ゲオルギ・ディミトロフ
この記事は英語版、ブルガリア語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2022年6月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。
|
ゲオルギ・ディミトロフ Георги Димитров | |
---|---|
| |
生年月日 | 1882年6月18日 |
出生地 | ブルガリア公国、コヴァチェフツィ |
没年月日 | 1949年7月2日(67歳没) |
死没地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ |
所属政党 |
ブルガリア労働者社会民主党 → ブルガリア共産党 |
在任期間 | 1948年12月27日 - 1949年7月2日 |
在任期間 | 1946年11月23日 - 1949年7月2日 |
共和国臨時評議会議長 | ヴァシル・ペトロフ・コラロフ |
共和国議会幹部会議長 | ミンチョ・コレフ・ネイチェフ |
ゲオルギ・ディミトロフ(ブルガリア語: Гео̀рги Димитро̀в Миха̀йлов, ラテン文字転写: Georgi Dimitrov Mihaylov, 1882年6月18日 - 1949年7月2日)は、ブルガリアの政治家、共産主義者。ブルガリア人民共和国の閣僚評議会議長(首相)、コミンテルン書記長、ブルガリア共産党書記長を務めた。
来歴・人物
[編集]少年時代に植字工となり、1901年、印刷工労働組合の書記に選任された。1902年、ブルガリア労働者社会民主党に入党、同党の分裂後、同党左派(のち共産党)に加わり、中央委員、1918年、政府の戦争政策に反対して運動し投獄された。1921年、コミンテルン第3回大会に出席。1923年、ブルガリアの9月蜂起の指導に参加したが失敗し、国外亡命。欠席裁判で死刑判決を受ける。
亡命中、ブルガリア共産党中央委員会国外事務局委員として活動したが、1933年、ベルリンで発生したドイツ国会議事堂放火事件に関与した容疑で逮捕される。裁判で検察を論破し、翌年、無罪釈放された。1935年、コミンテルン書記長となる(43年まで)。1935年、コミンテルン第7回大会で反ファシズム統一戦線戦術を提起し、採択された。しかしその後、独ソ不可侵条約締結により、スターリンの指示で反ファシズム統一戦線戦術は棚上げされた。
1945年、第二次世界大戦終結後、1946年11月26日にブルガリアに帰国し首相に就任[1]。しかし1949年、療養先のモスクワ近郊で死去した。
死後
[編集]遺体は保存処理され、ソフィアのディミトロフ廟に埋葬されたが、1990年にブルガリア共産党の下野に伴いソフィアの中央墓地に埋葬され、廟も1999年に撤去された。
また、2000年にはディミトロフが1933年から没する直前まで記していた日記が発見され、「The Diary of Georgi Dimitrov(ディミトロフ日記)」と題して各国語に翻訳して出版され、当時のコミンテルンの内情を記した貴重な史料となった(日本語翻訳は未刊行)。
その他
[編集]小惑星(2371) Dimitrovはディミトロフの名前にちなんで命名された[2]。
脚注
[編集]- ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、355頁。ISBN 4-00-022512-X。
- ^ “(2371) Dimitrov = 1920 EA = 1952 UG1 = 1952 UQ1 = 1954 EY = 1967 RV = 1975 VR3 = 1978 NK2 = 1981 GU”. MPC. 2021年9月26日閲覧。
参考文献
[編集]- ステラ・ブラゴエワ『ゲオルギイ・ディミトロフ』1970、恒文社
- 『ディミトロフ選集』全3巻、1972、大月書店
- 『反ファシズム統一戦線』大月書店国民文庫(ISBN 4-272-84250-1)
- The Diary of Georgi Dimitrov, 1933-1949 (Annals of Communism)/Yale Univ Pr
外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、ゲオルギ・ディミトロフに関するカテゴリがあります。
公職 | ||
---|---|---|
先代 キモン・ゲオルギエフ |
ブルガリア人民共和国 閣僚評議会議長 第2代:1946 - 1949 |
次代 ヴァシル・コラロフ |