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更新日:2024/09/29 Sun 23:30:02
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レオポルド二世とはベルギー王国二代目国王。
英仏独(普)が激しく覇権を競った19世紀末~20世紀初頭において、アフリカ奥地の資源豊富な
コンゴを獲得しながら、
評判は
最悪どころのものではないものになっているお方。
生い立ち
1835年4月、オランダと袂を分かち生まれたばかりのベルギー王国の王都ブリュッセルにおいて生を受ける。
なお生まれこそベルギーだが、
- 父はベルギー政府から請われて即位したドイツ地方「ザクセン=コーブルク公国」の公子
- 母はフランス国王ルイ・フィリップの娘
…というわけで、厳密な意味での「ベルギー人」ではない。
まあヨーロッパの王位は「血統の格」も重視されるのでドイツ諸侯を招くのは意外とよくあることだったりする。
本来次男であったが、兄ルイ=フィリップの夭折により、生まれながらにして王太子となった。
9歳になるとブラバント公(
イギリスでいうところのプリンス・オブ・ウェールズ)に任じられ、順調に王太子としての立場を固めていく。
1853年にオーストリア・ハンガリー二重帝国副王の娘であるマリー=アンリエット・ド・アブスブール=ロレーヌと結婚。
1855年には上院議員として政界進出を開始。順調に次代の王として成長していった。
そして、ある野望を抱くに至るのであった。
絶対植民地獲得するマン誕生
今でこそ「ベルギー? あの
チョコレートしかない国?」「19世紀あたりは
ドイツの道路的存在でしょ?」などと言われることも多いベルギー。
しかし独立手前の1820年代に
産業革命を迎えたことに加え、初代ベルギー王レオポルド一世は立憲君主を超えたカリスマ的指導力を元に近代化を進めたことで、1836年には
列強に先駆け鉄道の敷設を果たすなど、一小国に過ぎる程の経済力を得ていた。
ここでも「道路」なのである
しかし悲しいかな、やはり生まれて日も浅いうえに基本的な国土面積と人口面で列強からは遠く離れた小国と言わざるを得なかった。
上院議員となるころから、レオポルド王太子はそんな祖国を列強に比肩しうる大国にすべく、植民地の獲得を志していた。
隣国、いやかつての宗主国オランダがジャワのコーヒー豆で大フィーバー状態となっていたのを見れば尚の事その思いは強くなったことであろう。
早速中近東・アフリカ・清を物色に回るなど、欲望丸出しで外遊を敢行。帰国後には上院で演説をぶち植民地獲得の必要性を説いて回った。
しかしベルギーの議員の皆さんは反応が非常に鈍かった。
議員Aさん「いや…現国王がハワイとグアテマラでやらかしたばっかりですし…」
議員Bさん「国庫もそこまで余裕はないですし、儲けが出るような土地はみんな取られてるじゃないですか!」
実にごもっともである。
しかしレオポルド王太子は諦めない。
「良い条件なんて待ってたらいつまでも大国になれないだろ!?今こそ動き出そうぜ!」
「さしあたっては清とか日本がいいんじゃないかな、連中を搾取するのは可哀想かもしれないけど、僕達はあの地域の救いだと思う」
など、十数年に渡り訴え続けた。1865年に父レオポルド一世が崩御しレオポルド二世として即位した後も植民地探しに奔走。
フィリピン・モザンビーク・ボルネオ・清・モロッコ・エチオピアなど手当たり次第に手を出したが、
英「(道路に上等な植民地は)与えられねーわ」
仏「あーげないwwwwwwwwwwwwwwwwwww」
葡「お断りします」
西「バーカ!」
すでに付近に権益を持っていたり、先に手を付けていた列強に防がれたのであった。それでも諦め切れない彼は中部アフリカの奥地・コンゴに可能性を見出していた。
