- グレッグ・テイト・インタビュー
- アンダーグラウンド・レジスタンス・インタビュー
- ニーナ・シモン ただひたすら、革命を夢見た音楽家 野田努
- 黒い年代記 小林拓音
- ギル・スコット=ヘロン by James Hadfield
- 100年後のパンデミックとポリス・ブルータリティ 日暮泰文
グレッグ・テイト・インタビュー
(略)
――歴史的コンテキストにおいて、ギャングスタ・ラップの意味を説明していただけますか?
西海岸から発祥したギャングスタ・ラップの「ギャングスタ」とは、70年代の黒人コミュニティ、とくにLAサウス・セントラルのギャングからきている。彼らは60年代に白人が大多数の地区へ移り住んできた黒人による自衛集団だった。当初は白人からの攻撃に対する自衛だったが、やがてそのなかから小さな犯罪を犯す集団が出てくる。それがブラックパンサーによりラディカライズされていく。ブラックパンサーがFBI、政府によって解散に追い込まれた後、そういった集団は自分たちの武器に頼るしかなくなり、犯罪に手を染める者も増えていく。と同時に、彼らはコミュニティのカルチャーを代表する存在にもなっていく。そしてそのカルチャーは刑務所へとつながっていく。多くのメンバーが犯罪の結果刑務所に入ることになるからね。
(略)
刑務所内で元ブラックパンサーのメンバーと出会って、自分たちがどこからきて、何者なのかという思想が引き継がれることになる。同時にクラック(麻薬)がビジネスとしてコミュニティに入ってきて、ギャングは真の犯罪組織へと発展していく。クラックがアメリカ政府によって、レーガンの時代にわざと黒人コミュニティに広められたのは事実だ。エルサルバドル、ニカラグアなどとの戦争資金をあげるために。ウェストコーストのギャングスタは非常に複雑な成り立ちと構成だ。(略)
アンダーグラウンド・レジスタンス・インタビュー
(略)
マイク・バンクス(MB) (略)もうひとつ言いたいのは、デトロイトのアーティストたちがデトロイトを去ってヨーロッパや日本やいろいろな国で長い時間を過ごしていることを不思議に思う人たちもいるかもしれない。(略)
例えばジェフ(・ミルズ)はアン・アーバーの警察に目をつけられていた。警察は彼がかける曲が気に入らなかったし、ジェフをアン・アーバーから追い出そうとした。デリック(・メイ)にしたってカール(・クレイグ)にしたってみんなそういったストーリーを持っている。でも俺たちはいわゆるステレオタイプではないから、警察に撃たれることは避けられたけどね。
アメリカは恐ろしいところなんだよ。海外から戻ってきて温かく迎え入れられるかと思ったら税関や入国でいちゃもんをつけられる。アメリカは俺たちにとっては決して自由や勇気の国ではない。黒人が好意的に報道されるのはオリンピックと戦争のときだけ。そのときだけアメリカ人で、あとはニガーだ。コーネリアスは大学の修士号も持っているインテリジェントな奴だが、彼でも警察からハラスメントを受けることはある。
コーネリアス・ハリス(CH) ジェフがアン・アーバーでハラスメントを受けていたとき、僕は高校生でアン・アーバーに住んでいた。警察に苦情が来たのは、ジェフのイベントの日に黒人がたくさん集まるという理由からだった。学生の街に「危険要素」を持ち込むという理由で、ジェフはアン・アーバーから追放された。(編注:郊外のアン・アーバーはデトロイトと違って中流家庭が多く、また白人も多い)
MB デトロイト市内でも警察は問題だが、郊外に出るとさらにタチが悪い。日が暮れると黒人はターゲットになり、医者、弁護士、政治家、どんな身分であろうと関係ない。そうやって郊外と市内を分断している。これはデトロイトに限ったことではなく、バルティモア、フィラデルディア、アトランタなども同じなんだ。アメリカ中どこでも黒人は同じような状況下で生活をしている。
