HIPHOPのメンタルヘルス観の変容/「男らしさ」から「脆弱性」へ
HIPHOPとメンタルヘルスの関係性。2010年代後半にブームとなったエモRAPについてはCINRA.NET寄稿コラムでフォーカスした。本稿では「エモRAP」以前、主に1990年代から2010年代を追う。アメリカのHIPHOPは現実のブラック・コミュニティを反映する。心理療法を遠ざける要因となる「強さ」主義が問題視されてきたHIPHOP。しかし、近年は変化を見せている。
90s-00s:「強さ」主義と「音楽がセラピー」神話
死んだら地獄に行きたい 俺はどうしようもなくクソ野郎だから
- The Notorious B.I.G. "Suicidal Thoughts"
2010年代中盤、アメリカで自死や憂鬱を語るRAPが増えた……と言っても、もともとメンタル・イルネスはHIPHOPで描かれてきたモチーフだ。1990年代には、ノトーリアスBIGを筆頭にゲットーボーイズや2Pacが希死念慮を表現している。しかしながら、著名ラッパーたちのメンタルヘルス観は変容しつづけている。
まず、1990年代から2000年代の話をしよう。Pitchforkによると、これの時代に活躍したラッパーたちは、メンタルヘルス観にある傾向があった。希死念慮を表現する楽曲が作られる一方で、多くの男性ラッパーたちは心理療法を拒否してきたのである。Mobb Deepのプロディジーは象徴的な発言を残している。「HIPHOPが俺たちのセラピーだ」。アイスキューブ、エミネム、Jay-Zもまた同様の提唱をしていた。心理療法を否定し、音楽をセラピーだとする向き。名づけて「音楽がセラピー」神話。
「心理療法はクソだ。心の医者なんて必要ない。俺の音楽がセラピスト( shrink*1 )だ」
(Eminem、2002年The Rolling Stone)
「俺は自分の感情を座って話すタイプじゃないんだ。だけど音楽は想いを引き出してくれる」
(Jay-Z、2010年USA Today)
心理療法を否定するHIPHOPの姿勢は、現実のブラック・コミュニティを反映している。2016年NIMH調査によると、アメリカでは5人に1人の成人がなんらかの精神疾患を抱えている。さらに、アフリカ系の場合は深刻な精神問題を抱える可能性が20%高い*2。にも関わらず、アメリカの黒人が精神保健サービスを使用する確率は白人の半分なのである。心理療法を「汚名」と認識する傾向は、とくに黒人男性に強く見られる。推定要因は複数ある。貧困、教育、保険の問題。セラピストに白人が多く、被差別人種の心理が理解してもらえない状況。スピリチュアリティへの信頼度*3。そして、HIPHOPにも色濃い「強さ」主義である。「強い自分にセラピーなど必要ない」とするアティチュードだ。
アメリカのブラックコミュニティ、そしてHIPHOPに根づよい「強さ」主義。そのルーツは現在進行系の人種差別であると語られる。歴史のなかで、根強い差別を受ける黒人たちは「他の誰よりもストイックで弾力性ある態度」を常態化させなければ生き残ることができなかった*4。 不平等な社会に対する“防御壁”としての「強さ」主義が、一方で心理医療を遠ざける“障壁”となっているのである。HIPHOPは、長らくブラック・コミュニティの「強さ」主義、および心理療法への拒否感を反映してきた。そして助長もしてきたと言えるだろう。しかし、HIPHOPは変容しつづけている。メンタルヘルス観に関する変化が注目されたのは10年代中盤だが、その前に「男らしさ」主義が変革された00年代後終盤を紐解こう。
00s終盤:HIPHOPは「男らしさ」から「脆弱性」へ
時間の経過とともに、ラップの「強い男性」 表現はその支配をゆるめていった。(中略)徐々に、メンタルヘルス問題のような脆弱性が許容されたのである
引用元:To Be Young, Angsty, and Black: On Rap’s Emo Moment | Pitchfork
「強さ」主義──言い換えれば「男らしさ」主義で知られるHIPHOPだが、2000年代後半にその溶解が起こっている。取って代わって台頭したのが「脆弱性」表現だ。キーパーソンはカニエ・ウェストとドレイク。2008年、ウェストは『808s & Heartbreak』でメロディアスな悲嘆をHIPHOPに昇華させた。そして、この『808s』の影響下で「不安と悲しみの情緒」表現をモノにしたのが2011年ドレイク『Marvin's Room』である*5。ラップ・イヤー・ブックにおいて「既存のどのラッパーよりも心の痛みの追求をうまく共有した」と評されるドレイク。彼が得意とする「情緒と不安のロマンチシズム」は、当時のHIPHOPが抱えていた「男らしさ」主義に反するものだった。その形跡は彼の初ヒット曲『Best I Ever Had』を聴けば一目瞭然だろう。
俺のアルバムが出ると ビッチどもは俺の写真目当てに買う
野郎どもも買う そして言い張るんだ 「妹のためだ」ってね
Drake- Best I Ever Have
ということで、主に2000年代終盤からHIPHOPに「男性の脆弱性」表現が増えた。同時に「強さ/男らしさ」主義は緩和している。しかしながら、メンタルヘルス観の大きな変化が報告されるのはもう少しあとだ。HIPHOPにおける「精神疾患=弱さ」思考は、2010年代でも観測される。皮肉にも、ジャンル内の「男らしさ」主義を変革したドレイクがその一例だ。「ナイスガイ」な像で成功した彼は、2016年にビーフ相手の精神疾患経歴を嘲笑し批判された。そして、このときのドレイクが侮辱した相手が「HIPHOPのメンタル・イルネス表現」のパイオニアである。
10s:メンタル・イルネス表現の拡張
子供のころから死のヴィジョンに取り憑かれてきた
こういうトリップは今じゃ普通 俺はグリップを特注した
あいつらは去ったのか?
