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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

オフィサーズ・アイランド〜USS「リトルロック」

2025-01-07 | 軍艦

タロスミサイル巡洋艦「リトルロック」艦内探訪、
メインデッキの艦内博物館のスペースを抜けると、士官区画です。
博物館の区画は、CPOと兵員用の区画となっていました。



まず登場したのが「オフィサーズ・メス」。

テーブルは床に固定されているので、おそらく現役当時の姿のままでしょう。
兵のためのメスとは違い、床のタイルからして特別感が漂います。


今まで歩いてきたのはセカンドデッキという、上甲板の下階ですが、
ここでも士官区画は艦の前方に位置しており、
特に艦長の執務室は(ついでに従軍牧師のオフィスも)
この際前方にあることがお分かりいただけるかと思います。
(Chip Chapin というのはおそらくタイプミス)

プライベートラウンジは右舷、ギャレーは左舷にあります。


メスにはオフィサーズ・ラウンジ、士官用ラウンジも含まれます。
床は相変わらず市松に配したPタイルで、ちゃんとしたソファもあります。

説明によるとこのスペース「は」エアコンが装備されていたそうです。
(ちょっと待て、下士官兵用区画にはなかったのか?




士官用区画であるワードルームの修復のために使用された
多くの物品や資材に資金を提供し、また寄贈したのは、
ベテランや関係者の組織、USS「リトルロック」アソシエーションです。

大変充実したホームページを運用しています。



手前に見えている模型の船は、USS「コンステレーション」です。
手前の紹介文を翻訳しておきます。

USS CONSTELLATIONはスループ・オブ・ウォーで、
アメリカ海軍が設計・建造した最後の帆船である。

1797年9月に建造され、1853年に解体されたフリゲート、
USS「コンステレーション」から少量の資材を引き揚げ、
1854年に建造された。

単甲板の 「スループ 」であるにもかかわらず、
フリゲート艦の同型艦よりも大きく、
より強力な砲弾発射砲を装備している。

このスループは1854年8月24日に進水し、
1855年7月28日にチャールズ・H・ベル大尉を指揮官として就役した。
1954年に退役するまで、1世紀近くにわたって活躍した。
現在は博物館船として保存されている。

コンステレーションは全長199フィート。
最も幅の広いところで43フィートのビームを持つ。
最大喫水は21フィート(満載排水量1,400トン時)。
乗組員は士官21名、下士官265名。
当初のコンステレーションは、16門の8インチ砲と
4門の32ポンド砲を主砲甲板に搭載していた。
スパー甲板には一対の追撃砲が搭載され、
艦首には30ポンド砲パロット・ライフルが、
艦尾には20ポンド砲パロット・ライフルが配置された。
また、3門の12ポンド榴弾砲も搭載していた。

1860年以前は、地中海とカリブ海、そして「アフリカ艦隊」で活躍。
アメリカ南北戦争では、多くの任務に就いた。
戦後は、アメリカ海軍士官候補生の訓練に従事し、
地域作戦を支援するためヨーロッパ各地に派遣された。
1914年、コンステレーションは、米国国歌、
「星条旗」作詞100周年を記念する式典に参加。
1926年5月15日、フィラデルフィアに曳航され、
USSオリンピアと並んで係留された。
それから1926年7月4日、独立宣言調印150周年記念式典に参加した。

式典の後、メンテナンスのためフィラデルフィアで乾ドックに入れられ、
11月にニューポートに曳航された。
最終的に1955年2月4日に退役し、ボルチモアに曳航され、
8月15日に海軍登録から抹消された。
修復作業が完了した後、1961年7月4日、ボルチモアの
コンステレーション・デッキ(メリーランド州)に永久停泊した。

1963年5月23日に国定歴史建造物に指定され、
1966年10月15日に国家歴史登録財に指定された。

彼女は、アメリカ南北戦争から現存する最後の無傷の海軍艦艇である。


この模型ですが、細部までこだわった力作でした。
よく見ると、その時代の格好をした乗組員が、船首に一人、
船長らしい帽子を被った人が中央マストに一人、船尾にも一人います。

帆船は帆船というだけあって、帆を張るためのリグが
縦横無尽に張り巡らされていますが、全て正しく再現されており、
サービスのためにサイドの砲は全てハッチを開けた臨戦態勢となっています。


部屋に設られたテーブルには、かつてのオフィサー使用のグッズ各種。
コーヒーカップには海軍のマークが金で刻まれています。

タイプライターはスミス-コロナ(Smith-Corona)社製。
電動式ではないので、インクリボンさえ購入できれば今でも使えます。

スミス・コロナ社はかつては名の知られたタイプライター、
および計算機メーカーでしたが、1980年代中盤以降、
ワードプロセッサ台頭の波を受け業績が悪化するという困難を経て、
現在は製品カテゴリーを熱転写関連商品に絞り経営しています。



「Glad Rags to Rich」(ボロから富豪へ)

という衝撃的なタイトルのついた歌手のシェールが表紙の雑誌。
調べたところ、1975年発行のTIMESです。

この当時彼女は28〜9歳、成功を手にし初めてタイムズの表紙を飾りました。

「ボロから富豪へ」という言葉は、シャーリー・テンプル主演で有名な
映画の題名ですが、文字通り貧乏から金持ちになった主人公と同じく、
彼女は幼少期は大変貧しい家庭に育っています。

なんでも理由は母親が何度も離婚と再婚を繰り返していたためとか。



このシャンパンのボトル、ジッポーライター、タバコは、
オバマ大統領からの寄贈、と一応はなっていますが、本人からではなく、
オバマが大統領時代バッファローを訪問したとき、
なぜかシークレットサービスから寄贈されたものだそうです。

そういえば、バッファローで名前だけは有名だけど固くて辛くて、
まあ要は激まずだったバッファローウィング屋に、
オバマが来た時のの写真が得意げに掲げられていたなあ。

ただただ辛くて、衣が岩のように硬いバッファローウィングを、
老舗というだけで有り難がって食べてるアメリカ人ってもしかしてあほ?

とまで思わせてくれたあの店、オバマもきっと「まずっ」とか思ったと思う。

ちなみにタバコの箱らしいのにはオバマのサイン入り。
あまり有難くはないけど「恩賜の煙草」というところですか。

っていうか、オバマってタバコ吸わないよね?


ゲームなどがやりかけで置いてある(灰皿もあり)テーブル、
周りには油彩の絵がいくつか飾ってあります。



「リトルロック」の鑑番号4が見えるこの右側の絵ですが、
これは彼女がイタリアの地中海沿いの港ガエタに停泊していた時の姿で、
1959年から3年間「リトルロック」に乗り組んでいたある乗員、
(RDSN Seaman, Radarman Striker)が描き、寄贈したものです。



「リトルロック」に陶器を提供したバッファロー・ポッタリー・カンパニー
1901年、ニューヨーク州バッファローに設立されました。

1875年設立のラーキン・ソープ・コンフィ社から派生した会社です。
創業者は親戚同士で、なぜ陶器を石鹸会社が扱うようになったかというと、
陶器を売ったら洗剤も売れるよね、ということだった模様。

現在会社はオネイダ有限会社の一部として存続し、
アメリカ軍のレストランやクラブなどの食器を請け負っています。

展示されているのは、1944年の就役から1976年の退役まで、
USSL「リトルロック」で使用された陶磁器のごく一部であり、
バッファローの人々や産業界が常に示してきた、
アメリカ軍への全面的な支援を象徴するものとされています。

アメリカの深川製磁みたいなものでしょうか。



こちらは士官用食器です。

ご存知のように、海軍艦船上では、陶磁器も銀の食器も、
士官の日常の食事に使われるものでした。

そしてここの説明にもあるように、これは、アメリカ海軍における、
将校と下士官兵の間の生活全般における多くの大きな差異の一つです。


ここはオフィサーズ・パントリー

士官用のワードルームで供される食事を用意するところです。
デザートやスナック、コーヒーがいつでも用意されていました。
コーヒーカップは暖かいコーヒーのために常に温められていたそうです。

そして常に給仕の兵がスタンバイして、彼らにサービスを行いました。




冒頭のスケッチですが、
「アメリカの自由の防人三世代」
というタイトルで描かれた、バッファローのある一族の肖像です。

Krestos一族は、ここバッファローで、三代にわたり、
国防に携わる軍人を輩出してきました。

右下の人はメイン州バース(Bath)の造船監督官だった
ディーン・M・クレストス少佐であろうかと思われます。

また、左側の船は日本軍の潜水艦に撃沈されたUSS「インディアナポリス」
右側はミサイル駆逐艦USS「ファラガット」DDG-99です。

いずれもクレトス家の誰かが乗り組んだ艦ということですが、
「インディアナポリス」に乗っていたクレトス水兵は、
撃沈された時乗っていたとして、無事生還されたのでしょうか。


続く。

「戦艦のように戦った駆逐艦」サミュエル・B・ロバーツ〜「リトルロック」展示

2024-12-26 | 軍艦

「リトルロック」艦内の展示、駆逐艦水兵協会シリーズより、
今日はまずサマール沖で日本海軍と戦った、ある駆逐艦についてのお話です。

■ In Footsteps of Brave Men
勇者たちの足跡

1986年4月、「オリバー・ハザード・ペリー」級ミサイルフリゲート艦、


「サミュエル・B・ロバーツ」
USS Samuel B. Roberts (FFG-58)

が就役しました。



上の記事に添えられた写真の左端が就役時の「サミーB」です。

このフリゲート艦は、第二次世界大戦中、
ガダルカナル島で孤立した海兵隊員を救助した功績により、
死後海軍十字章を受章した海軍水兵、

サミュエル・ブッカー・ロバーツ・ジュニア
Samuel B. Roberts jr.(1921-1942)

にちなんで命名された3隻目の艦です。
ちなみに一代目は、

USS Samuel B. Roberts (DE-413)

二代目は、「ギアリング」型駆逐艦、


USS Samuel B. Roberts (DD-823)

それでは、その横の2隻との関係は何でしょうか。

■サマール沖海戦

まず、真ん中の艦番号52は、同級の

USS「カー」Carr (FFG-52) 

1944年10月25日のサマール島沖海戦に参加した
USS 「サミュエル・B・ロバーツ」で後部砲の配置だった三等砲手、
ポール・ヘンリー・カーの戦功を称えて建造されたフリゲート艦です。

そして、325の艦は、やはり同級の17番艦、

USS 「コープランド」Copeland (FFG-25)

この名前は、やはり「サミュエル・B・ロバーツ」艦長だった、
ロバート・W・コープランド中将(最終)にちなみます。

コープランド

このときカー水兵は戦死し、コープランド艦長は救出されています。
それでは「サミーB」は帝国海軍とどのような戦いをしたのでしょうか。

「ジョン・C・バトラー」級駆逐艦護衛艦である
SS「サミュエル・B・ロバーツ」(DE-413)は、
サマール沖海戦で日本海軍によって撃沈されました。

サマール沖開戦は、1944年10月のレイテ沖海戦の一部で
同艦はタスクユニット77.4.3(「タフィ3」)の一員として
少数の駆逐艦、護衛駆逐艦とともに護衛空母を守っていました。

そして、サマール島沖で重武装した日本の戦艦、巡洋艦、
駆逐艦からなる栗田艦隊と対峙することになります。

10月25日の夜明け直後。

陸軍の攻撃を航空支援していたタフィ3がサマール島東岸沖を航行中、
栗田健男中将の指揮下にある23隻の日本海軍の機動部隊
(センターフォース)が水平線上に現れ、攻撃を加えてきました。

状況を見たコープランド艦長は、乗組員に向かってこう艦内放送します。

「この圧倒的不利な戦いにおいて、おそらく生き残ることは不可能だ。
我々は、やれる限りやって損害を相手に与える

駆逐艦の煙幕に隠れて、発見されず突進した「サミーB」が
2.5海里(4.6km)まで艦隊に迫ったとき、砲弾がマストに命中し、
それが魚雷発射装置を詰まらせましたが、すぐさま修復。

「鳥海」に2.0海里の距離まで潜り込み(射程放線より低い)魚雷発射。

この時見張りは少なくとも1本の魚雷が命中したと報告していましたが、
実際には「鳥海」に魚雷は命中していません。
(但し同じ英語のWikiでも、『カー』の項では艦尾に命中とされている)

そのとき重巡洋艦「筑摩」が現れ、米空母に向かって幅射撃を行ったため、
コープランド艦長はそちらに進路を変更し、砲撃を命令しました。

このとき艦長は、

「魚雷を発射する。
効果があるかは疑問だが、我々は任務を遂行する」

と放送しました。

このとき「筑摩」は空母と「サミーB」の間に位置していました。
「サミーB」は小型で高速の相手に対して難しい攻撃を強いられます。

この後35分間、「サミーB」の艦砲は5インチ弾全弾、600発以上を発射し、
「筑摩」と交戦を行いますが、すぐに「筑摩」だけでなく、
「大和」「長門」「榛名」からの砲撃をも受けることになります。

8時51分、巡洋艦の砲弾が「命中し、ボイラーの1つが損傷。
「金剛」が0900に「サミーB」の機関に決定的な打撃を与えました。
そしてついに0935、総員退艦の命令が下されます。

「サミーB」はその30分後に沈没し、乗組員90名が死亡。
コープランド艦長含む乗組員120名の生存者は、救助されるまでの50時間、
3つの救命いかだにしがみついていました。


ポール・カー3等砲手

このとき「サミーB」で砲架52、後部5インチ砲を担当していたのは
ポール・H・カー3等砲手(21歳)でした。

砲架52は、攻撃を受けて爆発するまでの35分間で、
貯蔵されていた325発の弾丸をほぼすべて発射していました。

52を担当していたカーは爆発を受けて倒れ、
腸に重傷を負って瀕死の状態で発見されましたが、
そのとき彼は手に最後の弾丸を抱いたままで、
破壊された砲に最後の砲弾を手で装填しようと繰り返し試みていました。
そして、救助に来た者に弾丸を装填するのを手伝ってくれと懇願しました。

そして「サミュエル・B・ロバーツ」が日本帝国海軍の砲撃で沈没する直前、
カーは砲塔の横で息を引き取りました。

彼には死後銀星章が授与され、誘導ミサイルフリゲート艦に名を遺しました。



■ メトカーフ3世中将の演説


「軍隊、特に海軍ほど伝統が重要な職業はない」

これはグレナダ侵攻で指揮を執ったメトカーフ3世中将の演説です。
「サミュエル・B・ロバーツ」に見られる水兵、特にカーの勇敢な戦い、
自らを犠牲にして戦ったヒロイズムについて以下のように述べています。


「タイコンデロガ」「ヨークタウン」「ヴァンセンヌ」・・。

これらの独立戦争における戦いの名が、現在は
アメリカ海軍のイージス艦の名前となっていることが表すように、
伝統を受け継ぐもの、それが海軍でもある。

伝統にまつわるもう一つの重要な出来事は、今年4月12日に行われる
USS「サミュエル・B・ロバーツ」(FFG 58)の就役である。

この日、3隻の水上戦士は、1944年10月25日のレイテ湾制圧戦における
サマール沖海戦のように、再び足並みを揃えることになる。

その歴史的な日に、LCDRロバート・W・コープランドは
USS「サミュエル・B・ロバーツ」(DE413)を率いて、
数でも火力でも圧倒的に勝る敵との戦いに臨んだ。

「ロバーツ」には、オクラホマ州出身、19歳の3等砲手、
ポール・ヘンリー・カーも同乗していた。
戦闘に勝利し、レイテ湾への上陸を確実にしたのは、
コープランドLCDRの優れたリーダーシップ、勇気、専門知識、
そしてカー下士官の並外れた勇気と活躍によるものだった。

しかし、その代償は大きかった。
下士官カー兵曹と多くの乗組員は生き残れなかった。
 
「サミー B.」は沈没したが、その前に彼女は
「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」という賞賛を獲得したのである。

この艦、艦長、そしてインスピレーションを与えてくれた乗組員が、
USS「 コープランド」 (FFG 25)、USS「カー」(FFG 52)、
USS「サミュエル B. ロバーツ」FFG 30
として艦隊に戻ることになる。

これは今日の海上戦士にとって何を意味するか?
これら戦闘フリゲート艦とイージス巡洋艦との関係は何だろうか?

