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日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー :日本が西欧の歴史に内在化する時

2019, 日仏東洋学会『通信』

ISSN 0915-6119 CIRCULAIRE DE LA SOCIETE FRANCO-JAPONAISE DES ETUDES ORIENTALES   no 42 0 2 1 3   Kyoto-Tokyo, mars 2019      ż42¼ 2019õ3ħ31ġ CIRCULAIRE DE LA SOCIETE FRANCO-JAPONAISE DES ETUDES ORIENTALES nº 42  31 mars 2019 ġ}įʼn؆ Ũ Ļ ƪ ĝ An Early Example of Svasthāveśa Ritual: A Chinese Hagiography of the Early Fifth Century   Iyanaga Nobumi þńŒƉ ġĬ/Ŀě *GglSekTJOdlġĬƜļ/ľ »-™Ë­<Ĥ   äc[lkġŤƉ Paul Claudel et l’Indochine Michel Wasserman 1 33 83 įʼnØLjŠ/ƫŏ†khlFHbMX ]MHDekhMKe\i[lekFglNe*BiPHQ ǝƫŏfIa_Ǟ  ]RHi[IC^ÿġXgGc^ 95 Hi[IC^ġĬØ-<ġ}ØƘxŋ/=4)*= :@Ƌ<ĝØŮŸkÛěŮŸ@6&( ÍÁ 99 Hi[IC^ÛěťƻƎ*~ƌćÛěØkÛě»Ø- <ŢŻ /ŁƶĠŇƪ@7*6( ÿġXgGc^ 105 ؆Ŋ«ÍÁ 2018õúġ}įʼn؆Ɔ†ÍÁ 109 ġ}įʼn؆ †ơÍÁ 113 ŭ: ƐƏÚĬ†£†DŽż 37 Çyǀùĝ­ƴǝŔž¦©ƴǞ@ºƴ 115 ƇǐĂƢ 117 論 文 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー ――日本が西欧の歴史に内在化する時―― 小俣ラポー・日登美 根を絶たれ、名を改めて、言葉や概念は浮 遊する。しかしその浮遊の過程で、それら がある地域のある特定の歴史の中で生み出 されたものであることが明らかにされる1 。 オリヴィエ・クリスタン はじめに――世界史のレトリックとしてのキリスト教 近世の非ヨーロッパ地域におけるキリスト教の歴史は、 「接続された歴史」のモチー フとして認められて久しい。従来接点をもたなかった地域は、いわゆる大航海時代 以降にカトリック・キリスト教の宣教を契機とし、政治・経済・文化的な接触を結果 的に体験することなった。この長期的現象をサンジェイ・スブラフマニヤム(Sanjay Subrahmanyam)は、新しいグローバル・ヒストリーの形として「接続された歴史」と 提示した2 。また、南米・フィリピンを中心としその他のアジアに波及したキリスト教 が、地理的制限や従来の学問領域を規定してきた言語圏(文化圏)を超えて、一つの カトリック文化圏を形成するに至ったという視点を、セルジュ・グルジンズキ(Serge Gruzinski)が提示した3 。つまり、キリスト教の伝播の歴史そのものが、グローバル・ ヒストリーを紡ぐための一つの絶好の切り口として脚光を浴びているといえる。その 文脈で、つとに東西文化交流史や、日欧交流史の枠組みの中で捉えられてきた4 日本 1 オリヴィエ・クリスタン、小俣ラポー・日登美、彌永信美訳「 『浮遊する概念』をどう捉えるか」 ( 『思 想』2016 年 4 月号)p. 32-54, p. 41a. 2 S. スブラフマニヤム著、三田昌彦、太田信宏訳『接続された歴史――インドとヨーロッパ』名古屋、 名古屋大学出版会、2009 年(原著:Sanjay Subrahmanyam, Explorations in Connected History, New Delhi: Oxford University Press, 2005)。 3 セルジュ・グリュジンスキ、竹下和亮訳「カトリック王国――接続された世界と歴史」 ( 『思想』2001 年)p.71-116. 4 例えば古くは、岡本良知『十六世紀日歐交通史の研究』 (弘文荘、1936 年・改訂増補版、六甲書房、 1942 年)。幸田成友『日欧通交史』(岩波波店、1942 年)など、枚挙にいとまがない。その後、松田毅一 33 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) のキリスト教史が、グローバル・ヒストリー言説の潮流にその位置を見いだすのは極 めて自然な流れにみえる。実際、2018 年に、いわゆる潜伏キリシタンの事績が国際 記念物遺跡会議(ICOMOS、以下イコモス)により「長崎と天草地方の潜伏キリシタ ン関連遺産」として世界遺産に登録されたことも、こうした日本のキリスト教史が、 まさにグローバル・ヒストリーの一部であることを裏付けたことになるだろう。 ただ、日本のキリスト教史の遺産が、世界遺産に登録されるまでに直面した問題そ のものが、世界から(すなわち日本の外側から)みた日本のキリスト教史と、日本が とらえるグローバル・ヒストリーとしての日本のキリスト教史の齟齬を体現している ようにみえる。当初、日本は、キリスト教という世界宗教が、日本に伝来し・弾圧さ れ・そして復活したという三段階の歴史を考慮した遺産を候補としていた(したがっ て、当初は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」という名称であった)。それに対 し、イコモス側は、禁教と弾圧に特化した歴史遺産を候補とするよう助言し、その結 果登録対象候補が再構成され、世界遺産として認められたのが「長崎と天草地方の潜 伏キリシタン関連遺産」となる5 。 イコモスの指摘は、あくまでもキリスト教文化の日本への受容という、日欧文化の 交流史(交通史)に重点をおきたい日本側のキリスト教史観をくつがえし、禁教と弾 圧の時代、すなわち「殉教」者が数多くでた現象に重きをおきたいという主張と解釈 できる。同様の解釈は、潜伏キリシタンを題材とし、近年吉川英治文学賞も受賞した 6 時代小説『守教』 を執筆した帚木蓬生も行っている。帚木の意見によると、 「 (日本で の)殉教者は 4000 人はいたのではないか。世界に例のない数だ7 。こうしたことが忘 氏が『日欧交渉史文献目録』 (一誠堂書店、1965 年)が公刊された。これは、 「日欧交渉」に関する膨大な 数の成果を収集し、文献目録にまとめたものである。近年では、伊川健二『大航海時代の東アジア――日 欧通交の歴史的前提』 (吉川弘文館、2007 年) 、小峯和明編『キリシタン文化と日欧交流 アジア遊学 127 号』 (勉誠出版、2009 年)などが挙げられる。また、展覧会などの企画においても、この日欧交流の枠組み は、用いられている。東京国立博物館 [編]『支倉常長像と南蛮美術: 400 年前の日欧交流:特別展』(東 京国立博物館、2014 年)。 5 この方針の変更は、読売新聞連載コラム「回想録 世界遺産の道のり」上・中・下に詳しい(読売新 聞 2018 年 9 月 21 日朝刊 29 頁、同 9 月 22 日朝刊 27 面、同 9 月 23 日朝刊 27 面)。これは、長崎の市 民団体、県文化観光国際部、県世界遺産登録推進課などの事務手続きの歩みを対象に取材した記事である。 2016 年のイコモスからの勧告当時の報道は、例えば朝日新聞「教会群『潜伏キリシタン』に名称変更へ」 (朝日新聞 2016 年 8 月 31 日朝刊 31 面) 。才津裕美子「 『長崎の教会群』世界遺産推薦取り下げから見えて くるもの」(葉柳和則編『長崎――記憶の風景とその表象』晃洋書房、2017 年)p. 291-319. 6 『守教(上) ・(下)』(新潮社、2017 年)。 7 殉教者の数に関しては、カルディム『日本殉教精華』 (ローマ・1646)が 1450 人とし、新井白石『天主 教大意』は「献廟御未年に及びてかれらには杖をつかせよと仰せられたり。杖つかせよとは、こよぶに及 ばず誅せよとの御事也。その輩が転ぶ事を許さず、皆ことごとくに誅せられる。凡二、三十万人」と、見 積もるなど、資料によってかなりの異同が認められる。片岡千鶴子・片岡瑠美子『日本二十六聖人殉教四 〇〇年記念 長崎と二十六聖殉教者』(長崎純心大学博物館、1998 年)p. 6-7. また、欧米言語の資料をも とに、殉教者の数を調査した研究に、Johannes Laures, „Die Zahl der Christen und Märtyrer im alten Japan“, 34 論 文 れられている。殉教者と言えば秀吉が 1597 年に処刑した長崎の『二十六聖人』しか 知られていない。九州をはじめ大名をはじめ、大名にも農民にも広く浸透し、その後 迫害された記憶はほぼ抹殺されている。この忘却は『世界』には受け入れられない。 世界遺産登録を巡る先の騒動がそれを物語っている。大量の殉教者を出した当の日本 が禁教の歴史にどう向き合っているのか分からない。だから、ユネスコに突き返され た8 。」のだという。 実際の学術的な研究史をふりかえって見ると、帚木氏の指摘する点は、半分正しく、 半分間違っている。迫害の歴史の抹殺は、実は正しくない9 。迫害と殉教の日本キリ スト教史は、抹殺されたり忘却されたのではなく、まずその発祥が、西欧言語におい て十六世紀末〜十七世紀を通じて成立した歴史言説である。その歴史観が同時代の日 本には共有されず、近代以後に日本が受容することになったという経過を取ったため に、通常の日本史上のトピックとは異なる複雑な研究史を辿った。一方で、いわゆる 長崎の二十六聖人ばかりが、「殉教」者としての名声を主に集めてきたことも確かで ある。これも、彼らが同時代のヨーロッパにおいて最初の日本の「殉教」者として賞 賛され記憶されてきたことによる。つまり、帚木氏の誤解は、日本において日本語で 展開されてきたキリスト教史と、西欧により西欧言語で展開されてきたキリスト教史 の乖離に原因が求められる。 本稿では、日本のキリスト教史を語る上でキーコンセプトとなる「殉教」言説の発 祥の嚆矢を追い、同時に日本キリスト教史の中の「殉教」研究史をパラレルに俯瞰し ながら、日本・西欧の歴史観のすれ違いの原因を探ることとする10 。 Monumenta Nipponica, Vol. 7, No. 1/2 (1951), p. 84-101. 8 読売新聞 2016 年 5 月 15 日朝刊 13 面、コラム「想う、2016」 (編集委員鶴原哲也)。 9 近年でも、殉教史に関しては、助野健太郎、山田野理夫編『きりしたんの愛と死』(東出版、1967 年 刊)が、 『キリシタン迫害と殉教の記録』 (フリープレス、星雲社[発売] 、2010 年)と題名と版元を変更の 上で再版されている。また、概略史としては、片岡弥吉『キリシタン殉教史』 (時事通信社、1979 年) 、山 本博文『殉教――日本人は何を信仰したか』 (光文社、2009 年)がある。しかし、いずれも「殉教」事象に 関しては、ヨーロッパ人宣教師によって記述された西欧言語の資料(の日本語翻訳)に依拠している。 10 本稿は、2016 年にパリ国立高等研究院(École Pratique des Hautes Etudes, Paris)宗教学部門と、フリブー ル大学歴史学部に提出された博士論文(Des Indes lointaines aux scènes des collèges : les reflets des martyrs de la mission japonaise en Europe (XVIe -XVIIIe siècle))に基づく著作(Aschendorff 社出版、2019 年、ISBN: 978-3-402-12211-2、全 577 頁)で展開された論考の主旨を説明するものである。(題名邦訳:『ヨーロッパ における日本宣教の殉教者――遠き「インド」から学校演劇まで』)ちなみに、ここで言う「(複数形の) インド」とは、ルネサンス期にいたるまで、 「極東」の同義語として用いられ、現在の地理的概念を度外視 して広くアフリカ大陸の未知の部分、さらにはエティオピアまでも指す言葉であった。中世的なキリスト 教王国の伝説を背景に、ヨーロッパに理念的に存在した世界観の中では、日本もまた「インド」の一部で あった。彌永信美『幻想の東洋――オリエンタリズムの系譜』(青土社、1987 年)p. 32-33、184-185. 35 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) 1.西欧における日本史――「殉教」史の言説による日本 日本における最初の「殉教」 西欧言語における日本教会史は、端的に言えば、「殉教教会」の歴史を語るもので あった11 。その端緒は、後述するように、1597 年豊臣秀吉の命により長崎で磔刑に処 せられた、いわゆる二十六聖人らの死を顕彰する言説に遡る。彼らは、フランシスコ 会士宣教師とイエズス会士を含む様々な国籍の人々で構成されており、スペイン船サ ン・フェリーペ号の積み荷の収奪事件の紛糾ために、京都において急遽逮捕され、長 崎まで護送された挙げ句、処刑されたのである12 。この二十六人は、現在まで遺され る多くの西欧言語による印刷物において、日本における最初の「殉教」者として認識 されており、実際のところ、日本の「殉教」に関する言説はこれ以後、西欧世界にお いて爆発的に増加している13 。 しかし、史実としては、最初に「殉教」としてみなされる事件、すなわちキリスト 教の信仰のために日本人信徒が命を落としたのは、姉崎正治によればすでに 1558 年 に遡る14 。これは、平戸の一下女が信仰のために主人に斬り殺されたもので、翌年に は博多においても主人にキリスト教信仰のゆえに殺害された従者アンドレアの事件が 記録されている15 。特に後者の死は、報告したイエズス会神父の書簡においては、殉 11 この「日本殉教教会」の語と解釈は、以下の概括を参考とした。海老沢有道、 「二十六聖人のことども」 ( 『聲 CATHOLICA』838 号[日本二十六聖人特輯号] 、1947 年 7 月号)p. 11-13. これは、戦後初めて日本 二十六聖人に焦点を充てた公刊物の一つである。戦後なぜ「殉教」者を顕彰することに意味が生じたのか に関しては、本稿で後述する。西欧言語圏の研究が、日本教会史を、 「殉教教会」と目していたことに関し ては、ドイツ語圏で研鑽を積んだ神学者、佐藤吉昭も同種の指摘をしている。同『キリスト教における殉教 研究』 (創文社、2007 年)p. 26, 38. また、2018 年まで、ヴァチカンにおいて聖人の選定の事務を司る列聖 省(Congregatio de causis sanctorum)において省庁長を勤めていた枢機卿アンジェロ・アマート(Angelo Amato, 1938-)氏も、 「殉教教会(Chiesa di martiri) 」に関する記事の中で、その代表格として日本カトリッ ク教会の歴史を挙げている。Angelo Amato, “Chiesa di martiri? Attualità delle persecuzioni”, Consacrazione e Servizio, n. 4 aprile 2009, http://www.usminazionale.it/2009_04/amato.htm(2019 年 1 月 12 日閲覧)。 12 松田毅一『秀吉の南蛮外交――サン・フェリーペ号事件』新人物往来社、1972 年、および松田毅一 「サン・フェリーペ号事件の再検討」(『清泉女子大学紀要』14 号、1966 年)p. 27-58. 13 Henri Cordier, Bibliotheca Japonica : dictionnaire bibliographique des ouvrages relatifs à l’Empire japonais rangés par ordre chronologique jusqu’à 1870, suivi d’un appendice renfermant la liste alphabétique des principaux ouvrages parus de 1870 à 1912, 大岡山書店, 1931(Publications de l’École des langues orientales vivantes, sér. 5, t. 8), Robert Streit (hg.), Bibliotheca Missionum, vierter Bd.: asiatische Missionsliteratur 1245-1599, Aachener Missionsdruckerei, 1928, IDEM (hg.), Bibliotheca Missionum, fünfter Bd.: asiatische Missionsliteratur 1600-1699, Aachener Missionsdruckerei, 1929 などの日本関連印刷物における「殉教」関連書籍の項目を閲 覧すると、それは一目瞭然である。 14 姉崎正治『切支丹伝道の興廃』 (東京、国書刊行会、1976 年[初版 東京、同文社、1930 年] )p. 88. 海老沢有道『キリシタンの弾圧と抵抗』(東京、雄山閣出版、1981 年)、p.103、脚注 26 参照。 15 博多のアンドレアについての逸話は、イエズス会士ホアオ・フェルナンデス(João Fernandes)神父 の 1559 年 10 月 5 日付けの書簡に報告されたもので、後にイエズス会年報(Iesus. Cartas que os Padres 36 論 文 教者として知られる古代の聖人ステファンになぞらえられ、明らかにその死が「殉教」 的であることが意識されている16 。 また、二十六聖人以前にも、当時の文化的中心地の一つであった堺において、実際 に磔刑に処せられた日比谷壮礼(洗礼名ルカス)というキリスト教徒がいた。イエス・ キリストと同じく、また後の二十六聖人と同じく、十字架にかけられたキリスト教信 者として、このケースの詳細はイエズス会の書簡により、ローマに逐一報告されてい る。にもかかわらず、このケースは、ヨーロッパにおいて公にされないことが決定さ れ、結果として、イエズス会の海外宣教の成果を報告・宣伝していた印刷物『イエズ ス会年報(Literae Annuae) 』にも収録されないことが決められた17 。つまり、この十 字架上の「殉教」的死は、イエズス会内部の情報として留まり、ヨーロッパで公に「殉 教」者として顕彰されることがないように注意深く扱われたのである。その理由は、 イエズス会の文書には明言されていない。だからといって、はっきりと日比谷壮礼が 「殉教」者とはみなされることはない、ともされていない。ただ、これが敬虔なキリ スト教徒の死であり、なおかつ十字架上の死であるとは言っても、日本の法律に基づ いて断罪され処刑された犯罪者である、という控えめな理解が示されている18 。当時 の日本宣教の実質的責任者であった初代日本巡察使のアレッサンドロ・ヴァリニャー ノ(Alessandro Valignano, 1539-1606)も、日比谷壮礼の犠牲的な死に対しては好意的 意見を示しつつ、これを「殉教」とみなすまでにはいたっていない19 。 このような、長崎二十六聖人以前の疑似「殉教」者の数は、実に二十四人にも上 e Irmãos da Companhia de Jesus escreverão dos reynos de Japão & China..., Evora: Manoel de Lyra, 1598, f. 67-68)にも収録されている。 16 Joseph Wicki (ed.), Documenta Indica, vol. I (1540-1549), Roma, Institutum Historicum Societatis Iesu, 1948, p. 482, 526. ホアン・フェルナンデス(Juan Fernández)や、バルタザール・ガゴ(Balthasar Gago)な どの宣教師の書簡がアンドレアの死について言及している。Juan Ruiz-de-Medina (ed.), Monumenta historica Japoniae III, Documentos del Japón 1558 -1562, Roma: Instituto histórico de la Compañía de Jesús, 1995, p. 167, 200, 413. その後、この逸話は、以下に印刷された。