演歌師
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演歌師(えんかし)は、明治末期ないし大正から昭和にかけての日本において、演歌を歌うことを職業とした芸人[1][2]。
概説
[編集]もともとは、おもに大道を流し歩いて歌の歌詞を書き付けた歌本を販売するのが一般的であったが[1][2]、後には座敷芸、寄席芸として歌を披露することも行なわれた。伴奏楽器としてはおもにヴァイオリンやアコーディオンが用いられ、自分で楽器を演奏しながら歌う形態が一般的であった[1]。第二次世界大戦後になると、流しの異称、ないし、一形態として了解されるようになり、伴奏楽器もギターが用いられることが多くなった。
おもな演歌師
[編集]- 添田唖蝉坊(1872年 - 1944年)
- 塩原秩峰(1880年 - 1937年)
- 東一声(1886年 - 1950年)
- 神長瞭月(1888年 - 1976年)- 演歌にヴァイオリンを最初に用いた[3]。
- 宮島郁芳(1894年 - 1972年) - 代表作に「金色夜叉」「馬賊の歌」など[4]。
- 鳥取春陽(1900年 - 1932年)
- 石田一松(1902年 - 1956年)
- 添田知道(1902年 - 1980年)- 添田唖蝉坊の長男、芸名は「添田さつき」。
- 桜井敏雄(1909年 - 1996年)-「最後の演歌師」と称された[5][6][7]。
- 岡大介(1978年 - )- カンカラ三線を使う。
継承の取り組み
[編集]なぎら健壱は、晩年の桜井敏雄の教えを受け、レパートリーの継承に取り組んでいる。ただし、演歌師の演奏形態や風俗などの復元の意図は示していない。
打楽器奏者の土取利行は、三味線伴奏により、添田父子作品の継承に取り組んでいる[8]。
声優の片岡一郎は、活動弁士などの芸とともに、ヴァイオリン演歌の継承にも取り組んでいる。
関連項目
[編集]- 上原げんと - 作曲家、無名時代はギターをもって演歌師として活動していた
- 志摩八郎・辰巳柳子 - 演歌師のスタイルを取り入れた音曲漫才
- 北島三郎、渥美二郎 - 演歌師からレコードデビューしメジャーになった主な演歌歌手。演歌師時代は上原同様ギターを持って活動
- 書生節
- まっくろけ節
- 法界屋
- 演歌
出典・脚注
[編集]- ^ a b c デジタル大辞泉『演歌師』 - コトバンク
- ^ a b “図書室だより:第3回 テーマ「書生節 演歌師たちの世界」”. 日本伝統音楽研究センター. 2014年1月26日閲覧。
- ^ 時雨音羽編著『増補版 日本歌謡集 明治・大正・昭和の流行歌』現代教養文庫、1971年 p.21
- ^ “宮島 郁芳 : じんぶつデータ&資料一覧 | 柏崎市WEBミュージアムデータベース”. 柏崎市WEBミュージアム. 柏崎市. 2022年10月13日閲覧。
- ^ “[遺された言葉]桜井敏雄さん あたしじゃなくちゃ歌えない歌を、歌い続けたい”. 読売新聞・夕刊: p. 9. (1996年4月6日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ “世相を語るバイオリン演歌 芸術祭賞受賞の桜井敏雄さん”. 朝日新聞・東京朝刊・東京. (1989年12月2日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “桜井敏雄氏死去”. 朝日新聞・朝刊: p. 31. (1996年2月27日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “土曜訪問 魂なき世に刻む使命 希代の演歌師を伝え歌う 土取利行さん(パーカッショニスト)”. 東京新聞. (2013年11月9日) 2014年1月26日閲覧。