だからDJはなるべく海外でブッキングされるように長期間ホームタウンを離れているようにしている人も多い。でもそれは音楽に影響を与える。レイシズムは音楽にも影響を与えている、長く家を留守にしていればおのずと曲を制作する時間もなくなるからな。
(略)
CH アメリカの黒人の歴史では、ある程度の成功を収めると必ずその成功を踏みにじろうとする力が現れてくる。オクラホマ州タルサは、豊かな黒人コミュニティが存在していたが、そこに爆弾が落とされた。アメリカ政府の飛行機からだ。街は破壊され多くの命が失われ、生き延びた人も街を去らなくてはならなかった。キング牧師をはじめ市民権運動があり、良い方向へと向かっていたが、政府は市内(黒人が多く住む地区)にクラック(ドラッグ)を持ち込み、ポジティヴな動きを止めようとした。これがパターンだ。
(略)
デトロイトに関していうと、警察が黒人に暴力を振るっているなか、黒人の市長が選出された。これで人種差別も改善されると期待されたが、巨大ショッピング・モールをデトロイト市外に乱立し、デトロイトに住んでいる人たちが市外に金を落とすようになった。これは市の地元経済に大きな打撃を与えた。デトロイトが成功して前例にならないように力が働いたんだよ。レイシズムのない街が成功しないようにとね。
(略)
MB (略)デトロイトの教育システムは一時最低レベルで、白人の教師はほとんどいなくなってしまった。俺はラッキーで素晴らしい英語教師と出会った。彼女は教科書は使わずに、ジェイムズ・ボールドウィンなどの黒人作家のことやほかにも思想家について、彼女のやり方で教えてくれた。もしも与えられたカリキュラムの通りの教育だったら、そういったことはいっさい学べなかっただろう。労働力を作ることだけが教育の目的なんだからね。工場に勤めるか、軍隊に入ることしか求められていない。教育システムは黒人を大きく不利にしている。俺は中学で金属溶接を習った。(制服の)ネクタイが挟まったら頭がぶっ飛んでしまうような巨大な機械があるところだが、なんで12歳、13歳の子供がそんなことを学校で習わなきゃならないんだ?
(略)
オクラホマ州タルサ(編注:1921年白人が繁栄していた黒人街を攻撃したタルサ人種虐殺)のことは知ってるか?黒人は知っているけれど、学校で教えられたことはない。俺は教会で教わった。アメリカの白人の子供たちは学校の授業で、これまで黒人がどんな目にあってきたかを習うことはないんだよ。だからいま、彼ら白人もプロテストに加わっている。俺はこれをとても誇りに思うよ。
(略)
URは新しいプロジェクトにすでにとりかかってる。もうしばらくの辛抱だ。(略)いままさにアルバムを制作しているんだ。(略)
この10年は工事に勤しんでいたし、持っている機材に飽きてしまっていたんだ。コルグから新しく発売された機材は、昔の機材のように反応がすごく速い。またしても日本人が変化をもたらしたよ。近頃の機材は値段が高過ぎて、ヒップホップ、テクノ、ハウスなど貧しいエリアから生まれてきたジャンルのアーティストには手に届かないモノばかりだろ。テクノの人気が出て、アナログシンセやキーボードが4000ドル、5000ドルというような高値で発売されて、金持ちだけの物になってしまった。でも金持ちの子供の生活はファンキーじゃないから、ファンキーな音楽はそこから生まれてこない。だから俺は機材会社にもっと安い機材を作って欲しいと頼んだ。そのとき、コルグのカトウ・タツヤという人が協力してくれた。彼のおかげだよ、また音楽を制作することになったのは。彼はトロントの学校に行っていたのでコミュニケーションもスムーズだ。以前アカイと連絡を取り合ったけれど、コミュニケーションの問題があって、できてきた機材は俺に使えるものではなかった。
Teenage Engineering も良い会社だ。素晴らしい機材を作っている。安くて、機能的で、ファンキーだ。俺は正確性とかその他の機能は必要ない、ファンキーであればいい。新しいアルバムを楽しみにしている。この秋にも完成するかもしれない。