豊富な金やダイヤ、ゴムや象牙などの資源を持つと言われながら、鬱蒼としたジャングルが結果として植民地支配から守ってきた秘境である。
ここを何としても獲得すべく、私的機関をぶちあげて獲得に奔走した。
そして1879年、
イギリスに援助を蹴られた探検家のスタンレーを雇い、現地の部族と独占的貿易条約を結ぶことに成功したが、
コンゴ川河口部に利権を持つポルトガルが領有の動きに異を唱えると
イギリスが同調、しかしベルギーの側にはビスマルク率いるドイツと、
英仏分断戦略のもとドイツが味方につけたフランスがつき、例によって列強による外交戦争の様相を呈し始めた。
そして1884年。コンゴ問題が深刻化したために開催された
ベルリン会議において、
「門戸開放で自由に貿易をさせる」「中立性を持たせ、どこにも偏った肩入れをさせない」ことを条件にレオポルド二世がコンゴを獲得することになった。大願成就の瞬間である。
コンゴ自由国(自由とは言っていない)
さて、こうして獲得した「コンゴ自由国」。この植民地は正確に言うとベルギー領ではなかった。
ベルギー議会は国王に対し相も変わらず冷ややかであり、「併合したくねぇッス」「国庫からお金はびた一文出しませんよ」と統治にやる気がなく、
レオポルド二世が私財を投じて統治するほか無く、国庫出動を諦めた。つまり彼個人の私領であった。
この私領というところが、勘違いをさせてしまったのだろうか…
当初は各国より投資を募り、レオポルド二世自身も私財を投げ打ち、生活を切り詰める程に投資した。
そうして、鉄道インフラを整え他の植民地からの攻撃を防ぐべく要塞を作り、アラブ系の奴隷商人対策を強化し徹底して取り締まった。
どこがダメな統治なんだろう、当時としては普通じゃない?と思われたかもしれない。
しかし、生活を切り詰めてまでインフラ投資したのは「利益」のためである。
すぐに、凄惨な利潤追求が始まることとなった…。
1891・92年に連続で勅令を発し、利益率の高い天然ゴム・象牙採取をレオポルド二世の専業とした。
そして苛烈なノルマを課した結果、コンゴのゴム生産量は1893年に250トンだったのが1901年には
6000トンにまで跳ね上がった。
30倍弱の急増であり、新素材として需要が高くなっていた天然ゴムをバンバン売り捌き、レオポルド二世は大きな利益を得た。
しかし、その影で犠牲になったのはもちろんコンゴに住まう黒人たちであった。
苛烈なノルマが達成できない場合、レオポルド二世の率いる私兵である公安軍が
労働者の手足を切り落とすなど、
「おまえコンキスタドールかよォ!?」「松倉勝家が改心して天草四郎に土下座するレベル」とツッコミを入れたくもなる中近世頃の植民地支配が展開された。
当時の他の植民地も確かに現代から比べたら苛斂誅求を強いていたし、過酷な労働を課していたのは間違いないが、
この頃には宗主国の下層労働者とそこまで差のないくらいに改善された地域も少なくなかったし、刑罰でも手足を切るなんてことはしていなかった。
20世紀にもなってコンキスタドールもかくやという統治をしていれば露見もするし周辺国の反発も招く。
「ベルギーがコンゴで悪政を働いている」という情報は少しずつヨーロッパ各国に広まってゆき
まさかこんな絵に描いたような暴政をやっているのか? と疑問に思ったイギリスが、コンゴのイギリス領事館に依頼して調べさせたところ
全部本当だった。
イギリスなどはタイムズ紙や下院を使い猛烈な非難を浴びせ、フランスやドイツのほかアメリカも猛抗議。
無論、あわよくばコンゴを奪い取るという意志もあっただろうが、
イギリスなどがこんなキャンペーンを張ったのは、
というように、中近世並の残虐でひたすら毟り取るしか能が無いレオポルド二世の経営を、生かさず殺さず程よく〆て絞り、時には譲歩し懐柔するなど、
きちんと管理監督していく近代型の植民地経営に切り替えさせ、王の私領ということで口を出さずにいるベルギー政府に責任をもって統治させることが主眼であった。
無論、あの
イギリスが他国の失策につけこんで奪い取ろうとする意図が皆無だったとは思えないが、
セシル・ローズが大幅に拡張したローデシア(
ザンビア・ジンバブエ付近)のような直近の自国植民地に不安を与えるような真似をさせない方を優先したというのも一応説得力はある。
また英国王室とベルギー王室が親戚だったためその縁もあったのだろう。
しかしレオポルド二世はもちろん、経営にやる気のなかったベルギー政府や国民もこぞって
イギリスに猛反発するという事態になった。
「ボーア人から奪ったように奪おうとしているな!」「汚いなさすがイギリスきたない」といった論調が主流を占めた。
当時はボーア戦争が終わり、トランスヴァール共和国やオレンジ自由国といったボーア人国家が
イギリスのケープ植民地に吸収されて間もない頃であったので、
この反応はレオポルド二世のやらかしをもってしても当たり前の反応ではあった。
多数の国際的な非難とイギリスの自業自得ともいえる風評に対する不信感を受けつつも、そこまで王様が悪辣なことをやっているわけがなかろうと考えていたベルギー政府と国民。
じゃあ本当かどうか調べて白黒つけてやろうじゃねえか!! とベルギー政府が調査団を派遣し確かめたら、やっぱり全部本当だったという地獄のような結果に。
これには政府も国民もまとめて絶句。ついに国内からも猛烈な批判の声が出始める。
さすがのレオポルド二世も貴族を使ってお手盛りの「現状調査」を行い、部族民にある程度の権利を与える動きにつながるなど、
一時の酷い状況よりは改善したかに見えたが、非難は止まなかったため、
たまらずベルギー政府はコンゴ自由国の統治改善が出来ないなら政府に譲渡するように迫ったものの、レオポルド二世は無論のごとく拒絶した。
国庫から一銭も出さず、ある程度は利益を吸いながら都合が悪くなったらよこせと言われれば当然の反応ではある。
コンゴでやったことを度外視すればだが。
結局議会は止まぬ非難を食い止めるべく、1908年にコンゴ併合を決議。
立憲君主国においてこれ以上議会と争えば最悪廃位まで行ってしまうのでレオポルド二世はついに所有を断念した。
こうしてコンゴ自由国はベルギー領コンゴとなり、残虐刑は禁止となるなど当時の植民地経営としては割と普通の統治となった。
レオポルド二世の所有が始まった時は3000万の人口を誇ったにもかかわらず、一番ひどい時は900万にまで激減するほどの苛烈な統治の時代は終わったのである。
…ところがどっこい、このベルギー政府も黒人への差別的待遇は相変わらずで、積もり積もった不満が爆発する形で1960年にコンゴは独立。
この際にベルギー政府は甘い見通しや独立運動の激しさから拙劣極まる対応をやってしまい、さらに深まったコンゴの混迷は「コンゴ動乱」と呼ばれたが、それはまた別の話。
晩年
コンゴを失ったレオポルド二世であったが、その前から私生活の方もめちゃくちゃであった。
国民はもちろん、家族も残虐な統治で家名を地に落とした彼を忌み嫌った。
そのためか、跡継ぎが夭折し男子が居ないところによりにもよって愛人を作って男の私生児を二人設けるなど爛れた生活を送った。
もちろん、地に落ちた名声は更に深い底に沈んでいった。
1909年、腸閉塞で危篤となった彼は病床に司祭を呼びつけて愛人との
結婚式を強行。その数日後に崩御。
もちろんこの結婚は無効となり、愛人とその子供は王宮より叩き出された。
跡を継いだのは甥っ子のアルベール一世であった。
レオポルド二世は葬儀については簡略に済ませるようにと残していたが、「甥っ子で相続したのにそこ適当だと後で何言われるかわかんないし、派手に国葬やろう…」
とアルベール一世は気遣いから盛大な国葬を執り行ったが、これはレオポルド二世の尊厳を考えると完全に裏目であった。
国民は葬列に猛烈なブーイングを浴びせ、一説によると棺にはツバを吐きかけられたという。
ベルギーを列強にしたいと希ったの当時の情勢を鑑みれば間違いではなかったものの、やり方が非常に不味かったがために人心の離反を招き、
自身も名声や評判をひたすら損なう行動をするという負のスパイラルに陥ってしまった。
とはいえ、悲しいどころか己の野心で暴走して国益を損ねた時点で、駄目君主の烙印は甘んじて受けるべきであるし、一切同情できる余地はない。
没後~現在
その後、コンゴの首都はレオポルドウィル(現在のキンシャサ)と名付けられるなど彼の悪評はベルギー本国では風化していった。
が、第二次世界大戦後、ボードゥアン1世はコンゴ独立の際の演説で彼をたたえる演説を行った結果、独立指導者のひとり、ルムンバの憤激を買い早々にベルギーに戻る羽目になるなど、子孫にまで迷惑をかけることとなった(なお、真偽は不明だがサーベルまで盗まれたらしい)。
このように、彼の存在は後々までコンゴとベルギーの関係に暗い影を落としている。
なお、2005年にはコンゴの首都キンシャサでレオポルド2世の銅像が建てられたが、一日で撤去されるという珍事が起きている。
日本との関係
即位当初は日本侵略を主張したレオポルド2世であったが、その晩年には日本は親ベルギー国になっている。
1894年に勃発した日清戦争で、当時極東最大の旅順要塞を日本が攻めて陥落させたのだが、此処でアメリカの新聞社『ニューヨーク・ワールド』のクリールマン特派員が「日本軍が女子供を含む旅順市民6万人を虐殺して肉を切り刻んだ」とセンセーショナルな報道を行って大騒ぎになる。
当然、日本側は捕虜にした清国人役人に手伝わせて、事件を調査し、『便衣兵や便衣兵の攻撃で逆上した日本兵に殺された民間人は多く見積もっても1600人』と公表したが、欧米の世論は新興のアジア人国家である日本よりもアメリカの大新聞社を信用した。
此処で、永世中立国のベルギーの駐日公使ダネタンが中立国として調査する事を提案し、最終的に「ニューヨーク・ワールド紙の記事は事実を大いに誇張しており、日本軍はジュネーブ条約を尊重していた」とベルギーがお墨付きを出した。
レオポルド二世の死後の1914年にドイツ軍がフランスを攻撃する序にベルギーに攻め込んだが、ベルギーの永世中立化を保障していた英国とその同盟国である日本がドイツに対して宣戦布告。
ベルギーは抵抗を試みるも、国力自体が違い過ぎたので、国土の大半をドイツに占領され、占領地の男は強制連行され、女は慰み者にされ、僅かな残存兵力と彼等に守られた難民が海岸線近くに籠城し、国王が前線に出て、王妃が血塗れになって負傷兵の看護をすると言う絶望的な戦況であった。
その惨状に、日本政府や日本国民は『今こそ日清戦争の恩義を返す時!』と巨額の資金を調達して、死に体のベルギー軍を支え続けた。
無論、極東ではドイツ軍が日本の大軍に瞬殺されて連合軍勝利が確定した、イギリス海軍がドーバー海峡近隣の制海権を維持していたと言う好条件が重なっていたとはいえ、日英両国からの軍資金と其れで購入した軍需物資のピストン輸送で何とかベルギー軍は大戦終結まで生き残ったのである。
余談
人格面では残虐行為を嫌う優しさを持った人間ではあった。
残虐な統治で大いに悪名を高めたものの、それ自体は不本意だったようで現地の監督官らには残虐行為をやめるよう度々働きかけはしていたようである。
なお、天然ゴム生産ノルマは特に変えたりしなかったので結局現地の監督官は前述の通りの残虐行為を働き労働者を死ぬまで酷使した。
ゆっくり働かせてノルマ達成出来なければ自身が罰せられるのだから当たり前の話である。
そしてそのことは決して認めない、ナイーブで貴族然とした「優しさ」に留まったのが悪名を高める結果となった。
また健康にこだわりを持っており、雨の日に髭を濡らさないよう仕舞うカバーを作らせていたり、
病人の接近を嫌い、側仕えの者が風邪を引いた場合治るまで出仕させないなどしていたという。
そのため、側仕えの者たちは仮病を使ってサボっていたりしたとか。
誰だってそーする?
妹にシャルロッテ・フォン・ベルギエン、またの名を
メキシコ皇后カルロータがいる。
メキシコ保守派とナポレオン三世の意向で皇帝となったマクシミリアーノ一世の妻であったが、
ナポレオン三世に見捨てられたマクシミリアーノが
メキシコで苦境となり、助けを求めて欧州を回るが尽く断られて精神を病み
マクシミリアーノが
メキシコ自由主義軍により処刑されたことを知ると完全に狂い、夫の死を認めず
マックスと名付けた人形と寝食を共にするなど狂人として人生を終えてしまった。
彼は正妻との間に一男三女(但し息子は早逝)、前述の通り愛人との間に二男の子供を設けた。
だが長女ルイーズはあっさり夫を見限り駆け落ちし放蕩人生を過ごし、次女ステファニーは夫が若い女と謎の死を遂げ(映画『うたかたの恋』の原作)父と財産や再婚相手の件で揉めたりし、三女クレマンティーヌはナポレオンの親戚と結ばれるも父に死ぬまで結婚を認めてもらえずといずれも苦労の人生を送っている。
またこれは蛇足だが、レオポルド二世の又甥(アルベール一世の息子)であるレオポルド三世は、WW2時の対応への評価により国民間の争いを招き退位するという不運に遭遇している。
なお、ものすごく意外だが『ターザン』の原作小説第1巻に名前だけ登場しており、よく読むと物語に間接的にだが大きく関与している人物だったりする。
(以下のページ出典は厚木淳訳の創元文庫版のもの)
- ターザン18歳の時(1906年前後)、前人未到だったジャングルに東の方から黒人たちが来て、ターザンの育ての親のカーラ(大猿)がこの部族の狩人に殺されてしまう。
彼らはP104~106やP276の説明によると、コンゴ自由国で白人将校にこき使われたので反乱を起こし、一度は勝つが援軍に鎮圧されそうになり前人未到のこの地まで逃げる羽目になったそうなので、過酷な支配の余波にターザンたちも巻き込まれたことになる。
- さらにターザンの実父グレイストーク卿は「『ヨーロッパの別の強国が原住民を徴用(コンゴ川とその支流のアルウィミ川でゴムと象牙を収奪するのに使用)すると言いつつ実質奴隷として拘束している』という訴えが英国植民地から届いたので1888年調査に向かった。」とP10~12で説明があり、年代や場所を考えるとやはり彼もコンゴ自由国と隣接する英国植民地に向かう予定だったらしい。
ちなみにP276では「大偽善者ベルギー国王レオポルド2世」と酷いことを書かれているが、実際20世紀初頭の欧米ではこういう批判が数多かった。
追記・修正をお願いします。
- 韓国人が言うには、日本の植民地支配はこの人のものより酷かったらしいぞ -- 名無しさん (2015-04-04 23:43:06)
- さすが植民地支配の悪の権化と言われるだけはあるな あとスペインの反応にワロタ -- 名無しさん (2015-04-05 01:00:20)
- まあベルギー如きが日本にちょっかい出しても距離の問題やら、平和ボケしてるとはいえ一定の軍事力保ってるからたたき出されるのがオチだったろうね。 -- 名無しさん (2015-04-05 06:45:35)
- ↑3 うわー酷いわー日本人酷いわー(棒読み) -- 名無しさん (2015-04-05 12:34:00)
- 調べてみたら、マジで国民に黒歴史扱いでガチに嫌われているのなw -- 名無しさん (2015-04-05 14:00:51)
- ↑2 そうなのか!?一体残忍な日本人によってどれだけの大人しい韓国人が殺されたんだろうか!?(適当) -- 名無しさん (2015-04-05 14:53:22)
- 本文にも少し出てくるボーア戦争はイギリスと旧オランダ系現地人との抗争だったから、対英感情悪化もやむを得ない気はする…。 -- 名無しさん (2015-04-05 15:26:44)
- こういうところでも嫌韓厨が沸くのか -- 名無しさん (2015-04-05 15:46:41)
- 岩倉使節団はベルギーを訪れたとき、小国ながら国力盛んで日本の目標にすべきだ、と考えたくらいなのにね・・・ -- 名無しさん (2015-04-05 19:02:30)
- まあ清や日本を侵略するのは無理だなあの状況じゃ -- 名無しさん (2015-04-05 23:41:19)
- けどベルギー、北京議定書(義和団事件の後始末)にも一応名前だけは入ってるんだよね。後日本はオランダとも関係が深かったから、そこら辺も影響してるのかも。 -- 名無しさん (2015-04-06 16:52:00)
- ↑あれは仲裁国だったから入っただけじゃなかった? -- 名無しさん (2015-04-07 00:04:09)
- 時代錯誤の残虐統治で家名は地に墜ちるわ、愛人は結局子供共々王宮から叩き出される羽目になるわ、後継者は曲がりなりにも先代への敬意を葬儀で示そうとしたら大ブーイングだわ…一番とばっちり喰らいまくった親族が悲惨だな… -- 名無しさん (2015-04-07 01:39:09)
- ↑アルベール一世は第一次大戦で決死の抵抗を見せてシュリーフェン・プランを崩す堤の一穴になって評価戻したけど、次代以降がいちいちやらかすから実は家系なのかもしれんw -- 名無しさん (2015-04-10 13:18:41)
- 隠し切れないイギリスディスりがあるなw しかし日本狙ってたのか…歴史のイフが有ったら薄ら寒くなるな -- 名無しさん (2015-04-15 01:30:11)
- チョコレートの産地ぐらいにしか認知されてない平凡な小国の悪名を一人で高めまくった国王の屑 -- 名無しさん (2016-07-02 13:20:58)
- 唐突なミストさんネタだなんて…こんなの普通じゃ考えられない! -- 名無しさん (2016-09-07 13:54:29)
- 最近制作された映画「ターザン」では、この頃のベルギーがボスというか悪の国家枠になってたね -- 名無しさん (2016-09-07 14:23:26)
- こんな国が日本に手伸ばしてきてもこの頃の日本なら十分跳ね除けてたと思うわ。内ゲバ酷かったけど方針としては諸外国に舐められない国、日本を目指してたわけだし -- 名無しさん (2016-10-05 22:05:48)
- ↑4 無礼者、ビールも名産だ -- 名無しさん (2016-12-09 18:31:32)
- どうでもいい話だが、初期設定からするとポアロ(フランス系ベルギー人)はこの王様の治世に生まれたんだな -- 名無しさん (2017-06-21 11:18:13)
- 小国が大国に成り上がる為にはこのくらいの事はしないと駄目だったんだろうなとはわかる -- 名無しさん (2017-12-02 05:54:09)
- 成り上がり方なら国土広いけど寒すぎで農業に適してなかったブリテンさんを見習うべきだったと思うの。従順な植民地人を体制側に取り込んだりする努力も惜しんでるようじゃダメ -- 名無しさん (2018-03-18 15:18:12)
- 植民地でも最低限の尊厳と生活を保障できなきゃどうなるかって話だな、古代ギリシャとかの奴隷制のほうがまだ仁義があった -- 名無しさん (2018-03-18 19:20:47)
- アニヲタ的にはクロノクルみたいなもんか>ナイーブで貴族然とした「優しさ」 -- 名無しさん (2018-04-11 11:25:00)
- 最初のコメで視点がヨーロッパから極東へ向かってしまった -- 名無しさん (2018-06-04 09:32:07)
- まあ当時のベルギーには地球の裏側まで戦争しに行く力はなかったのは明らかだわ -- 名無しさん (2018-08-13 17:24:08)
- クロノクルわかるわ -- 名無しさん (2019-01-30 13:09:28)
- 現代のブラック企業の経営者の中にもこの人みたいな人間がいそうだな -- 名無しさん (2019-03-28 01:36:05)
- 役人の残虐行為を嫌うんだったらそれを禁止する法律とそれが遵守されるシステムを作ればよかったんじゃないですかね… -- 名無しさん (2019-06-11 14:10:46)
- 銅像の撤去が決定。なお、国内外誰一人として反対しなかった模様 -- 名無しさん (2020-06-18 16:39:39)
- エスニックジョークでベルギーの扱いがアレなのはまさかこの人が原因? -- 名無しさん (2020-07-14 00:06:42)
- こんだけのことしたやつの銅像を用意した理由はなんだろうか・・・ -- 名無しさん (2020-08-31 16:16:55)
- たかが小国の王の分際で出過ぎた真似をした、のかなあ。全方位敵だったのを見るに -- 名無しさん (2021-03-31 08:44:20)
