しかしながらこのような私の"作為的な"神聖さは長続きはしませんでした。たちまち私の言動や行動は後戻りし始めました。私の謹慎は友人たちはこれを嫌っており、しばらくの間私もこうした生活に精を出していたのですが、わずか数日で私は不自由さと苦痛を感じ始めたのです。
少々の豪遊は信仰の妨げにはならないだろうと思い、沈黙はうつ病のような症状を招く恐れがあるので、私は石像のようにしていてはいけないと考えました。そして警戒心が少し破れると全部が破壊されてしまいました。わずか三か月もたたないうちに私は決心以前の状態に戻ってしまいました。
そして私のキリスト教の信徒としての兆候は、冷淡な気持ちで日曜日ごとの集会に列席すると、嫌々ながら朝晩の頭を下げて、意味のない祈祷をするだけになったのでした。
しかしながら永遠の生命をもつ聖霊は聖書の言葉を届けてくれます。「人をさばくな、自分がさばかれないためである。」(マタイによる福音書7:1)
これは他人の悪口を吐くなとの教訓ではないでしょうか。私が友人と会って話をするときに、人を批評するのを最大の楽しみとし、とくにあの牧師とかこの信徒とかの欠点を指摘して、話の座を盛り上げたりすることは、聖書の教えに背き、一般的な道徳にもとる行為ではないでしょうか。
多弁についての聖書の戒めは次のとおりです。
「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。
わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる。また船を見るがよい。船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。
それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。
あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。
わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。」(聖書ヤコブの手紙3:1-10。適時改行しました)
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