(略)
ニーナ・シモン ただひたすら、革命を夢見た音楽家 野田努
(略)
「ワシントン大行進」から数週間後、アラバマ州バーミンガムにて、KKKにより教会が爆破され、学びに来ていた黒人少女4人が死んだ。悲しみを怒りに変換したニーナは、有名な"ミシシッピ・ガッデム"を書いた。「ガッデム(くそったれ)」という言葉を歌う人など男でもまだいない時代、その直球のプロテスト・ソングを歌うと場内は静まりかえった。この曲が彼女の意志で翌年シングル盤になると、いくつかのレコード店からは段ボールごとの返品があり、なかのレコードは割られていたが、それを見てニーナは思わず大笑いしたと、彼女の自伝に記されている。
1968年4月4日、キング牧師が暗殺された3日後、彼女は新曲"ホワイ?(The King Of Love Is Dead)"をライヴで披露した(※アルバム『'Nuff Said!』収録)。「彼のために書いた曲です」というMCの後に、ピアノとともに彼女は歌う。「かつてこの地球という惑星に、同胞のために愛と自由を説きながら慎ましく生きた人がいた」「殺されることを悟りながらも、彼は逃げも隠れもせず、休むこともしなかった」
(略)
[黒人女性というだけでビリー・ホリデーと比べられることを彼女は嫌悪した]
そもそも彼女はジャズ・シンガーではない。ニーナのもともとの夢は、アメリカで黒人として最初にカーネギーホールで演奏するピアニストになることだった。
彼女は南部の貧しい出だが(略)3歳のときからピアノを習い、ゴスペルと同時にバッハを練習した。優秀な成績で高校を卒業すると奨学金を得て名門ジュリアード音楽院に進学したが、さらにレヴェルの高いカーティス音楽院の試験には受からなかった。無名の黒人であり、女であり、貧しい黒人女学生だったからだ。生活費を稼ぐためにナイトクラブで演奏するようになったことは大衆音楽への架け橋となったが、彼女の高度な演奏はクラシック音楽からきている。
(略)
クラシックを学んだ彼女は大衆音楽における技術の低さに愕然とし、それで喜ぶ聴衆にも失望したが、プロテスト・ソングを歌うようになってから、音楽とは知識や技術で聴くものではないと思えるようになった。(略)
彼女はあるとき、マサチューセッツ大学での公演中にこう言った。「ここにいる1万8千人の学生のうち黒人は300人。この曲はその300人のために歌う」、それが後にアレサ・フランクリンやダニー・ハザウェイをはじめ、ジャマイカのボブ・アンディとマルシア・グリフィス(略)にもカヴァーされる"To Be Young,Gifted And Black"だった。「若く、才を与えられ、そして黒い/ああ、その胸に抱く夢はなんとプレシャスで愛らしいことか」
(略)
リーダーたちが殺され、投獄され、組織が解体し、政治の季節が終わるとニーナはアメリカを離れ、そして二度と戻ることはなかった。
黒い年代記 小林拓音
(略)
[奴隷貿易は]18世紀に全盛を誇ることになるが、その過程で奴隷たちは――頻繁に蜂起もしていたとはいえ――逃亡したり自殺したりできぬよう拘束され拷問され、あるいは「商品」にならなくなった死体は海へと遺棄された。奴隷船はまさに「移動する監獄」だったのである(これは今日の刑務所の問題にもつながっていく)。
(略)
現在のアメリカ合衆国に"初めて"黒人奴隷が連れてこられたのは1619年だとされている。(略)
もともとかの地で強制労働を課せられていたのはイギリスの罪人や貧者たちだったが、じょじょに黒人奴隷を使役する方向へとシフト、1662年にヴァージニアが法的に黒人奴隷制を保障したのを皮切りに、およそ1世紀をかけて13植民地すべてで奴隷制が合法化されていく(略)
ボストン・ティーパーティ事件(1773)を経て革命運動が勃興、そこには黒人も参加していたにもかかわらず、1776年7月4日の独立宣言において、黒人(と先住民)は「自由と平等」から排除される(略)1789年に制定された合衆国憲法によって(略)奴隷制が明確に保障されることになった(1793年には逃亡奴隷とりしまり法も成立)。