いや、眠りについただけだ あのハウンターどもは去ってない
- Kid Cude "Baptized In Fire"
ドレイクと同じ2000年代後半に出現し「メンタル・イルネス」表現のパイオニアとなったラッパー、それがキッド・カディだ。『808s & Heartbreak』製作も務めた彼は、不安に関するRAPの先駆者として評価されている。彼から影響を受けたアーティストも多い。その一人は、2017年に自殺防止ソング『1-800-273-8255』をヒットさせたLogic。
「カディは、不安やメンタル・ヘルス問題について語ることに影響を与えてくれたんだ。まるでこんな感じだった。“大丈夫だ、悲しくても。大丈夫なんだよ、それらを話しても、そういう想いを抱いていても”」
(Logic、2018年Apple Music)
2010年代を代表する若手アーティストもカディの影響を明かしている。KYLE、ジェイデン・スミス、トラヴィス・スコット、リル・ヨッティ。ラップ・イヤー・ブックでも語られたように、2000年代末以降「悲しみ」表現で商業的成功を収めたNo.1ラッパーはドレイクだ。しかし、2018年現在、カディの功績は再評価されつづけている……HIPHOP史におけるキッド・カディの影響力:憂鬱やメンタル・イルネスも表現して良い。2010年代後半には、希死念慮や憂鬱を強く押し出すRAPがムーブメントとなった。代表格はリル・ウージー・ヴァートやXXXテンタシオン。寄稿コラムでフォーカスしたエモRAP勢である。彼らが活躍する土壌を培ったのはカディと言っていい。
10s後半:セラピーを肯定するラッパーたち
「メンタル・イルネス」RAPのパイオニア的存在となったカディ。彼は、2016年にうつ病や自殺志願のリハビリ受診を発表した。翌年、Pitchforkは『ラッパーのセラピー観の変化』を特集している。10年代中盤、著名ラッパーのメンタルヘルス観に変化が見られたのだという。かつて「音楽がセラピー」神話を唱えていたプロディジーは、2017年にブロードキャスト『The Therapist』でセラピーを受けた。この番組には、Vic MensaやYoung M.A.など多くのラッパーが出演している。2013年には、アメリカの黒人層の間で「メンタルヘルス・サービスの模索」がオープンになりつつある調査結果が出ている*6。ラッパーたちもまた心理療法へオープンになりつつあるのかもしれない。
HIPHOP界で「心理療法への拒否感」が低まるなか、アクションを起こすラッパーも目立ち始めた。自殺防止楽曲をリリースしたLogicについては寄稿コラムで紹介した。「音楽界の大統領」と言われるJay-Zもまた、プロディジーと同じく姿勢を改めている。そしてアクティビストにもなった。2017年『Smile』でセラピー受診を明かした彼は、ブラック・コミュニティにセラピーを普及させようとしているのだ。Footnotesでは心理療法の重要性を説き「黒人層の心理療法への拒否感」問題にも触れている。CNNでは「差別を受ける黒人は心理的問題を抱えやすい環境にある」とし、学校へのセラピスト導入を提案した。更には、HIPHOPの「強さ」主義の軟化の象徴とも言えるような発言をしている。
「男性ができる最も強い行為は泣くことだ。世界を前に、感情を晒し、脆弱になる。これが真の強さだ。もし自分が用心深い人間と思ってるなら、それはリアルじゃない。フェイクだ」
(JAY-Z、2017年The New York Times)
まとめよう。著名ラッパーは心理療法を拒否してきた。その一因には「強さ」主義があり、現実の黒人層も同様の傾向が観測される。しかしながら、2000年代終盤にジャンル内「強さ」主義は軟化。それに代わり「脆弱性」表現が普及した。メンタルイルネス表現も増えていき、2010年代後半には「心理療法を推奨する著名ラッパー」も散見されるようになった。これらの延長線上に、寄稿コラムでフォーカスした「自殺を描くエモRAP」が在る。
男性の自殺率を増やす「強さ」主義
最後に、なぜ男性間でとくに強い「強さ」主義がメンタルヘルス問題に悪影響か述べる。日米ふくむ多くの国では、男性の自殺率が高い。アメリカの黒人に限れば、2015年の自殺者は85%が男性である。男性の自殺率の高さには、進化心理学的要因、そして社会の性別模範の影響がある。推定理由として頻出するのは「男性は女性よりも相談ができない」傾向だ。こちらのブログで心理学者トマス・ジョイナーの論が紹介されている。一般的に、若年期の男性は女性よりも「気づかい」を要されない環境にある。その為「友人関係の維持」テクニックを育みにくい。人間関係を重んじてこなかった男性は、仕事盛りを終えた中年期、自身の「孤独」に突き当たる。「男らしさ」にこだわる男性は、相談を拒む意識も強い。そして、サポートを求められぬまま憂鬱に陥り、自死リスクにつながる。
本稿で取り扱った「強さ」主義は、男性を相談や心理療法から遠ざける可能性が高いだろう。被差別の歴史ゆえに「強さ」主義が強いとされる音楽ジャンル、HIPHOP。それは現実のブラック・コミュニティが抱える問題を反映し、おそらくは助長してきた。しかしながら、ラッパーたちはコミュニティを変える可能性も秘めている。メンタルヘルス問題に取り組むキッド・カディやLogic、Jay-Zの存在は大きい。そして、2010年代を代表するラッパー、ケンドリック・ラマーも動いている。デビュー当時からメンタル・イルネスを描いてきた彼は、2015年、希死念慮に苦しむ子どもたちにこの曲を宛てた。