非常に簡単に言うと、それは地上の戦士と過去、
つまり戦闘と革命の伝統とのつながりなのである。

イージスの新たな戦術を模索する際には、
アイデアの革命を起こさなければならない。
「古いやり方」にだけ埋め込まれた慣習をやめなければならない。
しかし同時に、戦いの伝統は維持しなければならない。

今日地上の戦士は、過去の戦いに斃れた人々の英雄的行為と闘志を忘れず、
また先を見据えて新たな革命が近づいていることを認識しなければならぬ。
卓越した戦闘の伝統を築くことは我々の責任である。

そうすることで我々は世界で最も偉大な海軍であり続ける保証がされる。



海軍作戦部長 J・メトカーフ3世アメリカ海軍中将

このような感動的な演説を紹介した後に残念速報ですが、
このメトカーフ3世中将ったら、そのグレナダ侵攻作戦後、
補佐官数名とともに、捕獲したソ連製のAK-47を国内に持ち込み、
ノーフォークの海軍基地で乗っていた機からそれら24丁と弾倉が押収され、

逮捕?されるという不祥事を起こしています。

軍規則と米国関税法のどちらにも違反していたからです。

しかし、ロナルド・レーガン大統領が介入したこともあって、
メトカーフは海軍から警告を受けただけですみ、しかもその後、
海軍作戦部副参謀長に任命されるなど、全く昇進にも影響なしでした。

ただし、この特別扱いが適応されたのはメトカーフだけで、
一緒に同じことをした下士官6名と下級将校1名
(うち2人は海兵隊員、5人は第82空挺師団の兵士)は全員降格、
しかも不名誉除隊となり、少なくとも1年の懲役刑を受けています。

本人にはどうしようもなかったのかもしれませんが、それを差し置いても
そうと聞くと、このご立派な演説の有り難みもあまりなくなりますね。

同じことをやっておいて、というか一番階級が上の彼が責任者なのに、
彼だけが無傷どころか出世して、部下を見捨てた?ことには違いありません。

■ 「サミュエル・B・ロバーツ」

最後にサマール沖での「サミーB」と、三代目「サミーB」の因縁の話を。

1988年、「サミュエル・B・ロバーツ」はイラン・イラク戦争のとき、
クウェートのタンカーを保護する作戦に参加しました。

補給艦と合流するとき、見張りが付近に機雷を発見し、
艦長のポール・リン中佐は、艦が機雷原に入ったことを確認すると、
乗組員を戦闘配置に送り、艦底の乗組員を甲板に上げました。

艦はエンジンを逆転させて機雷原から後退しましたが、
係留されていたイランの接触機雷に接触し、その爆発は
竜骨を破壊し、左舷に穴をあけ、2つの区画に 2,000トンの水が浸水し、
大火災が発生したため、5分間とはいえ停電に見舞われ、
消火活動もままならない状態になりました。

必死のダメコンで艦は一応安定しましたが、乗組員10人が重傷を負い、
4人が重度の火傷を負い、リン艦長も機雷の衝撃波で左足を骨折しました。

上層部から艦を失う可能性について尋ねられたリン艦長は、
我々は決して艦を放棄しない、という答えの最後に、

これに勝る栄誉はない」

と付け加えました。

「サミュエル・B・ロバーツ」(DE-413)の艦長、
コープランド少佐が、サマール沖戦闘後の報告書に記した、

「これらの人々と共に任務に就いたこと以上に名誉なことはない」

という言葉をこの時に引用したのです。


アメリカ海軍士官学校の同窓会ホールには、レイテ湾海戦で

「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」

という名声を得た「サミュエル・B・ロバーツ」と、
その乗員を顕彰するコンコースが存在します。


続く。


護衛駆逐艦セイラーアソシエイション〜USS「リトルロック」艦内展示

2024-12-23 | 軍艦
 
バッファローネイバルパークに係留展示されている
巡洋艦「リトルロック」艦内の展示物をご紹介しています。




「デストロイヤー・エスコート・セイラーズ・アソシエイション」
Destroyer Escort Sairors Association

「駆逐護衛艦水兵協会」(直訳)バッファロー支部のマークです。
ここからは、DEタイプ駆逐艦とその乗員に関係するものが展示されています。



で、最初に冒頭写真の士官のマネキンが登場するのですが、
その靴の近くには、
「ボトムポリッシング キット」=靴磨きセット
があります。

古今東西、軍人は靴を磨き上げるのがデフォになっていますが、
その関係で、欧米の靴墨には、「ミリタリー」という商品名が多いです。

グリフィンというメーカーは、この缶の文字から見ても
おそらくフランス語圏の会社だと思うのですが、
アメリカの国旗、無茶苦茶怒ってる曹長、所々英語というのが
靴磨き=アメリカ軍のイメージで商品を売っていることがわかります。

また、マネキンが着ている制服の寄贈者は、名札によると

Harry G. Engster大尉

この名前で検索すると、同氏の訃報とお葬式の告知が出てきました。
アメリカ人名を検索すると、有名人以外はこの死亡告知がよくヒットします。


obituaryは訃報という意味です。

アメリカでは、故人の生前の業績と遺族についての情報、
そしてどこでお葬式が行われるかの情報をオンラインで検索でき、
そのページに辿り着いた人が「オンライン献花」することもできます。

遺族が見たとき、どんな人が故人に弔意を示したかわかります。

その情報によると、エングスター氏は、

ハリー・G・エングスター
1920年11月4日~2011年11月16日

91歳、ウォーレン在住、2011年11月16日水曜日、自宅で安らかに死去。

ウォーレン・G・ハーディング高校とヤングスタウン・ステート大学を卒業し
第二次世界大戦中は米海軍大尉を務め、海軍予備役中佐として退役した。

引退前はパッカー・トーマス社の公認会計士であり、
狩猟、ボート、テニス、ゴルフを楽しみ、
毎年子どもたちのためにサンタクロースを演じていた。
彼は第一長老派教会の会員であり、長老と助祭を務めた。


第一長老派協会はプロテスタントの教派です。

なお、同氏のお葬式の際の献金は、退役軍人に盲導犬を提供する
「4 Paws 4 Patriots 」プログラムの資金となることが記されています。


■ シルバースタイン中尉



士官のマネキンと反対側にあるのがセーラー服の人形。
足元には映画でお馴染み、水兵用のダッフルバッグと脚絆などが見えます。

おそらく右下のUSS「シルバースタイン」乗員だったベテランの寄贈です。

1944年に就役した「ジョン・C・バトラー」級護衛艦、
「シルバースタイン」の命名由来は、
USS「シムズ」DD-409の機関長であり、珊瑚海海戦で戦死した
マックス・シルバースタイン中尉です。


シルバースタイン兵学校時代

1942年5月7日、珊瑚海海戦で、「ネオショー」の護衛だった「シムズ」は
日本軍の航空攻撃によって7発の直撃弾を受け、
急降下爆撃の攻撃により爆発炎上して沈没しました。

駆逐艦「シムズ」の機関長だった彼は、最初の直撃で意識を失うも、回復し、

「冷静にボイラーの固定、安定性を保つための上部の重りの投棄、
沈没を防ぐための修理の準備を指示しました。」
(生存者談)

その後、「シムズ」の機関室では250キロ爆弾が2発爆発し、
その数分以内に艦体は中央部で座屈し、波間に沈むと同時に大爆発しました。
そのときの爆発で船の残骸は海面から数メートル跳ね上がったそうです。

そして、シルバースタイン中尉の名前は
「バトラー」級護衛護衛艦「シルバースタイン」に遺されました。

■ 護衛駆逐艦「シルバースタイン」

さて、その「シルバースタイン」は1944年7月14日に就役しました。

太平洋に投入されてエニウェトク、グアム、ウルシーで行動し、
4月に予定された沖縄侵攻に向かう軍艦を護衛するうち終戦を迎えます。

終戦を受けてすぐさま不活性化され退役し予備役となっていましたが、
朝鮮戦争で再活性化されて横須賀に向かいました。

キャプテンと砲塔から顔をだす砲員二人 朝鮮戦争中、元山にて

このとき元山(ウォンサン)では同港の敵陣地の砲撃も行っています。
その任務のあとは室蘭に向かい、横須賀を母港にしていました。

「シルバースタイン」にとって最大の事故は、1958年5月29日、
ハワイで、潜水艦
USS「スティックルバック」(SS-415)と衝突
したことです。

事故状況が非常にわかりやすい衝突
潜水艦は沈まないように頑張って浮上モードにしている?

この写真を見てもなんとなくわかりますが、事故後しばらく
潜水艦の方は浮いていたため、乗組員82名全員は無事救出されました。

あわよくば潜水艦も助けたかったはずですが、それは叶わず、
その後、潜水艦は二度と浮上しない最後の潜航を行ったということです。

■ USS「アール・V・ジョンソン」


USS「アール・V・ジョンソン」乗組員だったバッファロー出身者の、
現役時代&ベテランとしての思い出アルバム。

USS Earl V. Jhonson(DE-702)は、
「ヨークタウン」偵察飛行隊の一員で、予備士官アール・ジョンソン中尉が、
太平洋における日本空軍との交戦中、戦死したことを受けて建造されました。

1944年に就役した同駆逐艦は、第二次世界大戦中はニューギニア、
レイテ、ウルシーなどに展開し、中でも8月4日には、
日本の潜水艦との3時間に及ぶ死闘を繰り広げたりしています。
終戦後すぐに退役しました。

■ USS「イングランド」

USS England(DE-635)

1943年就役した護衛駆逐艦で、太平洋に展開しました。



艦名由来となったジョン・イングランド少尉(享年20)は、
真珠湾攻撃の時に「オクラホマ」で戦死しました。

カリフォルニアの裕福な街パサデナ生まれで、
高校時代は演劇青年だった彼は、予備士官に任官し、
「オクラホマ」の無線室に配備されました。

1941年12月7日、その日彼は本来なら休暇だったのですが、
新婚の妻と生後3週間の娘が訪ねてくる予定に合わせて休むため、
同僚と勤務を交代して無線室に勤務していました。

午前7時、真珠湾を攻撃してきた日本軍の主標的は「オクラホマ」で、
最初に落とされた3発の魚雷に壊滅的な破壊を受けます。

イングランド少尉は総員退艦の命令にもかかわらず、
艦内と無線室に3回戻って、3人の乗員を救出しました。
そして4人目を救出するため艦内に戻り、そのまま助かりませんでした。

「イングランドの仇」

と題された、対潜用深度魚雷を撃ち込みまくっているこの絵。
ここでいう「リベンジ」が何を意味するのかはもうお分かりですね。
「イングランド」がイングランドの仇を取っているの図。

「イングランド」は12日の間に6隻の潜水艦を撃沈し、
対潜水艦戦史上類を見ない成績を挙げた駆逐艦として有名です。

1945年5月、日本の急降下爆撃機の攻撃によってダメージを受け、
修理中に戦争が終わってしまったので、あっさり廃艦処分となりました。

ちなみに、「オクラホマ」で戦死したのは429名で、
当時はそのほとんど(388人)が身元不明者のまま埋葬されました。

そのとき、海から引き揚げて身元確認せず埋葬してしまったこともあり、
後に行ったDNA鑑定によると、ひとつの棺の中に、
少なくとも95人分の遺体が混じっていたということです。

2007年になって「オクラホマ」の乗員の埋葬遺体は全て発掘されましたが、
2019年の段階で身元特定されたのは236名であり、152体は不明のまま、
そして当時から今日まで行方不明で全く手掛かりがない乗組員は267名です。

イングランド少尉の身元はミトコンドリアDNAの検査で明らかになり、
彼は両親の墓の隣に軍の栄誉をもって再埋葬されました。

■ USS「ホーエル」



「ホーエル」 (USS Hoel, DD-533) は、「フレッチャー」級駆逐艦で、
命名由来は南北戦争中戦功を挙げたウィリアム・R・ホーエル中佐です。

1943年7月に就役し、11月にはマキンの戦いに参加。
そこで日本潜水艦が撃沈した「リスカム・ベイ」の生存者救助を行いました。

1944年10月25日、レイテ湾で栗田健男中将率いる第二遊撃部隊が
対空射撃をしながら接近してきて、「ホーエル」の艦隊は3分以内に
戦艦4隻、重巡6隻、軽巡2隻及び11隻の駆逐艦からの猛攻に曝されました。

「ジープ空母」と「ブリキ缶」からなる小艦隊は南に逃走。
「ホーエル」ら護衛艦は、煙幕を張って「ベビー空母」を
栗田艦隊から覆い隠そうと、無我夢中で駆けずり回りました。

しかし、戦力差は圧倒的でした。

もはやこれまでと、艦長は反転して栗田艦隊に立ち向かうよう命じ、
「ホーエル」は即座に戦艦「金剛」と重巡「羽黒」に向かって突き進みます。

「金剛」の36cm砲の射程内を突き進みながら攻撃を続けた「ホーエル」は、
その結果「羽黒」から猛攻を浴び、マーク37射撃指揮装置、
機関室、艦橋、レーダー、操舵装置など、40発の命中弾を受けて、
(その中の一つは『大和』からものだったという話もあり)
総員退艦の末、横転し、多くの乗員とともに沈没していきました。

このとき、駆逐艦「磯風」が、沈没寸前の「ホーエル」に接近し、
機銃員が「ホーエル」の生存者に照準を合わせたそうですが、
艦長前田實穂中佐が攻撃中止を命じてやめたという話が残されています。

前田艦長の命令は、おそらく艦が沈むことが確実なので、
これ以上の攻撃は無駄という合理的な考えからだったのかもしれませんが、
このときの乗組員は、海上の日本兵を容赦無く射殺していた米軍に対し、
絶好の仇を取るチャンスを潰され、忸怩たる思いだったと語っています。


■ 戦争は終わった


日本の降伏を報じる「ザ・スターズ・アンド・ストライプス」号外



そして、前にも説明した「セイラーの像」のポスターです。

「駆逐艦水兵協会」の展示、もう少し続けます。

続く。


ブルージャケット〜巡洋艦「リトルロック」艦内探訪

2024-12-05 | 軍艦

巡洋艦「リトルロック」艦内探訪を続けましょう。
ここは上甲板から1階下にあたるデッキですが、
ここからさらに1階下の「サードデッキ」にアクセスすることができます。

サードデッキにはダメージコントロールルーム、消防機関室、
下士官兵用理髪店、図書室(誰でも使用可)、
ベーシングコンパートメント(兵寝室)生鮮食品用の冷蔵室などがあります。

しかし残念ながら、安全上の理由でこのエリアは公開されていません。


説明がありませんでしたが、これはなんでしょうか。
上部が閉じてあること、大きな円形の継ぎ目があることから、
昔は何かに使われていたが、改装に伴い用がなくなった何か、と思いますが。


このドアの向こうは、「ウェポンズ・オフィス」
自衛隊だと砲雷科で、砲、ミサイル、魚雷を管理する部署の事務所です。

ドアに書いてあるWEPSはウェポンズの略ですが、アメリカ海軍では、
兵器システム士官を「ウェップス」と呼ぶ習慣があります。

旧海軍で砲雷長が「テッポー」と呼ばれていたようなものでしょう。

映画「クリムゾン・タイド」で、「ウェップス」と呼ばれていた士官、
インス大尉も、役職名があだ名になったパターンです。

当ブログ読者にも同名の方がおられるわけですが、映画感想サイトなどでは
これを個人名だと思って観ているような書き方がよくされています。

ついでに、自衛隊では砲雷科の長は砲雷長(3佐or1尉)であり、
その下に砲術(砲、ミサイル)と水雷(魚雷、ソナー)があり、
砲術長、水雷長をトップとして、その下に砲術士、水雷士がいます。