とはいえ独立戦争のこの時期、フィラデルフィアでクエーカー教徒により世界初の奴隷制反対協会が設立されたり(1775)、1777年のヴァーモントをはじめ北部では奴隷制が廃止されたり、あるいは南部の一部でもコスパ的な理由から奴隷が解放されたりするような動きも起こっていた。
(略)
黒人たち自身によって種々の抵抗が試みられる一方、白人の奴隷廃止主義者や、諸事情により奴隷から解放されていた自由黒人たちによって「地下鉄道」が組織され、ハリエット・タブマンらが北部やカナダなどへの奴隷の逃亡を支援、ジャーマン・コーストの蜂起(1811)のような武力闘争も勃発している。
他方、白人の一部は黒人奴隷をアフリカへ「帰す」ことを目指すアメリカ植民教会を設立し(1816)、じっさい1821年にはモシロヴィア(現リベリア)への最初の移住がおこなわれているが、ようするにそれは「白人と黒人は仲良くできないので、見えないところへ追い払え」という隔離政策であり、反発も招いている。奴隷制廃止主義者デイヴィッド・ウォーカーもその批判者のひとりで、彼は白人の殺害を肯定するパンフレットを著しているが(1829)、それに応答するかのように1831年には大規模なナット・ターナの武力蜂起が発生。他方、よりソフトなかたちで奴隷制廃止運動を展開した指導者に、黒人もアメリカ社会に同化できると考えた元逃亡奴隷のフレデリック・ダグラスがいる(人種のみならず性における平等も主張)。
なおこれらの抵抗には、フランス革命(1789)後にサン=ドマング(現ハイチ)で起こった大規模な奴隷蜂起も影響を与えていたにちがいない。
(略)
ブッカー・T・ワシントンは、黒人たちが実学に励み経済的自立を達成することによって中産階級を形成すれば、白人たちもそれを無視できなくなる――との考えにもとづき、専門学校の創立などタスキーギと呼ばれる運動を展開するが、そのワシントンを著書『黒人のたましい』(1903)で批判したのがE・B・デュボイスだった。実学よりも高等教育の重要性を説く彼の啓蒙活動はナイアガラ運動と呼ばれ、1909年にはその思想を汲んだ全国黒人向上協会(NAACP)が結成される。これにやや遅れるかたちでワシントンのほうの流れを汲む団体、全国都市同盟(NUL)も設立されている
(略)
そのデュボイスが「帝国のための戦争」だと喝破した第一次世界大戦では、従軍した黒人兵士たちがフランスで人間として扱われ、黒人たちの精神面に変化がもたらされる。また戦後経済の活況により労働市場も変化し、1910~30年代に黒人たちは南部から北部へと大移動を繰り広げる。1919年のシカゴの暴動はそのような社会の変容を象徴しているが、1921年にはオクラホマ州タルサで、白人たちによるあまりにも過激な虐殺がおこなわれ、アメリカ史上最悪の事件とまで呼ばれることになる。
この時期に擡頭した指導者がマーカス・ガーヴェイである。(略)
KKKにも歓迎されたアフリカ帰還運動を提唱し(略)、「神は黒人」などの発言で後のブラック・ナショナリズムやフランス語圏のネグリチュード運動に影響を与える。(略)
[レーガン政権下]
ドラッグの蔓延を打開するとの名目でとりしまりが強化され、尋問や所持品検査など警官の権限が拡大、(有色人種にたいして差別的な)レイシャル・プロファイリングが(略)貧しい黒人たちを直撃、刑務所収監者数が急増していく。この方針は(略)
90年代のクリントン政権においても引き継がれ、監獄人口は1970年から2006年のあいだに7倍にも膨れ上がった。その過程で監獄の民営化も進み、建設や誘致、囚人の使役などで収益を上げる監産複合体(prison industrial complex)が形成されていく。奴隷貿易から4~500年が経ったいま、ふたたび監獄と、警察とりしまりと、そこから利潤を生み出す資本主義が黒人たちを食いものにしているのである。(略)