俺は自分を愛する(彼は言った 立ち上がれ 人生は自殺以上の価値がある)
俺は自分を愛する(いつの日か ときが来れば 太陽は輝くから)
- Kendrick Lamar "i"
この楽曲は、製薬会社カイザーのうつ病啓発キャンペーン#Find Your Wordsに提供されている。
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ケンドリック・ラマーやキッド・カディの“その先”。「男らしさ」とは対極の「超・脆弱性」ラッパーたち。そして急増する若年層の自殺率。2010年代中盤にブームとなったエモRAPやドラマ『13の理由』を代表例に、2017年のUSユース・カルチャー“若者の自殺”ブームを考察。
参考資料
ラップ・イヤー・ブック イラスト図解 ヒップホップの歴史を変えたこの年この曲
- 作者: アイスT(序文),シェイ・セラーノ,アルトゥーロ・トレス,小林雅明
- 出版社/メーカー: DU BOOKS
- 発売日: 2017/01/06
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
歌詞の参照 Genius | Song Lyrics & Knowledge
(本稿のリリックは、意訳、および抄訳をつなげたものとなります。誤りがありましたらご指摘ください)
Therapy Is Gangsta: Hip-Hop’s Views on Mental Health Are Evolving | Pitchfork
To Be Young, Angsty, and Black: On Rap’s Emo Moment | Pitchfork
How Logic, Lil Uzi Vert, And XXXTENTACION Put Mental Health Center Stage in Hip-Hop | Genius
Built-in racial barriers for mental health treatment | TheHill
African Americans | NAMI: National Alliance on Mental Illness
On Hip-Hop, Black Male Youth, and Mental Health – BLACK BOY BULLETIN
Hip-hop works to break down mental health stigma for black men
What Pill-Popping In Hip-Hop Means For Mental Health
Eminem: The Rolling Stone Interview - Rolling Stone
How Hip-Hop Is Confronting Toxic Masculinity
Kendrick Lamar Talks New Album, Working with Pharrell, & Macklemore's Text - Rap-Up | Rap-Up
男性はなぜ孤独であるのか(トマス・ジョイナー『Lonley at the Top』) - 道徳的動物日記
(インターネット資料はすべて2018年6月2日受信)
修正1:Eminemのインタビュー抄訳に“shrink”表記を加えました。精神科医やセラピストを指すスラングです。また、文章の流れ上「心の医者/精神科医」としていたのですが、より文脈に近い「心の医者/セラピスト」に修正いたしました(2018年6月3日15時)
修正2:The Notorious B.I.G. "Suicidal Thoughts"訳に誤りがあったため、該当箇所のライン“hawkin'”以下を削除いたしました(2018年6月6日14時)
*1:"shrink"は精神科医やセラピストを指す。スラングのため、訳に迷って「心の医者/精神科医」と記載したのですが、文脈的にセラピストのほうが適切なので修正しました (2018年6月3日15時) Urban Dictionary: shrink
*2:African Americans | NAMI: National Alliance on Mental Illness
*3:黒人はうつ病ケアにおけるスピリチュアル性への評価が高い。白人の3倍。医療機関よりも教会に解決策を求める How Important Is Intrinsic Spirituality in Depression Care?
*4:同様の主張 Built-in racial barriers for mental health treatment | TheHill, On Hip-Hop, Black Male Youth, and Mental Health – BLACK BOY BULLETIN
*5:「ドレイクは、カニエ・ウェストの行っていた自己検診を抜き出し、そこからアジテーションを全て取り除き、情緒的不安のみを保存している」(ジョン・カラマニカ、2009年 The New York Times))
*6:Black & African American Communities and Mental Health | Mental Health America