■ 乗員寝室




次のコンパートメントは、クルーズ・クォーターズ、兵寝室です。

2nd Division Crew's Quarters

ここに金属寝台とマットレスは80名分あります。


そして通路に面したこの「コフィン・ロッカー」(棺桶ロッカー)が
一人分開けられ、兵員の持ち物が展示されていました。

説明によると、展示されているものは当時よりアップデートされており、
今日の海軍で使用されているものと似ている、ということなのですが、
見たところ少なくとも電子デバイス関係のグッズが全くないことから、
「最新」とは言えないのではないかと思います。

しかし、海軍艦船内で私物を置くスペースが限られているのは事実。

クルーには「ラック」として知られる6×2フィートの「棺桶ロッカー 」、
そしてそれとは別に制服を収納する縦型ロッカーが一つずつ与えられます。

この頃と現在の違いは、現在では「プライバシー」保護のため、
ベッド三方にカーテンが引け、個人スペースが確保されることです。

半分のスペースにはタオル、シーツ類、
「二等兵曹に求められる兵員義務」海軍履修用「基礎電子工学」、
そして「ブルージャケットのマニュアル」という本があります。

ブルージャケット=Bluejacket

は、海軍の下級兵の別名です。

海軍下級兵としての基礎を書いた本で、いずれにしても
この寝台の主は真面目な海軍水兵であることがうかがえます。

しかし、一人の水兵に与えられる保管場所はここが全てではありません。
勤務現場に配置された水兵は、通常、その任務内容に応じて
悪天候用の装備とか、甲板で必要なギアとかを収納する倉庫を

保管場所として確保することができるからです。

「セカンド・ディビジョン(第2部門)」である特定の居住スペースには、

最大80人の乗組員を収容することができ、ここは乗組員によって
「berthing(停泊所の意)」とか「coop(小屋)」と呼ばれます。



石鹸や洗面セット、毎日濡れるものもここに入れるんだ・・・。
タバコもちゃんとワンカートン買い置きしているんですね。

畳んである作業服のネームによると、ロッカーの主はギルマン君。
ここにも「ブルージャケットのマニュアル」なる本が見えます。



一番右は下着と水兵用の「ブルージャケット」、そして靴。
下着の横に靴を入れるのはアメリカ人的にはアリなのね。


三段の垂直寝台で、寝台下が六つのラックとなっているというこの仕様は、
おそらく現代のアメリカ海軍も変わっていないと思われます。

当たり前ですが、海軍艦艇のスペースは大変狭いものです。
しかしながら、ほとんどの時間、特に日中、
乗組員はあちこちに行って準備をしたり、任務に当たったり、
あるいは「リバティ」(上陸休暇)で留守をしている者もいるでしょう。

全ての乗組員は、昼も夜も「12時間オン、12時間オフ」で任務を行います。
艦上のスケジュールは決まっているため、通常、
海上ではこの部屋の半分だけが使われている状態で、
残りの半分の人間は稼働し、一斉に寝台が埋まることはありません。

■ キャンパーに告ぐ!



「リトルロック」では、ほとんどのアメリカにある展示艦と同じく、
艦内で一泊して艦上体験をするキャンプを実施しています。

キャンプインフォメーション

バッファロー海軍公園のUSS 「リトル ロック」で夜を過ごしましょう。
当施設の夜間青少年キャンプは、スカウト、青少年グループ、
友人同士、家族で参加できるユニークな冒険です。

一晩のキャンプ中に、次のようなことができます。

–「リトル ロック」の乗組員が実際に住んでいた、復元された寝室で眠る
– 乗組員食堂で夕食と朝食を楽しむ
– USS「リトルロック」、「ザ・サリバンズ」、「クローカー」を見学する
– 艦上生活について学ぶための教育プログラムやアクティビティに参加する
(教育プログラムは異なる場合があります)

春のキャンプセッションは 4 月〜6 月の各土曜日
秋のセッションは 9 月〜11 月の各土曜日に開催

一部の「ファミリーフライデー」はシーズン中いつでもご利用いただけます。

セッションの空き状況は天候によって決まる場合があります。

料金: 1 人あたり 75 ドル
集合時間:土曜日午後 4 時
解散:日曜日午前 10 時
 (参加者は日曜日の営業時間中に海軍公園への入場自由)


楽しそう

で、ここは実際にキャンパーたちの宿泊に使われているため、
彼らに対し、特に人身事故について以下の注意がありました。


すべてのキャンパーに告ぐ!

万が一人身事故が発生した場合、部隊の応急手当係が応急手当を行います。

すべての負傷は深刻であり、直ちに
ENCAMPMENT DUTY OFFICERに報告され、
すべてのケースで事故報告書に記載されます。

お客様の安全と安心は私たちにとって非常に重要です。

わからない場合は911にコールしてください

■ ブルージャケッツ


先ほど海軍の下級兵士を「ブルージャケット」と称すると言いましたが、
このクォーターを出たところに、こんなポスターがありました。

その名もズバリの「ブルージャケット」。



海軍によるブルージャケットの任務内容についてのポスターです。
白黒であることからかなり昔に制作されたものだと思います。
せっかくなので全部紹介していきましょう。


と思ったら、なぜかこの10から始まっています。
どうも右半分の1から9までは欠損しているようですが、仕方ありません。


10. 射的訓練(Target Practice)

射撃戦のために、新兵は兵曹長から個別にライフル銃の指導を受けます。
CPOの左袖 の「ハッシュマーク」は16年の経験を示しています。

ベテラン下士官の袖にはラインが4本。
1本が4年在籍を表すのでもう立派な洗濯板です。



11.水泳中(In The Swim)

昔から「泳げない水兵」についてのジョークはたくさんありますが、

(もちろん悲劇も)
新しい海軍では、ブートキャンプ前に50ヤード泳げるようになること、
これが全ての者に対し厳しく定められています。



12. バレーボール(Volly Ball)

新兵のエクササイズ量は大変多いものです。
バレーボールはもちろん肉体的な訓練の意味もありますが、
大抵は単純に楽しいものとして皆の人気です。
ボクシング、レスリング、綱引き(!!)も海軍で人気のスポーツです。


綱引きか・・・まあロープならいくらでもあるしね。



16. 適性検査(Aptitude Test)

適性検査は、訓練生がさらに専門的な訓練を受け、等級を取得するか、
新兵学校を卒業後、すぐに海へ出るかを決めるのに役立ちます。

いきなり16まで飛びました。
おそらく左ページに13から15までがあったようです。



17. ヒービング・ザ・リード (Heaving saw Lead)

新兵は、浅瀬で船底を探るために、この伝統的な方法を学びます。
ニューソニック測深機に加え、リードは今でも海軍でよく使われます。

海深を図る方法として、この頃の海軍の新兵たちは
「ヒービング・ザ・リード」という昔ながらの方法を学んだようです。

大航海時代からイギリスの船乗りに受け継がれてきた方法で、
水深を測るのにサウンディング・リード(鉛の錘がついた紐)を使います。

船員(「リードマン」)は、入港時、できるだけ前方にリードラインを投げ、
リードが着水した場所に船が近づくと、ライン上のマークを数えます。

マークはその海域の水深を表しているので、それを水先案内人に伝えます。

この「ヒーブ・ザ・リード」Heave the leadという言葉は
そのまま日本語で「水深を測る」と訳されます。

また、この鉛のついた紐のことを、日本語では手用測鉛といいます。

ただ、今のアメリカ海軍ではこんな悠長なことはやっていないでしょう。
近年では海底地形図を即座に測定作図する


MBES(マルチビームエコーサウンディング、音響測深)

もありますし。



18. 手旗信号(Semaphore)

一人の新兵が文字「Q」を手旗信号で送信し、
もう一人が受信をワッチします。
手旗信号、ブリンカー(発光信号)および信号旗、
これらは海軍で艦船同士視覚的に信号を送るための方法です。


22. 出発準備完了(Ready to Go)

新兵訓練が終わると、「ブルージャケット」たちは艦隊、
そして海上勤務に就くために汽車を待ちます。

彼らが汽車に積み込む荷物が整然と並べられています。



23. 上級学校(Advanced School)

 海軍は技術的スキルを持った人材を必要としているため、 
多くの新兵が上級学校に送られていきます。

この写真は、航空機械工学校での実技指導のシーンです。


24. 出航(Going to Sea)

ついにビックモーメントがやってきました。
彼らが海上任務につく日です。
乗艦する水兵たちは、まずクォーターデッキに向かって、
次にこの写真のように甲板士官に向かって敬礼を行います。

そして出航です

The voyage begins.


続く。


アイクとリトルロック〜巡洋艦「リトルロック」艦内展示

2024-12-01 | 軍艦

タロスミサイル搭載艦「リトルロック」に乗艦し、
甲板から一階下のデッキを探索しています。

兵員用、そしてチーフ用に分けられた食堂を見ながら歩くと、
このようなドアが現れました。

■ 海軍候補生隊控え室



U.S. Naval Sea Cadet Corps
USNSCC

というパッチがドアに貼られています。
「リトルロック」に乗艦したときから気がついて言及してきた、
アメリカのユース海軍、日本でいうと海洋少年団である組織、

アメリカ海軍候補生隊

のオフィスがここにあるようです。
正確にいうとこの組織は年齢に応じて二つに分かれており、

10歳〜13歳まで NLCC
13歳〜18歳まで NSCC

となっています。
以前にもお話ししたように、これはガチの海軍下部組織なので、
指導には本物の軍人が当たりますし、なんちゃって訓練などではなく、
SEAL訓練、EOD(爆発物処理)訓練、ヘリ捜索救助訓練などのほか、
音楽トレーニングやフォトジャーナリズム専攻もあります。


活動報告を兼ねた秋コースの参加勧誘コーナー。
このポスターの下に連絡先を書いたスリップがあったのですが、
もうこの段階では希望者によって全部取られています。

そして、つくづく驚くのが左下の少年の写真。
おそらくまだ中学生だと思うのですが、彼は士官候補生の訓練で
射撃技能を認められ、狙撃資格を取得した凄腕スナイパーです。

自衛隊のイベントで装備を紹介するために銃を持たせただけで
大騒ぎになるどこぞの国とはえらい違うものですね。
まあ、銃の所持については両国の根本的な姿勢が違うので、
これはどちらがいいとか悪いとかの話ではありませんが。

■ 海水ストレーナー



艦船内で赤くペイントされたものがあれば、
それは消火関係と相場が決まっている・・・と思ったのですが、
ここにある説明によるとこれは、

クイック-クリーニング(海洋)ストレーナー
Quick-Cleaning( marine) strainer

キッチンで使うザルのことをストレーナーといいますが、
これはつまり、ホース、ノズル、ノズルの先端を詰まらせる原因になる
海洋生物、スケール(水アカ)付着物などの異物を除去するものです。



上部はパイプに繋がっていて、作動させるときには
この二つのハンドルを目一杯回転させます。

■ ストーク・バスケット・リッター


ストレッチャーが、なぜか甲板より下の階に。
上甲板にはミサイル関係の装備が多すぎて、置けなかった?

ところで、わたくし初めて知ったのですが、この担架、

ストークス・バスケット・リッター(ストレッチャー)
Stokes Basket Litter(Storetchers)


というそうです。
「リッター」だけで、救助用バスケットを意味する言葉で、
一般的にステンレスで作られた救助用担架のことです。

ストークスというのは、もともと陸軍航空隊のパイロットだった
ローウェル・ストークスによって設計されたことから来ており、
「ストークス」でこれだと通じるほど一般化された名称です。

通常、大人を仰向けの姿勢で運ぶことができる形状になっていて、
障害物やその他の危険がある場所で使用するように設計されたもの。

アメリカ海軍は何十年にもわたってストークスを使用してきました。

用途としては、捜索救助活動、狭い廊下や出入り口を通した患者の搬送、
船間の患者の移送、患者の(ヘリによる)垂直避難などですが、
ヘリでの牽引の際、ブレードからの下降気流で激しく回転するという
輸送される人に意識があったら無茶怖い欠点があります。

Gopro helmet mounted footage of Stokes basket rescue from NCL Ship
これは回らずに引き揚げられた模様

■ ヘッド




ストレッチャーの横のドアは、「メールヘッド」。
もちろんお分かりのように「男の頭」ではなく男子トイレです。

なぜ船のトイレに限り「ヘッド」なのかについては、
当ブログでは何度も説明しましたが、ここの説明によると、

「船のトイレを指す『ヘッド』という 用語の使用は、
少なくとも 1708 年に は遡ります。

この用語は、通常の船員用のトイレエリアが船の「ヘッド」、
=船首に設置されていた帆船に由来しています。

帆船で、この位置にトイレがあることは 2 つの理由から合理的でした。

第一に 、当時のほとんどの船の構造にあります。
帆船は風に向かって航行 することができません。
つまり、風は常に船の後方からやってくることになり、
船首はこのためいつも風下にあるということになります。

トイレを風下に置くことでニオイ対策をしたのです。

第二に、トイレを清潔に保つ(極力)工夫です。

喫水線より少し高い位置に設置することで、
床面付近に設けられた通気孔やスロットが、波を適度に受け、
水洗式となって洗い流してくれたのでした。

これは、海が荒れているときにはトイレは危険な環境になり、
下手すると人が危ないこともあったという意味かと思われます。


■ ウォーターライン基準マーク


注目していただきたいのは、左のバッテリーボックスではなく、
その右側の丸いプレートです。

WATERLINE REFERENCE MARKS
(喫水線基準マーク)


気をつけてみれば、このプレートは艦内の隔壁に取り付けられています。
これはウォーターライン(W.L)とこのマークの相対的な位置関係を表し、
例えばここにあるプレートは、ウォーターラインがこのマークの40フィート
(12.192m)下にあることを示しています。

■ アイゼンハワーの「平和のための提言」


B-203-L

というのは艦内における現在地を表すアドレスです。
その下にある説明なので、てっきりその数字の見方と思ったのですが、
全く関係のないアイゼンハワー閣下のお言葉でした。

「平和を維持する上で極めて重要な要素は、我が国の軍事施設です。
我々の武器は精強かつ即応の準備ができていなければなりません。
潜在的な侵略者が自らを破滅の危険を冒す誘惑に駆られることがないように。

巨大な軍事組織と大規模な兵器産業という組み合わせは、
アメリカの経験において新しいものといえます。
総合的な影響ー経済的、政治的、精神的な影響さえも含めたそれらは、
全ての州会議事堂、全ての連邦政府においても感じられます。

我々は、この発展が必要不可欠であることを認識しています。
しかし、その重大な意味を理解し損なってはなりません。

我々の労苦、資源、生活のすべては関係しあっています。
私たちの社会の構造そのものも同様でしょう。

政府の評議会において、求めようが求めまいが、
軍産複合体による不当な影響力の獲得を警戒しなければなりません。
見当違いの権力による悲惨な台頭の可能性は、存在し、今後も続きます。

この組み合わせの重みが、我々の自由、そして
民主的プロセスを危険に晒すようなことがあってはならないのです。
何事も 当然のことだなどと考えるべきではありません。

用心深く、知識豊富な国民だけが、安全と自由を共存繁栄させるために、
巨大産業および軍事防衛機構と我々の平和的手段と目標を
適切に組み合わせる ことができるのです。」

ドワイト・D・アイゼンハワー


一言でまとめると、

「平和のために抑止力の獲得は必要であるが、
企業と軍事力を暴走させず民主的な声によって慎重に制御せよ」

ってことかと思います。

■ アイゼンハワー大統領とリトルロック高校事件

アイクの政治的立ち位置については、
原爆投下に関しては強硬に反対の立場で、戦後も否定的だった、
という話から、日本人としては悪い印象を持っていませんでしたが、
軍産複合体に対して不信感を持っていたという噂も、
このスピーチで実証されているといえそうです。

そして、なぜここに彼の言葉がわざわざ貼ってあるかは、
以前当ブログでも取り上げた、リトルロックでの人種差別問題、
「リトルロック高校事件」の際、事態の収集命令を意識的に
白人至上主義者の民主党知事が無視したため、
101空挺師団を送り込んで黒人学生を護衛させたからかもしれません。


US 101st Airborne Division guards arrive at Little Rock High School during Operat...HD Stock Footage