ギル・スコット=ヘロン by James Hadfield
人によっては彼が冗談好きのふざけた奴だったことを忘れてしまっている。だがギル・スコット=ヘロンの作品のなかに広がっているウィットは、彼の一番有名な曲のリフレインを聴けばすぐに分かることである。(略)
"革命はTVに映らない"は、解放のための闘いをスポーツか何かのように扱うことができると考えている者たちに行動を呼びかけるものだった。そしてまたそれは、街頭に出かけるかわりに人をソファから動かさずにおく消費文化が蔓延している状況を、茶化しておちょくってみせるものでもあった。
そのなかでスコット=ヘロンは、「革命は君を5ポンド細く見せたりしない」と忠告している。あるいはまたいわく、「革命とコーラは合わない」とも。彼はブラック・パワーの桂冠詩人だったが、自分のメッセージを膨らませるためにいったいどこでユーモアを使い、どこでそれを休ませるべきか知っていた。
「君の人生は『黒人は団結するべきだ』なんて台詞よりも豊かなものじゃなきゃいけない」。62歳で亡くなる前年の2010年(略)聞き手である『ニューヨーカー』のアレック・ウィルキンソンにたいし、そんなふうに言っている。「君はそう望んでいるだろうけど、1日24時間ずっとそう思ってるわけじゃないだろ。楽しんでいないんだったら死んだほうがマシだ。そんなんじゃ無駄なプログラムをこなしてるだけだからな。すくなくとも私はそう思っているよ」
1990年代のUKで育った私は、彼の音楽を聴く以前にその声を知っていた。ソフトドリンクのシュールなCMでキャッチフレーズの部分を担当していた彼は、その特徴的なバリトンの声で、「飲んだらわかるぜ、タンゴ」と言っていたのだ。声を聞くかぎりどうやら彼は、そのCMを楽しんでやっていたようだった。
だがにもかかわらず、後の世の人びとというのはおうおうにして物事をフェアには見ないものだ。スコット=ヘロンの場合、彼はその代表曲のタイトルと、「ラップのゴッドファーザー」という、彼がまったく望んでいなかった異名に還元されてしまうことになった。
たしかに、言葉と音楽を混ぜあわせた彼の画期性はヒップホップの先駆といえるものであり、パブリック・エネミーのような政治参加をおこなうグループに直接的な影響を与えるものだった。だがとはいえ、彼のことを発展途上のMCと見なすのだとしたら、それは誤解と言うものだ。自分自身の目からすれば彼は、一人の「ブルース学者」であり、南部のブルースの伝統や、ラングストン・ヒューズのような黒人文学の代表者たちに連なるものだったのである。
スコット=ヘロンにとってブルースは黒いアメリカの本質であり、初の奴隷船が着港して以来いまにいたるまで語られつづけている、現在進行形の物語だった。1976年の『イッツ・ユア・ワールド』に収録された"バイセンテニアル・ブルース"のライヴ録音のなかで彼は(略)次のようなリフを繰りひろげている。「ブルースは成長している。だがこの国は違う/ブルースはこの国が忘れたことのすべてを覚えている」
(略)
彼の言葉はいまも、ブラック・ライヴス・マターのなかに反響しているのだといえる。(略)反アパルトヘイト運動を歌った彼の1975年の曲"ヨハネスバーグ"が思いだされる。「血が流れだすのを見るのは悲しい/だけど抵抗が発展していくのを見るのは嬉しいことだ」
(略)
スコット=ヘロンは、公民権運動の時代を駆りたてた革命的熱狂と、それにつづいた1970年代以降の幻滅を、同時に伝える存在だった。
(略)
"ウィンター・イン・アメリカ"のなかで彼は、「癒す者たちはみんな殺されたか、さもなくば裏切られてしまった」と歌っている。「だからもう誰も戦っちゃいない。なぜなら何を救えばいいのか、もう誰も知らないからだ」
