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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅱ62] 『求安録/内心の分離 Internal Schism 』(4)    

2021-07-30 12:23:41 | 生涯教育

聖書は言います。「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」(マタイによる福音書5:17) と。 そしてここから判定した場合、成人以上の男性で、どれほどの人がこの姦淫罪から免れることができるでしょうか。「我より退け、汝姦淫を犯す者よ」とのエホバの宣告は誰が受けるべきなのでしょうか。他人の淫行を指摘することができるとは言え、自分自身の中に姦淫病の骨の疼きがあることをどうすればいいのでしょうか。

人間は、他人の病気の重いのをみて自分の無病息災を信じようとつとめるものものです。見てみなさい、社会の風俗の乱れを糾弾する人間ほど背徳の生活をしているではないですか。 

私は税吏のように民衆を虐げたりはしていませんと言うパリサイ人の心は、ごく普通の人間の心なのです。他人に罪があると言う人が、彼には罪はないという証明にはなりません。自分の心に梅毒の如き心情を有しながら、梅毒患者を罵倒し醜態をあげつらって意気揚々としている愚かな者は誰なのでしょう。 

「あなたは盗んではならない。」(出エジプト記20:15) との戒めも、聖書の原理に基づいて探究すれば、この戒律を破らないことは容易ではありません。「盗む」とは、窃盗や強盗のことを言うだけではなく、天から私に与えられたのではない物を、私のものにするという全ての行為を言います。

我々は全ての者より優れた才能と学識とを有しているわけでもないのに、友人の庇護や自分の諂いの心によって、私が到底就職できないような官職に就くことができるとすれば、それはその官の地位と俸給を盗んだのも同然です。神が私を伝道師として遣わされたのではないのに私が伝道師の職に就き、その尊厳と威力とを私が振るうことになるとすれば、私はエリの子どもらと等しく伝道師の職とこれに伴う栄誉を盗んだも同然なのです(サムエル記上2:22-25を参照のこと)。 

神を讃え国家に尽そうとするために私に与えられたこの貴重な生命と時間とを、私が自分の快楽のために消費するのもまた盗人と言わずして何と言うのでしょうか。 

貧困の苦しみ責められて飢餓に陥ってしまった老母と愛児とを救うために、心ならずも隣人の着物一枚を盗んだ者を、社会は法律によって彼を罰します。しかしながら白昼堂々と公然と法律の保護のもとに貧しい者を虐げ、国家の富を略奪している無数の盗人は何も問われないのです。

国の犯罪者の十中八九は盗人と言われています。しかしながら人類が未来の裁判を受けるときには、窃盗の罪を犯さなかった人間はほとんどいないのではないでしょうか。

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[Ⅱ61] 『求安録/内心の分離 Internal Schism 』(3)

2021-07-28 12:14:50 | 生涯教育

      

私はここを読むたびにノミ(鑿)で私の良心に穴を穿たれるような気がします。Speech is silvern,Silence is golden.(雄弁は銀なれば沈黙は金なり)、人間が二個の耳を持ち一個の口を持つ理由は、二度聞いて一度話せとの意味だと言われています。Think twice,speak once.(二度考えて一度話せ)、多くの愚かな人々が好き勝手に物事を言ったところで一人の賢人が黙っていることにかないません。

私が不完全で頑なで愚かなことは、私が口を開いてもこれを制御できないことで明らかです。私が多弁を制御できないのであれば、私のキリスト教に何の意味があるのでしょう。

「あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。」(ヤコブの手紙2:19) 私は明白にキリスト教の戒めを犯しながら、世の中の人に対して罪の悔い改めを勧め、神の審判を説教するとは、私の鉄面皮もここに至って極まったと言うべきです。そうです、私は大いなる偽善者であることを悟りました。私は私の行いを改めるまでは、どうして他人にキリスト教を説くことができるでしょうか。 

聖書は言います。「あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。」(ヨハネの第一の手紙3:15)  私は初めてこれを読んだときにはあまりに酷な言葉だと考えました。しかしながらこの言葉の真意を考えてみると、最も的を得ている言葉であることを知りました。

