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『絵画の哲学』、あるいは描写の哲学の門前

清塚『絵画の哲学:絵とは何か、絵を見る経験とは何なのか』読んだ。

いわゆる「描写の哲学」における描写の本性、すなわち「絵や写真、動画などにおいて、なにかが描かれているとはどういうことか?」1についての議論をまとめた本、とひとまず言ってしまってもよいとおもいます。

ただ、この問いについて、むかしからいまいちピンときていませんでした。どうにも漠然としすぎているように感じてしまうのです。「まあなんか、たしかに不思議な気もするけど……そこまでか……?」みたいな。そのくらいの印象をもって読みはじめたところ、議論の歴史的な流れをおおまかに追う形でまとめられていたおかげでしょうか、「たしかに……不思議かもしれん……」みたいな気持ちになれたところがありました。以下、そのあたりを自分なりにまとめなおしてみることにします2


というわけで、ひとまず「なにかが描かれているとはどういうことか?」という表現自体をみてみましょう。まあ、さっきも言ったとおり、そんなこと言われてもという話なわけですが、これをもうすこし噛み砕くと、「画像を見るとき、そこにない(直面していない、なんならしばしば虚構の)対象を見ているように思われるが、これはどういうことか」くらいに言い換えられるでしょうか。

たとえば、パリの風景が「描かれた」絵葉書を見たときに、われわれは「パリの風景ってこんななんだな」と思える……ということはつまり、パリの風景のありさまをなんらかの形で「見ている」ように思われる。思われるものの……このとき、われわれはパリの風景に直面しているわけではけっしてありません。「そこにないものを見る」というのはたしかにちょっとヘンかもしれない。

これだけではまだピンとこないかもしれませんね。「いやだって、葉書に載ってる絵の具の配置とかが、パリの風景に似て見えるからに決まってんじゃん」みたいな応答が考えられるでしょうか。……ちょっと素朴すぎるように思われるかもしれませんが、漠然とそう思っているということにさせてください。そういうことにして。こうしたとらえかたこそ、(さすがにここまで素朴ではないにせよ、おおむね)「(古典的な)類似説」と呼ばれる発想です。

とはいえ、「素朴すぎるように思われるかも」と言ったとおり、ちょっと考えてみればおかしいことも、すぐにわかるはずです。

まず、なんたって、「パリの風景を描いた絵葉書(の表面)」は「パリの風景」に似ていません。「シマウマを描いた絵葉書(の表面)」のほうがよほど似ているのでは? 「葉書の表面」と「実際の都市」が「似ている」わけがないんです。より一般的にいえば、「絵の表面の形状」が「描かれている対象」に「似ている」とは……ふつう言えないんじゃないでしょうか。

どうも揚げ足とりに見えるでしょうか。「その絵に描かれている対象の像が、当の対象に似ている」ということが言いたかったような気がしますもんね。つまり、「描かれているパリの風景と実際のパリの風景が似てるっていう意味だよ」と答えるのはどうでしょうか。……いや、これもダメです。この時点ですでに、「描かれている」のが「パリの風景」であることが前提とされてしまっています。説明したいのはまさにこの「描かれている」とはどういうことかであったはずです。これではやはり説明になっていないのです。

どうでしょう、そろそろ不思議な気がしてきたでしょうか。

不思議な気がしてきたならもうそれで今回の記事の目的は達成しているので、あとはこれに対応するためにどういった戦略がありうる(と本書でされている)のかを簡単に紹介しておきます。

  1. そもそも類似とかまったくなくて、「イヌ」という文字列と実際のイヌとの対応のように恣意的なものだよとつっぱねる(記号説)
  2. あくまで「絵の表面の形状」と「描かれている(とされる)対象」とのあいだになんらかの類似があるという立場でがんばる(より洗練された類似説)3
  3. 「絵を見ること」という知覚(もしくは認知プロセスや現象的な経験)のありかたに着目する。具体的には「絵を見ること」の内実を「絵の表面を見ること」と「そのなかに対象の像を見ること」とにいったん分け、それらがなんらかの形で関係したものとして改めて「絵を見ること」をとらえる(知覚説)

結論からいえば、本書は3に近い立場をとっています。もちろんこれだけ見てもよくわかんねえなとなることでしょう。たしかにここまでの話を鑑みるに、画像を見るという経験のうちに、表面を見ることと像を見ることの二面性があるような気はしてきたかもしれません。でも、それらが各々どういうもので、どういうふうに絡んでいるのか、あるいはたんに錯覚であることと「これこれの対象が描かれている」と認めることとの違いはどこにあるのか等々についてはまだわからない状態です。

実際のところここまでの話は、(序章を含めた全6章構成のうち)第1章の内容の一部をかいつまんでみたにすぎません。本格的な話はここからということで、あとは『絵画の哲学』のほうを読むといいんじゃないでしょうか。まあその、もしこれで不思議に思ってもらえたのなら、なんですが……。


そのほかリソースなど。


  1. 本書でこの通りの表現をされているわけではないことに注意。
  2. もちろんあくまで自分の理解にもとづいたラフスケッチ(描写だけにな!)であり、いろいろ反論が可能なように見えるかもしれません。実際単純化のために簡略化しているところは多いですし、もちろんわたしが誤解しているせいかもしれません(これがいちばんありうる)。あるいは本書を実際に読めばしっかり検討してあることかもしれませんし、あるいは実際に見逃されていた視点なのかもしれません。そのあたりはいつもどおりそういうものということで、必要に応じてご指摘などいただけるとありがたいです。
  3. このまとめ方だとエイベルの立場が包含されない気がする。