だがその政治的な主張の激しさにもかかわらず、彼のもっとも力強い曲のいくつかは、"ピーシーズ・オブ・ア・マン"におけるクビになり絶望に打ちひしがれた男や(「俺はあいつがめちゃくちゃになるのを見た/いつもはあんなにいいやつだったのに」)、"ザ・ボトル"におけるアル中たち(「あいつは自分の女房の結婚指輪まで/ほとんど全部を質に入れた/たったひと瓶の酒のために」)のように、自身の身の周りの人間たちの生活を記録したものだった。
(略)
自分が警告していたのと同じ悪魔によって彼が倒れたことの皮肉さは、どうしようもなく高まった。一九七八年の"エンジェル・ダスト"のなかで彼は、「行き止まりの道を下っていく、後戻りはできない」と打ちあけている。ドラッグの危険性を歌うこの曲はマイナー・ヒットとなると同時に、彼自身が向かっていく先を予言するものになってしまった。
録音作品上のスコット=ヘロンのキャリアは、実質的に一九八二年の『ムーヴィング・ターゲット』で終わっている。彼の人生の最後の十年は、刑務所を行ったり来たりするもので、最初はドラッグの所持、そして司法取引違反の罪がつづいた。
だが2010年、XLレコーディングの代表であるリチャード・ラッセルのプロデュースによる16年ぶりのアルバム『アイム・ニュー・ヒア』とともに、彼は戻ってきた。そこで聞かれる荒涼としたエレクトロニックな音には、『ニューヨーカー』の紹介記事のなかに漂っていたのと同じ墓場のような陰鬱さがあった。この記事は、スコット=ヘロンを、かかってくる電話を無視して家のなかに引きこもり、クラックを吸う幽霊のような世捨て人として描くものだった。
批評家たちから賞賛を受けたにもかかわらず、このアルバムは陰鬱な墓碑銘と言うべき作品だった――そしてだからこそ、ここ最近になってその作品が新たな生を獲得したことは、よりいっそうの驚きとともに歓迎されることになった。ドラマーでプロデューサーのマカヤ・マクレイヴンによって「再想像」された『ウィー・アー・ニュー・アゲイン』は、同作におけるスコット=ヘロンのヴォーカルを、1970年代の彼のアルバムのなかにあったソウルフルなジャズのなかに位置づけなおし、その過程で、同作のなかにあった暖かさやユーモアの瞬間を見つけだしている。その声には、尽きることのない潜在力があることが証明されたわけである。スコット=ヘロンが語るたびにいまも、新たな可能性が開かれ、革命はいまだ生きているのだと感じられるのだ。
100年後のパンデミックとポリス・ブルータリティ 日暮泰文
(略)
「親父によく言われたものだ。もし首にロープをかけられた時に後ろに下がり出すと息ができなくなる。ただそのままにしておくんだ。これはどういうことかと言うと、罠にかけられたら自分の手が自由にでもなっていないかぎりそのままにする、相手がゆるめてくれるまでな」[脚注:サム・チャットマンの発言]。まさに多くの黒人家庭で話された忍従の教えだが、反抗や権利の主張など、到底考えも及ばなかった時代である。1910年代というこの時期にあっては、暴動とは概ね白人が黒人をつるし上げるために起きた騒乱を指す。
1917年の5月から7月、イリノイ州イースト・セントルイスの騒動は20世紀のアメリカ史上、労働に関連した暴動の中でも最悪のものとされる。2~3千人に及ぶ白人労働者がイースト・セントルイスのダウンタウンを行進、通りにいた黒人を襲撃し市電に乗っている黒人も狙われ、ビルに火も放たれた。この憎しみには、黒人によって自分たちの職が奪われていると捉えた白人ブルーワーカーの怒りがあった。(略)
[第一次世界大戦参戦による]軍需産業の増大に伴う人手不足は(略)南部プランテーションからの脱出によって新たな仕事を求める黒人たちの要求と結びついた。白人労働者による賃上げストに向き合った経営者による、より安い賃金での黒人移住者雇用、このことが白人たちの気分に火をつけたのだった
(略)