Iesus. Cartas que os Padres e Irmãos da Companhia de Jesus escreverão dos reynos de Japão & China, f. 67-68. 17 Luis Álvarez-Taladriz, “Un documento inédito del año 1586 sobre los Hibiya de Sakai (堺の日比谷家に就 いての 1586 年の史料) [スペイン語論文]”,(『大阪外国語大学学報』, 7 号, 1959 年) p. 121-146. イエズ ス会年報(Literae Annuae)とは、各地域のイエズス会の報告に基づき選択された情報が、管区長の許可に 基づき出版の目的の元で編集された記録である。とくにインド、極東地域からの情報は、ヨーロッパ内部 からの情報に比べて、出版に先立ち編集の必要があると認められていた。Markus Friedrich, “Circulating and Compiling the Litterae Annuae. Towards a history of the Jesuit system of communication”, Archivum Historicum Societatis Iesus (以下 AHSI と略す), vol. LXXVII Fasc. 153, 2008, p. 3-39. 18 ローマイエズス会文書館 Archivum Romanum Societatis Iesus(以下 ARSI と略す), Jap. Sin. 10 II, f. 197r-200v. 特に、アントニオ・プレネスティーノ(P. Antonio Prenestino)神父による 1586 年 12 月 15 日 付けの手紙、f. 198v. 19 Libro Primero del Principio y Progreso de la Religión Christiana en Japón, 1603, British Museum, Add. Mss. 9857, cap. 23, f. 121v. 37 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) る20 。こうした人物は、一時的に同時代の一部の人々から賞賛の対象とはなっても、 「殉教」者として広く世界的に受容されることもなかったために、現在は長崎二十六 聖人と比べると無名である。ただし、こうした人物の死が忘却されたり軽んじられた わけではなく、日本におけるカトリック宣教の先鞭をつけたイエズス会士が、日比谷 壮礼のケースからも分かるように、当初「殉教」という現象を必ずしも推奨し、諸手 をあげて歓迎していなかったことに拠る。 「殉教」に消極的だったイエズス会 日本宣教を開始したイエズス会士は、日本だけでなく、インドや東南アジアにおい ても、他の修道会に先んじて宣教活動を開始しており、実はインド亜大陸においても 「殉教」的な死が複数記録されている。その中でも、イエズス会最初の「殉教」者と 呼称されているのがアントニオ・クリミナリ(Antonio Criminali, 1520-1549)である。 彼の死は、すぐに「殉教」と記録され顕彰の対象となったかのように見えた21 。しか し、クリミナリの死は、実際に「殉教」者として認められるどころか、崇拝の対象とは ならないように注意深く処理され、逆に「殉教」への意思のために死に急いだ例とし てみなされた22(つまり決して「殉教」という英雄的行為の模範例にはならなかった) 。 イエズス会創立者イグナチウス・ロヨラ(Ignatius Loyola, 1491-1556)の秘書を務め、 その思想をよく知る側近とみなされていた第三代イエズス会総長のホアン・デ・ポラ ンコ(Juan de Polanco, 1517-1576)は、 「宣教についての書き置き(Anotaciones sobre las Misiones)」(1558 年)において、クリミナリを例に、宣教における早まった死へ の注意を喚起している23 。また、マラッカ諸島において死亡した宣教師アフォンゾ・ デ・カストロ(Afonso de Castro)に関しては、記録において「殉教」という言葉が注 五野井隆史『キリシタンの文化』(東京、吉川弘文館、2012 年)p. 24-25. この人物の死と、イエズス会内でのその扱いについては Ines G. Županov, Missionary Tropics: The Catholic Frontier in India, 16th-17th Centuries: History, languages, and cultures of the Spanish and Portuguese worlds, Ann Arbor, University of Michigan Press, 2005, p. 150 以降を参照のこと。この人物を「殉教」者として扱うか どうかという経過に関しては、Georg Schurhammer, Francis Xavier; His Life, His Times; Volume IV, Japan and China, 1549-1552, Rome, Jesuit Historical Institute, 1982, p. 366-368, n. 32 を参照。この人物の殉教報告に 関しては、Georg Schurhammer, „Leben und Briefe Antonio Criminalis des Erstlingsmärtyrers der Gesellschaft Jesu“, AHSI, 5 (1936), p. 231-267. 22 ARSI, Instit.18 a II, f. 433v. また、Juan Ruiz-de-Medina & Josef Franz Schütte (ed.), Monumenta historica Japoniae III, Documentos del Japón 1558-1562, Roma, Instituto Histórico de la Compañía de Jesús, 1995, p. 126-127. Joseph Wicki (ed.), Documenta Indica, vol. I (1540-1549), Roma, Institutum Historicum Societatis Iesu, 1948, p. 482-526. 23 Ibidem. 20 21 38 論 文 意深く避けられ、 「喜ばしき死(felice morte24 ) 」や「聖なる終焉(sainte fin25 ) 」とい う語が慎重に用いられている。言葉や習慣の違う異国の地において、宣教師が志半ば にして現地で命を落とす可能性は、警備も医療も万端ではなかった十六世紀において は当然高く、「殉教」する機会はいくらでもあり、職務中の死がむしろ陳腐な現象で あったことは、現地で実際に働いてみた宣教師の感慨でもあった26 。 実際、当時の日本の現地文化への理解を示し、適応主義に基づく宣教活動を展開し たことで評価された27 日本巡察使のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、その日本人 論の中で、死を畏れない戦国時代の日本人の心性を鋭く洞察している28 。上述のポラ ンコのように、直截的に「殉教」の忌避を喚起するわけではないが、日本でひとたびキ リスト教徒が迫害される状況に陥れば、確実に多くの日本人が喜んで信仰のために命 をおとすことは、ヴァリニャーノには容易に予想がついていたはずである。つまり、 「殉教」という事例が一旦起こってしまえば、雪崩のようにその現象が広がり、無辜 の命が失われ、ひいては日本における実質的な布教の継続と信仰の維持自体が危険に さらされることは、現実的なイエズス会士には予想がついていたことは想定できる29 。 24 Juan Ruiz-de-Medina & Josef Franz Schütte (ed.), Monumenta historica Japoniae III, Documentos del Japón 1558 -1562, p. 176-177. 25 Ibidem., p. 170-171. 26 インドに派遣されたイエズス会宣教師メルキオール・ヌネス・バレト(Melchior Nuñez Barreto)は、 このような感慨を記している。Joseph Wicki (ed.), Documenta Indica vol. III (1553-1557), Roma, Institutum Historicum Societatis Iesu, 1954, p. 88-89, (No. 32, 33, 34). 原本は ARSI, Jap.Sin. 4, f. 66r-71v. また、宣教 に出発する前のイエズス会士においては、その希望を示す書簡インデプタエ(Indeptae)においては、 「殉 教」を期待する者が多くいたのは確かである。これらの書簡に関しては、ヨーロッパの各言語でかなりの研 究の蓄積がある:Gian Carlo Roscioni, Il desiderio delle Indi : storie, sogni e fughe di giovani Gesùiti italiani, Torino, G. Einaudi, 2001; Christoph Nebgen, Missionarsberufungen nach Übersee in drei Deutschen Provinzen der Gesellschaft Jesu im 17. und 18. Jahrhundert, Regensburg, Schnell & Steiner, 2007; Aliocha Maldavsky, « Société urbaine et désir de mission, les ressorts de la mobilité missionnaire jésuite à Milan au début du XVIIe siècle », Revue d’histoire moderne et contemporaine, 56 (3), 2009, p. 7-32; Pierre Antoine Fabre, « La décision de partir comme accomplissement des Exercices? Une lecture des Indipetae », in Thomas M. McCoog (ed.), Ite Inflammate Omnia, Selected Historica Papers from Conferences Held at Loyola and Rome in 2006, Rome, Institutum Historicum Societatis Iesu, 2010, p. 45-69. 現地に到着する以前に、インデプタエのような書簡で 「殉教」の希望を語っていた宣教師も、到着後には「殉教」することがいかに簡単であるかを悟り、 「殉教」 に関する意見を変える場合もあった。 Hitomi Omata Rappo, Des Indes lointaines aux scènes des collèges : les reflets des martyrs de la mission japonaise en Europe (XVIe -XVIIIe siècle), Aschendorff, 2019, p. 122-123. 27 ヴァリニャーノの文化適応主義に則った宣教方針については、様々な研究成果が出されているが、近 年のものでは以下参照。Vittorio Volpi, “Franco Mazzei, La lezione del Valignano nella gestione della diversità culturale nell’era della globalizzazione”, in Adolfo Tamburello, M. Antoni J. Üçerler, & Marisa Di Russo (eds.), Alessandro Valignano S.I. : uomo del Rinascimento, ponte tra Oriente e Occidente, Roma, Institutum Historicum Societatis Iesu, 2008, p. 313-325; M. Antoni J. Üçerler, “Alessandro Valignano: man, missionary, and writer”, Renaissance Studies, Vol. 17 No. 3, 2003, p. 337-366. 28 Alessandro Valignano, Sumario de las cosas de Japon (1583), Adiciones del Sumario de Japon (1592), Monumenta Nipponica monographs, Tōkyō, Sophia University, 1954, p. 204. 29 実際に、戦国時代を通じて、主君のための殉死することが美徳とされた文脈があったからこそ、後に 「殉教」的行為が日本人に爆発的に広まりえたのだともされている。山本博文「日本人の名誉心および死生 39 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) それは、1597 年に長崎において、二十六人のキリスト教が死亡した際にも、イエズス 会士が当初は、すぐに彼らを「殉教」者として顕彰しないという態度をとったことと 関連している30 。実際、ヴァリニャーノは、長崎における二十六「殉教」者の死につい ては、冷笑的ともみえる冷静な見解を当初表明している。この二十六人は、二十六人 中二十三人がフランシスコ会の宣教師か、それに関連する者たちで構成されていた。 ヴァリニャーノによれば、同じ時期に京都にはイエズス会士がいたにも関わらず、と くにフランシスコ会士らが取り締まりの対象となったのは、フランシスコ会士が敢え て秀吉の怒りをかうような挑発的な行いをとったからであり31 、イエズス会が「殉教」 から逃げたわけではないとしている32 。「殉教」者となることをねらって、あえて挑発 的に敵対者の前に身をさらす者が、本当に「殉教」者として尊敬される存在とみなさ れるのかに関しては、すでに「殉教」者が多発していた古代の教会において議論の対 象となっていた33 。例えば、テルトリアヌス(Tertullianus, 160?-220?)は、自殺的行為 と殉教の行為の区別を主張しており、また聖アウグスティヌス(Augustinus, 354-430) も「殉教者を殉教者たらしめるのは、苦しみながら死んだり、ましてや崇高な死を探 しもとめるからではない」という主旨のことを語っている34 。つまり、英雄となる目 的のために死に急ぐことは、正統な「殉教」の布石とはみなされるべきではないとい う神学上の議論がすでに古代において出されていた。また、無為な「殉教」を避けさ せるために、イエズス会神父は、キリシタンが弾圧下にあっても信仰生活を送れるよ うな配慮の準備も周到に行っていた。日本における迫害の先鋭化と、 「殉教」者の増加 が予想されるようになると、イエズス会の准管区長のペドロ・ゴメス(Pedro Gomez, 観と殉教」 (大石学[ほか]著『外国人が見た近世日本――日本人再発見』角川学芸出版・角川グループパ ブリッシング、2009 年)p. 41-128. 30 この点は、フランシスコ会がイエズス会を批判していた点でもあった。 31 この挑発については、サン・フェリペ号の積み荷事件にまつわるフランシスコ会およびスペイン人ら の対応も指している。サン・フェリペ号事件に関しては、前注 12 参考文献参照。 32 José Luis Álvarez-Taladriz, Juan Gil, & Atsuko Hirayama (eds), Apología de la Compañía de Jesús de Japón y China (1598), Ōsaka, Eikodō, 1998, p. 337. 同様に、イエズス会士で、なおかつ司教として当時日本の最高 位にあったペドロ・マルティンス(Pedro Martins)も、死に急ぐ傾向にあるフランシスコ会士の態度を批判 していた。フーベルト・チースリク(Hubert Cieslik) 「日本二十六聖人殉教関係資料(大英博物館) 」 ( 『キリ シタン研究』八、1963 年)p. 111-135. この事件におけるイエズス会とフランシスコ会の意見の齟齬に関し ては、Luis Álvarez-Taladriz, “Opinión de un Teólogo de la Compañía de Jesús sobre la Vida y Muerte en Japón de Religiosos de San Franciso”, Sapientia(英知大学論叢)、第 5 号、1971, p. 27-57. 33 Marie-Françoise Baslez, Les persécutions dans l’Antiquité : victimes, héros, martyrs, Paris, Fayard, 2007, p. 199 et s. 34 Cité de Dieu, Livre V, chapitre XIV. Glen W. Bowersock, Martyrdom and Rome, Cambridge University Press 1995, p, 63-71. 自殺的行為と殉教の区別については、Olivier Christin, « Dévouement », in Olivier Christin (éd.), Dictionnaire des concepts nomades en sciences humaines, t. 2, Paris, Métaillé, 2016, p. 107-125. ここで は、特に p. 113-114. 40 論 文 1533/35-1600)は、悔悛の秘蹟の留保という神学的理論の準備を行った35 。――ちな みに、十八世紀に、キリスト教信仰が禁止された中国奥地の四川省で宣教活動を展開 していたパリ外国宣教教会の中国人神父は、 「殉教」の代わりに「 (もちろん表面上の) 棄教」を積極的に薦めていた。西欧人宣教師が頻繁にやってこない状況下にあって、 官憲が「邪教」の取り締まりを行えば、神父は信徒に見かけ上の「棄教」を演じるよ うに指示し、官憲の尋問後に神父が「告解(悔悛の秘蹟)」を行えば、元通りの信徒 に戻れるとしていた36 。これも、禁教下にあって「殉教」を避けるための合理的な手 段と言え、浅野雅一と川村信三が分析した日本におけるイエズス会の方針に倣ったも のと考えられる。 以上のように、現実的観点から宣教地における「殉教」という現象からは慎重な立 場をとっていたイエズス会士と、対照的な見解をもっていたのが、イエズス会士に遅 れて日本宣教に着手していたフランシスコ会士であった。 フランシスコ会士にとっての「殉教」 フランシスコ会の編纂した二十六聖人殉教録に関しては、つとに佐久間正氏が、リ バデネイラ(Marcelo de Ribadeneira)やヘロニモ・デ・ヘスス(Jerónimo de Jesús)の 記録を日本語訳し紹介しただけでなく37 、フランシスコ会系の様々な証言が遺されて いることを紹介している38 。こうした資料は、二十六人の死を臨場的に描こうという 意図のもとに書き留められた単なる覚え書きではない。これらは、記述の段階から彼 らが真の「殉教」者であるという確信のもとに筆がすすめられていた「聖人伝」であ 浅見雅一『キリシタン時代の偶像崇拝』 (東京大学出版会、2009 年)p. 241-291. 迫害下の日本では、潜 伏キリシタンが(自身、家族、親類縁者の身の安全のためや、もしくは恐怖のために)信仰を隠そうと踏絵 を踏んだり、信仰を否定するといった罪を犯す場合があった。この罪は、告解(悔悛の秘蹟、ゆるしの秘 蹟、もしくは Confession )を行い、司祭の元で自分の罪を反省することで、赦しの対象となった。しかし、 司祭不在の場合は、それが留保されるという特例が作られ、信徒が良心の呵責に苦しめられないように配 慮された。