【前回までのあらすじ】岸信介内閣のキーパーソンとして政権の中枢にいた「昭和の女帝」レイ子は、タミヤ自動車専務の田宮浩二から開発中のクルマを見に来るよう誘われる。彼女は軽い気持ちで応じたが、思わぬ展開が待ち受けていた。(『小説・昭和の女帝』#24)
自動車メーカー専務のストレートな誘いに…
成人の日、タミヤ自動車のクルマがレイ子の自宅に迎えに来ることになっていた。
彼女は、政府関係者の工場視察のようなフォーマルな服装にするか、休日のドライブ向けのカジュアルなものにするか迷った挙げ句、ベージュのパンツに緑のカーディガンを着て迎えのクルマに乗った。
タミヤ自動車専務の田宮浩二は、富士山の裾野の工場でレイ子を出迎えた。
工場というものに入った経験がない彼女にとっては何もかもが新鮮だった。同年代の女性は、勤労動員によって軍需工場などで働かされた者が多かったが、政界に隠然たる影響力を持っていた真木甚八の邸宅に囲われていたレイ子は労働を強いられることはなかった。
休業日の工場はがらんとしていた。田宮は工場の生産施設の案内もそこそこに研究所のような建屋に彼女を招き入れると、「見せたいものがある」と言って、クルマを覆っていたカバーをさっと剥いだ。すると、レイ子が見たことのない赤いスポーツカーが現れた。
「これは、実にわが社らしいクルマです。良く言えば質実剛健、悪く言えば貧乏くさい、いや華やかさがないと言いましょうか……。でも、僕は結構気に入っている。大衆車のエンジンとシャシーを流用しているからスポーツカーとしては非力です。しかし、軽くて、空気抵抗を極限まで抑えたから走りはすばらしい」
「格好いいですね。わくわくします」
彼女はクルマに興味もなければ、運転したこともなかったが、なぜか興奮していた。ドアを開けると革のいい香りがして、手で撫でるとうっとりするような滑らかさだった。
「試作車ですが、安全は保証できます。乗ってみますか」
「はい。運転をお任せしてよければ」
田宮は自らハンドルを握った。工場内のテストコースを2周すると、意外なことにあっさりと敷地の外に出てしまった。
市販前の真っ赤なスポーツカーはただでさえ人目を集める。レイ子はさりげなくサングラスを掛けた。工場からほど近い熱海には岸信介総理の別荘がある。昨年の正月は河野一郎や大野伴睦らが集まって新年早々、密談をしたらしい。レイ子の顔が広く知られているわけではないが、立場上、無用な憶測を呼ぶようなことは避けなければいけない。
そんな彼女の心配をよそに、田宮はひたすら楽しそうに運転している。
「レイ子さん、今日は夕方までかかってしまってもいいですか。よろしければこれから伊豆のほうへドライブして海の幸でも食べましょう」
彼女は思わず「はい」と答えていた。田宮と初めて会った賀詞交歓会で工場見学に誘われ、OKしてしまったのと同じだ。田宮は他の男たちのように、様子見のジャブなどは打ってこない。誘うときはいつもストレートだ。
「そうですか。うれしいな。実は、このクルマと同じように、一般公開前のいい道路があるんです。スカイラインといってね。一般公開はまだ先なんですが、特別に走らせてもらいましょう」
そういうと、田宮はカーラジオをつけた。
ドライブは軽快だった。稜線を走る道には他に誰もいなかった。ラジオからは、昨年流行ったバディ・ホリーの「ハートビート」が流れていた。彼女は、もし自分が平和な時代の大学生だったら、こんなデートをしていたのかもしれないと思った。
◇
その日の夕方、レイ子と田宮は、太平洋を望む城ヶ崎の高台にいた。こぢんまりした温泉宿の一室で、目の前のグラスにシャンパンが注がれていく。
彼女にとっては緊急事態だった。永田町で働き始めてから、ここまで直接的に求愛されたことはなかった。