[黒人の]反撃に激怒した白人が黒人街に入り暴動状態となる。無差別の銃撃が起き銃口は女性や子どもにも向けられた。「南部から来たニグロはリンチに値する」と叫びながら黒人を吊るす。逃げる無力な黒人たち。州知事は州兵の動員を行ったが、黒人への襲撃に加担した者もいたということである。
(略)
1918年にフランスで戦った黒人だけの師団に対してドイツ軍は武器ではなく、言葉で黒人師団を惑わせようと試みたという逸話がある。(略)
[前線に撒かれたビラには]黒人の置かれた米国の状況を見据えるようにという言葉が躍っていた。「(略)諸君は自由とデモクラシーの国であるはずのアメリカで白人と同じ権利を享受しているのか。リンチなどの犯罪がデモクラシーの国の合法的な行為と言えるのか。なのになぜ、ウォール街の泥棒たちの利益を守るためにだけドイツ兵と戦うのか」。(略)
戦線を脱する黒人兵はひとりもいなかった(略)
アメリカ黒人の「愛国心」というものはやはり米国人であると同時に黒人であるというジレンマを常に抱えて生きるしかなかったことと密につながっている。この時期、20世紀初めの黒人指導者と言えばブッカーT・ワシントンであり、その白人社会との妥協的方向性に異を唱えたデュボイスということになるが、そのデュボイスさえ黒人同胞に戦争に加わりアメリカ人たらんことを発現せよ、と述べたことがある。(略)
「戦争が続く限り、われわれはいかんともしがたい不平不満を忘れ、肩を組んで、デモクラシーのために闘っている白人の仲間や同盟国との隊列を詰めようではないか」
この主戦論は多くの黒人同士から批判を受けたが、反戦の立場を取っていたはずのデュボイスを一時的にせよ変節させるほど、この戦争によるヨーロッパ植民地主義壊滅が結果的に世界の有色人種、また米国内の黒人の解放につながるという思いがあったということになるだろう。デュボイスを今日でも読まれるべき黒人論の著者として知らしめたといっても、黒人大衆の間では融和的姿勢のブッカーT・ワシントンがやはり政府に対する黒人の代表者として名声がずっと高かったと考えられるのは、ブッカーT・ホワイトやブッカーT・ジョーンズといったのちのミュージシャンの名前も示すところだ。
(略)
参戦した黒人たちにとっては、本国とは異なる自由な人種関係の存在を知って帰国したことも大きかった。フランス人と共に食事ができたし女性と行き来することもできた。1920年代になって録音されるようになったブルースには、その前の10年、20年の経験をベースとするものが含まれており(略)
「国外のブルースは(≒海外の白人は)悪いもんじゃないっていう人もいる」というチャーリー・パットンの言い方は、アメリカ白人しか知らない黒人たちの間で共有されていた。
(略)
[大戦後]帰還兵が本国で見たものは流行がさらに激しくなるこのインフルエンザ、それに伴う労働環境の悪化、そしてそこからも生じた人種間の対立であり、1919年の夏はレッド・サマーと呼ばれ(略)、歴史上最悪の人種騒乱となった。この夏には全米で実に26もの「暴動」が記録されている。
7月27日の日曜日、シカゴ・ミシガン湖で泳いでいたユージン・ウィリアムズ少年は、越境の許されないカラー・ラインを超えてしまい白人に投石され溺れてしまう。(略)
現場に到着した警官は暴挙に出た白人を捕えるわけでもなかったため不穏な空気となり、黒人による白人への暴行も起こった。この人種間のトラブルの話はすぐにサウス・サイドに広がっていった。夜になり白人居住区にたまたまいた黒人が白人集団に襲われ、刃物や銃による攻撃で負傷し、うち2名は死亡、50名以上が負傷した。
