アイザック・ニュートン、業績と人物

2010.01.04
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偉大な研究成果に囲まれるアイザック・ニュートン卿(イラスト)。

Illustration by Jean-Leon Huens
 2010年1月4日はイギリスの科学者アイザック・ニュートン卿の367回目の誕生日。これを記念してGoogleのトップページのロゴは、リンゴが繰り返しポトンと落ちるアニメーションになっていた。未熟児として生まれたニュートンは知の巨人へと成長し、重力、光、運動、数学などの重要な発見により現在も大きな存在感を放っている。 言い伝えでは、ニュートンはリンゴが落ちるのを見て、なぜ横や上でなく真下に落ちたのかという疑問を抱いたことがきっかけで、1665年または1666年に重力理論を完成させたとされる。

「リンゴが落下し、我々が地球から振り飛ばされない原因となっている力が、月や惑星が公転する原因となっている力と同じものだということをニュートンは示した」と説明するのは、ニュートン自身もかつて会長を務めたイギリスの国立科学学士院である王立協会の現会長マーティン・リーズ氏だ。

 イギリスのミルトン・ケインズ市に本拠を置くオープン・ユニバーシティの数学史家ジェレミー・グレイ氏は次のように評価する。「ニュートンの重力理論では、GPS衛星は作れなかっただろうが、宇宙旅行を実現するには十分だった」。

◆ニュートンは劣等生だった?

 アイザック・ニュートンは、1643年1月4日にイングランドのリンカーンシャー州にある小さな村で生まれた。予定よりも2~3カ月早く生まれたため、1リットル程の器に収まりそうなくらい小さな赤ん坊だったと母親は語っていたという。子どもの頃から実験好きで、ネズミが走って回し車を回すと実際に粉が挽ける小さな粉挽き機などの模型を造って遊んでいた。

 ニュートンは、1661年にケンブリッジ大学に入学した当初は優秀な学生とはいえなかった。

 1665年、腺ペストの流行で大学が一時休校となり、ニュートンはリンカーンシャーの実家に戻って2年間を過した。落ちるリンゴを見てひらめいたのはこの時で、後にニュートンはこの期間を“創造的休暇”と呼んでいる。

 独りで研究するほうが向いていそうなニュートンだったが、1667年にケンブリッジに戻り、1696年まで数学教授などを歴任した。

◆“万有引力の発見者”にとどまらない

 重力の解明は、数学と科学の分野におけるニュートンの功績の一部にすぎない。数学では微分積分学にも取り組み、ドイツの数学者ゴットフリート・ライプニッツとほぼ同時期に微分法と積分法を開発した。これらは現在でも数学者や科学者にとっての基礎知識である。

 同時に光学にも関心を持っていたニュートンは、白色光は虹を構成するすべての光の色の混合色であるという説を発表し、後に正しいことが証明された。この説により、当時の望遠鏡で色が不正確に再現される「色収差」の原因も明らかになった。

 色収差を解消するために、ニュートンはガラスのレンズに鏡を組み合わせた望遠鏡を設計した。この新開発の望遠鏡はすべての色を1つの点に集中させることが可能で、それまでの望遠鏡よりも鮮明で正確な像を得ることができた。この反射望遠鏡の仕組みは現在でもハッブル宇宙望遠鏡を始めとして広く採用され、天文学を支えている。

 落ちるリンゴからヒントを得たニュートンは3つの運動法則を発見した。彼自身の言葉を借りれば以下のようなものだ。

【慣性の法則】 すべての物体は、力を加えて強制的に状態を変化させない限り、静止状態や等速直線運動の状態を保とうとする。

【加速度の法則】 力は単位時間あたりの運動量(質量×速度)の変化率に等しい。質量が一定なら、力は質量と加速度を掛けたものに等しい。これは「F = ma」という有名な公式で表される。

【作用・反作用の法則】 すべての作用には、大きさが等しく方向が逆の反作用が存在する。

 1687年、ニュートンは研究成果を『Philosophiae Naturalis Principia Mathematica(自然哲学の数学的諸原理)』という本にまとめた。この本は一般に“プリンキピア”と呼ばれている。

 オープン・ユニバーシティの数学者ロバート・ウィルソン氏は同大学のWebサイトで次のように書いている。「ニュートンは『プリンキピア』によって有名になった。読んだ人は少なく、理解できた人はもっと少ないが、偉大な業績だということは誰にでもわかった。約200年後に発表されたアインシュタインの相対性理論もその点で似ている」。

◆“人間的な魅力”には欠ける

 数々の発見を成し遂げたニュートンだが、人にはあまり好かれなかった。特に造幣局長官と下院議員を務め、宗教についての書物を著した晩年は人に疎んじられた。

「ニュートンは人間的な魅力に欠けていた。子どもの頃は孤独を好み、成長してからはうぬぼれと復讐心が強く、王立協会の暴君としてライバルを盛んに妨害した」と王立協会のリーズ氏は明かす。

 イギリスのケンブリッジにあるアイザック・ニュートン数理科学研究所の所長デイビッド・ウォレス氏は次のように付け加える。「ニュートンは複雑な人物で、金属を金に変える方法を探る錬金術も研究していた。また造幣局長官としては貨幣の偽造犯を死刑にするという非情さも見せた」。

 1727年、アイザック・ニュートン卿は睡眠中に84年の生涯を閉じた。壮麗な葬儀が行われ、ロンドンのウェストミンスター寺院に埋葬された。

Illustration by Jean-Leon Huens

文=Kate Ravilious in York, England

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