最強の空挺団に護衛された学生たちにちょっかいかける学生なし。

1957 SPECIAL REPORT: " LITTLE ROCK"
動画は主がアカウント削除されたせいで見られませんが、
内容は、リトルロック高校の生徒代表が自主集会で、

「学校は分離教室制度(有色人種を分けること)にするべきだ」

というと、後ろで白人学生がキャーキャーと支持の叫びを上げ、
代表の生徒は言い終わった後、言ってやったぜ!みたいなドヤ顔をし、
記者はなんとも言えない複雑な表情をしているというものです。

これが、大人が気を遣って言えない、白人の本音だったのでしょう。

当時の世相ではおそらくその後価値観が大逆転して
このときの「正義派」が人種差別者として糾弾される日が来るとは、
おそらく誰も思っていなかったと思いますし、穿ったことを言えば、
アイクがもし再選を狙っていたら、この措置に躊躇ったかもしれません。

アメリカの教育現場での人種差別は根深くあり、これから20年後、
1970年代に統合を行ったボストンの学校では、黒人生徒が暴行を受け、
スクールバスが燃やされるという事件が起こっています。

そんな世相の中、よくやったアイク、というのがわたしの素直な感想です。

続く。




USS「ハロルド・J・エリソン」〜ミッドウェイの英雄のための

2024-11-25 | 軍艦

バッファローはエリー湖の辺りに位置するネイバルパーク。
ここに展示されている艦艇の内部をご紹介しています。
今、タロス巡洋艦「リトルロック」の甲板階(セカンドデッキ)を

艦尾から順番にメスデッキ、CPOデッキなどの見学をしてきました。

ファーストクラス・メス



このコンパートメントは、艦内地図によると、
「ファーストクラスメス」つまり上級下士官用ダイニングだったところです。

ペティオフィサーファーストクラスとはE6、
二等兵曹の上、チーフペティオフィサーの下となります。

下士官クラスの二番手ですが、ちゃんと彼らのために
特別のダイニングルームが用意されています。

それぞれの階級とその任務に強い矜持を持つ米海軍下士官ですが、
レディットという英語のチャットを漁ったところ、
「ファーストクラスメス」というスレでこんなことを言っている人がいました。

「ファーストクラスメスってなんの冗談だ。
チーフになれないけど特別扱いはされたいE6の群れだろ」


また、E6として着任した経験のある人は、

「私と何人かの同僚は、着替えを済ませた後、すぐにFCPOA
(ペティオフィサーファーストクラス)のミーティングに参加させられ、
そして"メスへようこそ!!! "という扱いを受けた。
そして私たちは『E6とはこういうものなのか』と実感した。

覚えておいてほしいのは、新入りのE6は、

LPO(Leading Petty Officer、伍長?)の役割に落ち着くまでは、
給与を上げることを(上が)余儀なくされない限り実質E5だということだ。

なのにその、まるで高級カントリークラブのような雰囲気は、

奇妙で、私たちを混乱させるに十分だったし、
一緒に働いていたE6もそれに加わっていたので、さらに居心地が悪かった。

私はそういうのが全く好きではなかった。


しかし、当時のFCPOAのリーダーたちが、実際に司令部を動かし、
会費を使って積極的にイベントを立ち上げていたことは知っている。

人々が正しい考え方を持っていれば、悪いことばかりではない。
それが船の士気を高めるために使われるのであれば、純粋に役にたつ。

ただ、艦内を歩いていて、ファーストクラスとそれ以外を分ける
メスデッキを見るたびに、私はゾッとしたものだ。

ファーストとそれ以外の乗組員との待遇の違いも忘れられない。

その一方で、私はファーストの一人として、まるでMLM
(マルチ商法)の勧誘みたいに、そこらへんのファーストから
『バディ』『バディ』とバディ扱いされていた(笑)」

うーん・・・ファーストクラス・メスは、というか、
このファーストクラスE6という地位に対する評判悪し。
あるいは「特別扱いを求めるE6」の評判、かな。

アメリカ海軍の中もいろいろあるんですねー(棒)

■ USS 「タイコンデロガ」

一体アメリカにはいくつ「タイコンデロガ」がいるんだよ、
とわたしならずとも誰しもが思うかもしれません。


半分写ってなくてすまん

材質から見てかなり古い時代のプラークだと思います。
何故ここにあるのかは、おそらく盾の黒いプレートに書いてあるのですが、
文字を読み取れなかったのでわかりません。


わたしも、このファーストクラスメスの入り口に、何故かこの
「タイコンデロガ」のプレートがかかっていることから、気になりました。

そもそもタイコンデロガが独立戦争の戦地となった地名なので、
アメリカ海軍には1814年のスクーナーからイージス艦まで、

歴代5隻ものUSS「タイコンデロガ」が存在します。


イージスシステム搭載ミサイル巡洋艦「タイコンデロガ」CG-47は、
ナンシー・レーガン大統領夫人によって命名された巡洋艦です。



第二次世界大戦中、第4代「タイコンデロガ」(空母)に特攻が命中し、
多大な損害を受けて一度退役することになった日から35年後の
1981年1月21日を選んで起工が行われました。

「タイコンデロガ」は発注時はミサイル駆逐艦になる予定でしたが、
その後巡洋艦に変更になり、史上初のイージスシステム搭載艦となります。

2004年に退役した後、歴史協会はなんとか「タイコンデロガ」を
どこかに展示館として保存できないかと模索したのですが、
結局引取り手がなく、2020年解体されることになりました。



■駆逐艦「ハロルド・J・エリソン」DD-864

で、いろいろと回り道しましたが、ここかつての「ファーストクラスメス」は
現在駆逐艦「ハロルド・J・エリソン」ルームとなっています。



なぜ一室丸々が「エリソンルーム」になっているかというと、
ネームシェイクとなったハロルド・J・エリソン少尉が
他でもない、ここニューヨーク州バッファローの出身だからです。


部屋の全てが「エリソン」一色。
ガラス戸棚の中はエリソン少尉の年表が。

新車と一緒に。嬉しそうですね。

アメリカ海軍少尉 ハロルド・J・エリソン少尉は、
1917年1月17日、ニューヨーク州バッファローに生まれ、
ニューヨーク州ブルックリンのプラット美術応用芸術大学に入学しました。

プラットインスティチュートは日本では知る人もあまりいませんが、
1800年代からある芸術系大学で、各界に著名人を輩出しています。

「トムとジェリー」のアニメーターであるジョセフ・バーベラ、
俳優ではテレンス・ハワード(レッドテイルズ、アイアンマンのローズなど)
ジェフ・モロー、ロバート・レッドフォードもここの卒業生です。



1941年ブルックリンで米海軍予備役に入隊。

学校を卒業してしばらくデザイナーとして働いていた頃でしょうか。



エリソンの飛行訓練記録

その後すぐに、航空母艦USS 「ホーネット」に乗艦し、
第8魚雷戦隊に配属されました。




何故彼の名前が駆逐艦に遺されたかというと、それはご想像の通り、
彼がこの作戦で名誉の戦死を遂げたからです。

1942年6月4日のミッドウェー海戦で、エリソンは、
ダグラス TBD デバステイター雷撃機によって
戦闘機の援護なしに日本海軍の空母への攻撃を強行しました。

ミッドウェイ作戦において、デバステーター隊15機は零戦隊に撃墜され、
パイロットと通信兼後部射手の30名のうち、
ジョージ・ゲイ少尉を除く29名が戦死しましたが、
このときデバステーターのパイロットの一人だったのがエリソンです。

このときのTBDのパイロットは全員、ミッドウェイのヒーローとして
戦後(他の部隊から不満が出るほど)その偉業?を讃えられました。
もちろん、後席のナビ兼銃撃手の15名はこの対象とはなりませんでした。

要は手違いで掩護なしの出撃をしてしまったこと、そして
当時の零戦隊にはまだベテラン勢が残っていたこともあって、
戦果を残すことなくただ撃墜されてしまった、というのが現実ですが、
アメリカ軍的には、

「この攻撃で日本軍の編隊が乱れ、第2次攻撃の準備を遅らせた。
その後の第6水雷戦隊と第3水雷戦隊による攻撃でもこの混乱は続き、
日本軍の戦闘空中哨戒隊を占拠する一方で、
米海軍の急降下爆撃機がほとんど気付かれずに潜入した。
その後、急降下爆撃機は日本軍の航空母艦を大成功を収め、
第8水雷の犠牲からわずか1時間後には、日本軍の航空母艦3隻が炎上した」

という具合に、この後の戦況は全てTBD隊あっての成功、
という語り口で戦死した全員を英雄として扱うことになっています。

エリソン少尉もまた1942年6月5日に「死亡推定」と分類され、
ミッドウェーでの「勇敢な行動により」死後 海軍十字章を授与されました。



海軍十字賞の献辞は以下の通り。

「1942年6月4日、敵日本軍とのミッドウェー海戦において、
魚雷中隊EIGHTのパイロットとして、職務を超えた英雄的功績により。

エリソン少尉は、戦闘機の防護なしに飛行することの危険性を痛感し、
空母に戻るには燃料が不十分であったにもかかわらず、
自分の身の危険を顧みることなく、
そして激しい攻撃や敵の日本軍機の砲火をものともせず、
効果的な魚雷攻撃を行った。

エリソン少尉の勇気ある行動は、自己犠牲の勇気ある精神と
任務遂行への良心的な献身によって遂行され、
敵軍撃破の決定的な要因となり、
米国海軍の最高の伝統に沿ったものであった。」


■ 駆逐艦「ハロルド・J・エリソン」建造

ミッドウェイ海戦におけるデバステーター隊の戦死者で、
駆逐艦に名前を遺した人を調べてみましたが、14名全員ではありません。

ジョン・C・ウォルドロン(隊長:中佐)
USS「ウォルドロン」DD-699

ユージーン・E・リンゼイ少佐
USS「リンゼイ」DD-771/DM-32/MMD-32

ジェフ・デイビス・ウッドソン大尉
USS「ウッドソン」DE-359

ジェイムズ・C・オーウェンス大尉
USS「ジェイムズ・C・オーウェンス」DD-776

ウルバート・M・ムーア少尉
USS「ウルバート・M・ムーア」D E-442

ヘンリー・R・ケニョン少尉
USS「ヘンリー・R・ケニョン」D E-683

ウィリアム・ウィルソン・クリーマー少尉
USS「クリーマー」DE-308

そしてこのエリソン少尉の8名となります。
(他にいたらごめんなさい)

同じ条件?で戦死した同じ部隊のパイロットでありながら、
駆逐艦に名前が遺った人とそうでない人の違いはなんでしょうか。

隊長と副隊長以外は、大尉一人、残りは全員
ほとんどが予備士官である少尉ばかりです。

もしかしたら彼らが在籍していた大学と何か関係あるでしょうか。

ただし、最初に計画された「ハロルド・J・エリソン」DE-545
1944年に建造中にもかかわらず中止になりました。


理由はわかりませんが、その後すぐ「ギアリング」級駆逐艦に
改めて彼の名を冠したDD-864が就役することになります。

スポンサーになったのは、彼が死の直前結婚した妻オードリーでした。

■ 6ヶ月だけの結婚生活


海軍士官の娘であるオードリー・フェイとハロルド・エリソンは、
彼女がペンサコーラで働いていたとき知り合いました。

彼らはハロルドが「ホーネット」に転勤してすぐ、
1941年12月30日に結婚しました。
彼がミッドウェイで戦死する6ヶ月前のことです。

わずか半年の結婚期間だったにもかかわらず、
オードリーは2006年に89歳で亡くなるまで教師を務めながら独身で過ごし、
その一生を退役軍人を顕彰するボランティア活動に費やしました。

彼女の遺灰は、かつて彼女の夫がウィングマークを獲得した
ペンサコーラのすぐ近くに葬られたということです。

続く。



「リザルタント・フューリー」演習〜戦車揚陸艦「スケネクタディ」の最後

2024-11-19 | 軍艦

バッファローネイバルパークに展示されている「リトルロック」、
前回、CPOとメスデッキをご紹介しました。



前回このメスデッキの端にあるプラークを一つ紹介しましたが、
紙幅の関係で取り上げなかったのがあります。



プラークそのものがひび割れて真っ二つになっています。
まるでこの艦の運命を示唆するように・・・・。

昔、自衛艦のこの盾を鋳造している北陸の工房を見学したことがありますが、
そこの社長(現在会長)が、

「海自の方々は大変縁起を担ぐので、
台が『欠ける』『落ちる』『沈む』は御法度です。
そんなことがあれば(血相変えて)作り直しを言ってこられます」


とその『難しさ』を語っておられたのを思い出しました。
それでいうならこれはもう完全に不吉ですが、
この艦が実際にこうなる形で廃棄されたことを知ると、

あながち無意味な迷信でもないのかなと思ったり・・。

■ USS「スケネクタディ」



USS「スケネクタディ」
USS Schenectady (LST-1185) 


は、「ニューポート」級戦車揚陸艦の5番艦です。
この英語からすぐに「スケネクタディ」という読み方が出てきたのも、
わたしがかつてニューヨーク州北部をうろうろした時に、

フリーウェイなどでよくこの郡名を見ていたからです。

妙な発音ですが、予想通りオリジナルはネイティブアメリカン、
モホーク族の「松の木々の向こう側」の意味なんだとか。

エリー湖沿いのバッファローもまた同じニューヨーク州なので、
同じ州のよしみでプラーク交換をしたことがあったのかもしれません。

この等級の大きな特徴は、

戦車揚陸艦でありながら艦首にドアがない

ということ、そしてその代わりに


艦首にアルミニウム製のタラップを持つ

ことに尽きるかと思います。
(ただし従来通り艦尾には大きなドアがあります)

まず前者は、20ノット(時速37km)以上の船速を確保するため、
そしてタラップは艦体のドアの代わりに戦車を積み込むためです。



それをお見せしよう。
これ、すごくない?ちょっとワクワクしてしまいますよね。

そしてこの道板はアルミでできており、長さ34メートル、
普段は上甲板上に格納されていて、岸壁に到着すると、

艦首突端の扉が左右に開かれる

艦首前端のピボットが道板を浮き上がらせる

グリースによって板を滑らせながら甲板下のウィンチで繰り出す

デリックアームによって保持しながら岸壁に道板を設置する



おそらく艦橋から見たところ。(写真はUSS「サギノー」)

車両甲板前端には上甲板と連絡するランプが設けられており、
車両甲板に搭載された車両はここを通じていったん上甲板に上がったのち、
道板を通じて岸に降りていくというわけです。

トラック?の荷台には海兵隊らしいのが乗っていますが、

これなら全く危険はなさそうです。

2本のデリックアームの上にも人がいるのに注意。

なお、道板だけでは長さが不足する場合も多いので、この場合には
後部舷側に搭載した4基の浮橋を道板の先に接続して延長します。

この「ニューポート」級揚陸艦は20隻建造されており、

そのうち「マニトワク」LST-1180「サムター」LST-1181
中華民国海軍に再就役して今も現役のようです。

台湾の方がこのどちらかの入港をアップしています。
道板の展開が見られるかと思ったけど、それはありませんでした。

【海軍艦艇】舷號LST 232 中和級戰車登陸艦-1 (Newport-Class Tank Landing Ship)

【海軍艦艇】舷號LST 232 中和級戰車登陸艦-2 (Newport-Class Tank Landing Ship)

2015.10.24 民國104年國防知性之旅 海軍左營基地營區開放
 LST-233 新港級戰車登陸艦 中平號 Newport class tank landing ship

さて、この「スケネクタディ」ですが、1990年、
同級でたった一隻、湾岸戦争で中東に派遣された揚陸艦です。

1993年には退役し、予備艦として保管されていましたが、
2001年には海軍艦艇登録から抹消され、
最後は標的艦となってお国に身を捧げることになりました。

■リザルタント・フューリー対水上戦演習0501



珍しく、その最後の瞬間が写真に遺されています。
この演習は、何にでも名前をつけたがるアメリカ海軍らしく、

リザルタント・フューリー(Resultant Fury)
”怒りの結果”または”結果としての怒り”