月曜朝の時点では嵐の前の静けさという状況だったが、夕方頃には一変、白人ギャングがストックヤード(屠殺場)から仕事を終えて帰宅しようとする黒人を襲い、さらに市電を襲撃、乗っていた黒人を引きずり出し暴行を加えた。これに対する反撃はサウス・サイドで起こり、このエリアで働く白人を黒人が襲うという事態になった。状況は悪化、夜が更けてくると白人暴徒は車で黒人街に入り走りながら黒人住宅に向けて発砲している。警察が事態を収めることができないことも明白になったが、警官の中には白人暴徒と一緒になって黒人攻撃に加わる者が出るという悪夢の再現となる。暴動は広がり州知事がようやく州兵を動員したのはやや落ち着きを取り戻した水曜の夜10時半になってからだったが、よく訓練された兵によって木曜から金曜にかけて、降雨と気温の低下もあって騒乱はようやく鎮まっていく。この暴動による死者は黒人23人、白人15人、負傷者は黒人342人、白人178人だった。
この結果、どちらにせよ両人種は調和を保って暮らすことなどできないという白人視点から、より強い人種隔離を求める要求も出た。それまで比較的人種の混住がされていたハイドパーク地域も黒人エリアが広がってゆく。
(略)
1960年代に起こる「長い暑い夏」をさかのぼること約半世紀、この年のレッド・サマーは大都市ワシントンDC(よく統制された武装黒人が中心におりこの組織が60年代の公民権運動の先駆けとなったと言われる)やサウスカロライナ州チャールストンといった中都市だけでなく、テキサスのロングヴューのような小さな町にも波及していったが、米国史上でも最大級の虐殺が起きたアーカンソ州イレインの事件は特筆に値する。
(略)
1919年の9月30日、白人プランターの収奪に業を煮やし、取り分の改善を求めようとする黒人シェアクロッパーたちがプログレッシヴ・ファーマーズ・アンド・ハウスホールド・ユニオンという組織を密かに作り会合を持ったところ、これを黒人たちの蜂起につながる密談だと捉えた白人数名が集会場の教会を襲い戦闘となり、保安官代理を含む死傷者が出た。翌日川を隔てたミシシッピ州を含む地域から数百人の武装した白人がイレインに集結、アーカンソー州知事に要請され州都リトルロックから派兵された州兵は治安の維持を装いつつ、またしても黒人襲撃の片棒を担いだと言われる。虐殺された黒人は実に237名、白人の死者は5人だった。このような人種間の暴力、圧倒的に多い人口を持つ黒人に対して白人が抱いた恐怖、またロシア革命の余波も受けて起こった事件という性格があったが、黒人蜂起の疑いから300人に近い黒人が郡最大の町ヘレナの刑務所に送られるという、被害者が罪を問われるという状況となった。裁判では12名が電気椅子による死刑、65名が最長21年の刑期を言い渡されたが、最高裁で公正な裁判が行われてこなかったという判断のもとに刑は無効となるという正義がかろうじて勝つことになる。
和暦でいうなら大正8年であり、関東大震災の4年前という時期の米暗黒史。翌1920年に初めて現れた黒人歌手によるブルース・レコードが、男女関係を表面的には歌いつつ実はこの時期の人種間の軋轢、ポリス・ブルータリティのせめてもの抵抗として歌われた部分があったというように解釈されるようになってきた。ブルースの父とされたW・C・ハンディは、南部農作地域等で歌われた民衆歌を拾い上げ、ブルースという歌謡としてメインストリームに受け入れられるよう画策を続けていた。(略)
マリオン・ハリスを始めとする白人シンガーは、ブルースの音楽的特徴をいくぶんは取り入れ繕いながら(略)ブルースというものを楽しんでいたように見える。彼女の「誰もかれもがいまわしいブルースに夢中(でもあたしはハッピー)」という1918年、暴動の真っ只中でリリースされた曲が当時の風潮、気分をよく表している。
(略)
半世紀後の「長く暑い夏」。音楽を通じて黒人問題と呼ばれたものに接した高校生の筆者には(略)新聞記事によって、またモノクロTVの映像によって、アメリカで起こっている騒乱が頭に刻み込まれた。(略)
死体でみつかる公民権運動家、マルコムXとイライジャ・ムハンマドの確執、ワッツ蜂起、給水栓ホースの水でなぎ倒される黒人デモ。"ダンシング・イン・ザ・ストリート"のヒットに胸躍らせても、それが黒人社会で持ち得る意味までつかめてはいなかったと思い返す。(略)