カインはその弟を憎んで彼を殺しました。殺人の罪は憎悪の結果であることは歴史と事実が証明しています。したがって天然自然の摂理(注:原文は〈天道〉) は、人を罰する際には、その結果よりも殺人に至るまでの意思に着目しますので、神から人間を見たときには、その意思を実行したか/しなかったかということは問題ではありません。憎悪の感情を表に出して殺害するかしないかは、その人間の教育的環境や先祖から受け継いだ資質によって左右されるものです。昔の暴虐の王のように彼を支配する法律や社会の制裁がなく、彼を威嚇する宗教がないときには、彼は憎む人間を殺しました。

かつてジョン・バンヤン(注:John Bunyan〈ジョン・バニヤンとも〉、1628-88、イギリスの教役者、文学者。『天路歴程』の作者) は、刑場に引かれていく罪人を指して言ったそうです。「もし神の恵みによらなかったならば、あの罪人は私自身であっただろう」と。

憎悪の感情が私にもあるので、私は殺人を犯す危険があります。したがって神の裁判に引き渡されるときには、殺人罪の宣告を受けても、私はどうして私自身を弁護できるでしょうか。そして私は私自身に向けて言います。

「私の霊(たましい)よ、お前は人を憎んだことがないのか、お前は今、人を憎んでいるのではないか。「すべて兄弟を憎む者は人殺しである」、お前は殺人者であって、いかにしてお前はお前の罪から免れようと願うのか」と。

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[Ⅱ60] 『求安録/内心の分離 Internal Schism 』(2)  

2021-07-26 09:01:52 | 生涯教育

しかしながらこのような私の"作為的な"神聖さは長続きはしませんでした。たちまち私の言動や行動は後戻りし始めました。私の謹慎は友人たちはこれを嫌っており、しばらくの間私もこうした生活に精を出していたのですが、わずか数日で私は不自由さと苦痛を感じ始めたのです。

少々の豪遊は信仰の妨げにはならないだろうと思い、沈黙はうつ病のような症状を招く恐れがあるので、私は石像のようにしていてはいけないと考えました。そして警戒心が少し破れると全部が破壊されてしまいました。わずか三か月もたたないうちに私は決心以前の状態に戻ってしまいました。

そして私のキリスト教の信徒としての兆候は、冷淡な気持ちで日曜日ごとの集会に列席すると、嫌々ながら朝晩の頭を下げて、意味のない祈祷をするだけになったのでした。 

しかしながら永遠の生命をもつ聖霊は聖書の言葉を届けてくれます。「人をさばくな、自分がさばかれないためである。」(マタイによる福音書7:1)

これは他人の悪口を吐くなとの教訓ではないでしょうか。私が友人と会って話をするときに、人を批評するのを最大の楽しみとし、とくにあの牧師とかこの信徒とかの欠点を指摘して、話の座を盛り上げたりすることは、聖書の教えに背き、一般的な道徳にもとる行為ではないでしょうか。

多弁についての聖書の戒めは次のとおりです。 

「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。

わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる。また船を見るがよい。船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。

それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。

あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。

わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。」(聖書ヤコブの手紙3:1-10。適時改行しました) 

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[Ⅱ59]  『求安録/内心の分離 Internal Schism』(1)

2021-07-21 08:24:00 | 生涯教育

《上の部》内心の分離 

私が初めてキリスト教に接したときに、私はその道徳的な高潔さと威厳に感服しました。私は自分の不浄さと不完全さを悟りました。私の行動や発言は、聖書の理想という点から裁判されたとしたら、汚れそのもので如何ともしがたいということを発見しました。

私は泥の中に沈んでいたことを悟りました。私は故意に人をだましておきながら、私が罪ある人間であることを自覚しませんでした。私は虚言を吐いても平気でいたのでした。私は他人の失敗を見て喜び、人を押し倒してでも自分の成功を願っていました。私の人生の目的は名声と富を得ることにありました。私は国家を愛すると宣言して私の野望を満たそうとしていました。私は他人の薄情や卑屈を責めていながら、自分でも常に他人の不利益を望んでいました。私は君子のように振る舞っていながら、その実賤しい存在でした。私の人生の目的は品性や言動が賤しさに満ちていました。私の思想は汚辱にまみれていました。あれこれと考えていると、私は自分が誠に恥ずかしく、穴があれば身を隠して神にも人にも見られないことを願いました。 

しかし済んだことを後悔しても取り返しはつきません。今日から心を改めて善き人間となるしかありません。「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書5:48)  そして私は深く心に決意したのでした。

