリーを熱転写関連商品に絞り経営しています。
「Glad Rags to Rich」(ボロから富豪へ)
という衝撃的なタイトルのついた歌手のシェールが表紙の雑誌。
調べたところ、1975年発行のTIMESです。
この当時彼女は28〜9歳、成功を手にし初めてタイムズの表紙を飾りました。
「ボロから富豪へ」という言葉は、シャーリー・テンプル主演で有名な
映画の題名ですが、文字通り貧乏から金持ちになった主人公と同じく、
彼女は幼少期は大変貧しい家庭に育っています。
なんでも理由は母親が何度も離婚と再婚を繰り返していたためとか。
調べたところ、1975年発行のTIMESです。
この当時彼女は28〜9歳、成功を手にし初めてタイムズの表紙を飾りました。
「ボロから富豪へ」という言葉は、シャーリー・テンプル主演で有名な
映画の題名ですが、文字通り貧乏から金持ちになった主人公と同じく、
彼女は幼少期は大変貧しい家庭に育っています。
なんでも理由は母親が何度も離婚と再婚を繰り返していたためとか。
このシャンパンのボトル、ジッポーライター、タバコは、
オバマ大統領からの寄贈、と一応はなっていますが、本人からではなく、
オバマが大統領時代バッファローを訪問したとき、
なぜかシークレットサービスから寄贈されたものだそうです。
そういえば、バッファローで名前だけは有名だけど固くて辛くて、
まあ要は激まずだったバッファローウィング屋に、
オバマが来た時のの写真が得意げに掲げられていたなあ。
ただただ辛くて、衣が岩のように硬いバッファローウィングを、
老舗というだけで有り難がって食べてるアメリカ人ってもしかしてあほ?
とまで思わせてくれたあの店、オバマもきっと「まずっ」とか思ったと思う。
オバマが大統領時代バッファローを訪問したとき、
なぜかシークレットサービスから寄贈されたものだそうです。
そういえば、バッファローで名前だけは有名だけど固くて辛くて、
まあ要は激まずだったバッファローウィング屋に、
オバマが来た時のの写真が得意げに掲げられていたなあ。
ただただ辛くて、衣が岩のように硬いバッファローウィングを、
老舗というだけで有り難がって食べてるアメリカ人ってもしかしてあほ?
とまで思わせてくれたあの店、オバマもきっと「まずっ」とか思ったと思う。
ちなみにタバコの箱らしいのにはオバマのサイン入り。
あまり有難くはないけど「恩賜の煙草」というところですか。
っていうか、オバマってタバコ吸わないよね?
あまり有難くはないけど「恩賜の煙草」というところですか。
っていうか、オバマってタバコ吸わないよね?
ゲームなどがやりかけで置いてある(灰皿もあり)テーブル、
周りには油彩の絵がいくつか飾ってあります。
「リトルロック」の鑑番号4が見えるこの右側の絵ですが、
これは彼女がイタリアの地中海沿いの港ガエタに停泊していた時の姿で、
1959年から3年間「リトルロック」に乗り組んでいたある乗員、
(RDSN Seaman, Radarman Striker)が描き、寄贈したものです。
周りには油彩の絵がいくつか飾ってあります。
「リトルロック」の鑑番号4が見えるこの右側の絵ですが、
これは彼女がイタリアの地中海沿いの港ガエタに停泊していた時の姿で、
1959年から3年間「リトルロック」に乗り組んでいたある乗員、
(RDSN Seaman, Radarman Striker)が描き、寄贈したものです。
「リトルロック」に陶器を提供したバッファロー・ポッタリー・カンパニーは
1901年、ニューヨーク州バッファローに設立されました。
1875年設立のラーキン・ソープ・コンフィ社から派生した会社です。
創業者は親戚同士で、なぜ陶器を石鹸会社が扱うようになったかというと、
陶器を売ったら洗剤も売れるよね、ということだった模様。
現在会社はオネイダ有限会社の一部として存続し、
アメリカ軍のレストランやクラブなどの食器を請け負っています。
展示されているのは、1944年の就役から1976年の退役まで、
USSL「リトルロック」で使用された陶磁器のごく一部であり、
バッファローの人々や産業界が常に示してきた、
アメリカ軍への全面的な支援を象徴するものとされています。
バッファローの人々や産業界が常に示してきた、
アメリカ軍への全面的な支援を象徴するものとされています。
アメリカの深川製磁みたいなものでしょうか。
こちらは士官用食器です。
ご存知のように、海軍艦船上では、陶磁器も銀の食器も、
士官の日常の食事に使われるものでした。
そしてここの説明にもあるように、これは、アメリカ海軍における、
将校と下士官兵の間の生活全般における多くの大きな差異の一つです。
ここはオフィサーズ・パントリー。
士官用のワードルームで供される食事を用意するところです。
デザートやスナック、コーヒーがいつでも用意されていました。
コーヒーカップは暖かいコーヒーのために常に温められていたそうです。
そして常に給仕の兵がスタンバイして、彼らにサービスを行いました。
冒頭のスケッチですが、
「アメリカの自由の防人三世代」
というタイトルで描かれた、バッファローのある一族の肖像です。
Krestos一族は、ここバッファローで、三代にわたり、
国防に携わる軍人を輩出してきました。
右下の人はメイン州バース(Bath)の造船監督官だった
ディーン・M・クレストス少佐であろうかと思われます。
また、左側の船は日本軍の潜水艦に撃沈されたUSS「インディアナポリス」、
右側はミサイル駆逐艦USS「ファラガット」DDG-99です。
いずれもクレトス家の誰かが乗り組んだ艦ということですが、
「インディアナポリス」に乗っていたクレトス水兵は、
撃沈された時乗っていたとして、無事生還されたのでしょうか。
続く。
デザートやスナック、コーヒーがいつでも用意されていました。
コーヒーカップは暖かいコーヒーのために常に温められていたそうです。
そして常に給仕の兵がスタンバイして、彼らにサービスを行いました。
冒頭のスケッチですが、
「アメリカの自由の防人三世代」
というタイトルで描かれた、バッファローのある一族の肖像です。
Krestos一族は、ここバッファローで、三代にわたり、
国防に携わる軍人を輩出してきました。
右下の人はメイン州バース(Bath)の造船監督官だった
ディーン・M・クレストス少佐であろうかと思われます。
また、左側の船は日本軍の潜水艦に撃沈されたUSS「インディアナポリス」、
右側はミサイル駆逐艦USS「ファラガット」DDG-99です。
いずれもクレトス家の誰かが乗り組んだ艦ということですが、
「インディアナポリス」に乗っていたクレトス水兵は、
撃沈された時乗っていたとして、無事生還されたのでしょうか。
続く。