聖書は言います。「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」(マタイによる福音書5:17) と。 そしてここから判定した場合、成人以上の男性で、どれほどの人がこの姦淫罪から免れることができるでしょうか。「我より退け、汝姦淫を犯す者よ」とのエホバの宣告は誰が受けるべきなのでしょうか。他人の淫行を指摘することができるとは言え、自分自身の中に姦淫病の骨の疼きがあることをどうすればいいのでしょうか。
人間は、他人の病気の重いのをみて自分の無病息災を信じようとつとめるものものです。見てみなさい、社会の風俗の乱れを糾弾する人間ほど背徳の生活をしているではないですか。
私は税吏のように民衆を虐げたりはしていませんと言うパリサイ人の心は、ごく普通の人間の心なのです。他人に罪があると言う人が、彼には罪はないという証明にはなりません。自分の心に梅毒の如き心情を有しながら、梅毒患者を罵倒し醜態をあげつらって意気揚々としている愚かな者は誰なのでしょう。
「あなたは盗んではならない。」(出エジプト記20:15) との戒めも、聖書の原理に基づいて探究すれば、この戒律を破らないことは容易ではありません。「盗む」とは、窃盗や強盗のことを言うだけではなく、天から私に与えられたのではない物を、私のものにするという全ての行為を言います。
我々は全ての者より優れた才能と学識とを有しているわけでもないのに、友人の庇護や自分の諂いの心によって、私が到底就職できないような官職に就くことができるとすれば、それはその官の地位と俸給を盗んだのも同然です。神が私を伝道師として遣わされたのではないのに私が伝道師の職に就き、その尊厳と威力とを私が振るうことになるとすれば、私はエリの子どもらと等しく伝道師の職とこれに伴う栄誉を盗んだも同然なのです(サムエル記上2:22-25を参照のこと)。
神を讃え国家に尽そうとするために私に与えられたこの貴重な生命と時間とを、私が自分の快楽のために消費するのもまた盗人と言わずして何と言うのでしょうか。
貧困の苦しみ責められて飢餓に陥ってしまった老母と愛児とを救うために、心ならずも隣人の着物一枚を盗んだ者を、社会は法律によって彼を罰します。しかしながら白昼堂々と公然と法律の保護のもとに貧しい者を虐げ、国家の富を略奪している無数の盗人は何も問われないのです。
国の犯罪者の十中八九は盗人と言われています。しかしながら人類が未来の裁判を受けるときには、窃盗の罪を犯さなかった人間はほとんどいないのではないでしょうか。