ヨブは自分の死の近い事を覚悟した。友は全く相手にもならぬ。そしてここでヨブは神と対峙するが如く涙を流しながら必死に神に訴え頼むのだった。どうか〈彼〉が人間のために神と弁論して私と友との間を裁いてくれるように、と。
ここで〈彼〉とは何者なのだろうか。ここは鑑三翁に聞く。原文のまま要点の部分のみ記す。
【 神に対して怨(うらみ)の語を放つは、勿論その人の魂の健全を語ることではない。しかしこれ冷かなる批評家よりもかえって神に近きを示すものである。‥ヨブは死の近きを知り、かつその不当の死なることを一人も知るものなきを悲みて、わが血をしてわが無罪を証明せしめんとて地に後事を托して、綿々たる怨を抱いて世を去らんとするのである。これ絶望の悲声であって理性の叫ではない。‥ヨブの無罪を証を立つる、一種の証人を要求するのである。‥この証人は弱き人類の一員であってはならぬ。同じく弱き人にてはこの事に当ることは出来ない。故に人以上の者でなくてはならない。故に神の如き者でなくてはならない。しかし神自身であってはならぬ。人の如き者にして我らの弱きを思いやり得る者でなくてはならぬ。神にして神ならざる者、人にして人ならざる者、これすなわち神の子たるものである。他の者ではない。ヨブの証者要求はすなわちキリスト出現の予表である。】(ヨブ記講演、p.119-、岩波文庫、2014)
友人との議論は続いた。その時神はヨブに答えて言われた。「この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた。「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。」神は「創世記」を述べる‥地の基をすえ、海の水を流れさせ、光と暗やみをつくり、雪を風を雨を若草を星座を雲を動物を造り、やぎの子を産ませ、野ろばを野牛をだちょうを馬を鷹を生かしている者は自分であることを知れとヨブの前で言う。ヨブは答える。「見よ、わたしはまことに卑しい者です。なんとあなたに答えましょうか。ただ口に手を当てるのみです。」と。神は続けて天地創造の以来の神の業(わざ)の全てをヨブと友人たちの前で語る。勿論ヨブには返す言葉は全くなかった。ヨブは再び神に答えて言った。「私は知ります。あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。‥わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨(うら)み、ちり灰の中で悔います。」(42:1-6)
何と驚くべきことに義人ヨブの涙の訴えは神に聞き届けられた。神はヨブを赦し、友人たちに対してはヨブのように神について正しい事を述べなかったと非難した。だがヨブは友人たちのために祈った。その時神はヨブの繁栄をもとに返し、ヨブの全ての財産を二倍にされたのだった。ヨブには以前にも増して家畜を多く与えられ、幸福な新たな家族にも恵まれた。
鑑三翁はこのヨブの涙から至福に至るまでの事を「しかるに今は万象を通じて、神を直感直視するの域に至ったのである。彼の歓び知るべきである」(同書p.181)と記している。
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