と名付けられました。
2004年、フロリダ州のエグリン空軍基地を拠点に行われたこの訓練では、
空軍と海軍の航空機が海上を移動する目標を攻撃するという内容でした。

ここで皆さんにも思い出していただきたいのが、1921年、
ビリー・ミッチェル少将がドイツの戦艦「オストフリースラント」
航空機で撃沈できることを証明したあの実験「プロジェクトB」です。


このとき、ミッチェルは海軍に「戦艦不要論」を突きつけ、
航空戦力の重要さを証明するために実験を行いましたが、
83年後に行われたこのデモは、方法論の証明などではなく、
まだ実戦配備されていない先進的な兵器システムの実験を兼ねていました。

この訓練に先立ち、元USS「スケネクタディ」は
装備品や資材を撤去し、危険物を取り除くために洗浄されています。

アメリカ海軍は環境破壊に対しても最新の注意を払い、
環境汚染物質を除去し、EPAのガイドラインに従って、
岸から50海里以上、水深6,000フィート以上で作戦を実施しました。

米海軍には「艦隊環境」の専門家(中佐)もいて、演習によって
生態系に影響を与えることがないよう、こちらも配慮します。

事実この演習のとき、クジラの群れが接近したという情報を受け、
発動時間を40分遅らせたという報告がなされているように、海軍は
海洋哺乳類が船舶の近くにいる場合に演習を禁止する範囲手順を定めており、
環境保護と試験と訓練の達成を両立させることを旨としています。



ミッチェルは「オストフリースラント」撃沈に63発爆弾を要しましたが、
このときはB-52から投下されたたった9発のレーザー誘導弾JDAMが
全て意図した目標に命中し、艦艇を速やかに沈没せしめました。

そして2004年11月23日、このリザルタント・フューリーによって、
揚陸艦「スケネクタディ」は標的として撃沈され、
同時に彼女は、ボーイングB-52ストラトフォートレスが
誘導兵器を単独で投下した史上初めての艦となりました。

かつては航空機不要論で反目していた空軍(当時陸軍)と海軍が、
協力しあって海上標的を破壊する訓練風景を、きっとミッチェルは
草葉の陰から見て、涙を流すか、そら見たことかと言っていることでしょう。
(-人-)

■ 「スケネクタディ」艦歴

ところで、なぜ「スケネクタディ」がこのとき標的となったかですが、
簡単に彼女の艦歴についてお話ししておきましょう。

LST「スケネクタディ」は1966年7月15日、

1966会計年度の8隻のグループの一部として発注され、1968年、
サンディエゴのナショナル・スチール・アンド・造船会社によって起工、
1969年5月24日に進水、1970年6月13日に就役しました。

就役後は水陸両用戦隊(フィブロン)9に配属され、
サンディエゴに母港を構えることになります。

訓練と習熟期間の後、1971年にベトナムへ向かい、
海兵隊を撤退させる「キーストーン・オリオール」作戦に参加。

ダナンで荷物を積んだ後は真珠湾に戻りました。

1971年10月18日、LSTは第7艦隊に合流するため
日本の横須賀に到着します。

第7艦隊での活動中、南ベトナム軍によるクアンチ省奪還作戦に参加、
1972年6月29日、攻勢中に敵の陸上砲台の砲火を受け、
実戦で応戦した同クラス初の艦となりました。

その後は西海岸から演習に参加、
日本、台湾、沖縄、フィリピンの港湾間での輸送任務を行います。


1990年、湾岸戦争が起こると中東に派遣され、これによって

「スケネクタディ」は「ニューポート」級10隻の中で、
同戦争で派遣された唯一の艦となりました。

その後1993年12月15日に退役し、海軍不活動艦艇整備施設に
予備艦として保管されました。

1994年ごろ、スケネクタディ市は彼女を展示艦として獲得し、
移送しようと試みたことがあったようですが、どういう理由かこれは失敗し、
「スケネクタディ」の標的艦の運命はこのときに決まりました。

同艦は2001年7月13日に海軍艦艇登録から抹消され、
2004年11月23日、リザルタント・フューリー作戦で標的として撃沈され、
艦船航行中、ボーイングB-52ストラトフォートレスが
誘導兵器を単独で投下した初の事例として歴史に名を残しました。



「スケネクタディ」の内部のものは丁寧に取り除かれ、
歴史資料として保存されることになったそうですが、
もしかしたらこの星条旗もその一つなんでしょうか。


続く。




メスデッキ(兵員用食堂)〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2024-11-16 | 軍艦

エリー湖沿いに位置するバッファロー・ネイバルパークの展示、
タロスミサイル巡洋艦「リトルロック」内部を見学しています。



やはり巡洋艦なのでメスデッキは大変広いです。

一日3回、このスペースでは1,200人の下士官兵が食事をとりました。
時差を持たせても、同時に700〜900人がテーブルに着けたそうです。

乗組員に与えられた食事時間は30分。
食事が済んだらすぐさま職務に戻ることが決まっていました。

アメリカ海軍も、他の軍隊に比べれば食事が美味しいのが相場だそうですが、
だからといって食後ゆっくりコーヒーを、なんてのはナシです。

ただ、ここに来ればコーヒーもスナックもいつでも潤沢に用意されており、
好きな時にさっと取って楽しむことができました。

ここは映画館も兼ねており、毎晩のようにエンターテイメントがあり、
乗組員は自分の時間に応じてそれらに参加しました。



ちなみに1972年ごろの同じメスデッキの様子。
左奥に見えるかべが、上の写真の左壁だそうです。
内装は随分変わっていますが、柱は全く変わっていません。

チェック柄のテーブルクロスが可愛いですね。


1974年のメスデッキ。

テーブルクロスは白に変わったようです。
この写真の真ん中に低い仕切りがありますが、1972年のにはありません。
この間の改装によって設置たもので、それは現在もそのままです。

ほとんど上の写真と同じ位置から撮られているように思います。

ここで食事をするのはエンリステッド(徴募・徴兵)
を意味するE1からE5まで、つまり、

E1「シーマン リクルート」水兵
E2「シーマン アプレンティス」一等水兵
E3「シーマン」上等水兵
E4「ペティオフィサー サードクラス」三等軍曹
E5「ペティオフィサー セカンドクラス」二等軍曹

のみなさんです。



紙ナプキンのケースがちゃんと中身付きで置いてありますが、これは
現在でもこの場所がキャンプなどで食事に使われているからです。


メスデッキの隣には、ペティ・オフィサー・ファーストクラス
(上級下士官)
専用のメスがあります。

クルー用と違うのは、椅子の材質と、テーブルにボードゲームがあること、
それからちょっとスペースに余裕があることかな。

ここに入ることができるのは、E6の

E6 ペティオフィサー ファーストクラス

これは「シェブロンが赤い階級」の中の最先任です。


で、ここから上の人(黄色いシェブロン)たちは奥に各々の部屋があります。
海軍の階級差は厳密です。



この艦内図でいうとV1のところです。
クルーズメスは10と記された場所です。


残されていたクルー用のトレイ。
この窓から見える向こうは下士官厨房です。


入ろうと思ったら、立ち入り禁止になっていました。


というわけで、これは博物館公式のビデオからキャプチャした内部の写真です。

E-6以下の下士官兵の調理を行うのは、当時は

メス・マネージメントスペシャリスト、
食堂管理スペシャリスト

と呼ばれる乗組員でした。
この名称は現在では

キュリナリー(調理)スペシャリスト

となっています。

食事は全てこの場所で調理され、すぐさま提供され、
また、パンやペストリーも定期的にここで一から作っていました。

「調理スペシャリスト」という名前になってからはどうか知りませんが、
当時、調理は専門の乗組員が行うのではなく、
ほとんどの下級下士官乗組員(E-1からE-3)が、少なくとも90日間の
 "TAD"(Temporary Assignment of Duty)期間、"Mess Cooks "として
ギャレー/スカラリーに勤務することが義務付けられていました。

つまり皆が順番に請け負っていたのです。

調理場勤務の乗員は、次の食事の計画や準備、後片付け、皿洗いはもちろん、
掃除など雑務の大半をこなすことが求められていました。

これもまた艦隊生活への教化の一環という位置付けです。

ギャレーでの任務は地味で目立つ仕事ではありませんが、
軍隊で最も重要な仕事の一つであることも確かです。

艦艇の乗組員が清潔な食器を使い、十分な食事を取れるようにすること。
さらにその食事がおいしいことは士気を高めるためにも必須ですからね。

その仕事の重要性は強調してもしすぎることはありません。



下士官兵はトレイを手前のラックに乗せて左から右に滑らせていき、
食べたいものをトレイに掬って乗せてもらいます。
自分ですると時間がかかるし、取りすぎたりこぼす人がいるので。

フードサーバーに氷が溜まっていますが、おそらくこの日、
すでにここで食事が行われたのだと思われます。

おそらく大人数のキャンプがここで朝ごはんを取り、その際、
サラダ、果物、ヨーグルト、ジュースなどがセットされていたのでしょう。

飲み物はコークよりペプシ派らしく、ペプシと書かれたラックが見えます。


この鍋つかみ、対象になるものがないのでわかりにくいんですが、
子どもの頭ならすっぽり入りそうなくらい巨大です。
親指のところに小さな手なら全部収まってしまいそう。
こんなものをどうやって使っていたのか・・・・。


ギャレーの隅には年季の入っていそうな星条旗が立ってしました。
絶対これは何か歴史的に意味のある旗に違いない。


その横のプラークですが、直接は「リトルロック」とは関係ありません。

The U. S. Navy Space Surveillance System
アメリカ海軍宇宙監視システム 

を意味するものです。

文字通り宇宙を監視するシステムで、そのステーションは
米国南部を横断する大圏経路上に7つ存在します。

決して最近できたものではなく、1961年中央の560kw送信機が稼動し、
4つの受信サイトすべてにナローバンド受信装置が設置されました。

システムは1日に約700回の観測を行い、
100個以上の軌道天体の軌道要素を作成しています。

2つの連続したパス、軌道の2つの側からのパス、そして最後に
数日間の観測を使った差分補正コンピュータプログラムによって精緻化され、
世界中のどの場所でも使用可能な軌道要素というシステム出力が得られ、
その精度は、現在、
安定した衛星の通過を1週間先まで1秒以内に予測できる
ほどにまで高められているということです。

こういうのを海軍がやってしまうあたりがアメリカですね。

ちなみに、つい最近聞いた話ですが、アメリカ全軍は、
今戦闘部門の規模がどんどん縮小されていく傾向にあり、
拡大しているのは宇宙軍だけだということです。



続く。




チーフズ・メス〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2024-11-13 | 軍艦

バッファロー軍事海事公園に展示されている、
ミサイル巡洋艦「リトルロック」内部を見学しています。


この区域には、もう一つ特筆すべき施設があります。

それが冒頭写真のミサイルウォーヘッドハンドリングルーム、
弾頭取扱室です。

ミサイルルームを探訪した時にも紹介しましたが、タロスミサイルは、
用途に応じて通常弾頭と核弾頭を使い分けていました。

この区画では、そのどちらもが準備されていました。

画面の床に見える大きな穴は、弾頭の移動路であり、
弾頭はここを通ってこの下のマガジンに収納され、
また、そこから取り出してくることになります。


左側にはロッカーや棚が並んでいますが、
今となっては何があったのかわかりません。


「コミニュケーション・プラン」を記すCPO専用ボード。

CIC「使用中」「常時」「ラインメンバー」「AMPS」とありますが、
ちゃんと書かれているのはこれだけです。

一番左のRHSやCHなどの略語ですが、CHはおそらくチーフ、
つまり自分たちの持ち場を書き入れていたのかもしれません。

あと、SPAはおそらくスペシャリストの略で、
SPSは同じスペシャリストの中のスーパーバイザー(監督)です。



それより、ボードには後からここを訪れて、落書きを許された?
元乗組員のサインが目につきます。

B・キャメロン RDSN 1959−1962

J・ティラ 1959-1963 RDSN

RDSNとはRADAMAN SEAMAN、つまりレーダー通信兵です。

ヘイズ OSS 66-69

OSSはオペレーションズスペシャリスト シーマン

いずれにしても、展示艦になってからヴェテランが書いたものでしょう。


24時間時計と照準器が壁に備え付けられています。
これ見てあー今フネ傾いてるなー、って理解しろってか。
そんなこと体感でわかるような気がするんだけど。


赤い色・・ということはきっと消火設備。


Aqueous Film Forming Foam 水性発泡体
(AFFF)


AFFFは「AトリプルF」と発音します。
水と混合して可燃性液体火災に散布される消火剤であり、
油やガソリンに浮く泡の能力からライトウォーターとも呼ばれています。

写真左側の棚のブルーのボトルには「ライトウォーター」の文字が見えます。

同じ消火剤として、プロテインフォームというのもがあります。
材料は天然タンパク質・・・実は動物の血液がベースです。
こちらは合成フォームと違い、生分解性という性質を持ちます。

環境にやさしい・・・?

AFFFは、このプロテインフォームに取って代わるもので、
血液をベースとしたプロテインフォームとは異なり、
泡に空いた穴がひとりでに塞がり、再燃焼を防ぐ自己修復作用があります。

基本的に水ベースであり、アルキル硫酸ナトリウムなど、
炭化水素ベースの界面活性剤や、フッ素系界面活性剤が含まれていて、
残念ながら火を消した後は有毒な地下水汚染物質となります。

しかし不発弾やその他の物質を冷却し、爆発や燃焼を防ぐのにも効果的で、
軍艦内の戦略的な場所に数多く設置されています。


AFFF周辺の畳まれたホース。


エリア08というこの区域にCPOのギャレー(キッチン)があります。
下士官つまりE-7からE-9ランクのための調理室です。



繰り返しになりますが、このレートは

E-7 1等軍曹
E-8 曹長
E-9 上級曹長
E-9 最上級曹長


を意味します。
ちなみに彼らのお給料ですが、2024年現在のE-7ランクで、

$43,498.80 〜$78,188.40 (勤続26年)
=6.776.460.56円〜12.180.579.89円

これは基本給で、これに訓練手当て(ドリルペイ)、
危険手当て(ハザードペイ)、住宅手当などがつきます。

今は円安なので、ものすごい高給に見えますね。
危険手当ては月240ドル、訓練手当ては120ドル〜217ドルです。



ところでCPO専用のギャレーについて言及すると、国の彼我を問わず、
海軍というところは食事が美味しいと相場が決まっているので、
当然ここでもアメリカ規格でたいへん美味しいものが提供されてたはずです。

そして、曹長専用食堂のことをチーフズ・メスといい、そこで働いているか、
特別な許可がない限り、チーフ以外の立ち入りは禁止されていました。


クルーズ・メス(兵員用食堂)の手前には、
「リトルロック」の姉妹艦コーナーがあります。



ここにある説明ですが以下の通り。

1950年代、「ガルベストン」級と「プロビデンス」級は、
「クリーブランド」級の改造を低コストで行うことを目的としていた。

これらの艦は、構造的には互いに似ており、
唯一の
違いは搭載する誘導ミサイルの種類であった。

「リトルロック」は世界で最後の「クリーブランド」級巡洋艦であるため、
この区画は、他の改造「クリーブランド」級巡洋艦に捧げられている。


「ガルベストン」級巡洋艦
タロスミサイルシステム搭載

USS「ガルベストン」
CL-93、1946年/CLG-3、1958-1973年

USS「リトルロック」
CL-92、1945~1949年/CLG-4、1960~1976年

USS「オクラホマシティ」
CL-91、1944~1947年/CLG-5、1960~1979年


「オクラホマシティ」の時鐘、写真、盾など。

「プロヴィデンス」級巡洋艦
テリア ミサイルシステム搭載


USS「プロビデンス」
CL-82、1945年-1949年 / CLG-6、1959年-1975年

USS「スプリングフィールド」
CL-66、1944~1950年/CLG-7、1960~1975年

USS「トピカ」
CL-67、1944~1949年/CLG-8、1960~1973年


ここにはいわゆる「改造クリーブランド級」グッズがあるそうですが、
見たところほとんどが「オクラホマシティ」のもののようです。

野球のユニフォームですが、どこの艦でしょうね?