「私は今から私の行動と発言を完全に改めます。私は再び虚言を吐きません。私は人を評したり悪口を言いません。私は情欲を慎みます。私は怠惰にならないようにします。私は人の怨恨に対して徳行で報います。私は功名心を根本から絶ちます。私は謙遜な者となります。私は酒と煙草と芝居観劇を廃止します。私は驕りをやめます。私は日曜日を清く過ごすことを守ります。」と。 

そして私は私自身の完全な改革を宣告しました。そして私の心で誓うだけでなく、私の友人に向けて私の決心を宣告しました。そして天地に誓い、会衆に約束し、完全無欠の生涯を送ることを決断したのです。教師はこれを聞いて喜び、友人は私の改心を祝ってくれました。私は”生まれ変わった”(注:原文は「復生」)のだと思いました。 

「ひとたび堅く心に決めたからには、私は動じません」と自ら誓いを立てました。 私は十二か月間私の決心を実行しました。私は実際新しい人間となりました。他人は私の改心が尋常のものではないことを思ったことでしょう。それは私も同様でした。

私は神が私の近くに存在することを感じました。私の朝晩の祈祷は長く熱心なものでした。私の言葉は少なくなり重厚さがありました。私の謹慎の態度は友人たちがこれを嫌うほどでした。昨日までのおしゃべりな私は、今日は沈黙の人となりました。話をするにも涙があふれ、聖書の引用がありました。絶え間なく祈り、絶え間なく神を賛美し、私は純然たる聖人のようになり、エノク(注:聖書では、エノクは神の特別の愛を受け死ぬことなく天に携え上げられたと記す〈創世記5:24〉) のように神と歩みました。 

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[Ⅱ58]  『求安録/悲 嘆』(2)

2021-07-19 08:45:04 | 生涯教育

                          

人生は快楽こそが一番大事だと言う者は誰ですか。私には一日とて何事もない平穏な日などはありませんでした。

関ケ原の戦い(注:慶長5年(1600)関ヶ原で、石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。東軍が大勝した)や、ワーテルローの戦い(注:1815年ベルギーのワーテルローでイギリス・オランダをはじめとする連合軍・プロイセン軍と、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍との連の戦闘。フランス軍が敗北した)などの戦闘は、私たちが毎日毎日”心の中で”目撃するところです。 

ジョン・バンヤン(注:John Bunyan、1628-88、イギリスの教役者、文学者。『天路歴程』の著者)は、かつて犬や猫の境遇を見て羨ましくてしょうがなかったとたびたび話していたそうです。その理由は、犬や猫は人間のような戦争がないからだ、と。

人間にはそれぞれ不満があるものです。人間は思うのです、私に多くの富があれば私は満足するだろうと。ところがいざ富が手元に来ても、私たちは平安を得ることができないのです。私に善良な妻がいたら私も満足できるのにと考えていたのに、いざ彼に幸福な家族ができたところで、彼は満ち足りないと思うのです。

人間は自分の内面の欠陥を認めることができないで、外に不満の原因を見つけようとするものです。自分の内面を満たそうとはしないで、外に原因を探そうとします。人間の敵は自分自身であることを知らないで、内面の苦痛だけは外に吐き出そうとするのです。「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。」(ヤコブの手紙4:1‐2) 

そうなのです。世界の始まりより今に至るまでの全ての戦争について、その争いの原因を研究してみなさい。ことごとくが欲望の戦争であって、自分の不満の原因を他人に負わせたものなのです。 マンガ―博士は言います。 

  “ The unrest of this weary world is its unvoiced cry after God.” ―Munger. 

  「人生の不満は神を求むる無言の声なり」 

(注:Theodore T.Munger、1830-1910、アメリカの聖職者、神学者、作家。リベラルな神学を提唱し進化論を支持した。) 

私たちは神をいただいて初めて安心できるのです。世界は最大幸福を求めつつありますが、未だその最大幸福がどのようなものなのかを人間は知りません。私たちはウェスレーの言葉をかみしめたいものです。 

  「何よりもよき事は神が我らと共にいてくださることです。」 

(注:John Wesley、1703-91、イングランド国教会の司祭。メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導した。この運動から生じたのがメソジスト派というプロテスタント教会であり、アメリカ合衆国、ヨーロッパ、アジアで大きな勢力をもつに至った。) 

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