承前*1
世論調査というのは、それが日本で行われるのであれば、日本国民の意見として提示される*2。
提示された世論調査を日本国民が読むのと、それ以外の人が読むのとは、些か事情を異にしている。改憲に賛成であろうが反対であろうが、また〈共謀罪〉に賛成であろうが反対であろうが、そのどちらかに、或いは〈どちらともいえない〉とか〈わからない〉に自らを同一視しつつ読み、その上で、様々な感想やらコメントを持つことになる。つまり、提示された数字を〈日本国民〉のミニチュアとしつつ、さらにそれに自らを重ね合わせる仕方で、その都度日本国民としての私という意識を再生産していることになる。ここでは、ネイションという不可視の全体は統計数字として可視化されている。世論調査が行われて、数字が提示され、それを〈日本国民〉が自らに重ね合わせつつ読む度に、日本というネイションが再生産されることになる。それを可能にしているのは、直接的には、私たちの提喩的な想像力である。しかしながら、社会史的に見て、或いは私たちの生活史的に見て、私たちの提喩的な想像力がそのような仕方で機能するようになったのは、いつ頃のことなのだろうか。統計数字への社会化というのは、それなりに重要な社会学的問題なのではないかと思いついた次第。
*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060527/1148702469
*2:前に述べたように、電話調査の場合、明らかになるのは、あくまでも日本在住者の意見である。選挙人名簿をベースにサンプリングを行う面接調査では、選挙権を持つ日本国民が母集団ということになるが。