右下の「ライフ」表紙は、艦砲射撃を行っている「オクラホマシティ」です。

「オクラホマシティ」は、太平洋艦隊において、
初めてタロスミサイルの実戦発射に成功した艦となり、
横須賀を母港とする第7艦隊旗艦としてベトナム戦争に参加

この写真は、1965年6月、ベトナム戦争における南シナ海で、
艦砲射撃真っ最中の「オクラホマシティ」の勇姿を捉えたものです。


続く。





「下士官の誓い」と「リトルロック」最後の日〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2024-11-10 | 軍艦

ミサイル巡洋艦「リトルロック」艦内に入り、
セカンドデッキ(メインデッキの一階下)を艦尾から見学しています。



今日はチーフ・ペティ・オフィサーズ・クォーターズです。

Chief Petty Officerとは日本語だと上等兵曹でしょうか。
米海軍では、この階級の略称はCOとなります。
チーフ・ペティ・オフィサーについては、

「時間と訓練を経てE-7以上の階級になった下士官」

とこのコーナーには書かれています。

Eというのは下士官の階級のことですが、英語では「レート」と言います。

「レート」とは、入隊した水兵が指揮系統のどの位置にあるか、
どれくらい給料をもらっているか一目で指し示す指標となります。

アメリカ海軍の階級は「ランク」と「レート」で表されます。

日本語ではこれが一律「階級」で括られますが、アメリカ海軍では
基本的に「ランク」という言葉が使われるのは士官だけで、
下士官兵には「レート」が適用されることになっています。

ご注意いただきたのは、アメリカ軍についてご存知の方なら
一度は耳にする言葉、「レイティング」との違いです。

「レート」”rate" は、海軍の下士官の職業専門分野を指す
「レイティング」”rating"とは全く別の意味を持ちます。

「レイティング」とは、整備士とか管制官とか、写真家とか料理とか、
暗号とか爆発物処理とか音楽とか、ともかく専門の技術のことをいいます。

↑バッジの意匠を見ているだけで楽しめます

話を元に戻して、Eランクは1から9まであり、
大きく3つに分けることができます。

E-1からE-3 兵卒・一等兵・上等兵
Seaman

E-4からE-6 伍長・三等軍曹・二等軍曹
Petty Officer

そしてこのクォーター(コーナー)には、Eクラスの最上級である

E-7からE-9 一等軍曹・曹長・上級曹長
CPO/ SCPO/ MCPO/CMCPO

がいたというわけです。

ちなみに、士官と下士官兵の間には、准尉、
ウォラント・オフィサー
がいます。

よく艦を一つの会社に喩えるなら、チーフというのは部長に当たる、
と言われますが、以前「曹長に聞け」という項で紹介した、
いわゆるCPOジョークを見る限り、この人たちの存在感はすごい。

自らを海軍のスーパーマン、神、と称しており、その自己肯定感、
万能感においても凄まじいものがあるということもわかります。

彼らは士官と下士官兵の間に立つ「仲介役」であり、
その階級における技術専門家であるので、文字通り「要」の立場です。


ここはCPOの寝台設備があるところで、これまで当ブログでも
「バーシング」Berthingとして説明してきましたが、
元々「BERTHING」バーシングという言葉は、
ラテン語で「運ぶ」という意味を持っており、それから派生して、
船や列車の2台、または港、港湾設備にある、
船舶を係留するために特別に使用される停泊所を指す言葉です。

つまり下士官の「停泊所」ということですが、
この用語が海軍だけで使われているのは当然のことです。

この周囲が「CPOの停泊所」であるわけですが、
グレーの扉の向こうには何があるのか「開かずの扉」となっています。

で、その「立ち入り禁止」の手書きの紙の下に見えているのが、
有名な「CPOの誓い」The Chief Petty Officer's Pledgeです。

ここではその半分しか見ることができませんが、
有名なものなので検索すれば全文が出てきます。

下士官の誓い

私は米国海軍の下士官です

私は、誇りと名誉をもって、祖国とその国民に奉仕します

私は特別な便宜を図りません

私は物事を成し遂げ、自分にできる最善を尽くします

私は、世界でも類を見ないリーダーシップを任されています

私は下士官を育て、水兵を育てます

私は全ての水兵の行動に全責任を負います
なぜなら、これら水兵は将来の下士官の”種”だからです

私は、名誉、勇気、献身という海軍の基本的価値観に従います

私が模範を示します

私が行動基準を定めるのです

水兵は生徒であり、私はその教師です

私は、若い男女の人生を導き、影響を与えます

最終的には、私が船員たちの資質を決めるのです

彼らが私を尊敬するのは私が彼らに威厳と敬意をもって接するからです

彼らがリーダーを必要としているからこそ私は彼らのために存在するのです

なぜなら、
After all...

私はアメリカ合衆国のチーフ・ペティ・オフィサーなのですから
I am a Chief Petty Officer in the United States Navy.

After all は「結局」と訳すより、こちらの方が適切かと思いました。



大きなパネルに展示された舫結びの数々。
寄贈したのは写真の元CWO(チーフ・ウォーラントオフィサー)、
マーヴィン・カレー元准尉です。

バッファロー・ネイバルパークの公式が、
この人の記念碑をインスタに挙げていました。

Marvin ”Joe"Curry、CWO

マーヴィン・"ジョー"・カリーは退役軍曹(CW2)であった。
海軍のハードハット(サルベージ)・ダイバーで、
朝鮮戦争とベトナム戦争に従軍し、兄のウィルバーは戦死した。
ジョーは1969年から1972年までUSS「リトルロック」の乗組員だった。

海軍を退役後、1977年から1995年まで、
ここバッファロー海軍軍事公園の初代監督官を務めた。

ジョーは
セネカ族のスナイプ・クランの一員で、
カッタラウガス準州で生まれた。
彼はイロコイポスト#1587のメンバーで、いくつかの役職を歴任した。

セネカ・ネーションは、ジョーと他の先住民の退役軍人を称えるために、
毎年ニューヨーク州サラマンカで
マーヴィン"ジョー"カリー・ヴェテランズ・パウワウ大会を開催している。

後半はいかにもアメリカですね。
カリー准尉は、イロコイの一族であるセネカの出身だったようです。

後半に出てくる「パウワウ大会」は何かというと、
ネイティブインディアンの踊りによる集会、祭りを指します。

パウワウ

コミュニティでカリー准尉の名がよく知られているわけは、
ネイティブアメリカン出身の海軍軍人として、
インディアン出身の退役軍人にカウンセリングを行ったり、
セネカ族の伝統、習慣、文化を伝える役割を果たしたからでした。



「リトルロック」クラスの艦内には5〜60人のペティ・オフィサーがいて、
ここは彼らの生活空間でした。

このテーブルで彼らは食事をし、コーヒーを飲んだり、
時にはボードゲームに興じたりしたのでしょう。



テーブルの上方に立てかけてあるこの部分は、テーブルと同じ素材で、
なんか無理やりマークを彫ったのでえらいことになっています。

このマーク、最初はわからなかったのですが、たまたまこの項前半で
「レイティング」のページを見ていて見つけました。


オペレーション(作戦)スペシャリスト(OS)のマークです。

米海軍の戦闘艦に所属する作オペレーション・スペシャリストは、
戦闘情報センター(CIC)や戦闘指揮センター(CDC)、
別名「コンバット」と呼ばれる艦の戦術中枢にいる人です。

OSは、多種多様な装置や装備を駆使し、戦術的戦闘情報を組織的に収集、
処理、表示、評価し、指揮管制ステーションに迅速に伝達します。

CICの物理的空間を維持し、操作する機器の保守管理を行うため、
この等級には、身元調査を経た上でアクセスするステータスが付与されます。



ヘルメットは本物ではなく、おそらく幼児用?のレプリカ。


テーブルには落書きが残されています。


下はちょっと読めませんが、上には、

「AIDは無くなった 1976年11月22日」

と書いてあります。

AIDかどうかは、ピントがボケていて正直よくわからないのですが、
Sも付いていないので後天性免疫不全症候群のことではなく、
(そりゃそうだ)普通に「援助」の意味だと思います。

1976年11月22日。
この日、「リトルロック」は海軍を退役して除籍処分となりました。

うーん・・・もしかしたらAIDって、何か海軍の専門用語?
もしお分かりの方がおられたら教えてください。

にしても、最後の日、艦内に落書きをしたくなる気持ちはよくわかります。


続く。



ローン・セイラー(孤独な水兵)の像〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」

2024-11-07 | 軍艦

バッファロー海事軍事公園展示の巡洋艦「リトルロック」。
上甲板のファンテイル部分から階段を一階降りて、艦内郵便局を見ました。

見学路をそのまま艦首側に向かって進んでいきます。


第二次世界大戦時の道具を展示しているという説明がありました。
展示のオープン時間を書く欄がありますが、使われた形跡はありません。


「ディスプレー」というのは、これらのことだと思われます。

水兵の制服、真鍮のランプ、そして軽巡時代、
ミサイル巡洋艦になってからの「リトルロック」の様々な写真。



右は、「リトルロック」が就役した時のパンフレットです。

第二次世界大戦終了直前に最初の就役をした「リトルロック」は、1957年、
ニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船公社のヤードに到着し、
1957年1月30日に誘導ミサイル軽巡洋艦への改装を開始しています。

CL-92からCLG-4への分類と船体番号の変更は1957年5月23日に発効されました。

ニューヨークシップビルディング公社における改装中の「リトルロック」
1959年12月10日撮影

改造後のUSS「リトルロック」(CLG-4)の全備重量は15,142トン、
艦隊旗艦として構成されました。

艦砲は従前通りオリジナルのディレクタ・システムによって制御されましたが
ミサイルシステムには新しい武器制御装置とレーダーが組み込まれました。

こうしてタロスミサイル巡洋艦となったUSS「リトルロック」(CLG-4)は、
1960年5月6日にフィラデルフィア海軍造船所に引き渡され、
1960年6月3日に就役したのです。


左側のパンフレットは海軍艦船に乗るともらえる記念でしょう。

上の写真はマッチケースのカバーにプリントされたエンブレムですが、
「リトルロック」のインシニア、文字通りの「タロス」
(ギリシア神話に出てくる意思を持たない青銅の巨人)が、
タロスミサイルを投擲しようと構える瞬間を捉えたデザインは秀逸です。


こちらは「リトルロック」が1972年ごろ使っていたパッチです。
なぜこの時期だけこれが使われたのかは不明です。

このエンブレムに書かれたロゴは、

 PRIDE IN ACHIEVEMENT
(達成する誇り)


この文言も簡潔かつ明確で大変よろしいですね。


古い入隊募集ポスターですが、タロスミサイルがあしらわれているので
おそらくミサイル搭載艦がデビューした頃のものだと思われます。


就役中、「リトルロック」が採用していたプラークは三つありました。

左から、初代の改装前軽巡時代のもの、
タロスの描かれた1965年までのもの、
そしてワシのデザインの1965-1976までのものです。

なぜ1965年にマークが変わったかは謎、と先ほど書きましたが、
あえて想像してみると、この時期、「リトルロック」が
NATO軍部隊に参加することになったことと何か関係あるかもしれません。

これも想像ですが、タロスミサイルの搭載を強調するマークより、
アメリカ海軍の一員であることを強調するデザインの方が
国際部隊の中では受け入れられやすかったからと考えられます。


三つのプラークと共に展示されている水兵の像ですが、
アメリカで軍事博物館を回ると、もうお馴染みというくらいよく見ます。

これは有名な、

「孤独な水兵」LOAN SAILOR

というブロンズ像のレプリカです。

ローン・セイラー


アメリカでは「孤独な水兵」というと、有名なこの像を指します。

彫刻家スタンリー・ブライフェルド作のこの水兵像は、
ワシントンD.C.の海軍記念碑として建造されたものなのですが、
この水兵像がもう今は現役でない海軍艦を使って作られていると聞くと、
なかなか感慨深いものがあります。

そして、その海軍艦は一つではなく、

USS「コンスティテューション」CONSTITUTION
USS「 コンステレーション」Constellation CV-64/CVA-64
USS「メイン」Maine ACR-1
USS「 ビロクシ」Biloxi CL-80
USS「ハンコック」Hancock CV/CVA-19
USS「シーウルフ」Seawolf SSN-21
USS 「レンジャー」Ranger CV-4
「ハートフォード」Hartford steamer

帆船、航空母艦、巡洋艦、潜水艦、そして蒸気船などの艦船、
つまり海軍艦船の歴史を網羅しているということです。

そして、この「孤独な水兵」とは。

大体25歳くらい、早くもベテランになりつつある二等兵曹、
ほぼ等身大の「孤独な水兵」は、誰か特定のモデルがいるのではなく、
できるだけ「どこにもいそうな」人物の再現を目指しています。

全くプライベートな、軍の規律から解き放たれた一人の時間、
かたわらに水兵用のダッフルサックをおいて、
ピーコートの前をはだけ、ポケットに手を入れて立つ姿。

そこには、気負いも衒いもない、素のままの一人の平凡な男がいます。
まさにアメリカ海軍水兵の等身大の図と言ってもいいでしょう。

彼は英雄のように描かれているわけでもなく、かといって、
無論、人生を堕するような失意にあるわけでもなく、
これから故郷に帰るのか、それとも単なる休暇中なのか、
期間が明けて名誉除隊をしたのか、何も読み取ることはできませんが、
この像の前に立つアメリカ人は、おそらくそれぞれが、
この水兵のストーリーを、それこそ人の数だけのバリエーションで
さまざまに思い描くに違いありません。

あるものは父や叔父、親戚を、あるものは息子を、
そしてあるものは自分自身を重ね合わせて。


孤独な水兵像はアメリカ国内だけでなく、上陸作戦のあったノルマンディー、
そして当然のようにハワイのパールハーバーにも置かれています。

各地に立つ孤独な水兵像

孤独な水兵像を就役したばかりの新造艦に寄贈する活動は、
ネイビー・メモリアルがスポンサーを募って行われています。
(寄付金は17,750ドルより)
艦船据付用は高さ30センチほどの小型のものとなります。

現在この像が設置されている海軍艦船は、
ミサイル駆逐艦「トーマス・ハドナー」「ズムウォルト」、
空母「ジョージ・H・W・ブッシュ」などの現役艦のみならず、
この海事公園に展示されている「ザ・サリバンズ」など記念艦もあります。

■ 🇺🇸49星条旗


孤独な水兵像の後ろに掛かっているのは、U.S.S.「リトルロック」が
1960年6月3日に誘導ミサイル軽巡洋艦CLG-4として再就役する前、
1959〜1960年に航行中に掲揚されていた49スター・エンサインです。

国旗の星の数はアメリカの情勢により変わってきましたが、
この49星条旗にはこんな話があります。

1912年からしばらく星条旗は48個の星でした。
そして、1959年1月にアラスカ州が増えたときに49星となりました。
しかし、同じ年の8月にハワイ州が加わったため50州となりました。

これはどういうことかというと、49スター星条旗は、
アメリカ史上たった7ヶ月だけのアメリカ合衆国国旗だったのです。


隙間に取り留めもなく展示品が並んでいるコーナー。



左右に「ケルビンのボール」を持った形のビナクル
日本語だと磁気コンパス、アメリカではナビゲーターズボールがありました。

ところで、以前調べた時には存在していなかった
「ビナクル」のウィキがいつのまにかできていたことがわかりました。

ビナクル

ありがてえありがてえ。

先日ジミー・ウェールズさんからまたしてもメールが来てたけど、
今度はビナクルに免じてちょっとだけ寄付しておこうかな。(独り言です)

ピナクルにはテプラのようなシールに、

DO NOT CHIP OR SCRAP
↑テプラを再現

と注意書きが書かれています。
削ったり欠けさせたりしないでくださいという意味だと思いますが、
これが現役時代からあったのかどうかはわかりません。


タロスミサイルを模ったものですが、
品質から見て誰かが艦内のワークショップで作ったのではないでしょうか。

おそらくこれから見学コースで見ることになると思いますが、
ご存知のように、大きな軍艦には、艦のために必要なものならなんでも、
大きかろうが小さかろうがその場で作ってしまう工場があります。

■タロスミサイル艦はなぜ巡洋艦だったのか

ところで、いまさらなのですが、どうして「リトルロック」など、
巡洋艦にタロスミサイルが搭載されたのだと思います?