Ibidem, p. 282-283. また、川村信三に拠れば、同じくペドロ・ゴメスによって、 「ゆるしの秘蹟」 のテクストたる『こんちりさんのりやく』が成立している。川村信三『戦国宗教社会=思想史』 (知泉書館、 2011 年)p. 280. この冊子は、特に九州において多くの人に回覧され、信仰の維持に大きな役割を果たした とされる。中世後期から近代にかけてカトリック・キリスト教の悔悛の秘蹟は、司法制度の発達とともに 制度的にも広まっていった。タラル・アサド著、中村圭志訳『宗教の系譜』(岩波書店、2004 年)p. 140. 36 Adrien Charles Launay (éd.), Journal d’André Ly : prêtre chinois, missionnaire et notaire apostolique, 17461763 : texte latin, A. Picard, 1906. 37 佐久間正「日本二十六聖人伝記(一) 」 ( 『横浜市立大学論叢』第 10 巻 人文科学系列 第 2 号、1959 年) p. 115-170、同「同(二)」 (同、第 11 巻 人文科学系列 第 1 号、1960 年)p. 91-115、同「同(三) 」 (同、第 11 巻 人文科学系列 第 2 号、1960 年)p. 46-71、同「西班牙古文書日本二十六聖人殉教録」 ( 『横浜市立大学 紀要』26、1954 年)p. 1-218(26 号全文)。 38 佐久間正「二十六聖人殉教史料 」 (『日吉論文集』4、1959 年)p. 92-121. 35 41 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) ることは明らかである39 。また、逮捕された二十六人の内の一人ペドロ・バウティス タ(Pedro Bautista, 1542-1597)も、監視下にありながら近いうちに自分が「殉教」す ることを強く意識し、それを希望するような書簡を自分自身で書き残している40 。同 様に、二十六人の内の一人マルティン・デ・ラ・アサンシオン(Martín de la Ascensión, 1566/1567-1597)に至っては、日本語でしたためたというかなり長い説教文が、死後 その衣服から落ちたとされており、しかもその記録が遺されている。この記録は、キ リストのように、また聖アンドレのように十字架上で死ねるという奇跡を、古代聖人 にもまさる機会として喜び、「殉教」者として死ぬ覚悟と歓喜を書き連ねたものであ る41 。 このように、逮捕された段階から、自らの死が強く意識され、なおかつその死が「殉 教」であるという確信を感じさせるのがフランシスコ会の記録である。イエズス会と 異なり、フランシスコ会においては、もともとフランシスコ会士出身の聖人、特に創 立者であったアッシジのフランシスコ(Francesco d’Assisi, 1181-1226)への信仰をも つことは、修道会内の伝統でもあり、聖人信仰はフランシスコ会内の歴史と伝統にお いて重要な意味を持っていた42 。同時に、 「聖人」信仰を称揚することは、霊験あらた かな聖人の救いを希求する、いわば顧客としての平信徒の需要に応えた結果でもあっ 39 Clotilde Jacquelard et Akira Hamada, « Le Japon au travers de versions franciscaines des premiers martyrs de Nagasaki », in Florence Boulerie, Marc Favreau et Éric Francalanza (éd.), L’Extrême-Orient dans la culture européenne des XVIIe et XVIIIe siècles : Actes du 7e Colloque du Centre de Recherches sur l’Europe classique (XVIIe et XVIIIe siecles), Université de Montaigne-Bordeaux 3, 22 et 23 mai 2008, Tübingen, Narr Francke Attempto, 2009, p. 79-90. 40 Lorenzo Pérez, Cartas de San Pedro Bautista: Cartas y relaciones del Japon 1, Mardid, G. López del Horno, 1916, p. 142. 41 「古えの多くの聖人たち、とくにわれらが聖フランシスコは、殉教者となることを非常に望んでい たものの、十字架上の殉教者となることはかなわなかった。主よ、わたくしどもは十字架で死ぬのでしょ うか。なんと喜ばしき十字架よ、私どもは畏れ多いものです! 多くの聖人が、磔刑にされこのような高 みで殉教者となることを望んできたのです。」« Muchos Santos antiguos, principalmente nuestro Padre San Francisco desseo mucho ser mártyr, pero no pudieron alcansar el martirio de la cruz (...) Señor, que muramos en cruz? ¡O cruz tan dichosa, y muy indignos nosotros para ella! Muchos santos desearon ser crucificados y alcançar un martyrio tan alto... » この手紙の内容は、以下の論考に翻刻されている。 Lorenzo Pérez, Persecución y martirio de los misioneros Franciscanos (Cartas y relaciones del Japon, 3), Madrid, G. López del Horno, 1923, p. 125. また以下の論考も参照。Galdós Romualdo, « Undocumento interesante acerca de la patria de San Martín de la Ascensión », RIEV, Revista International de los Estudios Vascos, 26 (3), 1935, p. 578-592. 42 中世以降のフランシスコ会の聖人信仰に関しては、以下に詳しい。Andé Vauchez, Sainteté en Occident aux derniers siécles du Moyen Âge : d’aprés les procés de canonisation et les documents hagiographiques, Rome, École française de Rome, 1988 (Édition revue et mise à jour. Deuxième tirage), p. 131-138; Bernard Dompnier, « Des Franciscains et des dévotions, entre Moyen Âge et époque moderne », in Frédéric Meyer et Ludovic Viallet (éd.), Le silence du cloître : l’exemple des saints, XIVe -XVIIe siécles, Clermont-Ferrand, Presses universitaires Blaise Pascal, 2011. 42 論 文 た43 。「殉教」者として死ぬことは、聖性を獲得するための最たる近道であり44 、日本 宣教でも見られた「殉教」を嗜好するフランシスコ会士の記録は、フランシスコ会の 伝統に与したものといえる。統計的にも、フランシスコ会創立者のアッシジのフラン シスコや、その仲間でもあったアッシジのジル(Gilles d’Assise, ?-1262)のような例 外を除くと、フランシスコ会内で信仰される聖人は、 「殉教」者である45 。 「聖人」信仰を基軸として、宗教的共同体としてアイデンティティーを構築してい くフランシスコ会の傾向は、非ヨーロッパ地域における宣教活動においても顕著に見 られ、それは被宣教地出身のローカルな聖人の信仰をもり立ててる形で具現化した46 。 フランシスコ会の宣教活動自体は、いわゆる大航海時代に始まったわけではなく47 、 イエズス会が創立されるはるか前から、異教徒のイスラム教徒が支配する北アフリカ において展開されており、その過程では多くの「殉教」者が輩出していた。中でも、 1220 年にポルトガルとスペインを経由して現在のモロッコの地域へ派遣されたベラ ルドゥス(Beraldus)とその仲間たち(オットー Otto、ペトルス Petrus、アディウトゥ ス Adiutus、アクルシウス Accursius)の殉教は、フランシスコ会の最初の「殉教」者 として、重要視され、後世のフランシスコ会士の鑑となったのである48 。彼らはフラ ンシスコ会の聖人文学に取り上げられ、宣教師だけではなく、フランシスコ会がモッ トーとする自己犠牲を体現した人々として模範にされ、後世の各地の宣教においても たびたび言及された。例えば、十六世紀のリトアニアのヴィルニウス出身の五人の修 道士が、宣教のために(現ベラルーシの)ポラツクを離れ、1563 年にモスクワで殺 「顧客」としての信徒の需要に関しては、特に前注 Bernard Dompnier 論文 p. 58 参照。 Kenneth L. Woodward, Making saints : how the Catholic Church determines who becomes a saint, who doesn’t, and why, Touchstone, 1996, p. 52; Richard Kieckhefer, “Imitators of Christ: Sainthood in the Christian Tradition”, in IDEM & George D. Bond (eds.), Saintfood, Its Mnifestations in World Religion, Berkeley, Univ. of California Press, 1988, p. 3 (1-42). ヨーロッパにおける中世の「殉教」者と聖人の関係については、上記の Vauchez, Sainteté en Occident aux derniers siècles du Moyen Âge に詳しい。 45 Paul Bertrand, « Une sociologie de l’édition hagiographique : la sainteté franciscaine du XIIIe au début du XVIe siècle », in Frédéric Meyer et Ludovic Viallet (ed.), Le silence du cloître : l’exemple des saints, XIVe -XVIIe siècles, p. 243-244. 46 Ronald J. Morgan, Spanish American Saints and the Rhetoric of Identity, 1600-1810, Tucson, University of Arizona Press, 2002, p. 172. 47 最初に、アジアに到達していたのも、イエズス会ではなく、フランシスコ会であった。ポルデノーネ のオドリコ(Odorico da Pordenone、1286-1331)が、すでに中世に中国の北京にまで到達していた。その旅 行記の翻訳は、 『東洋旅行記――カタイ(中国)への道』家入敏光訳、光風社出版、1990 年。また Christine Gadrat, « Des nouvelles d’Orient : les lettres des missionnaires et leur diffusion en Occident », in Joëlle Ducos et Patrick Henriet (éd.), Passages : Déplacements des hommes, circulation des textes et identités dans l’Occident médiéval, Toulouse, Framespa, p. 159-172. この旅のために、オドリコは後世にも信仰の対象となり十八世紀 に列福されている。 48 Walter Kasper et Konrad Baumgartner (hrg.), Lexikon für Theologie und Kirche, t. 9, Freiburg: Herder, 2000, col. 1536-1537. 43 44 43 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) 害された場合も、犠牲者は、このモロッコの「殉教」者になぞられえられる形で讃え られた49 。そうした意味では、このモロッコの「殉教」者は、フランシスコ会の「殉 教」聖人のプロトタイプであり、異教の地での理想の宣教師モデルでもあった。日本 宣教においても、フランシス会士らがこうした先人の例を念頭において行動していた ことは容易に想像がつく。(もちろん、キリスト教と真っ向から敵対するイスラム教 が支配していた中世の地中海世界と、いわゆる異教が普及していたとは言え、キリス ト教が宣教当初は攻撃対象とはなっていなかった日本の戦国時代が、同じ宣教モデル によって布教可能であったのか、という点はおいておく。)日本の宣教の場面におい て、イエズス会士の目からフランシスコ会士が死に急ぐ傾向があると目されたのも50 、 フランシスコ会自体の伝統と歴史にその背景があると考えられる。 したがって、長崎における二十六人の死は、フランシスコ会にとっては、ヨーロッ パのカトリック世界に大々的に報告し宣伝すべき英雄的「殉教」であった。死の翌年 の 1598 年には、当時マニラの総督であったフランシスコ・テージョ・デ・グスマン (Francisco Tello de Guzmán 、1596-1602)なる人物51 が執筆したフランシスコ会士の 「殉教」報告書がスペイン語圏各地で出版され、イタリア語訳された後にローマにお いても出版されている52 。さらに、その翌年にはフランス語・ドイツ語訳もなされ、 このことは西ヨーロッパ全土において周知の事象となったと言ってよい53 。また、二 十六聖人の聖人伝を執筆したフランシスコ会士のリバデネイラは、 「彼ら(二十六人) 49 Rüta Janonienè, “Ideas of Franciscan Observancy in the Wall Paintings of the Church of St. Francis and Bernardino in Vilnius at the beginning of the Sixteenth Century”, Acta Historiae Artium Balticae, 2 (2007), p. 54-78. 50 Isabelle Heullant-Donat, « Des missionnaires martyrs aux martyrs missionnaires : la mémoire des martyrs franciscains au sein de leur Ordre aux XIIIe et XIVe siècles », Écrire son histoire : les communautés régulières face à leur passé : Actes du 5e Colloque international du C.E.R.C.O.R., Saint-Etienne, 6-8 novembre 2002, SaintÉtienne, Publ. de l’Univ. de Saint-Étienne, 2006, p. 171-184. また、フランシスコ会の中世以来の宣教理念が、 イエズス会の方針と真っ向から対立するものであったことに関しては、Pedro Lage Reis Correia, “Alessandro Valignano attitude towards Jesuit and Franciscan concepts of evangelization in Japan (1587-1597)”, Bulletin of Portuguese, Japanese Studies, núm. 2, june, 2001, p. 79-108, 51 この人物の事績については、以下を参照。Fernández Chaves Manuel F., Pérez Garcia Rafael M., « Filipinas en las estrategias de las élites sevillanas entre los siglos XVI y XVII: el caso del gobernador Francisco Tello de Guzmán (1596-1602) », Anais de História de Além-Mar, Vol. 15, 2014, p. 295-333. 52 二十六聖人の死の直後に出版された印刷物に関しては、以下の文献リストを参照のこと:Agustín Millares Carlo, Julián Calvo, Los Protomártires del Japón. Ensayo bibliográfico, México: Fondo Pagliali, 1954. ページ番 号の無い著作ではあるが、ここで紹介される資料には通し番号が付されている。フランシスコ・テージョ・ デ・グスマンの印刷物に関しては、99、102、104 番。 53 フランス語版は、前注の文献リストの 104 番。ドイツ語版は、Relation auß befelch Herrn Francisci Teglij Gubernators: vnd general Obristens der Philippinischen Inseln ..., Gedruckt zu Muenchen: Bey Adam Berg, 1599. ドイツ語版の資料翻刻は以下参照:Peter Kapitza, Japan in Europa Texte und Bilddokumente zur europäischen Japankenntnis von Marco Polo bis Wilhelm von Humboldt Bd. 1, München, Iudicium-Verlag, 1990, p. 277-279. 原本は、ベッソン・コレクション 198.221-B39 (97) にある。 44 論 文 54 には、正当に日本の教会の最初の殉教者という名誉ある称号を与えられる。 」 と記録 している。つまり、フランシスコ会にとって、日本教会の「最初の殉教者」を生んだ のは、フランシスコ会であると宣言することが、重要であると考えられたのである。 長崎二十六聖人の列福:イエズス会における「殉教」の扱いの変容 以上のように、宣教の地における「殉教」の扱いについて、全く異なる見解を持つ イエズス会とフランシスコ会が、1597 年の二十六人のキリスト教徒の処刑に対して も、別々の反応をしたのは当然の帰結であった。イエズス会とフランシスコ会は、つ とにそ宣教の方針の違いからもライバル関係にあったが55 、 「殉教」の事象に対しての 受け取り方の違いから、日本「殉教」者の顕彰の是非についても争うことになったの は自然な成り行きだった。 留意しておかねばならないのは、この時代のヨーロッパの宗教的・社会的文脈であ る。 「殉教」した人物を、聖人のように顕彰し、崇拝の対象とみなす行為は、ローマ教 皇庁によって厳密な管理の対象と目されていた。 「殉教」者としての死が、 「聖人」と しての資格に直結し、直ちに信仰の対象とみなされることができたのは、西ヨーロッ パでも中世までのことであった。中世には、膨大な人数の聖人が各地で信仰され、そ れに伴い由来の信憑性も危うい聖人の聖遺物への崇拝が興隆した56 。こうした信仰は、 宗教戦争時にはプロテスタントの重要な攻撃対象となった57 。エラスムスのような人 文主義者にとっては、カトリック教会内の聖人信仰は迷信以外のなにものでもなかっ たのである58 。