◎御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう。(ヨハネの黙示録7:17)
黙示録の著者ヨハネは、世界の終わりの時の幻視を見た。「神が、すぐにも起こるべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。」(1:1) 終わりの時は近づいている。その時に起こる事をヨハネは記した。「見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に」立った。神は言う‥彼らは大きな患難を通ってきた人たちで、その衣を小羊の血で洗い白くしたのだ、と。彼らはもはや飢えることもなく渇くこともない、太陽も炎暑も彼らを侵すことはない、と。そして神は彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さる、と黙示録の著者は言う。鑑三翁はこの「ヨハネの黙示録」を慰藉(いしゃ)の書と言っている。聖書は最後に神の永遠の慰めで編集を終えている。
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主人公の立派なとらねこは、百万回も死んで、そのたびに生き返り、もう百万年を生きてきました。百万人の人がそのねこを飼ってたいそうかわいがり、ねこが死ぬと嘆き悲しんで、丁重に弔いましたが、ねこはかわいがられるのも嬉しいと思わず、死んで飼い主と別れるのも格別悲しいとも思いませんでした。そしてある時からのらねこになり、気ままな生活を過ごす毎日でした。そして彼に寄ってくるめすねこにも見向きもしません。「おれは百万回もしんだんだぜ。いまさらおっかしくて―。ねこは、だれよりも自分が好きだったのです。」
ところが一匹だけ、彼に見向きもしない白い美しいめすねこがいました。ねこは彼女のそばに行って、しきりに自分の自慢話をするのですが、彼女はいつも「そう」と言うだけ。彼はやっきになって毎日彼女を訪れ、あれこれ試みますが、とうとうある日、決まり文句の「おれは百万回も‥」をやめて、「そばにいてもいいかい」と尋ねます。しろいねこは「ええ」と答え、二匹はそれから一緒に暮らすようになり、やがてたくさんの子ねこが生まれます。ねこはもう「おれは百万回も‥」とは言わなくなり、そのかわり自分から愛することを知ったのです。子ねこたちは成長し、独立し、二匹は満足しながら歳をかさね、「ねこは白いねこといっしょに、いつまでも生きていたいと思いました。」けれどもある日、白いねこは彼の隣りで静かに動かなくなっていました。ねこは、百万回の生涯で初めて涙を流します。そして百万回も泣きます。「朝になって夜になって、ある日のお昼に、ねこは泣きやみました。ねこは白いねこのとなりで、しずかにうごかなくなりました。」そしてねこはけっして生きかえることはありませんでした。
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もし誰も愛さなければ、百万回生きてもむなしい。本当に人を愛したなら、だだ一度のこの人生で十分‥‥そんな人生のかけがえのなさを語る童話である。『一〇〇万回生きたねこ』(佐野洋子/文・絵、講談社、1978)のとらねこが生涯で初めて流した涙のお話絵本である。
この童話を6歳になったばかりの長男の敬一に読み聞かせしてあげた時に、彼は強く反応した。妻が天に召されてから間もない日の事、彼は自分の美しかった母親に白いねこを重ねていたのだと思う。
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