ジャン・アレジ(Jean Alesi, 1964年6月11日 - )とは、フランス出身の元レーシングドライバーのことである。
経歴
F1デビュー以前
父の営む自動車修理工場の敷地内で幼い頃からフランス車を運転し運転を覚えていった。
レーサーとしてのキャリアのスタートは遅く17歳の頃からカートの大会に参加し始め、1986年(22歳)の頃からフランスF3選手権に参戦。
1988年には国際F3000にステップアップ。翌1989年にチャンピオンを獲得。また、この年のフランスGPより、ティレルからF1ドライバーとして参戦。
F1参戦以降
F3000と並行してF1に参戦。ミケーレ・アルボレートに替わり1989年のフランスGPよりレギュラードライバーとなった。このデビュー戦で4位に入賞すると、その後も2度の入賞を果たし注目のドライバーとなる。
1990年はF1に専念しフル参戦を果たす。ティレルはエンジンパワーの劣るマシンであったものの、開幕戦のアメリカGPでアイルトン・セナと激しいバトルを繰り広げ2位でフィニッシュ、初の表彰台を獲得すると、モナコGPでも2位表彰台、イタリアGPではファステストラップを記録するなど光る活躍を見せた。移籍交渉の結果、当初はウィリアムズと仮契約していたものの、幼少期からの憧れであるフェラーリからのオファーを受け、ウィリアムズからフェラーリが契約を買い取る形となりフェラーリと契約することとなった。
フェラーリ初年度の1991年は開幕戦のアメリカGPでファステストラップ(決勝12位)を記録し、3位入賞3回。しかし、マシンの戦闘力の低さから大苦戦。首脳陣も離脱し、チームメイトのアラン・プロストとともにアレジも不満を度々口にするなど名門フェラーリにとって混乱のシーズンとなってしまった。
1992年はシーズン前の評判こそ高かったものの、マシンの性能が非常にピーキーであることが開幕後に発覚。リタイアも多く、格下のチームにあっさり抜かれる場面が目立つなど前年以上に苦戦。それでも3位入賞2回と意地を見せた。
1993年、アクティブサスペンションやハイテク機器の開発が思うように行かずフェラーリ低迷期は続く。そんな中、イタリアGPでは過去最高位の2位でチェッカーを受け、ティフォシ(フェラーリの熱狂的なファン)を沸かす走りを見せた。
1994年、イタリアGPで初のポールポジションを獲得・表彰台3回と、ある程度のマシンのスピードこそ取り戻したものの、信頼性は低くマシンに足を引っ張られる場面も目立った。
1995年、第6戦のカナダGPで念願の初優勝を果たす。F1参戦92戦目での優勝は当時歴代2位の遅さであった。しかしその後、監督であるジャン・トッドとの関係が悪くなり、チームオーダーを無視したことからフェラーリと決別。ミハエル・シューマッハと入れ替わる形でベネトンへ移籍することになった。
1996年、信頼性の高いベネトンのマシンで表彰台8回、入賞11回と安定した走りを見せ前年を上回る成績を残す。だが、前年までシューハッハを擁し2連覇を果たしたチームにおいて未勝利に終わり、更にアレジ自身のマシン開発能力がそれほど高くなかったことが露呈したことで評価が下降し、シーズン中盤辺りから移籍の噂が絶えなくなった。
1997年、イタリアGPでポールポジションを獲得、10回入賞し表彰台は5回の成績を残すも評価は回復せず、ベネトンを離れることを決意した。
1998年はザウバーへ移籍。第13戦のベルギーGP3位を始め4回入賞の成績を残し、チームメイトのジョニー・ハーバートを上回る成績を残し、翌年もファーストドライバーとしてザウバーと契約することに。
1999年、前年とは打って変わって低迷、シーズン中に移籍を決意したと発言したことでザウバーとの関係が悪くなり、6位入賞2回とキャリアワーストの成績となってしまった。
2000年はかつての同僚であるアラン・プロスト率いるプロストグランプリより参戦。しかし、戦闘力の低いマシンで大苦戦。キャリア初のノーポイントに終わった。
2001年もプロストグランプリより参戦。資金不足ではあったものの、フェラーリエンジンを得たプロストのマシンは前年より戦闘力が増し、モナコGPで6位に入賞すると次のカナダGPで5位に入賞。
しかしその際に高額の無線機を付けたままのヘルメットをスタンドに投げ入れてしまう。資金難にあえぐチームにおいてこの出費は非常に痛手になったようで、関係に亀裂が入り、第12戦のドイツGP後にチームを離脱。空席となっていたジョーダンへ移籍。
第14戦のベルギーGPで入賞したものの最終戦の日本GPで引退を表明。ラストランはキミ・ライコネンのクラッシュに巻き込まれリタイアとなった。プロストグランプリ移籍からラストランの前戦までリタイアが無く、17戦連続完走は当時のF1記録であった。
F1引退後
2002年~2006年にドイツツーリングカー選手権(DTM)に参加し、5年間で5勝をあげた。
他にも2010年にはジャンカルロ・フィジケラらとル・マン24時間耐久に出場したり、2012年にインディ500にエントリーしていた。
人物・エピソード
- 果敢に攻める熱い走りが持ち味のドライバー。スタートや雨のレースも得意としていた。
- ファンやメディアからは「記録よりも記憶に残るドライバー」と称されることが多い。
- コーナーを曲がる際に首をイン側に傾ける癖があり、ステアリングの握りもやや上の位置(時計で例えると11時5分の位置)を握っていた。
- 尊敬するドライバーはフェラーリのエースであったジル・ヴィルヌーヴ。92年からはジルが使用していたフェラーリのエースナンバー「27」を使用していた。
- 全盛期を低迷期のフェラーリで過ごし、元々ウィリアムズと仮契約していた事から「もっと勝てた」「フェラーリでなければ」と論じられることが多いが、本人はフェラーリを選択したことに後悔はない模様[1]。
- チームメイトとして5シーズン戦ったゲルハルト・ベルガーとは親友と呼べるような関係であり、お互いに祝福したり心配しあうなど、仲の良さを感じ取れるエピソードが多数あり、良好な関係であった。
- 妻は女優やモデルとして活躍した後藤久美子である。籍は入れておらず事実婚状態である。久美子との間に3子を儲け、長男ジュリアーノ・アレジはレーサーとして活動、日本を拠点にSUPER GTやスーパー耐久に参戦している。
- 出身のフランス以外に、低迷期のフェラーリでの活躍や両親がイタリア人という出自からイタリアでも人気が高い。また日本では、後藤久美子との熱愛報道がされて以降、連日メディアで取り上げられた影響でレースファン以外にも知名度が高い。
- ファンだけでなく関係者からも親しみを持たれており、引退記念パーティーには多くのドライバーや関係者、これまで所属したチームの監督らが参加した。
- ソムリエの資格を持ち、ぶどう園を経営しており、ワインの出荷・生産も行っている。