したがって、ローマ教会は、対抗宗教改革の一環として、地域的な聖 54 Juan R. de Legísima (ed.), Marcelo Ribadeneira, Historia de las islas del Archipiélago Filipino y reinos de la Gran China, Tartaria, Cochinchina, Malaca, Siam, Cambodge y Japón, Madrid : Editorial Católica, 1947, p. 495 : « Con razón, pues, les podemos dar este honroso título de primeros mártires de la Iglesia de Japón ». 55 フランシスコ会とイエズス会の宣教方針の違いに基づく争いに関しては、松田毅一氏の研究が詳細で ある。松田毅一『近世初期日本関係南蛮史料の研究』(風間書房、1967 年)p. 855-898. 56 中世に氾濫した聖遺物とその信憑性の関係に関しては、Arnold Angenendt, Heilige und Reliquien: Die Geschichte ihres Kultes vom frühen Christentum bis zur Gegenwart, Aschendorff Verl. 2010, p. 162-166 ; Philippe George, Reliques : le quatrième pouvoir, Nice, Les Editions Romaines, 2013, p. 33-44. 秋山聰『聖遺物崇敬の 心性史――西洋中世の聖性と造形』(講談社、2009 年)。 57 カトリック教会における聖遺物の信仰は、宗教改革においてはプロテスタントの格好の批判および 破壊の対象となった。例えば、ジュネーブにおける聖遺物破壊については、Christian Grosse et Daniela Solfaroli Camillocci, « Réaménager le rapport au sacré: les reliques dans l’iconoclasme et la polémique religieuse aux premiers temps de la Réforme genevoise », in Philippe Borgeaud et Youri Volokhine (éd.), Les objets de la mémoire : pour une approche comparatiste des reliques et de leur culte, Bern, Berlin, P. Lang, 2005, p. 285-324. 58 聖遺物を「迷信(superstition) 」の言葉で攻撃したのが、ジャン・カルバン(Jean Calvin、1509-1564) であった。この「迷信」と「偶像崇拝」をめぐる神学的論争に関しては以下を参照。Jean-Michel Sallmann, « La relique dans le monde catholique de la Contre-Réforme », in Philippe Borgeaud et Youri Volokhine (éd.), ibidem, p. 267-284; Pierre Antoine Fabre, Mickaël Wilmart, « Le Traité des reliques de Jean Calvin (1543) », in 45 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) 人信仰を、中央であるローマで一括管理することを試みた。カトリック教会の聖人信 仰管理は、シクストゥス五世(Sixtus V, 1521-1590, 在位 1585-1590)やウルバヌス八 世(Urbanus VIII, 1568-1644, 在位 1623-1644)のような教皇の元で、「聖人」を選別 する制度の整備もしくは確立という形であらわれた59 。それが、 「列福」もしくは「列 聖」 (canonizatio)と呼ばれる手続きである60 。 「聖人」(sanctus) 候補者は、その聖性 と資質がヴァチカン内部の識者に精査された上で、はじめて正式に「福者」(beatus)・ 「聖者」と認可されるここととなった。そして、こうした一連の事務的な認可手続きを 経ていない人物を崇拝することは、一般に教皇庁によって禁じられるようになってい た61 。二十六人の死の称揚にあたってのイエズス会の用心深さは、こうしたヨーロッ パ内部の事情もおもんぱかったものでもあったと考えられる62 。 前述のヴァリニャーノは、二十六人の死の翌年 1598 年 10 月 9 日にマカオで執筆さ れた報告において、教皇庁の許可も得ずに、フランシスコ会が見境なく「殉教」者を 宣伝の対象としていることを批判している。また、二十六人の殉教者に起因するとい う奇跡に関しても、極めて懐疑的な態度を示している63 。一方のフランシスコ会の出 版物は、彼らの死が「殉教」であるという既成事実を世界的に周知のものとし、ひい ては後世の「聖人」化つまり「列福」 ・ 「列聖」手続きの成功を意図していたといえる。 実際、フランシスコ会は、死のほぼ直後に「列福」手続きに着手し、また一方で独自 Philippe Boutry, Pierre Antoine Fabre et Dominique Julia (éd.), Reliques modernes : Cultes et usages chrétiens des corps saints des Réformes aux révolutions, vol. 1, Paris, Éditions de l’École des hautes études en sciences sociales 2009, p. 29-68. 59 Raphaël Collinet, « Canonisation. Procédure canonique », in Jacques Marx (éd.), Sainteté et Martyre dans les religions du livre, Bruxelles, Éditions de l’Université de Bruxelles, 1989, p. 107-121. 60 渡邊浩「列聖手続きの歴史的展開――起源から教皇による列聖まで」 ( 『藤女子大学文学部紀要』2 号, 2001 年)p. 33-58. 61 対抗宗教改革のもとで、聖人を認可するローマ教皇庁がいかに変遷していったかに関しては、様々な 論考が存在するが、英語の概論としては、Peter Burke, “How To Be a Counter-Reformation Saint”, in IDEM (ed.), The historical anthropology of early modern Italy : essays on perception and communication, Cambridge, London [etc.], Cambridge University Press, 1987, p. 48-62. 62 ただし、イエズス会も、創立者イグナチウス・ロヨラの列福と列聖をめぐっては、教皇の公的な認 知を受ける前から、数々の宗教的儀式を遂行するなど、その聖性の称揚を半ば公に行っており、ドミニコ 会士と対立した。Simon Ditchfield, “Coping with the Beati Moderni, Canonization Procedure in the Aftermath of the Council of Trent”, in Thomas M. McCoog (ed.), Ite Inflammate Omnia : Selected Historical Papers from Conferences Held at Loyola and Rome in 2006, Roma, Institute Historicum Societatis Iesus, 2010, p. 413-440. 63 Alessandro Valignano, Apología (1598), Ms. Biblioteca de Ajuda, Lisboa, Codex. 49-IV-58, cap. 27, ff. 149v-151v. José Luis Álvarez-Taladriz, Juan Gil, Atsuko Hirayama (eds.), Apología de la Compañía de Jesús de Japón y China (1598), p. 340-345. このヴァリニャーノの懐疑的見解に関しては、浅見雅一『キリシタン時代 の偶像崇拝』 (東京、東京大学出版会, 2009)p. 263. Pedro Lage Reis Correia, 前掲論文内脚注 1 参照。宣教 の場所という、直接の証人の少ない地から報告される奇跡が、議論の対象となることは頻繁にあった。例え ば、ヌエヴァ・エスパーニャにおけるアウグスティヌス会とフランシスコ会の間の論争に関しては、Romain Bertrand, Le long remords de la conquête - Manille-Mexico-Madrid ; L’affaire Diego de Ávila (1577-1580), Paris, Éditions du Seuil, 2015, p. 142-143. 46 論 文 の「殉教」者の画像を製作し、しかもそれをローマの中心部に位置する大聖堂サンタ・ マリア・デ・ラ・アラクエーリ内部に飾って、祈りの対象とさせていたほどだった。 (ちなみに、教皇庁は、後に「列福」前であるということで、画像の撤去をフランシ スコ会に指導している64 。) フランシスコ会による二十六人の「列福」作業の着手は、間接的にイエズス会の宣 教方針の攻撃にもつながった。これは、二十六人の死に立ち会ったフランシスコ会の 神父ヘロニモ・デ・ヘスース(Jerónimo de Jesús de Castro, ?-1601)が、遺した書簡内 で口を極めてイエズス会の宣教方法を非難していることにも起因している65 。その非 難の内容は、イエズス会が「殉教」の機会から逃走したというだけでなく、イエズス 会の日本国内の布教方針そのものを断罪するものだった。こうした意見を反映させた 様々な印刷物と報告をフランシスコ会がヨーロッパ内で普及させ、それに応える印刷 物をイエズス会側も二十六人の事績を出版したことで66 、一時はフランシスコ会とイ エズス会の間で出版合戦の様相を呈することになる67 。しかし、「殉教」者を賞賛す るヨーロッパ内の世論が高まり、また「列福」の事務作業がローマで進行していく過 程で、イエズス会はその「殉教」についての方針を転換していくことになった。つま り、「殉教」者の列福認可を頑なに反対するのではなく、二十六人の中にイエズス会 のメンバーも混じっていたことを認め、彼らをフランシスコ会の犠牲者同様に顕彰す ることで、 (少なくともヨーロッパ内部での世論において) 「殉教」者の名声をイエズ ス会の日本宣教の功績とすることにしたのである68 。 この逸話は、十八世紀に「列聖」・「列福」の制度を事実上完成させた教皇ベネディクトゥス十四世 (Benedictus XIV. 1675-1758、在位 1740-1758)の論文において紹介されている(この論文自体は、現在翻 刻されているため、それを利用した)。Congregatio de Causis Sanctorum (ed.), Benedictus XIV (Prosper de Lambertinis), De servorum Dei beatificatione et beatorum canonizatione Vol. II/1, Città del Vaticano, Libreria editrice vaticana, 2012, p. 212-213. 65 Lorenzo Pérez, « Fr. Jerónimo de Jesús, restaurador de la Misiones del Japon. Sus Cartas y Relaciones », AFH, XVIII, 1925, p. 95. Lorenzo Pérez, “Cartas y relaciones del Japón II: Informes y relaciones del Padre Fr. Juan de Garrovillas y Fr. Juan Pobre de Zamora”, Archivo Ibero-americano(以下では AIA と略す), XI, 1918, p. 181. 66 例えば、Dos Informaciones hechas en Iapon : una de la hazienda que Taycosama... mando tomar... y otra de la muerte de seis Religiosos... que el dicho Rey mando crucificar en la ciudad de Nangasaqui, Madrid, 1599. Besson Collection, 筑波大学附属図書館, 198.221-B39(85). 67 フランシスコ会とイエズス会は、自分たちの「殉教」者の図像化にあたっても、お互いを排除しあった。 つまり、フランシスコ会は二十三人の図像を、イエズス会は三人の図像を作成した。Hitomi Omata Rappo, Des Indes lointaines aux scènes des collèges, p. 351-366. 三人の殉教者というモチーフは、特にイエズス会に とって図像化しやすいモチーフでもあった。というのも、これはゴルゴタの丘において、二人の罪人と共に 磔刑に処せられたイエス・キリストの最期(受難)を連想させる「殉教」図となったからである。おりしも 興隆したゴルゴタの丘への信仰と相まって、この図像が盛んに作成されるようになった。Ibid., p. 371-376. 68 詳細な列福過程に関しては、本稿の主旨ではないため省略するが、以下の別稿参照のこと。小俣ラポー 日登美「聖性の創り方――いわゆる日本26聖人の列福過程(1627)」 (名古屋大学文学研究科附属人類文 化遺産テクスト学研究センター編『HERITEX vol. 3』勉誠出版、2019 年)。二十六「殉教」者は、ローマ 64 47 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) イエズス会の日本宣教の方針転換を端的に示しているのが、イエズス会士ニコラ・ トリゴー(Nicolas Trigault, 1577-1628)が著した『日本の殉教キリスト教徒の勝利』 (ラテン語版 1623 年、フランス語訳 1624 年)の出版である69 。日本の「殉教」を全 面的に押し出したタイトルを奉じるこの著作は、二十六人の「列福」作業の最終的な 協議がヴァチカン内のロタ会議において取り上げられることになった 1619 年以後に 執筆・出版されている70 。執筆にあたったトリゴーは、一度も日本に足を踏み入れた 経験がないものの、1610 年以降イエズス会の中国宣教に長らく貢献していた人物で ある。特に、1613 年から 15 年にかけてはヨーロッパに一時帰国し、まだ日本管区か ら独立していなかった中国管区の独立をローマにおいて交渉し、1614 年にはその目 論見を実現させている71 。これは、奇しくも江戸幕府がいわゆる「鎖国」の体制を完 成させ、対外関係窓口を一部の場所に限定して、外交関係を徹底的に管理する制度を 整えていった時期と重なっている72 。トリゴーは、このとき同時に、日本で成功して いた適応主義に基づく宣教方法を、中国宣教においても実行できるようヴァチカンと 交渉し、その方針を許可されることにも成功している73 。要するに、イエズス会にお ける日本の「殉教」言説は、日本の実質的な宣教の門戸が狭まっていき、東アジア宣 教皇庁における列聖化の過程が制度的に厳格化されていく過程において、死後わずか三十年で「列福」さ れた稀有な例である点が教会法制史的にも興味深い事例と言える。 69 Nicolas Trigault, De Christianis apud Japonios triumphis, sive de Gravissima ibidem contra Christi fidem persecutione exorta anno 1612 usq. ad annum 1620..., Monachii, (apud R. Sadeler), 1623. Id., Histoire des martyrs du Iapon depuis l’an 1612. iusques a 1620..., Paris, Sebastien Cramoisy, rue S. Iaques aux Cicognes, 1624. この文献に関しては、Hitomi Omata Rappo, « Nicolas Trigault, Les triomphes chretiens des martyrs du Japon », Revue de l’histoire des religions, N. 3, 2017, p. 566-568. 70 Hitomi Omata Rappo, Des Indes lointaines aux scènes des collèges, p. 148. 71 David E. Mungello, Curious Land: The Jesuit Accomondation and the Birth of Synology, Honolulu, University of Hawai’i Press, 1985, p. 47. 72 「鎖国」は、必ずしも江戸幕府が用いていた呼称ではなくケンペルの『日本誌』の翻訳をした長崎の 蘭学者・通詞、志筑忠雄(1760-1806)が初めて導入した語彙である。小堀桂一郎『鎖国の思考』(中央公 論社、1974 年)p. 11. 「国が外部に対して閉鎖されている」という認識は、その外部世界の一部にすぎな かった西欧諸国による認識だった。にもかかわらず、 「鎖国」という術語は、一定期間、近世日本史を記述 するための重要なキー概念となった。西欧語の文献に表現された西欧文化圏の認識が、日本史のレトリッ クに取り込まれたという点で、「鎖国」は「殉教」概念と似通っている。しかし、現在の日本史研究者は、 「鎖国」体制だけではなく、「日本型華夷秩序」や「海禁」政策という呼び方を用いることが多い。また、 「鎖国」という言葉が用いられたとしても、注意深く用いられる。そうした意味で、 「鎖国」の概念は、 「殉 教」の概念と異なり、脱構築されたと言えるだろう。「鎖国」ではない術語を駆使して世界史的照準から日 本近世の外交史をとらえた研究書に、荒野泰典[ほか]編『日本の対外関係5 地球的世界の成立』 (吉川 弘文館、2015 年)がある。「鎖国」論研究には、近世日本史研究において相当の蓄積があり、日々進展が めざましい。その研究史のまとめとしては、現時点では清水有子『近世日本とルソン』 (東京堂出版、2017 年)p. 9-20 が詳しい。 73 Ronnie Po-chia Hsia, « La questione del clero indigeno nella missione cattolica in Cina el Sedicesimo e diciassettesimo secolo », Studia Borromaica. Saggi e documenti di storia religiosa e civile della prima età moderna, 20 (2006), p. 185-194. イエズス会のこうした宣教方針は、その後 1700 年前後にパリ外国宣教会との間にい わゆる「典礼論争」qurelle de rites を巻き起こす原因となり、イエズス会を弱体化させる遠因になった。 48 論 文 教の主要な目的地が徐々に中国へと移っていく過渡期に、顕在化したと言えよう。 また、中国宣教の興隆に邁進していたトリゴーが、足を踏み入れたこともない日本 の「殉教」について著作を発表したのは、バイエルン公ヴィルヘルム五世(Wilhelm V., 1548-1626)と、その息子マクシミリアン一世(Maximilian I., 1573-1651)の影響 が考えられる。