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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅱ51]『不治の病気にかかったとき』(6)    

2021-07-01 11:34:31 | 生涯教育

 

鑑三翁の論稿の現代語訳がなかなか進捗しなかったため、2021年6月9日(Ⅱ50「不治の病気にかかったとき⑸」以来、現代語訳の投稿をお休みしました。このお休みの間、私の妻との闘病の記録を掲載しました。本日から現代語訳を再開します。】

事業(注:鑑三翁の言う「事業」とは広い意味での私たちの「仕事」を指しています)とは、私たちが神に捧げる感謝の捧げ物です。しかしながら、神は事業に勝る捧げ物を私たちに要求しています。すなわち、砕けた心、子どものような心、ありのままの心です。あなたは今は事業を神に捧げることはできません。したがってあなたの心を捧げなさい。神があなたに病を得させたのは多分このためだったのです。あなたはべタニアのマルタのような心でキリストに仕えようと願って、「マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし」(ルカによる福音書10:40)たのです。ゆえに神はあなたにマリヤの心を与えようとして、あなたを働けないようにされたのです。「手に何も持たずに十字架にすがる」とは、あなたが常に歌っている讃美歌ですが、その奥深い意義を知るために、あなたは今働くことができないようにされたのです。 

  我のこの世につかわれしは、 

  わが意を世にはる為めならで、 

  神の恵をうけんため、 

  そのみむねをばとげん為めなり。 

       なみだの谷や笑の園、 

       かなしみは来んよろこびと、 

  よろこび受けんふたつとも、 

  神のみこゝろならばこそ。 

  勇者のたけき力をも、 

  教師のもゆる雄弁も、 

  われ望まぬにあらねども、  

  みむねのまゝにあるにはしかじ。 

  弱き此身はいかにして、 

  そのつとめをばはつべきや、 

       われは知らねど神はしる、 

  神に頼る身は無益ならぬを。 

  小なるつとめ小ならず、 

  よを蓋ふとても大ならず、 

  小はわが意をなすにあり、 

  大はみむねによるにあり。 

  わが手を取れよわが神よ、 

       我行くみちを導けよ、 

  われの目的は御意をば、 

  為すか忍ぶにあるなれば。 

(注:この詩は本文に出典明示はないが『愛吟』に掲載されている〈『愛吟』は明治30年に東京警醒社から出版された詩歌集。鑑三翁の愛誦する海外の詩人らの詩歌を自ら翻訳して一冊の本に編纂した。「全集4」に収載されている。〉ここには「或る詩」と題されている。作者は「無名氏」とある。比較的平易なので原文のまま掲載した。) 

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