ミサイルを搭載する艦船の条件は非常に限られていました。
とにかく、艦体が大きくなくてはいけなかったのです。

その理由は、タロスミサイルそのものが小型飛行機くらいの大きさであり、
これまでミサイルハウスを見てきた我々にはもう明らかなように、
ランチャーや46発の弾倉等、システムに膨大なスペースが必要となります。

したがって巡洋艦クラスがこれに最適とされたというわけです。


続く。

エリー湖の戦いとペリー代将〜USS「リトルロック」艦内展示

2024-10-13 | 軍艦

USS「リトルロック」の上甲板階に位置するタロスミサイルハウスに
右舷側から入り、左舷側に出てきて、ファンテイルといわれる後甲板で
少年海軍候補生団、NLCCの訓練光景を目撃し、
海軍公式に組織された青少年教育グループについて調べてみました。

今までこんな本格的な教育組織があるとは知らなかったので、
この日彼らを目撃したことは大変ラッキーだったと思っています。

おかげでまた一つ海軍の知識が増えました。

さて、これからいよいよ見学ツァー順路に沿って、
甲板から艦内に入っていくわけですが、


見学エリア#3と称されたところに入っていくには、
ファンテイルのミサイル外側に二つ設置された階段を降りていきます。


その階段というのはおそらく昔はハッチだったところに、
展示艦となってから上部構造を取り付けた状態であります。

床の黄色い線は見学順路。

右側に黒のゴミ袋が見えていますが、これを持っているのは
さっきまでファンテイルで話を聞いていたヤング候補生の一人。
おそらく今日のスケジュールが終わって片付けに入っているのでしょう。

ところで、この階段小屋?の壁に説明があるので見てみますと、
ここがかつてヘリコプターのランディングエリアだった旨説明があります。

「写真が示すとおり、このエリアは「リトルロック」艦載機の
SH-2シースプライトの着艦ポイント並びに倉庫がありました。

ヘリを後甲板に載せた「リトルロック」

この部隊は、

ヘリコプター戦闘支援飛行隊4
Helicopter Combat Support Squadron FOUR


通称「ブラックスタリオン」です。

スマイリングスタリオン


同部隊の駐屯地はイタリアのシチリア島にありました。

また「リトルロック」がオリジナルの軽巡洋艦だった頃、
二つのカタパルトが後方の両舷にあり、これは
SC-1シーホーク(水上艇)のためのものでした。

シーホークは1944年に太平洋戦線のために投入されたので、
1949年にはヘリコプターの登場と入れ替わりに姿を消します。

■ 艦内郵便局


それではいよいよ参る。ワッチユアステップ!


階段を降りたらそこは艦内郵便局でした。
甲板から郵便物を受け取流のには便利な場所かもしれませんが、
今まで見た軍艦でこんなところに郵便局があったのは初めてです。

矢印の方向に「映画鑑賞室」と「メールヘッド」があると書かれていますが、
Male headは「男性の頭」ではありません。男性用トイレのことです。

軍艦の中なので、一般人に対しても海軍隠語で通すつもりのようです。


左の棚の中に見えるカートンボックスには、
「USNSCC」と書かれています。
この意味、前回ログを読まれた方にはもうお分かりですね。

The United States Naval Sea Cadet Corps
アメリカ合衆国海軍候補生隊


であり、甲板で訓練をしていた少年たちのグループです。
NSCCが艦上で訓練するために必要なものが収納されているのでしょう。

棚の上の郵便物は、「リトルロック」現役時代のものです。

郵便物、手紙などは仕分けして右側の仕切られた棚に入れていき、
後でセクション別に配達がされるはずです。


タイプライター、書類収納用のスチールケース、重さを測る秤。
説明がなくとも郵便局であることがわかるコーナーですが、
棚の上の記念切手の拡大をご覧ください。

■ エリー湖の戦い

バッファローネイバル&ミリタリーパークは、
他でもないエリー湖沿いに位置するわけですが、その関係で?
ここに「エリー湖の戦い」記念切手が飾ってあります。



我々日本人には、アメリカとその同盟が、
イギリスおよびその同盟と戦った1812年戦争についてあまり知りません。
(知りませんよね)

北米で領土を広げるイギリスにアメリカが不満を持っていたところ、
イギリスがアメリカの会場貿易を封鎖し、実力行使したことから起こった紛争
といわれていますが、開戦の理由についてはいまだに議論されています。
(現在、英の拡張政策と双方がカナダ併合を狙っていた説が有力らしい)

一部の歴史家は、これを「第二次独立戦争」と呼んでいます。

わたしが今回知ってちょっと驚いたのは、双方に、
テカムセ連合(英)
イロコイ、チョクトー(米)

などの先住民が同盟「国」として戦ったこと、
そして五大湖がこの戦争の大きな舞台となったことでした。

そして、このエリー湖の戦いがなぜ切手になっているかというと、
この戦いで、アメリカ海軍がイギリス海軍を破って湖を制圧し、
イギリス軍からデトロイトを奪回した大きなターニングポイントであり、
アメリカ-イギリス戦争最大の海戦となったからです。

そして、我々日本人がぜひ注目したい人物がここにいます。

切手にあしらわれた絵で、ボートの上からどこかを指さしているのは、


オリバー・ハザード・ペリー代将
Comodore Oliver Hazard Perry(1785-1819)

名前からお分かりのように、日本に黒船でやってきた「蒸気船海軍の父」

マシュー・カルブレイス・ペリー
Matthew Calbraith Perry(1794-1858)


は、オリバーの9歳年下のであり、一緒に米英戦争に参加しました。

ペリー家はロードアイランドに移民した英国移民の家系で、
彼ら兄弟アメリカ海軍司令官を筆頭に、海軍飛行士、政治家、芸術家、
聖職者、弁護士、医師、社交界の著名人を排出しています。

変わったところではポロ選手、ニューヨーク地下鉄を作った人、
高位聖職者、小説家、フォークシンガー、画家などがいます。

そして、真珠湾攻撃が起こったときの駐日大使、
日本に理解があり戦争を避けるための努力を行なったとされる外交官、
ジョセフ・クラーク・クルーの妻アリスはオリバーの孫であり、
オリバーの息子つまりアリスの父トーマスはハーバード大学出身で、
慶應義塾大学で英文学を教えていたという因縁があります。

日本滞在中和室で演奏するオリバーの孫アリスと姉たち
画家だった彼女らの母リラ・ペリーによる作品

ジョセフ・グルー

寄り道を元に戻して。

切手の絵に描かれたシーンですが、
1813年、エリー湖上戦で司令官に指名されたペリー大佐が、
制水権を得ていたイギリス軍に初戦で旗艦「ローレンス」を破壊され、
砲火の下、ボートで1キロ先のUSS「ナイアガラ」を旗艦にするため
乗り移ろうとして「あれな」とさし示している瞬間です。

旗艦となった「ナイアガラ」は大砲で敵船隊を撃破し、戦いに勝利しました。


エリー湖上戦の様子

このときの勝利の大きな要因の一つは、チェサピーク湾、
そしてピッツバーグで鋳造された優秀な武器だったとする説があります。

戦闘に参加した艦船はアメリカ側9隻、イギリス側6隻で、
イギリス海軍はこの全てをアメリカ海軍に捕獲されました。

■米国市民権移民サービス



下の張り紙は、見学者への注意書きです。

安全のため、以下のスイッチに手を加えないでください。
スイッチ、回転バルブ、プルハンドルをいじらないでください!
バッファロー・ナーバル・パークは、安全上問題があると判断した場合、

入場を取り消す権利を有します。

そして上に書かれているのが、以下の説明。

米国市民権移民サービス

バッファロー海軍軍事公園とUSS「リトルロック」(CILG-4)は
20年以上もの間、

米国市民権移民局(USCIS)

米国市民権授与式を誇りを持って主催してきました。
USCISは米国への合法的な移民を監督する政府機関であり、

例年7月の第1週に開催されます。

USS「リトルロック」の後部メインデッキで行われる「宣誓式」には
毎年平均200人以上の帰化市民とその家族が参加しています。


移民局は就労ビザ、亡命、市民権の申請等、

さまざまな移民問題の処理と裁定を行う期間です。

地域の該当者を対象に授与式が行われるわけですが、
横須賀海軍基地でもこのような式が催されていることを知りました。

ズムワルト公使公式ブログ:横須賀での市民権授与式

ズムワルト公使ご自身がスイスからの移民で、
幼少期この授与式を経験していたことも書かれています。

続く。



海軍リーグ士官候補生隊〜USS「リトルロック」

2024-10-04 | 軍艦

バッファローのエリー湖沿いに建つ海事軍事公園。
この展示から「リトルロック」をご紹介しています。

前回までで、「リトルロック」が改装されて搭載した、
タロスミサイルのミサイルハウスやその機構などを見てきました。

ミサイルハウスを出ると、もう一度ファンテールに出るので、
そこであらためてタロスミサイルをうち仰いでみる。(冒頭画像)

ミサイルハウスの説明でも触れたように、このウィングとフィン、
なんと最後の行程で手作業によって設置されるんですねー。

そんなんでいいのか。(素朴な疑問)

というかそれだけ合理的に設計されていたってことなんだろうな。


ちなみにこれはミサイルハウスを出る直前、左側に見える装備。
これは(なかなか資料が見つからず断定はできませんが)、

弾頭トロリー(Warhead Trolley)

と呼ばれるもののようです。

甲板から弾頭が両舷のストライクダウンエレベーターで降りてくると、
空気圧で動く台車に乗せられ、その後弾頭はトロリーで
セカンドデッキ(メインデッキの一階下)でマガジンまで移動させます。

弾頭マガジンは艦の最も最下階に位置します。

必要な時には赤い部分にタロスの弾頭を挟むようにして持ち上げ、
エレベーターのように運んできます。


で、この床の部分がどうなっているかというと・・・。
なんかよくわからないカバーみたいなのが無造作に放置されていますが、
この辺りはアメリカ海軍のデフォなのでお気になさらず。

床全体がハッチとして開閉できることがわかりますね。

このハッチ部分は艦体のちょうど中央部分にあり、
この三階下(セカンドプラットフォーム)が弾頭マガジンとなっています。


マガジンハウスを出ると、そこは上甲板。
エリー湖に流れるバッファロー川の河口です。

向こう岸はエリー湖に流れるバッファロー川の右岸であり、
タイムズビーチ自然保護区として自然公園ありーの、キャンプ場ありーの、
ヨットハーバーもカヤックのランチもと盛り沢山なレジャー地です。



この日は週末でたくさんの人々がクルーズを楽しんでいました。
奥に見える河口を出ると、エリー湖で、半分から向こうはカナダです。

帆を張らずにセイリングしているカタマランは「ムーンダンスキャット」号。
キャビンにはバーがあって貸切すればケイタリングもできる模様。

MoondaceCat

■ミサイル巡洋艦「1」から「73」まで


左舷側のタロスミサイルです。

フィンに書かれた「4」は「リトルロック」の艦番号。
前回は「4」という数字そのものに驚いたものですが、
当艦がタロス巡洋艦に転換してから割り振られたと知って納得しました。

「バンブルビー計画」によって米海軍はミサイル巡洋艦の開発を進め、
その第一陣として「ボルチモア」級中巡洋艦、

CAG-1 USS「ボストン」

CAG-2 USS「キャンベラ」

が1955年に再就役しました。
CAGは重巡洋艦のCAにGuided missileのGを付け足したものです。
これが最初のミサイル巡洋艦として「1」「2」の類別番号を振られました。

ついでに重巡の類別「CA」のCはクルーザー、Aはロンドン軍縮条約で、

6.1インチを超え8インチ以下の艦砲を搭載する
10,000トン以下のの巡洋艦をカテゴリーAとする

とされて以来の類別番号です。
そして、それに続くミサイル巡洋艦が、「ガルベストン」級の軽巡、

CLG-3 USS「ガルベストン」

CLG(のちにCG)-4 USS「リトルロック」

CLG(のちにCG)-5「オクラホマシティ」

の3隻で、CLGは軽巡を表す「Light Armoured Cruiser」に、
ミサイル搭載を表すGを加えたものです。

ついでに6番以降は、テリアミサイル搭載の「プロビデンス」級で、

CLG-6 USS「プロビデンス」
CLG-7 USS「スプリングフィールド」
CLG-8「トピカ」


そして唯一原子力ミサイル巡洋艦でタロス&テリアダブル搭載の

CGN−9 USS「ロングビーチ」

タロスにターター艦対空ミサイル、アスロックと

武器よくばりセット搭載の「オルバニー」級、

CG-10 USS「オルバニー」
CG-11 USS「シカゴ」
CG-12USS「コロンバス」


あとはきりがないのでやめますが「タイコンデロガ」級の末っ子は

CG-73 USS「ポートロイヤル」

つまり、ミサイル巡洋艦は合計73隻存在したことがわかります。


■ファンテイルにて

ところで、ミサイルの下にはラック入りのパイプ椅子が見えますね。


「リトルロック」では、これまで紹介してきた軍艦と同じく、

お泊まりキャンプや結婚披露パーティが行われるのです。

企画ものも多く、例えば「スターウォーズデー」では、昼12時から夕方まで
スター・ウォーズ・キャラクターとのグリーティング、
体験型アクティビティ、工作教室、教育プログラム、
『ローグ・ワン』の上映などで一日楽しめたり、あるいは海軍主催の
リクルートイベント(青少年向け)が行われたりします。



イベントのために、ファンテイルにテントが常設され、
この日はこのあと何か行われるのかテーブルも出ていました。

ところでテントの下に、海軍迷彩の集団がいるぞ?



少年たちをリタイアした下士官らしいおじさんが指導中。
一体この少年たちの正体は?



彼らのいでたちは頭のてっぺんから靴の先まで全くの海軍軍人。
ナンチャッテなどではない、本物です。

よそ見をしているのは誰かのお父さんで、ここにいるだけだと思いますが。



驚いたことに彼らの迷彩にはネームも入っているんですよ。
ちなみに一番左がジャクソンくんであるのは読み取れました。

そして、何人かは「リクルート」と書いたキャップを被っています。

なんとか読み解こうと写真を具に見ていたところ、
一番大きなブルー迷彩の子の右ポケットに、

USNLCC

ジャクソンくんの右側の子のポケットには

USNSCC

と書いてあります。
これでわかりました。

ブルー迷彩の少年たちは、

米国海軍リーグ士官候補生団
United States Naval League Cadet Corps
USNLCC

であり、カーキ迷彩の二人は

米国海軍士官候補生隊
United States Naval Sea Cadet Corps
USNSCC

の、いずれも少年候補生だったのです。
ちなみにブルー迷彩の NLCCはカーキのNSCCのジュニア版で、
前者は11歳から13歳まで、後者には13歳から入団できる決まりです。

上部組織の海軍士官候補生隊から説明します。

■ 
NSCC(海軍士官候補生隊)


米国海軍士官候補生隊(USNSCCまたはNSCC)は、
米国海軍が後援する議会公認の組織です。

海上軍務、米海軍の作戦と訓練、社会奉仕、市民活動に参加し、
規律とチームワークへの理解を目的としています。

NSCCの年齢資格は13~18歳。
1958年、海軍省の要請を受けた米国海軍連盟によって設立されました。

参加者は本物の海軍軍人によるレクチャーや訓練、試験を受け、
一定の条件をクリアすれば、司令官の認証を受けて階級を授けられます。

階級は新兵候補生(写真の『リクルート』の帽子を被った二人)、
Sリクルートから始まり、

【13歳から】

シーマンリクルート(SR) SC-1
シーマン見習い アプレンティス(SA)SC-2
シーマン(SN)SC-3

【14歳から】

3等兵曹(PO3)SC-4
2等兵曹(PO2)SC-5

【15歳から

1等兵曹(PO1) SC-6
曹長(SPO)SC-7

まで昇進することができます。

それでは、SCCCで行われる専門的な訓練をご紹介します。
こんな訓練を少年にさせるとは、さすがはアメリカです。

水陸両用作戦訓練
船舶訓練
沿岸警備隊
FAA地上学校
JAG法務訓練
MAA(海軍憲兵隊に相当)法執行学校
POLA(下士官幹部学校)
シービー(海軍建設大隊)
潜水艦セミナー(基礎および上級)
米海軍シーマンシップ・アカデミー
消火およびダメージコントロール学校
港湾業務
儀仗兵学校
野外医療学校(衛生兵)
サイバーセキュリティ訓練
統合特殊作戦司令部訓練
シールズ訓練
SWCC(特殊戦戦闘乗組員)または "特殊ボート"

EOD(爆発物処理)訓練
AIRR(海軍ヘリ捜索救助スイマー)訓練
高度音楽訓練
陸上ナビゲーション訓練
野外活動訓練
国土安全保障訓練
捜索救助訓練
射撃訓練
遠征戦訓練
海上阻止訓練
国際交流プログラム
フォトジャーナリズム
スキューバ
海軍犯罪捜査局訓練
沿岸河川訓練
現地手配研修
ライフガード
米海軍兵学校夏季セミナー


特殊戦闘とかEODとか、これ本当に10代にやらせるの?