トリゴーは、中国宣教からヨーロッパへ一時帰国していた折に、ドイ ツ語圏へ中国宣教の資金集めの旅に出ている74 。両者はその際にトリゴーと接触して いる。ヴィルヘルム五世はイエズス会学校で教育を受けた上に、父子ともに中国宣教 の財政的なパトロンでもあった75 。バイエルン公親子は特に、日本の「殉教」物語を 好んだと伝えられ、日本からの「殉教」者の聖遺物を所望するほどであったという76 。 つまり、日本の「殉教」言説は、中国宣教の実現のための財政援助をえる格好の宣伝 材料となっていた実態がうかがえる。 実際、1627 年に、ウルバヌス八世(Urbanus VIII, 1568-1644)の元で、イエズス会 の三人と、フランシスコ会の二十三人が「列福」され、彼らにミサを献げることが許 可されると77 、二十六聖人に関する出版物が増加し、さらにローマにおいてバロッ ク時代に典型的な盛大な祝祭が開催されただけでなく78 、各地でも祝い事が企画さ 74 この旅については、以下の論文に、その行程と目的が詳述されている。Edmond Lamalle, « La propagande du P. Nicolas Trigault en faveur des missions de Chine (1616) », AHSI, 9 (1940), p. 49-120. 75 Yan Wang, „Die Bemühungen des Jesuiten Adam Schall von Bell um die Bekehrung des Kaisers von China“, in Peter Claus Hartmann & Alois Schmid (hg.), Bayerisch-chinesische Beziehungen in der Frühen Neuzeit, München: C.H. Beck, 2008, p. 23-33. 76 Claudia von Collani, „Die Förderung der Jesuitenmission in China durch die bayerischen Herzöge und Kurfürsten“, in Renate Eikelmann (hg.), Die Wittelsbacher und das Reich der Mitte 400 Jahre China und Bayern, München, Hirmer, 2009, p. 92-104. カトリック教会における聖遺物の信仰は、宗教改革においてはプロテス タントの格好の批判および破壊の対象となったことについては、上述脚注 58 参照。しかし、新たに被宣教 対象地において殉教者が続出すると、同時代の「聖人」の聖遺物は、その聖性の真正さが保証されたものと して新たに信仰の対象となった。また、これはローマにおいて 1588 年にカタコンブが発見され、古代の遺 構からこれまで知られなかった生々しい「聖遺物」が供給された事と連動する動きでもある。近世の反宗 教改革期におけるカトリックの聖遺物信仰の刷新に関しては、Dominique Julia, « L’Église post-tridentine et les reliques : Tradition, controverse et critique (XVIe -XVIIIe siècle) », in Philippe Boutry et al. (éd.), Reliques modernes : Cultes et usages chrétiens des corps saints des Réformes aux révolutions, vol. 1, p. 69-120. 日本から ヨーロッパに新たにもたらされた聖遺物、ヨーロッパ内のカトリック再布教において、精神的資本となっ ていたことに関しては、Hitomi Omata Rappo, « La quête des reliques dans la mission du Japon (XVIe -XVIIIe siècle) », Archives des Sciences Sociales des Religions, no 177, juin 2017, p. 257-282. 77 この宣言に関しては、前述、拙稿「聖性の創り方――いわゆる日本26聖人の列福過程(1627) 」にお いてより詳しく触れる。 78 ローマにおけるフランシスコ会とイエズス会の祝いに関しては、ジャキント・イィーリ (Giacinto Gigli, 1594-1671) の回想手記を用いた。フランシスコ会は、サンタ・マリア・デ・ラ・アラクエーリ(Sainte-Marie d’Aracoeli)において 1627 年の 8 月 7 日、8 日の二晩続けて祝祭の儀式を行い、ローマの伝統に則ってプ ロセッションと演劇的催しが行われた。一方で、イエズス会は、イエズス会教会において壮麗な装置を用 いた催しを行った。Biblioteca Nazionale V.E. Roma, Mss. V.E. 811, Memoria di Giacinto Gigli di alcune cose, gironalmente accadute nel suo tempo, cominciando dell’anno della sua Età XXVIII, che era fanno del Signore MDCVIII & del Pontificato di Papa Paolo V. l’anno III., f. 92 v-93r: Adi 7 di Agosto 1627, f. 95r-95v. ジャキン 49 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) れた79 。この文脈で、二十六人は「初めての日本の殉教者」として偲ばれ、讃えられ た。既述したように、厳密に言えば彼らは、日本列島においてキリスト教の信仰のた めに死んだ最初の人々ではない。しかし、「列福」という手続きを経て、彼らの「聖 性」にヴァチカンの公式なお墨付きが得られたことにより、ヨーロッパを中心に彼ら への信仰的営為が社会的に容認された。また「列福」のために公刊された数々の出版 物とも相まって、二十六「殉教」者の名声は周知のものとなっていったのである。つ まり、この「列福」によって、西欧の歴史において、彼らが名実ともに「最初の日本 の殉教者」として記憶されていくことになった。これは、フランシスコ会が出版した リバデネイラの聖人伝の記述から分かるように、フランシスコ会が当初主張していた 言説である。リバデネイラと同時期に、二十六聖人の死の記録を遺したルイス・フロ イス(Luís Fróis, 1532-1597)や、ペドロ・モレホン(Pedro Morejón, 1562-1639)な どの、日本宣教経験のあるイエズス会士は、流石に彼らを日本で「最初」の「殉教」 者としては記録していない80 。しかし、「列福」後にイエズス会によって印刷された 出版物では、彼らの「殉教」が、フランシスコ会の認識を受けて日本の「最初の殉教」 であると明記されるようになった81 。ここからも、「列福」というローマ教皇庁の手 続きが、イエズス会の「殉教」の認識に大きな影響を与えたことが明確に分かる。 また、この日本の「殉教」者を対象とする「列福」の手続きの特殊性は、他の宣教 における「殉教」者の扱いとの差においても明白である。イエズス会を始めとするカ トリック修道会の宣教は、世界規模に発展拡充しており、前述のインド亜大陸や北ア ト・イィーリという人物とその事績については以下に詳しい。Peter Rietbergmen, “Giacinto Gigli, chronicler, or: power in the streets of Rome”, in idem, Power and religion in Baroque Rome : Barberini cultural policies, Leiden, Boston, Brill, 2006, p. 19-94. 79 イタリアにおいては、 ローマ以外ではミラノ、ボローニャ、カステルヌオーヴォ・スクリヴィア(Castelnuovo Scrivia)、スペインでは、マドリッド、バルセロナ、セヴィリア、ロンダ、カルモナ、ヴァヤドリッドで同 種の祝い事が催されている。Hitomi Omata Rappo, Des Indes lointaines aux scènes des collèges, p. 149-151. 80 ディエゴ・パチェコ(Diego Pacheco、もしくは結城了悟) 「ペドロ・モレホンの日本の殉教者に関す る報告 (1557-1614) 」 ( 『キリシタン研究』15 号, 1974 年)p. 304-305. モレホンの伝記的な情報に関しては、 Eduardo Javier Alonso Romo, “Pedro Morejón: Vida, obra e itinerario transoceánico de un jesuita castellano”, in José Martínez Millán, Henar Pizarro Llorente, & Esther Jiménez Pablo (eds.), Los Jesuitas: religión, política y educación (siglos XVI-XVIII), t. III, Madrid, Universidad Pontificia Comillas, 2012, p. 1551-1572. フロイスの報 告は、ARSI に保存されているが、翻刻が以下に出版されている。Romualdo Galdós (ed.), Luís Froís, Relación del martirio de los 26 cristianos crucificados en Nangasaqui el 5 febrero de 1597, Roma, Tip. de la Pont. Univ. Gregoriana, 1935. またこの文書の分析に、Dorotheus Schilling, „Zur Geschichte des Märtyrerberichtes des P. Luis Frois“, AHSI, 6, 1937, p. 107-113. 81 例えば、パリでフランス語で出版された同種の印刷物ではタイトルに「最初の殉教者(premiers martyrs) 」 の文言が見られる。La béatification des trois premiers martyrs de la Compagnie de Iesus au Jappon Paul, Jean et Jacques, Iapponnois. Par N.S. Pere le Pape Vrvain VIII, Paris, 1628. また、バルセロナでスペイン語で出版 された以下の印刷物においては、この時の「殉教」者が「最初の殉教者(los primeros mártires) 」であると している。SVMARIO DEL Martyrio de los Santos Paulo, luán, y Diego, Hermanos de la Compañía de Iesus, y Protomartyres del Iapon, Barcelona por Esteua Liberos, Año 1628. 50 論 文 フリカにおける犠牲者だけではなく、現在のカナダ、フロリダ、サハラ砂漠以南のア フリカ、チリ、ブラジル、中国などにおいても、宣教の犠牲者は出ていた。中でも、 カナリア諸島においてユグノー派に殺害された三十九人のイエズス会士は、当時すで に「殉教」の「誉れ」が高かったものの、死亡後にわずか三十年で「列福」されたの は、日本における犠牲者のみである82 。つまり、日本の「殉教」者は、宣教活動にお ける英雄としてのペルソナを、「列福」による公認化によって一身に引き受ける存在 になったと言える83 。 このように、日本教会史の「殉教」史は、その始まりから教皇庁の聖人認定の手続 きを経て、極めて恣意的に開始したと言えるだろう。特に、ドイツの例から分かるの は、日本の「殉教」という言説が、ヨーロッパ内におけるイエズス会の宣教の宣伝と して用いられたことである84 。日本の布教史・教会史が、必ずしも「殉教」だけで語 られるものではないことは、現代日本の多くの研究者の仕事により証明されている。 しかし、特に二十六「殉教」者の列福以降の十七世紀ヨーロッパにおいては、 「殉教」 の言説がイエズス会の日本の功績を称えるために多用されるようになる。これは、二 十六人の内の三人のイエズス会士に焦点をあてた様々な図像がヨーロッパ各地で製作 されたことや85 、ドイツ語圏を中心とする各地のイエズス会学校で日本の「殉教」者 82 この三十九人のイエズス会士をどう捉えるかについては、以下の研究を参照。Frank Lestringant, « Le martyre mot à mot : les trois martyrs huguenots du Brésil (1558), de Jean Crespin à d’Aubigné », in Jean Céard (éd.), Langage et vérité : études offertes à Jean-Claude Margolin, Genève, Droz, 1993, p. 125-137. また、 Pierre Antoine Fabre, « Missions chrétiennes modernes. Notions, terrains, problèmes », in Philippe Büttgen et Christophe Duhamelle (éd.), Religion ou confession : un bilan franco-allemand sur l’époque moderne (XVIe -XVIIIe siècles), Paris, Maison des sciences de l’homme, 2010, p. 559-576 も参照。 83 ちなみに、なぜ日本の「殉教」者のみが、他の宣教対象地の犠牲者に先駆けて「列福」の対象になっ たかの理由に関しては、以下の研究で言及した。Hitomi Omata Rappo, “How to make “colored” Japanese Counter-Reformation Saints: a study of an iconographic anomaly”, Journal of Early Modern Christianity, 2017, 4(2), p. 195-225. 84 イヴェリア半島、イタリア語圏における日本の「殉教」伝の普及に関しては、各地における出版物の普 及を見れば明らかである。また、フランスにおいては、カトリックを諷刺した文書『サンシー殿のカトリッ ク告白』Confession catholique du Sieur de Sancy (出版は 1630 年以降で、以下の作品集に見られる : Recueil de diverses pièces servant à l’Histoire d’Henri III, Cologne, chez Pierre Marteau, 1660. 執筆自体はそれ以前で、 少なくとも実在のサンシー殿の改宗 1598 年以後と目される。Gilbert Schrenck, « Agrippa d’Aubigné et le Sieur de Sancy : de l’histoire au pamphlet », Albineana, Cahiers d’Aubigné, 12, 2000. p. 205-214.)において、 イエズス会が報告していた日本の「殉教」に対しての懐疑的な意見が開陳される。この作品は、実在した人 物ニコラ・ド・アルレーもしくはサンシー殿(Nicolas de Harlay, sieur de Sancy, 1546-1629)に仮託された 告白文書だが、実際の作者は、プロテスタントの文人アグリッパ・ドービニエ(Agrippa d’Aubigné)であ る。サンシーは、立身出世のためにプロテスタントからカトリックへ改宗した憐れむべき人物で、この告 白書は、一見カトリックの立場を擁護するものと読めるものでありながら、逆説的にカトリックの信仰を 痛烈に笑いものにする内容である。濱田明「ドービニエの日本――『世界史』と『サンシー殿のカトリッ ク告白』を通して」 ( 『Gallia. 大阪大学フランス語フランス文学会』47 巻、2000 年)p.37-43; Christian Biet, Tragédies et récits de martyres en France (fin XVIe -début XVIIe siècle), Paris, Classiques Garnier, 2009, p. 41. 85 イエズス会およびフランシスコ会が、ヨーロッパ各地において作成した画像(油彩画、版画)のリスト としては、以下が挙げられる。越宏一「美術における日本二十六殉教者――その作品カタログ」 ( 『国立西洋 51 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) を題材とする演劇が催されたことからも明らかである86 。文学作品・図像作品といっ た芸術を通じたイエズス会の「殉教」表象は、おりしもヨーロッパのカトリック文化 圏で隆盛したバロック的美学や感性と合致することで花開いた。そのため、一部の現 代の歴史家からは、イエズス会が特殊な「殉教」文化を持つとすら判断されるように なっている87 。 特にイエズス会の日本認識を象徴的に示しているのが、イエズス会創立百年を記念 して出版された大著『最初の世紀像(Imago primi saeculi) 』 (1640 年出版)内の日本の 表象だろう。この記念碑的書物では、ラテン語の韻文とエンブレムの形をとる単純化 された図像のモチーフによって、イエズス会内の偉人が顕彰され、創立以来のイエズ ス会の功績が振り返られている。つまり、著作自体が、イエズス会公認の歴史叙述・ 歴史イメージそのものである。その中心となっているのは、1622 年に列聖されたば かりの創立者イグナチウス・ロヨラを始めとする、イエズス会内部の聖者・福者であ る。ここで、日本は、信仰のための血をながす「殉教」の国として表象され、いわゆ る元和大殉教(1622 年)で死亡したカルロ・スピノラがその代表者として讃えられて いる88 。(ちなみに「殉教」者の多数を占めた、身分の低い多くの日本人はこの文脈 美術館年報』No. 8、1975 年)p. 16-72. このリストにおいては、特にドイツ語圏に重点をおいて画像が紹 介されているが、二十六聖人画像は、メキシコにおいても作成されており、中でもクエルナバカ壁画が有 名である。谷口智子「26 聖人殉教とクエルナバカ大司教座聖堂壁画――近世初期キリシタン長崎大殉教図 と日西交渉史」 ( 『共生の文化 3 』愛知県立大学多文化共生研究所、2009 年)p. 137-147. 川田玲子『メキシ コにおける聖フェリーペ・デ・ヘスス崇拝の変遷史』 (明石書店、2019 年)p. 84-97。さらに、イヴェリア 半島やイタリアにおいて最近確認された画像も含めたリストに、Hitomi Omata Rappo, Des Indes lointaines aux scènes des collèges, p. 359-361. 二十六聖人の図像化に関しては、上述脚注 67 も参照。 86 ドイツ語圏におけるイエズス会演劇に関しては、ジャン・マリー・ヴァランタンが 1555-1773(イエ ズス会の解散)年までに行われた演劇題目を 7560 点リストしている。Jean-Marie Valentin, Le Théâtre des Jésuites dans les Pays de Langue Allemande : Répertoire chronologique des pièces représentées et des documents conservés (1555-1773), vol. 1-2, Stüttgart, Anton Hiersemann Vrlg., 1983-1984. こうした上演の中で、日 本に関する演劇は、150 回にも及ぶという。