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中国人が、日本人が、と歴史を巡る罵倒を眺めるたびに、*1あーあ、とため息をつきながら思うのは、歴史を学ぶことの一番本質的な点は、人間が邪悪である一方正義も持ち合わせているという両極端な可能性を知ることにあるのではないか、という点だ。無論ディテールとして国家の存在は無視してはいけない。だけど人間の本質は所属する国家と関係ない。後付けの話である。だから歴史観の中心にナショナリズムが入り込むのは実に害毒だといつも思う。人間は人間を殺すことがある。単純化しすぎかもしれないが人間の歴史を一言でいえばそうなる。なぜ歴史を人間という種の性向履歴として考えないのだろうか。「日本人だから優秀」とか「中国人だからダメダメ」なんてことがあるはずないではないか。邪悪なあなたも私も人を殺す可能性がある。なぜそこからはじめないのだろうか。生物学的に歴史を考えすぎかな。以前だったら「唾を吐きかけたくなるような自己同一性」と言ったかもしれないが、そうするとこれもまた単純な自己同一性だと思うので保留。

*1:Jonahさんの当代江北日記あたりから見たナショナリストなページを眺めて、なのだが