基本データ | |
---|---|
正式名称 | タンザニア連合共和国 Jamhuri ya Muungano wa Tanzania |
国旗 | ![]() |
国歌 | 神よ、アフリカに祝福を |
公用語 | スワヒリ語 |
首都 | ドドマ(実質的にはダルエスサラーム) |
面積 | 945,087km²(世界第31位) |
人口 | 約4千万人(世界第30位) |
通貨 | タンザニア・シリング(TZS) |
概要
「連合共和国」であるのはそれぞれ別にイギリスから独立したタンガニーカとザンジバルが合併することで「タンザニア」が成立したという経緯があるため。
このような経緯のため、ザンジバルはタンザニア国内の中でも広範囲な自治権が認められている(立ち位置的には香港に近い)。
ちなみに「タンザニア」という国名は「タンガニーカ」と「ザンジバル」、古代アフリカ南部で栄えた「アザニア文化」を組み合わせて作られた造語であるらしい。
アフリカ諸国の中では珍しくアフリカ在来の言語(スワヒリ語)を公用語として普及させるのに成功しており、スワヒリ語の普及は「タンザニア国民」の意識の形成に大きく寄与していると評されている。
建国以来、中華人民共和国とは長らく友好的な関係であり2013年には習近平がタンザニアを訪問している。
歴史
紀元1世紀頃に書かれた「エリュトゥラー海案内記」という書物にタンザニア沿岸部は「アザニア」として紹介されており、古くからインド洋交易圏の一角を占めていたと考えられている。
7世紀にイスラーム教が成立するとアラブ系ムスリムが東アフリカ沿岸部を往来するようになり、東アフリカ沿岸地域(現ソマリア・ケニア・タンザニア・モザンビーク北部)ではスワヒリ文明が発達した。
13世紀には現タンザニア領のキルワ島の王国が勢力を拡大し、東アフリカ最大の国家として成長した。世界中を旅した旅行家イブン=バットゥータはキルワの都市を「世界でもっとも美しく、計画だって整えられた都市の一つ」と評しており、当時の繁栄が伺える。
ポルトガルの進出によってキルワの繁栄は終わりを迎えたが、17世紀末にはオマーンがポルトガル勢力を追い払って東アフリカ沿岸部を支配した。1830年代には首都がザンジバルに移され、「オマーン海洋帝国」と評される全盛期を築いた。
帝国主義時代が訪れるとザンジバル島をイギリスが、大陸側(タンガニーカ)をドイツが支配し、タンガニーカはブルンジ・ルワンダとあわせてドイツ領東アフリカとされた。第一次世界大戦が勃発するとパウル・フォン・レットウ=フォルベック大佐が三方を取り囲む連合国を相手に八面六臂の活躍を見せ、他のドイツ植民地が1、2年で降伏していった中で本国ドイツが降伏するまで大戦を戦い抜いた。
第一次世界大戦後にはタンガニーカはイギリスの委任統治領となり、他の英領(ウガンダ・ケニア)とともに関税同盟が敷かれた。ちなみに英領時代の国旗はそのシュールさから一部で人気である。
1961年にタンガニーカが、1963年にザンジバルが独立し、両者は1964年に合併して「タンザニア連合共和国」が成立した。
国土・経済
アフリカ最高峰のキリマンジャロ山、アフリカ最大の湖ヴィクトリア湖、アフリカ最深の湖タンガニーカ湖と非常に雄大なスケールの自然環境が特徴である。
タンザニアはGDPの約半分を農業が占める農業国であり、特にキリマンジャロ山麓のコーヒー栽培は世界的に有名である。