Ruprecht Wimmer, „Japan und China auf den Jesuitenbühnen des Deutschen Sprachgebietes“, in Ruprecht Wimmer & Adrian Hsia (hg.), Mission und Theater : Japan und China auf den Bühnen der Gesellschaft Jesu, Regensburg, Schnell & Steiner, 2005, p. 18 (17-58). Haruka Oba, “Using the Past for the Church’s “Present” and “Future”: the Remembrance of Catholic Japan in Drama and Art in the Southern German-Speaking Area”, in Wolfgang Schmale, Marion Romberg, Josef Köstlbauer (eds.), The Language of Continent Allegories in Baroque Central Europe, Stuttgart: Fanz Steiner, 2016, p. 71-85. 87 残虐的な死の光景に精神的な光明や教化を見いだすバロック的心象風景の中に、イエズス会の「殉 教」文化を論じた研究に、Peter Burschel, Sterben und Unsterblichkeit: zur Kultur des Martyriums in der frühen Neuzeit, München, R. Oldenbourg, 2004. 特に、イエズス会の日本「殉教」者の表象に関する言及は、p. 232-266. 88 『最初の世紀像(Imago primi saeculi) 』において、日本をモチーフとしたエンブレムの表象について は、以下の研究で言及した。日本の「殉教」者を表象するエンブレム画像についての分析も以下を参照の こと。Hitomi Omata Rappo, « L’“Imago primi saeculi” et ses représentations des héros des terres de mission », in Jean-Jacques Chardin, Marie Chaufour, Catherine Chédeau, Paulette Choné, Anne Rolet et Stéphane Rolet (éd.), L’emblème entre philologie et arts du décor. Actes du XIe Congrès de la Society for Emblem Studies (Nancy), Presses universitaires François-Rabelais (Tours)/Presses universitaires de Rennes, avec le soutien du Centre d’études supérieures de la Renaissance (CESR), 2019(受理). 52 論 文 では言及されない89 。)二十六聖人列福以前にアジア宣教の犠牲者の顕彰にはあれほ ど慎重であったイエズス会も、1640 年の時点では、未列福者の顕彰を公に行うほど、 その方針が転換していたことがここから分かる。 ただし、ヨーロッパにおける「殉教」者の顕彰が、実際のアジア現地における宣教の 方針の転換とどこまで相関していたのかは不明である。いわゆる「鎖国」完成の時点 で、日本宣教をそれまで以上に拡大することは、現実的に不可能となっており、日本 渡航の希望を出す者がいくら増加しても、実際に日本へ宣教師を送ることは絶望的に 困難となっていた。そして、東南アジアから宣教師を日本に密かに派遣するという目 論見が存在していたとしても、実際に積極的な派遣が繰り返し企画されていたわけで はない90 。つまり日本の宣教は実質的に限りなく不可能に近づいたのに反比例して、 日本の「殉教」を賞賛する言説は、ヨーロッパ内で増加していく傾向にある91 。日本 では厳しい禁教政策がしかれた上に、国が閉ざされた現状を報告するだけでなく、そ の現状によって惹起された「殉教」の悲劇を語ることで、現地での布教戦略の実質的 な失敗は、逆にカトリック・キリスト教会の「勝利」として、ヨーロッパ内部で語る ことができたのである92 。 89 日本における「殉教」者名のリストに以下の研究がある。ここでは「殉教」者の背景や経歴も掲載され ている。Juan Ruiz-de-Medina, El martirologio del Japón, 1558-1873, Roma : Institutum Historicum S.I., 1999. 日本の例に限らず、近世のヨーロッパにおいて「聖人」視された人々の多くは、いわゆるアッパークラス に属し、体系的に神学の高等教育を受けた人が多いことは一貫している。Donald Weinstein & Rudolph M. Bell, Saints and society : the two worlds of Western Christendom, 1000-1700, Chicago Univ. Press, 1983, p. 204. 90 1614 年の伴天連追放令の全国通達後、1620 年に平山常陳の朱印船がマニラから宣教師を密入国させ ようとしたことを契機に、幕府の対外政策は一段と強化することになる。清水有子『近世日本とルソン』 (東京堂出版、2017 年)p. 267-291. 日本へ密入国宣教師の人数については、五野井隆史『日本キリスト教 史』に詳しい。1615〜1644 年の間で、密入国宣教師の人数は、101 名であり、この内の七割が、1615 年か ら 1623 年までの入国であり、しかも 1623〜1627 年間は、密入国宣教師が皆無であった。同書、213 頁。 91 Liam Matthew Brockey, “Books of Martyrs: Example and Imitation in Europe and Japan, 1597-1650”, The Catholic Historical Review, Volume 103, Number 2, Spring 2017, p. vi-223. 92 この「殉教」の言説はヨーロッパ内部に向けての戦略的レトリック(プロパガンダ)であったと考え られている。Rady Roldán-Figueroa, “Religious Literature and its Institutional Contexts: Prelude to the Study of Spanish Accounts of Christian Martyrdom in Tokugawa Japan”, Archiv für Reformationsgeschichte : Archive for Reformation History, Volume 108, Issue 1, 2018, p. 153-161. Ana Cantante Mota Fernandes Pinto, Tragédia mais Gloriosa que Dolorosa O Discurso Missionário sobre a Perseguição aos Cristãos Tese apresentada para cumprimento dos requisitos necessários à obtenção do no Regime Tokugawa na Imprensa Europeia grau de Doutor em História dos Descobrimentos e da Expansão Portuguesa, realizada (1598 - 1650), Tese de Doutoramento em História dos Descobrimentos e da Expansão Portuguesa, 2014. 日本のキリスト教宣教の時代が、最 終的に「失敗」に終わったということは、以下においても語られている。川村信三「アレッサンドロ・ヴァ リニャーノ日本宣教政策決定の評価」 (同編『超領域交流史の試み――ザビエルに続くパイオニア達』上智 大学出版、2009 年)p. 222 (218-241). 53 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) 2.西欧における殉教のレトリック 古代教会における「殉教」概念の発生と近世ヨーロッパ社会 それでは、なぜ当時のヨーロッパ社会において、「殉教」が、勝利を想起させるレ トリックとして機能したのだろうか。それを識るためには、そもそもの「殉教」概念 が、カトリック教会、および当時のヨーロッパ社会において持っていた意味を探る必 要がある。 現在、日本語において「殉教」の言葉で翻訳され知られている概念は、英語で martyrdom (殉教者は martyr)、仏語で martyre(殉教者は marty, martyre)、伊語で martirio (殉 教者は martire) 、独語で Martyrium(殉教者は Märtyrer) 、スペイン語で martirio(殉 教者は mártir) 、ポルトガル語で martírio(殉教者は mártir)と言われることから分か るように、西欧文化圏ではすべてが同じ語源であり、文化的・歴史的背景を共有して いる。語源となっているのは、ラテン語の martyr もしくは martyrium であるが、こ のラテン語の元となっているのが、インド=ヨーロッパ言語における「記憶」の語源 (*[s]mer-)ともかかわるギリシャ語の名詞マールトゥス(μάρτυς)である。これは、 厳密にいえば「思い出す人」を意味する。そこから、ある出来事の知識や思い出を引 き出せる誰か、つまり「証人」という含意が発生した。過去の「出来事」を確かめ、 検証するような一連の行為と深く結びついているために、当初は、法的もしくは史的 資料に用いられる語彙であった。しかし、その意味が、やがてキリスト教の信仰を貫 徹するために命を落とした者を指すようになる。この語彙の飛躍的な意味論的発展そ のものが、ローマ帝国下におけるキリスト教の迫害から公認化への史的経過を端的に 語っている93 。 ローマ帝国下においては、全体としての多神教文化を背景にして、ユダヤ教徒やキ リスト教徒など一神教信仰を奉じる共同体が共生していたが、当時の社会的行為とし て重要だった皇帝を顕彰する祭祀的儀礼への参加を一部のキリスト教徒が否定するよ うになると、キリスト教徒そのものが帝国内の異分子と目されるようになった。例え ば、ディオクレティアヌス帝やネロ帝などの元では、苛烈な迫害が敢行された94 。迫 害下のローマ帝国では、官憲の手により、キリスト教徒が逮捕され、監禁され、法的 93 Elana Zocca, “Modelli Martirio Santita, un rapporto multidirezionale”, Adamantius Rivista del Gruppo Italiano di Ricerca su “Origene e la tradizione alessandrina” (Journal of the ltalian Research Group on “Origen and the Alexandrian Tradition”), 14, 2008, p. 378-394. Hippolyte Delehaye, « Martyr et Confesseur », Analecta Bollandiana, v. 39 (1921), p. 20-49. 94 G.E.M. De Ste Croix, Christian persecution, martyrdom, and orthodoxy, New York: Oxford Univ. Press, 2008, p. 112-113. 54 論 文 に裁かれ、棄教を迫られ、それに従わなかった者が処刑される事例が出てくる(この 中には、自ら挑発的な行為を行い、逮捕され、裁かれる者もいた95 )。先述の、ギリ シャ語の名詞マールトゥス(μάρτυς)が、単なる法的「証人」から信仰の「証人」 、す なわち真の信仰を保持する者という意味を備えていったのは、こうした流れと軌を一 にしている96 。 こうして、信仰の「証人」は、その周囲にいた信者、そして後世の信者からも崇拝 の対象となっていった。当初は、単に犠牲者の死そのものが、悼まれていただけだっ たかもしれない。しかし、そこに特殊な崇拝の感情も芽生え始めたのは、哲学者のル ネ・ジラールが唱えたところのキリスト教の基本的教義にその背景がある。キリスト 教は、受難(キリストの十字架における自己犠牲)のエピソードにその教義のエッセ ンスが集約され、この十字架のイエスのイメージにより、 「殉教」の聖性が根源から裏 付けられる97 。キリスト自身は、富も権力も持たない究極の弱者(人の子)として十 字架にかけられた。彼が信仰の対象へと昇華されたことは、従来強者として畏怖され るべき(死刑執行人の姿で体現される)権力者の権威が覆されたことを示している。 ここに、弱者と強者の力関係を逆転させる、 「殉教」概念の特殊なメカニズムの萌芽が ある98 。興味深いことに、死刑執行にともなう弱者と強者の力関係の逆転現象につい て、ミシェル・フーコーも、全く異なるコンテクストを例に、同様の分析を行ってい る99 。アンシャン・レジーム期のフランスでは、身体刑が重要視されるようになり、 一種の儀礼と化した残酷な処刑が、司法の権威付けに貢献した。身体刑や処刑は、公 衆の面前で行われ、見せしめの意味だけではなく、犯罪者の身体に表れる苦痛の形で、 95 Paul Middleton, “Early Christian Voluntary Martyrdom A Statement for the Defence”, The Journal of Theological Studies, NS, Vol. 64, Pt 2, Oct. 2013, p. 556-573; G.E.M. De Ste Croix, Op. cit., p. 153-200. 96 Μάρτυς が「殉教者」の意味に用いられた初出例、あるいは非常に早い例の一つは、 『ヨハネ黙示録』の 2.13 に「わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名 を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時で さえ、わたしに対する信仰を捨てなかった」という箇所である。Allison A. Trites, “Μάρτυς and Martyrdom in the Apocalypse: A Semantic Study”, Novum Testamentum, Vol. 15, Fasc. 1, 1973, p. 72-80. 97 René Girard, Je vois Satan tomber comme l’éclair, Paris, Grasset, 1999, p. 229-230. 98 仏教においては、補陀洛渡海や密教系の即身仏、捨身往生(焼身往生、入水往生)のように、自ら信仰 のために命を落とす現象もある。特に後者は、キリスト教の「殉教」と比肩しうる行為としてデュルケーム の『自殺論』において言及される。David Émile Durkheim, La suicide, Paris, 1856, p. 242. しかし、キリスト 教(および一神教)の「殉教」に関しては、力関係の逆転のメカニズムを内包している点で、他の信仰に見 られる宗教的犠牲行為とは一線を画す。ブックは、好戦的かつ積極的行為としての「殉教」行為を描いて みせている。Philippe Buc, Guerre sainte, martyre et terreur. Les formes chrétiennes de la violence en Occident, Paris, Gallimard, 2017, p. 57. 99 フーコーの指摘が時代の異なるコンテクストにおいても、精彩を放つのは、西欧の司法制度が、 「悔 悛の秘蹟」といった教会の制度と結びついて発展してきた背景にあるだろう。タラル・アサド『宗教の系 譜』、p. 126-129. 55 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) 権威を、ひいては君主の存在を可視化させる目的があった100 。しかし十七世紀末頃 には、司法の正統性や権威の具現化という意味合いが薄れていく。犯罪者が死刑台で 後悔の念を表明したり、残酷な刑に耐える姿は、同じ弱者としての自負を共有する観 衆を感嘆させ、しかも共感を誘うようになったからである。時には、犯罪者が「彼な りに一種の聖人として死ぬのだ」と理解されて哀れまれ、その死が悼まれたり崇拝さ れることすらあったという101 。 初期キリスト教のコンテクストでも、キリスト教信仰を理由に断罪された死刑囚 は、同種の心理的メカニズムによって英雄となった。信仰の「証人」として死ぬこと で、「殉教」者は、ローマ帝国の強大な力の前で弱者であったキリスト教徒の共同体 の自負と成り得たのである。ローマ帝国側がキリスト教徒を弾劾した理由如何に関わ らず、被「迫害」者であり、究極の被害者であることが重要だった102 。そして、 「殉 教」者の記憶は、同じ信仰を奉じることで結ばれた共同体の結束をさらに固める集団 的記憶へと成長した。しかも、彼らの死は、彼らに感嘆した異教徒の改宗を誘因する と考えられていた。 「殉教者の血がキリスト教の種である」 (Apologia 50, 13 : sanguis martyrum, semen christianorum)という古代のキリスト教神学者テルトリアヌスの言 葉は、このような「殉教」者によるキリスト教共同体の拡大の背景を端的に集約した 格言だった103 。 このように、迫害がおこり、「殉教」が増えるほど、それを生んだキリスト教共同 体の誇りと結束が強化されていく仕組みが生まれたのである。やがてキリスト教が、 ローマ帝国に公認化されると、それは、迫害と「殉教」を克服した教会の勝利の記録 として記憶されるようになった104 。実際、古代キリスト教教父たちの護教論は、 「殉 教」言説を軸に、キリスト教共同体が受けた不当な攻撃(迫害)の数々に建設的な意 味を見いだそうとした模索の成果と言える105 。初期のキリスト教徒が形成した共同 体でも、 「殉教」に焦点をあてた聖人伝的文学が紡がれていった106 。こうした言説は、 100 これは古代ローマにおいても共通する点であり、しかも殉教の苦しみにおける視覚的効果が倫理的な インパクトを保障するものとして重要視される背景があった。Elizabeth A. Castelli, Martyrdom and memory: Early Christian culture making, New York, Columbia University Press, 2004, chap. 4. 101 Michel Foucault, Surveiller et punir : naissance de la prison, Paris, Gallimard, 1991, p. 50-51. 102 Marie-Françoise Baslez, Les persécutions dans l’Antiquité : victimes, héros, martyrs, p. 7. 103 José Luis Gutiérrez, Studi sulle cause di canonizzazione, Roma, Giuffrè editore, 2005, p. 10. 古代キリスト 教会のキリスト教共同体に関しては、ジョイス・E・ソールズベリ著、後藤篤子監修、田畑賀世子訳『ペル ペトゥアの殉教――ローマ帝国に生きた若き女性の死とその記憶』 (白水社、2018 年)第三章(p. 97-134) 参照。 104 佐藤吉昭『キリスト教における殉教研究』 (東京、創文社、2004 年)p. 130. 105 Elizabeth A. Castelli, Martyrdom and Memory. Early Christian Culture Making, p. 21. 