という項目もありますが、そこはそれ、
限りなく本物に近い基礎を学び、雰囲気を知る程度の訓練でしょう。


COVID-19以降は、バーチャル訓練も行われるようになりました。
また、訓練メニューに音楽があるのに気がついた人もいるでしょうか。

USNSCCは三十人編成のマーチングバンドを所有しており、
このバンドは、アメリカ海軍バンド、サンディエゴ海兵隊バンド
第101陸軍予備軍バンド等、全米トップクラスの軍楽隊から訓練を受けます。

自分が海軍に向いているのかを早いうちから知ることもできますね。

また、USNSCCは世界中の他のシー・カデット・プログラムと
国際交流プログラムを実施していて、交流国には、
イギリス、カナダ、オーストラリア、ベルギー、ドイツ、オランダ、
ニュージーランド、韓国、インド、日本、シンガポール、南アフリカ、
スウェーデン、香港、ロシア、バミューダなどがあります。

日本にそんなもんあるのか、と思われます?
多分これのことだと思われます。

公益社団法人日本海洋少年団連盟


■ 海軍リーグ士官候補生隊  NLCC


さて、ジュニア版の士官候補生隊、
このとき「リトルロック」でレクチャーを受けていたグループですが、
11歳から13歳までが参加可能年齢です。

14歳になったとき、NSCCに入隊するわけですが、
もしこの「おためし期間」で俺(私)海軍向いてないわー、
と思ったら、退団すればいいのですから、話が早い。

アメリカという国の軍隊組織を形成するための努力は、
こんなふうに裾野を広く、若い人材を呼び込むことに注がれています。

少年たちが自分は海軍に向いていると思えば、あとは簡単。
そのまま下士官の道へ進むもよし、士官学校入学を狙うもよし。

若いうちからその現場の空気を知ることは組織への理解を深め、
そこで見た専門分野(潜水艦とか航空とか)に憧れを持てば
そのままレールは目標まで比較的わかりやすく連れて行ってくれます。

そして、この組織の上手い?ところは、少年用プログラムと言いながら、
本物と全く同じ制服を着て、階級が与えられ(頑張れば昇進もでき)、
本物の海軍軍人から本物と同じ訓練を受けるという満足度の高さ。

少佐(多分隊司令)から威儀点検中
 むっちゃ怯えてる><

 NLCCの階級は

新兵(LC-1)
見習士官候補生(LC-2)
幹部候補生(LC-3)
3等兵曹(LC-4)
2等兵曹(LC-5)
1等兵曹(LC-6)
上等兵曹(LC-7)


とこれも同じ。

3年間でCPOになれる子は超逸材だ。

さて最後に、 NLCCで体力テストに合格するための指標を書いておきます。

一番軽いと思われる、10歳女子のマトリックスは、

ボード
(うつ伏せに寝て肘を立てて体で三角を作り何秒耐えられるか)

優秀:2分10秒
良好:1分40秒
普通:1分00秒
可:0分45秒

腕立て伏せ

優秀:20
良好:13
普通:9
可:7

1マイル(1600m)走

優秀:9分19秒
良好:11分22秒
普通:13分00秒
可:14分00秒

ちなみに男子候補生の17歳、18歳の部では、
腕立て伏せは優秀53回、最低ライン28回となり、
1マイル走足切りタイムは9分45秒となります。

さて、あなたは今の体力でこの記録をクリアできますか?


続く。





チェックアウトまで@ミサイルルーム〜タロス巡洋艦「リトルロック」

2024-09-21 | 軍艦

タロス巡洋艦「リトルロック」のミサイルルームシリーズ最終回です。

このシリーズでご紹介しているビデオは「オクラホマシティ」の映像です。
それではビデオの続きを見ていきましょう。

前回、ミサイルは弾倉からクレーンとクレードルで移動し、
レディ・ミサイルルームでブースターと嵌合させられ、天井のレールで
最終エリアまで移動すると言うところまでお話ししました。



そこは「ウィング&フィンルーム」「チェックアウトエリア」とも呼ばれ、
ミサイルをランチャーに送り出す最後の工程が行われます。

Talos Missile Handling • Cruiser Installation

ビデオは10:10〜からご覧ください。



(ドアが開き)
ミサイルは秒速12フィートでウィング&フィンエリアに移動すると、

クルーは迅速にウィングとフィンをミサイルとブースターに取り付け、



ウィングとフィンが手動で取り付けられた状態



アーミングプラグが取り付けられると、ミサイルは準備完了だ。

アーミングプラグとは、安全上機能が停止されているハードウェア
(飛行するもの)を有効にするため取り付けるプラグのことで、
ミサイルや爆弾の場合、プラグを取り付けることで初めて爆発可となります。

航空機でカバーや安全装置の「はずし忘れ」を防ぐための
「Remove before Flight」タグとは反対の発想です。


ウィング&フィンエリアは、右舷側の通路を歩いていると、
目の高さに床があって、ガラスで覆われた窓を通して見えます。

ウィングとフィンが取り付けられると、クルーは安全のため、
金属スクリーンの後ろに回り、フットスイッチを押します。
(ミサイルの移動経路に人がいるとウィングやフィンに当たるため大変危険)


ブラストドアが開くと、ローダーレールがランチャーアームまで伸びていく。


ちなみに写真は「リトルロック」現役時代のブラストドアです。

アメリカ海軍が何につけても装備をラフに運用するのは周知の事実ですが、
それにしてもこの汚さはいかがなものか。

一回運用するだけでミサイルの排気?をまともに受けるので、
いちいち綺麗になんかしてられっか、みたいな意思を感じますね。



今は嘘のように綺麗な状態に塗装されています。
ブラストドアは下のドアが先に下向きに、
後から上のドアが上向きにスウィングして開きます。

ブラストドアは油圧式で、その動きは非常に早く、
ミサイル・ハウスの外のドアの前に万が一人がいようものなら
巨大な下側のドアが開くと同時に圧縮されてしまうでしょう。

そのため、非発射試験中はミサイル・ハウスの外に監視員が配置され、
ドアが開く前に周囲が安全であるという確認がされました。

外といっても甲板の上に立っているのではなく、
発射訓練中は、メインデッキから1フィートほど上に伸びた
ファンテール上の小さな装甲「ハウス」にある窓から監視が行われました。

また、ミサイルハウスの表面には狭い回転窓があり、
そこにも監視員がいて、ファンテイルの監視員には見えない部分、
発射装置とハウスの間の領域を見ることができた。

この窓は、ミサイルが発射される前に装甲カバーの後ろで回転して閉じます。

そして、ミサイルはランチャーまで運ばれる。


両側のミサイルがランチャーに向かってブラストドアから出てきました。

ランチャーのレールとエリア1のレールの間には、
発射レールが延長してミサイルを前に送ります。

ミサイルがランチャーに移動し、ブラストドアが閉じると、
兵器管制と誘導コンピュータがランチャーとミサイルの制御を引き継ぎます。



ブラストドアが閉まると、ランチャーは旋回を始め、上昇する。

ターゲットに向かって「撃(て)ー!」

タロス、核弾頭を持つ装備は空に向かって放たれた。
我が艦隊を、そして我が祖国を守るために、
タロスはいつでも準備されている。

(終)

とかっこよく終わったわけですが、残りの写真を見ていきます。


ブロウアウトパッチ。(表示通り)


「マニホールド」とは、シリンダー機関の吸気管や、
油圧、空気圧回路の配管をひとまとめにしたものです。

ミサイルを動かすためのリボルバー式回転機の圧縮窒素の配管図のようです。
出口近く(左舷側)にありました。


貼り紙にはミサイルルームの各エリアの基本的任務が書かれています。



ミサイルルームの指令はこの電話を通じて受けていたようです。
このコーナーはミサイルルーム出口近くにありました。



試射における各ミサイルのデータ一覧表。

ミサイルのタイプ、弾頭の種類、バッテリー、TOD、最終チェック日、
次回チェック予定、GO/N0-GO、などなどがメモされています。

最後の任務日から消されずに残されていたものかもしれません。


これでミサイルルームの中を見終わりました。
中を一周して、入ってきたところと反対にあるドアから出ていきます。



通路にはちゃんとアンカーのマークが記されていました。
ここを出ると、ミサイルの発射孔があるファンテイル部分になります。


続く。


レディサービスエリア出発 ミサイルルーム〜タロス巡洋艦「リトルロック」

2024-09-15 | 軍艦

エリー郡バッファローにある海事軍事公園の展示から、
タロスミサイル巡洋艦「リトルロック」のミサイルルームを紹介しています。

ここでタロスについて”ちょっと深掘り”(つまり浅堀り)しましょう。

タロスミサイルは正式にはRIM-8 TALOS といい、
世界で唯一アメリカ海軍で1958年から79年までの間運用されました。
ほぼ20年間だったわけで、その存在は、

バンブルビー作戦

という対空防衛を目標とした地対空ミサイル(SAMs)開発の、
ある意味最終成果物と言うべきものです。

前にも説明していますが、「タロス」(英語発音はテイロス)は、

「クレタ島を毎日三回走り回って警邏し、船が近づくと石を投げつけて破壊
不審者を見ると身体から高熱を発し、赤く熱した体で抱きついて焼く」

と言うギリシャ神話の意思を持たない(これが怖い)青銅の人形のことです。

他にも米海軍は「ターター」(タルタロス、奈落の神)
「タイフォン」(テューポン、ギリシャ神話のラスボスでゼウスに勝った)
と、やばい奴の名前ばかりを、好んでミサイルにつけております。


バンブルビー作戦は、ドイツ軍のHs 293(ヘンシェル)ミサイル
ルールシュタール/クラマーX-1、そしてなんといっても、
沖縄戦で米海軍を恐怖に陥れた神風特攻への対策として生まれ、
対空武器の開発にアメリカ海軍は16年を費やしました。


全長9.9メートル、3.5トンのミサイルは小型戦闘機の大きさに匹敵し、
「ガルベストン」「リトルロック」「オクラホマシティ」の
3隻からなる「ガルベストン級」に最初に搭載されました。

■ タロスミサイルと実戦

タロスミサイルの地対空バージョンはベトナム戦争で使われ、
USS「シカゴ」と「ロングビーチ」が計4機のMiGを撃墜しています。

1968年5月23日、「ロングビーチ」から発射されたタロスによって
約65マイルの距離からMiGを撃墜したとき、これは、
史上初の艦船から発射されたミサイルによる敵機撃墜となります。

この時の命中弾は、破片の中を飛んでいた別のミグも破壊しています。

1968年9月「ロングビーチ」は61マイル先のミグを撃墜。

1972年5月9日、「シカゴ」の前方タロスがMiGの長距離キルを達成。

ベトナムでの「シカゴ」「オクラホマシティ」「ロングビーチ」は、
北ベトナムのSAMレーダーを攻撃し、
「オクラホマ・シティ」は1972年、RIM-8Hの戦闘射撃を成功させて、
米海軍史上初の戦闘用地対地ミサイルの発射を記録しています。


さて、見学者は左下から入って反時計回りに内部を歩くのですが、
入室してすぐのところに名メイティング(嵌合)エリアがあります。

写真による弾頭組み立てエリアの説明

タロスミサイルは核弾頭と通常弾頭が使い分けられられますが、
その換装が行われるのも、ここ弾頭組み立てエリアです。


核弾頭から通常弾頭へ、またその逆に換装する場合、
使用するミサイル弾頭は天井クレーン(D)により、
下の弾頭取扱室からデッキハッチを通って吊り上げられます。

クレーンは頭上のトラック(E)に沿って弾頭を
ミサイル・アセンブリおよびブースターと結合させます。

その後、ストライクダウンカートがミサイルをレディエリアに戻します。

その後ミサイルは頭上のレールに乗って発射アームに移動します。
ここでは最終工程としてミサイルにフィンが取り付けられるので、
「フィン・ルーム」と呼ばれています。

今日はラックがレールに取り付けられて移動し、
フィンルームに行くという部分についてです。





レディサービスエリアに運ばれたブースターは、嵌合スタンドに位置され、
ミサイルと組み合わされてクレーンで持ち上げられ、
上のレディサービストレイに収納されます。


赤い目盛りのついた計器には、

NAVY CALIBRATION PROGRAM(海軍点検プログラム)
CALIBRATED(計器の点検済み)

と書かれたシールが貼ってあり、左の機器には

⇩DOWN

右には

NEUTRAL
BRAKE OFF

とあるので、おそらくミサイルを持ち上げるクレーンの操縦器でしょう。


クレーンの操縦レバーそのものはその下方赤丸で囲んだ部分にあります。

Talos Missile Handling • Cruiser Installation

ビデオは7:49からとなります。
前回同様、ビデオの説明を翻訳した文は青色で示します。

レディサービスエリアのミサイルがテストで必要となった時には、
レディサービスクレーンによって収納トレイから取り出され、
嵌合ステーションに配置される。


ここでブースターは切り離され、そしてレディサービストレイに戻される。



パワーカートでミサイルをチェックアウトエリアに移動させるが
そこでは
「TATI」テスターのケーブルが接続される。

途中で見つけたパワーカートそのもののテスト指標

「TATI」とは
TALOS Tactical Tester Equipmentを意味する。

テスターは各テストセットが自動的に実行され、
テストが正しく迅速に終了すると、
障害分離パネルの50個の赤いライトが消える。

全てのテストが完了したとき、緑のメインゴールライトが点灯する。



この時ミサイルが準備OKとなるのである。

その後、ミサイルはもう一度レディサービスエリアに戻され、

そこでブースターと嵌合されてそしてもう一度トレイに収納される。

この状態

いつでも発射可能なミサイルが装填された準備サービストレイは、
リボルバーのシリンダーとほぼ同じ仕組みでローテーションされ、
銃のチェンバー(薬室)と同じような状態になる。

つまり、このラック群が前回も説明したように全体で回転し、
必要なミサイルのラックを上のレールの真下に来るよう持ち上げるのです。



トレイはリモートコントロールパネルで任意に選択することができ、
その時特別なオーダーは必要なく、任意のミサイルをランダムに選択できる。

ミサイルの発射を選択すると、トレイは位置を定め、
ローダーレールが準備される。

するとセンタートレイホイストがミサイルをローダーレールまで持ち上げ、
レイルはミサイルのブースターシューズ(フック鉤)に取り付けられる。



奥にある黒いドアは「ファイアドア」といいます。



ファイア(発射)ドアが開くとセンタートレイが下に落ち、
ミサイルは秒速12フィートで
(結構速い)移動を始め、
ウィング&シン(Thin)エリアまで運ばれていく。



この図ではエリア1になります。




続く。