「縁起」とは仏教用語で”他との関係が縁となって生起する”ことを意味する。柳が木喰上人の木仏との「縁起」はこのようなものだ‥‥柳は朝鮮の陶磁器を見るために甲州の旅に出かけた、ある日焼き物を拝見するために知人を訪ねる、焼き物を見るために二躰の仏像の前を通り過ぎた、この仏像は暗い庫の前に置かれてあった、その時彼の視線はこの仏像に触れ即座に心を奪われた、それは地蔵菩薩と無量寿如来、「その口許に漂う微笑は私を限りなく引きつけました。尋常な作者ではない。異数な宗教的体験がなくば、かかるものは刻み得ないー私の直覚はそう断定せざるを得ませんでした。」(前掲書、p.16) 大正12(1923)年1月のことだった。
柳は知人からこの内の一躰を贈られ、その日から柳はその仏と一緒に暮らすことになる。知人を通したやりとりの中で、この木仏の作者の木喰上人とは、山梨県丸畑の人であること、寛政の頃の人であること、幾十の仏躰を一緒に刻んで堂に納めたことが判明していった。そしてさらに文献を求めるものの、全ての仏教辞典にも人名辞典にも、甲州の郷土史にも、『甲斐国志』(松平定能著)にもその名が見当たらない。そこで柳は上人の故郷を訪ねるところから行脚を開始する。柳はそれ以来ほとんどの仕事を放棄して木喰上人の手掛り、資料、文献、そして木仏を見いだす行脚を数十年にわたり続けて行った。
木喰上人(以下上人)が91歳の時に自ら記した年譜が発見された。これによると上人は22歳で仏門に入った。その後関東地方の住職を遍歴し四十五歳の時、常陸の国木喰観海上人から木喰戒を受け、これを厳守する事五十年に及んだ。上人の大願が幾つかあった。柳の一文を引く(前掲書p.264)。
【上人には幾多の大願があった。木喰戒はその一つである。‥上人の木喰戒は異常なものであった。肉食せず、火食せず、即ち火によって料理するものを断ち、五穀を食さず、塩味を取らず只蕎麦粉に水を交えて常食となした。生活は極めて質素であった。‥終生臥具を用いず、寒い時も暑い時も法衣一枚で過ごした。蝦夷、奥羽、北越の寒さも彼の志をまげる力がなかった。】
上人の日常生活といえば、獣の肉は食べず煮炊きもせず蕎麦粉に水を加えるだけの粗食、寝具を用いず、一年中夏も冬も僧侶の着る法衣一枚で過ごした、と。
【次の大願は「廻邦」であった。「日本廻國行者」とよく書いたが、北は松前庄から南は薩摩まで彼の足跡の至らない所はない。佐渡に四年、日向に国分寺の住職として十年、その他の殆ど凡ては遊行僧として暮れた。「三界無庵」とよく肩書したが、彼は家を棄て寺をも去った。願を発し安永二(1773)年日本廻國の途に旅立ってから、文化七(1810)年入寂するまで、時の過ぎること三十有八年。その足跡は日本上下壱千里(4000キロ)を遥かに越えるであろう。】
「三界」とは空海『般若心経秘鍵』によれば、欲界・色界・無色界つまり現象世界の仮の宿のこと。上人は北は北海道松前庄から南は鹿児島県まで四千キロを行脚し、寺も家庭も持たない生活をした、と記す。 (つづく)
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