106 Johan Leemans (ed.), More than a Memory: the Discourse of Martyrdom and the Construction of Christian Identity in the History of Christianity, Annua nuntia Lovaniensia, Leuven, Peeters, 2005, p. XI-XVI. ジョイス・ 56 論 文 後世に、ヨーロッパと地中海世界が、キリスト教化していく過程にも大きな影響を持 つにいたった107 。こうして、 「殉教」の概念はキリスト教思想の中核となり、それは 後世――中世や近世――に、キリスト教が主要な宗教となり、古代とは全く異なるコ ンテクストにおかれるようになっても変わらなかった108 。「殉教」者はキリスト教徒 のモデルとなり、他の宗教や信仰集団との衝突が起こる度に、想起され、精神的拠り 所を提供する概念となった。死者や犠牲者を悼むことが信仰へと昇華する過程は、世 界中の宗教的営為において見いだされるものではある。しかし、キリスト教において 特殊なのは、「殉教」によって、窮地に立たされた弱者が、強者である敵対者に対し て、精神的には力関係を逆転させることができた点である。そして、その逆転作用に よって、実際にマイノリティーであったグループが、その構成員を増やし続け、マイノ リティーではなく主流派になることで、力関係の逆転が観念的ではなく現実のものと なった。そうした意味で、 「殉教」は、いわば対抗的キリスト教アイデンティティーと も言える概念である。したがって、地中海周辺のキリスト教文化圏で育まれた「殉教」 は、受け身の非暴力的・平和的行為ではなく、歴史学者フィリップ・ブック(Philippe Buc)の言葉を借りれば、好戦的かつ暴力的な積極的行動であり、その後一千年以上 にわたって、西ヨーロッパ社会でみられることになったキリスト教文化特有のある種 の暴力性を形づくる理念を体現していた109 。 3.十六〜十七世紀における「殉教」概念 「殉教」概念の内包する対抗的キリスト教アイデンティティーとしての攻撃的とも いえる性格が、再び必要とされるようになったのが、ヨーロッパで宗教戦争が起こっ た十六〜十七世紀である。信仰上の理由により、カトリック・プロテスタントの両陣 営で多くの犠牲者がでるようになると、それぞれの死者(犠牲者)こそが「殉教」者の 称号に相応しいと主張された。1523 年にヤン・ヴァン・エッシェン(Jean van Eschen) とアンリ・ボー(Henri Voes)というルター派のプロテスタントがブリュッセルで火刑 E・ソールズベリ『ペルペトゥアの殉教』、p. 256-257. 107 四〜五世紀にかけてキリスト教の地中海世界、そして西欧社会への普及に「殉教」言説の構築が、極 めて重要だったことは、以下を参考。Lucy Grig, Making Martyr in Late Antiquity, London, Duckworth, 2004. 108 ただし、近現代においては、 「殉教」という存在に当然とされてきた絶対的価値を疑問視する論考も 現れている。Gordon L. Heath, “When the Blood of the Martyrs was not Enough. A Survey of Places Where the Church was Wiped Out”, in Stanley E. Porter (ed.), The Church, Then and Now, Eugene, Or., Pickwick, 2012, p. 97-133. 109 ブックに拠れば、 「殉教」は宗教的暴力の一貫として捉えられることが歴史的に理解されうる。Philippe Buc, Guerre sainte, martyre et terreur. Les formes chrétiennes de la violence en Occident, Paris, Gallimard, 2017, p. 45-61. 57 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) に処せられると、ルター(Martin Luther, 1483-1546)はいち早く彼らの「殉教」を讃え ている110 。十六世紀半ばまでは、 「殉教」者は、必然的に、勃興したばかりのプロテ スタントが多数を占め、特にマイノリティーであった再洗礼派の犠牲者の数が多かっ た。こうした犠牲者の存在を軸に、それぞれの陣営は、自分たちのキリスト教信仰の 正統性や真正さを訴え111 、自分たちの倫理的優越性を主張した112 。 「殉教者の血が キリスト教の種である」というテルトリアヌスの言葉は、時代を超えて、再び宗教戦 争期のカトリックとプロテスタント双方に間断なく引用され続けることとなった113 。 しかし、そこで問題となってくるのは、カトリック教徒、プロテスタント、再洗礼派 も、元は同じキリスト教会から発祥したはずの、同じキリスト教徒である以上、誰が 真の「殉教」者であるのか、という本質的な疑問である。自分たちの犠牲者を真の「殉 教」者であると主張することは、彼らを弾劾したり処刑した敵対者を、「迫害」者と みなし、相手の信じる教えを「異端」として否定することにつながる。一方で、自分 たちが「異端」として糾弾し処刑した対象は、その処刑された者と同じ宗派の人々か ら見れば、「殉教」者だが、処刑した側にとっては自分たちの方が「異端」によって 侵害された「犠牲者」なのだから、その死は「殉教」とは見なされない114 。こうし た議論は、1520 年代からカトリック、プロテスタント、そして再洗礼派の間で、出版 物を通して論じられることになり115 、プロパガンダ戦争の様相を呈した116 。 最初の「殉教」伝の出版は、プロテスタントの陣営から行われた。それが、ジャン・ クレスパン(Jean Crespin, 1520-1572)により、1554 年に出版された『殉教伝』であ 110 Pettegree, The Sixteen-Century French Religious Book, p. 122. また、最初のプロテスタントの「殉教」 伝に関しては、以下を参照。Léon-E. Halkin, « Hagiographie Protestante », Analecta Bollandiana.Mélanges, t. LXVIII, (Mélanges Paul Peeters, v. II), 1950, p. 453-463. 111 宗教戦争の犠牲者をめぐる言説については、Anne Dillon, The Construction of Martyrdom in the English Catholic Community, 1533-1603, Aldershot, Ashgate, 2002, p. 4-5. 112 David El Kenz, Les bûchers du roi : la culture protestante des martyrs (1523-1572), Seyssel, Champ Vallon, 1997. 特にその序文における説明。 113 Frank Lestringant, Lumière des martyrs : essai sur le martyre au siècle des Réformes, Paris; Genève, Honoré Champion, 2004, p. 70. 114 この犠牲者をとりまく論理に関しては、El Kenz, « La victime catholique au temps des guerres de Religion. La sacralisation du prêtre », in Benoît Garnot (éd.), Les victimes, des oubliées de l’histoire ? : Actes du colloque de Dijon, 7 & 8 octobre 1999, Rennes, Presses universitaires de Rennes 2015, p. 191-199. 115 この議論に関しては、Brad S. Gregory, Salvation at stake: Christian martyrdom in early modern Europe, Cambridge MA, Harvard University Press, 1999, p. 139. また、同じ再洗礼派の中でも、誰を正統な「殉教」者 として捉えうるのかは議論の対象となった。山本大丙「 『殉教者の鑑』メノー派・アーミッシュのアイデン ティティの源泉」 (永本哲也ほか編『旅する教会 再洗礼派と宗教改革』新教出版社、2017 年)p. 160-167. 116 「殉教」伝の言説によるプロパガンダ戦争に関しては、以下の研究を参照。Frank Lestringant, Lumière des martyrs : essai sur le martyre au siècle des Réformes, p. 115 et s.; Frank Lestringant, Martyrs et martyrologes, Villeneuve d’Ascq, Université Charles-de-Gaulle-Lille 3, 2003; Grégory Wallerick, « La guerre par l’image dans l’Europe du XVIe siècle », Archives de sciences sociales des religions, 149 (janvier-mars 2010), p. 33-53. 58 論 文 る117 。当初、ジュネーブの教会は、この『殉教伝』の出版に乗り気ではなかった。 「殉 教者」は、古代教会の聖人にのみ与えられる称号であって、同時代人を安易に「殉教 者」と讃えるのは妥当なことなのだろうか。たとえ、彼らが非業の死をとげた同志で あったことを考慮したとしてもである118 。しかし、クレスパンの『殉教伝』は成功 を収め、シモン・グーラール(Simon Goulart)によって増補版が、1584 年に出版さ れ、更に 1619 年には増補版が増版された119 。 これに対するカトリックの反応を示す第一作目は、リシャール・ローラン(Richard Rowlands)、もしくはヴェルステガン(Richard Verstegan, ca. 1550-1640)の名前で知 られる作者がパリで 1584 年に出版した『カトリック教徒が信仰のためにイギリスにお いて堪え忍んだ残酷行為についての略記(Briejve Description des diverses Cruautez que les Catholiques endurent en Angleterre pour la foy)』である。これに続いて、1587 年に は著名な『残酷劇場(Théâtre des cruautés) 』が出版されている120 。後者は、前者の内 容を引き継いだもので、題名からも明らかなように、イギリスにおいて処刑されたカ トリック教徒を「殉教」者として顕彰している。後者は、カトリックの犠牲者の多種 多様な死に様を、図像化していることで著名である。フランスでは、宗教戦争の犠牲 者といえば、まずプロテスタントが大多数を占めたために、海を超えたイギリスにカ トリックの犠牲者の鑑を求めたのである。中でも、エドモンド・カンピオン(Edmund Campion)を始めとするカトリック「殉教」者がカトリック教会に賞賛された。 フランスにおけるプロパガンダ戦争では121 、プロテスタントとカトリックの間で、 117 Jean Crespin, Histoire des martyrs persecutez et mis a mort pour la verité de l’Euangile..., Genève, Eustache Vignon, 1554. この著作に関しては、近年部分訳がされて紹介された。平野隆文訳「ジャン・クレスパン『殉 教録』 (抄) 」 (宮下志朗ほか編集・翻訳『フランス・ルネサンス文学集1――学問と信仰と』白水社、2015 年)p. 287-308. 118 ジュネーブの 参事会(Conseil)が martyr の言葉の使用を嫌った理由は、Jean-François Gilmont, Jean Crespin, un éditeur réformé du XIVe siècle, Genève : Droz, 1981, p. 169. 119 クレスパンの著作は、1550-1572 年の間に実に 250 版を重ね、成功を収めていたことが分かる。JeanFrançois Gilmont, Jean Crespin: un editor réformé du XVIe siècle, p. 13. クレスパンによる出版物のリストは、 同書、p. 245-260. 更に詳しい書誌リストは、Jean-François Gilmont (éd.), Bibliographie des éditions de Jean Crespin, 1550-1572, Verviers, Gason, 1981, 2 vol. これらの殉教伝がどのような発展を辿ったのかに関して は、Gilmont, Jean Crespin: un éditeur réformé du XVIe siècle, p. 165-190. 聖人信仰を批判していたプロテス タントにおいても、「殉教」信仰が興ったという矛盾に関しては、以下の書籍に研究がある。Lestringant, Lumière des martyrs : essai sur le martyre au siècle des Réformes, p. 11. 120 Richard Verstegan, Theatre des cruautez des hereticques de nostre temps, Anvers, Adrien Hubert, 1587. 注 釈つきの翻刻が、Théâtre des cruautés des hérétiques de notre temps (de Richard Verstegan) ; texte établi, prés. et annoté par Frank Lestringant, Paris, Éditions Chandeigne, 1995. この著作に関しては、近年部分訳がされて 紹介された。平野隆文訳「リシャール・ヴェルステガン『残酷劇場』 (抄) 」 (宮下志朗ほか編集・翻訳前掲 書)p. 309-337. ここに表現された「殉教」図像と日本の「殉教」図像の関連性については、Hitomi Omata Rappo, Des Indes lointaines aux scènes des collèges, p. 313-322. 121 David El Kenz, « La victime catholique au temps des guerres de Religion. La sacralisation du prêtre », in Benoît Garnot (éd.), Les victimes, des oubliées de l’histoire? : Actes du colloque de Dijon, 7 & 8 octobre 1999, 59 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) 若干異なる「殉教」像が嗜好された。ルター派やカルヴァン派は、生か死かという究 極の選択が迫られる神明裁判のような設定において、言葉や文字によって覚悟を表明 する犠牲者に、理想の「殉教」像を求めた122 。これに対し、カトリックは、キリスト の受難の模倣に焦点を当てた「劇場」型の「殉教」を重要視した123 。つまり、言葉 による信仰の表明だけではなく、肉体にうける苦痛にも価値を見いだそうとした124 。 出版物によるプロパガンダ戦争の様相はイギリスでも同様に見られた。特にカトリッ ク信者が犠牲者となったイギリスにおいては、プロテスタントへの反応として殉教 者伝文学が創作された。カトリックの殉教書として著名なジョン・フォックス(John Foxe, 1516/17-1587)の『殉教の書』 (Actes and Monuments of these Latter and Perillous Days, Touching Matters of the Church, London, John Day, 1563 および以降の各版は一般 に Book of Martyrs として知られた)も、ミルトン(John Milton, 1608-1674)には批 判の対象となるなどの議論を巻き起こした125 。現在のオランダと、ドイツ語圏にお けるカトリック、プロテスタント、再洗礼派における「殉教」言説においては、「殉 教」概念の核を成す概念は共通しているというのが、ブラッド・グレゴリー(Brad S. Gregory)の見解である126 。 犠牲者を「殉教」と顕彰し、同時に敵対者の「殉教」に反駁する『殉教伝』および 『反殉教伝』は、表裏一体の関係にあり、カトリック・プロテスタントの「殉教」言説 の争いには、 (カトリックとプロテスタントの間に勝敗がないように)勝者も敗者もな い。何をもって真の「殉教」とみなすかは主観的判断に任され、論理的に正解が出せ ないものだった。そこで、双方の陣営は、全体として、真正の「殉教」が輩出された 古代の教父神学に依拠して、自分たちの議論の権威付けを試みるという、結局のとこ ろ手段においては似通る方法をとることになった。こうした議論では、「殉教」の価 Rennes, Presses universitaires de Rennes, 2000, p. 191-199. 122 Frank Lestringant, « Le martyre mot à mot : les trois martyrs huguenots du Brésil (1558), de Jean Crespin à d’Aubigné », in Jean Céard (éd.), Langage et vérité. Études offertes à Jean-Claude Margolin, p. 142. Frank Lestringant, Lumière des martyrs : essai sur le martyre au siècle des Réformes, p. 45 et s. 123 Antoinette Gimaret, Extraordinaire et ordinaire des croix : les représentations du corps souffrant, 15801650, Paris Genève, H. Champion, diff. Slatkine, 2011, p. 29. Frank Lestringant, Lumière des martyrs, p. 115. 「劇場」型「殉教」に関しては、Hitomi Omata Rappo, Des Indes lointaines aux scènes des collèges, p. 78. 124 プロテスタントとカトリックにおける「教会」概念の差に関しては、Frank Lestringant, Lumière des martyrs, p. 100. 真の「殉教」者と偽の「殉教」者を巡る論議については、Brad S. Gregory, “Persecutions and Martyrdom”, in Ronnie Po-chia Hsia (ed.), Reform and Expansion 1500-1660, Cambridge, Cambridge University Press, 2007, p. 261-282, p. 270. 125 John R. Knott, Discourses of martyrdom in English literature, Cambridge, Cambridge University Press, 2010, p. 8-9. 126 Brad S. Gregory, “Martyrs and Saints”, in Ronnie Po-chia Hsia (ed.), A Companion to the Reformation World, Malden, Mass., Blackwell, 2004, p. 462. 60 論 文 値だけではなく、 「殉教」を扱うキリスト教典の原典の翻訳の問題にまで敷衍した127 。 