【では滅亡が万物の終極であるかと言えは決してそうではない。この世の終わるときが次の世の始まる時である。非キリストが裁かれる時に真のキリストは現われるのである。ゆえにこの世の進歩は滅亡に向かっての進歩であるが、しかし進歩は進歩であることに変わりない。即ち神の国は世の老衰とともに近づきつつあるのである。神に背いた人類が欲望のままに振舞い、逸楽に耽り、放蕩に身を崩し果てて後に、新しいエルサレムは備え整い神の所を出て天より人の間に降るのである。ゆえにこの世の暗黒の日々が深まっていくのは来世の暁が白く輝くものと見るべきである。
「見よ、わたしは、すぐに来る。」(ヨハネの黙示録22:7)とキリストは言われる。この世は今や物質的に急速な進歩を果たしながら、知らず識らずの間に主の再来を招きつつあるのだ。我々はこの明白な時の徴候を読み誤ってはならない。】
(この項おわり)
※
私たちの生活は科学の進歩によってとても便利になり、その恩恵を日々受けている。その意味で人類は進歩を遂げてきた。だが私たちが忘れてならないのは、人類の”退歩”も同時に伴ってきたということだ。代表的なものは人格の退歩である。高潔で信仰に基づく人格を有する人間はほとんど姿を消し、それに代わって集合的団体的組織的信仰が主たるものとなった。このような退歩は、政治の世界、芸術の世界、哲学の世界にも共通する。そして人間は限りない欲望のままに生きるようになった。その果てるところはアンチキリストの出現である。似て非なるキリストが出現し人間を惑わし続けるのだ。その行き着くところは人間世界の頽廃である。そして人間は末世の艱難の日を迎えるのだ‥これが鑑三翁の人間社会の”進歩観”である。聖書に基づく言葉とは言え、今日日私が生きている令和の世にあってこそ重い意味をもつ痛烈にして鋭い言葉だ。内村鑑三という人間は神の命を受けて明治大正昭和を生きて神の言葉を伝え続けた預言者であったのだ‥とあらためて思う。
※
鑑三翁の論稿は次のような聖書の言葉が裏付けになっていると私には思われる。
「先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。」(口語訳聖書「伝道の書」1:9-10)
虚無的な印象を与える言葉でもある。あるいは悟りの言葉のようにも聞こえる。”破壊して新しきは良き事”を信奉して疑念も抱かない日本の愚かな経済人やイモラル政治家に聞かせたい言葉でもある。
「聖書」はだから面白い。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます