何晏とは、三国志に登場する人物である。
後漢の大将軍だった何進の孫。
概要
字は平叔。母の尹氏が曹操の妾となったため、曹操に養育され、曹操の娘である金郷公主を娶った。
同じ曹操の養子だった秦朗が控えめだったのに対し、何晏は派手好みで太子同様の出で立ちをしていたという。このため曹丕からは「養子」と呼ばれ嫌われ、曹叡の代でも閑職に就けられていた。
曹叡の死後に曹爽が権力者となると曹爽と親しかった何晏は散騎侍郎、侍中尚書に出世し政治の表舞台に登場した。当時曹爽の取り巻きだった丁謐、鄧颺らと政権を壟断したため、落書で「宮中に三匹の犬あり、二匹は人に噛み付き側にもよれず、一匹は黙に取り付き癌となる」と批判されたという。
249年(正始10年)正月、司馬懿がクーデターを起こし曹爽の一味を捕らえ尽く処刑した。何晏は最初、曹爽らの裁判を命じられ、助かりたい一心から丁謐、鄧颺ら七人の名前を書き出した。司馬懿は「もう一人いるぞ」と問い詰め、何晏は「私のことでしょうか」と言うと司馬懿はその通りと頷き、何晏を捕らえ断罪したのである。
祖母の尹氏の嘆願もあり、何晏の5,6歳だった遺児は助命された。史書には、占い師の管輅が何晏の破滅を的中させた話が記載されている。
正始の音
何晏は政治家よりむしろ学者としての業績で知られる。現在残っているものとしては最古である、論語の注釈書『論語集解』を著した。また、老荘思想の学問『玄学』を興し、自ら『老子道徳論』を著し、王弼らと盛んに議論を行い、後の竹林の七賢に見られる清談の先駆けとなった「正始の音」を創始した。
何晏は夏侯玄や司馬師らと親しく、彼らを評価していたが自分のことを神になぞらえるなど相当な自信があったようである。
何晏は大変なナルシストで、常に白粉を粉飾したとも、歩く時に自分の影をうっとり眺めたと言われる。曹叡がこれを訝しんで真夏に湯餅(うどん)を食べさせると、大汗をぬぐった何晏の顔色はさらに白かったという話が『世説新語』にある。
その一方で五石散という一種の麻薬の効果を広く宣伝している。五石散を服用すると体に熱がこもり、これを発散させないと死ぬとのことで絶えず歩き回ったことが「散歩」の語源になったとされる。
家族
- 何進 - 祖父。後漢の大将軍
- 父(名前不詳) - 一説によると「何咸」という名前だったとも
- 尹氏 - 母。曹操の妾となる
- 曹矩 - 曹操と尹氏の間の男子、何晏にとって異父弟にあたる。夭折している
- 金郷公主 - 妻。曹操と杜氏(沛王太妃)の間に出来た娘。三国志の注にある『魏末伝』では何晏の同母妹だったというトンデモ説が載っている(裴松之は否定しているが)
- 子(名前不詳) - 何晏が誅殺された時5,6歳で、助命されている
各メディアにおける何晏
蒼天航路
浅野忠信。曹植とはちーちゃんと呼ぶ仲で、五石散のおかげでヤク中。
曹操から命じられて儒学の道に進んだことになっている。
三国志大戦
一度Ver2.1で出て、排出停止になった後にVer3.59で再登場。
どちらのバージョンでもそれなりの性能を有している。