- まあ、国王や政治家の使命は飽くまで自分の国を豊にすることだからな。極端な話し自国の利益の為に他国の国民が何万人死のうと気にする必要はない -- 名無しさん (2021-05-01 14:37:13)
- その結果悪評まみれで本国ごと転落してくのは気にしろ。 -- 名無しさん (2021-09-01 14:10:36)
- ↑2 他国の国民を何万と殺して自国の利益が増大するシステムはなかなか難しいけどな。 -- 名無しさん (2021-09-01 18:29:39)
- 綺麗に見せる必要はあるが綺麗である必要は無い -- 名無しさん (2021-09-01 22:33:18)
- 「植民地化」というのは後世の言い方で、当時は「文明化」と称して当然視してたことは強調すべき。現代では、傀儡勢力の押し付けを「民主化」と称して正当化してるようにね。 -- 名無しさん (2021-09-02 15:03:32)
- 人口3000万→900万は眉唾(当時の日本とほぼ同数)にしても数十万単位で犠牲になった事は間違いない。なおコンゴは個人の所有からベルギーの所有に移ってもほぼ変わりが無かったことは忘れてはいけない。当時は「そういうもの」だったのだ。 -- 名無しさん (2021-09-05 06:37:08)
- 実際今回のコロナでも先進国がワクチン買占めしているせいで後進国がワクチン買えなくて死人が大量に出たけど別に政治家は批判されてないし。むしろネットでは他国に援助したせいでワクチンや人工呼吸機が足りなくなった事を批判された位だ。 -- 名無しさん (2021-09-19 10:37:30)
- イギリス、ドイツ、オランダみたいな他国がガイすぎて自分らも植民地経営しないとこれからドイツに攻められたりしてやべーぞ!!って観点自体は当たってはいる。 -- 名無しさん (2023-01-13 12:27:15)
- こんなどうしようもないやつの次があのアルベール1世って激動の歴史だなぁ -- 名無しさん (2023-02-13 14:10:32)
- 独裁者っていうタグが有るけどベルギーは立憲君主制で議会も有るから独裁者ってのは違わない? -- 名無しさん (2023-06-07 01:03:19)
- 今のコンゴ民主共和国が極貧に喘いでいるのも、大抵ベルギーの仕業。 -- 名無しさん (2023-06-11 07:19:48)
- ↑2 項目内にもあるけど当時のコンゴはレオポルド2世の私有地で国としてのベルギーはノータッチ。だからコンゴからすればレオポルド2世は独裁者ではある -- 名無しさん (2023-06-11 08:47:05)
- 遠く離れた日本をどうやって植民地にする気だったの、おじさん…… -- 名無しさん (2023-07-07 12:26:35)
- コンゴ自由国に数年遅れてかのFN社が出て来てるんだから、ベルギーのポテンシャルってチョコどころでなく結構あるのよね…… -- 名無しさん (2023-09-12 23:23:47)
- 妹シャルロッテもオーストリア皇后に嫉妬してとにかく自分も皇后という立場になることに固執していた。夫マクシミリアンが推薦によりメキシコ皇帝となったことで念願の皇后になることが叶い狂喜したが、結果は余談にある通り -- 名無しさん (2023-09-13 01:29:21)
- さてとこいつの頃がよかったとか言い出すコンゴ人が現れるのはいつごろかな -- 名無しさん (2024-06-05 18:37:49)
- いつの間にかタグとか内容とかが大幅に変更されてない? -- 名無しさん (2024-09-11 13:58:46)
- ↑誹謗中傷に当たるタグを消しました。 -- 名無しさん (2024-09-12 22:43:27)
- 2015-04-04 23:43:06、2015-04-05 01:00:20、2015-04-05 12:34:00、2015-04-05 14:53:22、2015-04-05 15:46:41、2015-04-10 13:18:41、2016-07-02 13:20:58、2019-03-28 01:36:05、2023-02-13 14:10:32のコメントをコメント整理に関する相談ページに相談しました -- 名無しさん (2024-09-29 23:30:02)
最終更新:2024年09月29日 23:30