こうした文脈で、「殉教は苦しみによってではなく、その原因によってもたらされる (Martyrem non facit poena, sed causa)」という、古代教父の一人アウグスティヌスの 言葉が、頻繁に引用された128 。宗教戦争後の十六世紀は、古代の神学が言及されな がら、ヨーロッパにおける「殉教」概念が更新され、その信仰の様相が一変する過渡 期であったといえる。 特にカトリック教会においては、その本部であるヴァチカン聖庁のあるローマにお いてカタコンベが発掘されたことで、古代の「殉教」へのノスタルジーが一層かき立て られた。カタコンベは、考古学的には、二世紀前後から発展したキリスト教徒の地下 墓所であり、そこで発掘された遺骨の全てが、必ずしも「殉教」者由来のものではない (そもそも、文字資料を伴わない遺骨の人物特定は不可能に近かった) 。しかし、いわ ゆるローマ劫掠(1527)後に、キリスト教世界の精神的首都としての面目を失ってい たローマは129 、カタコンベからの大量の「殉教」者の「聖遺物」の出土により、由緒正 しい「殉教」者を生んだ初期教会の直系の継承者であるという自負を新たにすること ができた130 。こうした古代への回帰は、ローマのステファノ・ロトンド教会(Basilica di san Stefano Rotondo)を荘厳した古代殉教者の三十二点の壁画に象徴される131 。現 在もみられるステファノ・ロトンド教会における「殉教」壁画は、ローマのイエズス 会イギリス学院に併設されたカンタベリーの聖トーマス(St. Thomas of Counterbury) 教会の壁画とも相関するものである。この壁画は現存してしないものの、1582 年に ニッコロ・チルチグナーニ(Niccolo Circignani、別名ポマランチオ Pomarancio)が版 127 Paul Peeters, « Les traductions orientales du mot Martyr : Note complémentaire à l’article précédent », Analecta Bollandiana, t. XXXIX, 1921, p. 50-64. 128 これは、アウグスティヌス自身が何度も繰り返していた言葉の一つである。アウグスティヌスの 引用頻度に関しては、以下を参照。Frank Lestringant, Lumière des martyrs, p. 63, note 7. また、Brad S. Gregory, “Persecution or Prosecution, Martyrs or False Martyrs : The Reformation Era, History, and Theological Reflection”, in Michael L Budde & Karen Scott (ed.), Witness of the body : the past, present, and future of Christian martyrdom, Grand Rapids, Mich., William B. Eerdmans Pub., 2011, p. 107-124, p. 122. 129 アンドレ・シャステル著、越川倫明、ほか訳『ローマ劫掠 一五二七年、聖都の悲劇』筑摩書房、2006 年。 130 Pierre-Antoine Fabre, « La distribution des corps saints des catacombes à l’époque moderne : de Rome aux nations (en coll.) », in J. P. Zuniga (éd.), Pratiques du transnational, Paris, Centre de recherches historiques, 2011, p. 101-121. 131 Leif Holm Monssen, “The Martyrdom Cycle in Santo Stefano Rotondo, Part I”, Acta ad archaeologiam et artium historiam pertinentia, Institutum Romanum Norvegiae, 8(2), 1982, p. 175-317; idem, “The Martyrdom Cycle in Santo Stefano Rotondo, Part II”, Ibidem, 8(3), 1983, p.11-106. Kirstin Noreen, “Ecclesiae militants triumph: Jesuit Iconography and the Counter-Reformation”, The Sixteenth Century Journal, Vol. 29, No. 3 (Autumn, 1998), p. 689-715. 日本語でこの壁画について、ジャン・ドリュモー著、佐野泰雄ほか訳『罪と恐 れ――西欧における罪責意識の歴史 十三世紀から十八世紀』(東京、新評論、2004 年)p. 212. 61 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) 画を遺したために、その様相を現在に伝えている132 。イギリスのカトリック殉教者 を描いた連作は、ステファノ・ロトンド教会に描かれた古代の殉教者を明らかに意識 した構図・モチーフによって描かれており、古代と宗教改革期の「殉教」像が明らか に視覚的に関連づけられている。つまり、カトリック教会の中心地であったローマに おいては、こうした像造行為により、古代と同時代のイギリスの殉教者が、同じ系譜 に属する真正の「殉教」であるとの認識を可視化させていた。そして、この「殉教」 像群の中に、同じく同時代の日本の「殉教」者も意識されていたはずである133 。イギ リスの殉教者が、日本の殉教者になぞらえられるということは、すでにおこっており、 イギリスは、ヨーロッパ内の日本であると意識されていた134 。宣教における「殉教」 の重要性は、ヨーロッパ内の「殉教」論争を通じて更に喚起されたと言えよう135 。 日本の教会の状況を語る言説として、「殉教」というレトリックが相応しいと目さ れたのも、こうした同時代のヨーロッパにおける特殊状況を加味せずには考えられな い。宗教戦争期の時点では、プロテスタントは海外宣教を展開しておらず、被宣教地 における「殉教」者を輩出していたのはカトリック教会だけであった。特に同時代の 「オリエント」は「究極の古代」とみなされており136 、 「オリエント」の「殉教」者 は、教会本来の古代の「殉教」者と比肩しうる存在であった137 。日本におけるカト リック・キリスト教の「殉教」者は、ヨーロッパ内のカトリック・キリスト教の優越 性を主張するのに役立っただろう。 132 Alexandra Herz, “Imitators of Christ: The Martyr-Cycles of Late Sixteenth Century Rome Seen in Context”, Storia dell’arte 62, 1988, p. 53-70. 133 ローマの現在のクイリナーレ宮殿(Palazzo del Quirinale)にあったイエズス会のノヴィチィアート(修 練院)には、世界各地の宣教師の「殉教」図が飾られておりその中には、1597 年に死んだいわゆる二十六聖人 中の三人も描かれていたことが分かっている。Louis Richeome, Peinture spirituelle ou l’art d’admirer, aimer et louer Dieu, Lyon, Pierre Rigaud, 1611, p. 235. この作品に描写された日本の殉教者については、以下で論じ た Hitomi Omata Rappo, Hitomi Omata Rappo, “How to make ‘colored’ Japanese Counter-Reformation Saints: a study of an iconographic anomaly”, Journal of Early Modern Christianity, 4-2(2017), p. 195-225 ; Hitomi Omata Rappo, Des Indes lointaines aux scènes des collèges, p. 292-293. 134 Masahiro Takenaka, Jesuit Plays on Japan and English Recusancy, Tokyo: The Renaissance Institute (Sophia University), 1995, p. viii. 135 El Kenz, « La victime catholique au temps des guerres de Religion. La sacralisation du prêtre », in Benoît Garnot (éd.), Les victimes, des oubliées de l’histoire?, p. 192. 136 「究極の古代(L’antiquité absolue) 」という表現は、以下の本から採った。Chantal Grell, Le dix-huitième siècle et l’antiquité en France : 1680-1789, vol. 1, Oxford, Voltaire Foundation, 1995, p. 601. また、近世にお いて、日本におけるキリスト教迫害に見られる残酷性が、古代の専制君主の暴虐さと結びつけられる理解 に関しては、ミシェル・ドゥロン「東洋的残酷さについて」 (中川久定、J.シュローバハ編『十八世紀に おける他者のイメージ――アジアの側から、そしてヨーロッパの側から』河合文化教育研究所、河合出版、 2008 年)p. 37-50. 137 宗教改革時代に、 「殉教」者としての正統性を得るために、古代の「殉教」との関連を持つことは重 要視されていた。Simon Ditchfield, “Thinking with Saints: Sanctity and Society in the Early Modern World”, Critical Inquiry, Vol. 35, No. 3 (Spring 2009), p. 552-584. 62 論 文 この時代のキリスト教は、プロテスタントにせよカトリックにせよ、宗教戦争を経 て古代以降の「殉教」概念の再考を迫られる特殊な状況にあり、現代と通時的に直結 する普遍性を備えた教えではなかったことを留意する必要がある138 。また、「殉教」 的事象が数多く惹起された日本にもたらされたキリスト教は、そもそもこうした文脈 を背景に負った特殊なキリスト教であったのであり、その言説が特に西欧の事象を意 識して西欧言語により記録されたことを考えると、日本の殉教にまつわる文学や図像 等のイメージは、ヨーロッパにおける時代背景と文脈を考慮せず、日本の事象を直截 に反映した資料・情報として捉えることに、無理があるだろう。その意味で、日本に まつわる「殉教」言説に関しては、西欧史の延長として捉えるべきであると彌永信美 はつとに提言している139 。その背景にあるのは、彌永が指摘した資料の偏りという 方法論的問題であり、また「殉教」という概念が内包する文化的問題である。 4. 「殉教」研究の西欧言語圏における方法論 フランスの宗教戦争期における「殉教」言説の専門家であるダビッド・エル・ケン ツ(David El Kenz)は、この時期のプロテスタントとカトリックの「殉教」言説を総 括し、こう結論づけている。 「 『殉教』は文化的表象である140 」と。興味深いことに、 古代史を専門とする「殉教」言説の専門家も、全く異なる時代の、全く異なる資料群 を扱っているにも関わらず、同種の結論を共有している。 ローマ帝国下における「殉教」は、いわばキリスト教の「殉教」の元祖である。こ のトピックそのものは、神学者、教会史家だけでなく、ローマ帝国史家により幅広く 研究対象とされてきた。神学的には、一旦「殉教」者としてその聖性が認められた聖 人に対しては、その「殉教」の真偽に疑義をはさむことは禁じられている。(つまり 「殉教」という出来事そのものは、史実として当然視される。 )そのため、教会史にお ける「殉教」研究は、一般の歴史家とは異なり、その聖性を法的に議論する列聖・列 福の教会法的制度の発展史の形で昇華したと言える。(十七世紀から発展してきたボ ランディストの研究は、この潮流に与するものである141 。) 138 現代の教皇の言説においても、こと「殉教」に関しては、教会の歴史性が顧みられない点に関して、以 下に議論されている。Brad Gregory, “Persecution or Prosecution, Martyrs or False Martyrs: The Reformation Era, History, and Theological Reflection”, in Michael L Budde and Karen Scott (eds.), Witness of the body, p. 107-124. 139 彌永信美『歴史という名の牢獄』 (青土社 、1988 年)p. 116-117. 140 El Kenz, Les bûchers du roi : la culture protestante des martyrs (1523-1572), p. 14. 141 ボランディストとは、オランダ人イエズス会士ハリバート・ロスヴァイデ(Heribert Rosweyde、15691629)が提唱し、その後ベルギー人イエズス会士ジャン・ボランドゥス(Jean Bollandus、1596-1665)が 63 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) 一方、世俗的な歴史研究においては、 「殉教」にまつわる様々な言説の形成とコンテ クストが検証の対象となる。「殉教」という出来事を史実として単純に捉えるのでは なく、 「英雄」像が様々な言説により構築されていった過程を、 「殉教」の歴史として 捉えたのが、ルーシー・グリーグ(Lucy Grig)である142 。いわゆる「殉教伝」 ・ 「聖人 伝」と言われる資料群は、史的価値のある記録を一部含んだ一種の文学作品であり、 特定の読者層に訴えかけるために、記録され、編纂される段階から、意図的に執筆さ れ、編まれたものである143 。キリスト教会の最初の「殉教」者と言われるステパノス の歴史研究を行ったシェリー・マシューズ(Shelly Matthews)は、 「殉教は、出来事で はなく言説である。殉教説話を語ることは、文化の創造行為、国家の創立、もしくは 人種民族的なアイデンティティーを構築するための過程の一形態である」とすら語っ ている144 。実際、 「殉教」概念の本来の意味に関連して述べたように、キリスト教に おいて「殉教」という現象が起こり、普及し、記録されていった過程と、キリスト教 が宗教として形をとっていった歴史は、共時的に進行していた。 「殉教」の言説は、特 定の集団のアイデンティティーの形成のために、意図的に編まれていく方向性があっ たと指摘されている145 。こうした意識のもとで「殉教」者言説をみたとき、それは その人物が実際に何を行い、どのように死んで、どのような「奇跡」を起こしたかを 単純に記録した一次資料ではなく、どのような語彙・状況・描写・設定が「殉教」者 の死を語るのに相応しいと見なされたかを語る資料となる。つまり、その人物が「殉 ・・・・・・・・・ 教」者であったことではなく、その人物が「殉教」者としてみなされていたことが史 中心となって組織された聖人研究のグループを指す。1607 年アントワープに創設後は、資料に基づくカト リックの聖人に関する実証的研究を志した。1643 年から 1940 年までの 3 世紀にかけて 68 巻に及ぶ聖人 伝(Acta Sanctorum)を公刊すると同時に、現在は学術誌『ボランディストの分析』 (Analecta Bollandiana) を主催している。厳密な実証主義的歴史研究集団として知られている。ボランディストの近世の仕事を研 究した近年の単著に Jan Marco Sawilla, Antiquarianismus, Hagiographie und Historie im 17. Jahrhundert zum Werk der Bollandisten : ein wissenschaftshistorischer Versuch, Tübingen : M. Niemeyer, 2009. 142 例えば、Lucy Grig, Making Martyr in Late Antiquity, 2004 ; Elizabeth A. Castelli, Martyrdom and Memory. Early Christian Culture Making, 2007. これに類似した研究に、Johan Leemans, More than a Memory. The Discourse of Martyrdom and the Construction of Christian Identity in the History of Christianity, Leuven, Belgium, Dudley, MA, Peeters, 2005 がある。 143 Johan Leemans, Op. cit., p. XIII. 144 Shelly Matthews, Perfect Martyr: The Stoning of Stephen and the Construction of Christian Identity, New York, Oxford University Press, 2010, p. 4. マシューズによれば、殉教者の代名詞ともいえる聖人ステパノス でも、その「殉教」像は、言説によって構築されたものであり、彼の死そのものは、現代の学者が類型づ ける古代における典型的「殉教」にはあてはまらない。 145 Paul Middleton, “What is martyrdom?”, Mortality, 19:2 (2014), p. 117-133. 例えば、古代の「殉教」資料 を読むと、ローマ帝国下の全土において間断なく苛烈きわまる迫害が継続されていたような印象を受ける が、それは必ずしも事実ではない。また、キリスト教徒を取り締まる側のローマ帝国が、常に絶対悪とし て描かれ、キリスト教徒がどのような事情によって取り締まれるにいたったのかという事情に関しては、 一切考慮の対象になっていない。Marie-Françoise Baslez, Les persécutions dans l’Antiquité : victimes, héros, martyrs, p. 5. こうした言説は、近年は神学者にも共有されている。 64 論 文 的事実として分析対象になり、 「殉教」を「殉教」たらしめる要素が、当時の「殉教」 観を分析するための対象と捉えられるようになる。こうした古代の「殉教」を紡ぐ資 料の特殊性は、現在、一部の神学者によっても受け容れられるようになっている146 。 ある種の像を構築する言説や画像を含める資料を、その像の形成にまつわるめくるめ く世界観(イマジネール)の表象(思想史の材料)として指摘したのは、アナール学派 の影響を受けた歴史学研究の方法論を受け継いだジャック・ル・ゴフである147 。「聖 人」や「殉教」は、西欧における研究の文脈では、このように、その聖的英雄像と一 旦距離をおき、それを乗り越えて扱う形で発展した。そして、現在は、「殉教」研究 にはこうした方法論が当然のように用いられている。 一方で、日本のキリスト教研究においては、(一部の例外を除き148 ) 「殉教」言説 が、地中海世界の古代の元祖「殉教」言説におけるように脱構築されていないのは、 いくつかの理由がある。第一の理由は、「殉教」的事象を、キリスト教における「殉 教」として認識する歴史が、同時代の日本において正史として成立しなかったことで ある。この歴史観の問題と、資料が不足している問題は、相関している。 5.西欧から日本へ――「殉教」概念の輸入 翻訳不可能の概念? キリスト教徒の「殉教」者が最も数多く生まれた十六世紀末から十七世紀前半の日 本においては、 「殉教」の記録資料に大きな偏りが見られる。宣教師が執筆した欧米言 語による書簡と、それに基づいてヨーロッパで出版された聖人伝的文学の類いに比較 すると、江戸幕府側の資料や、日本語によって記録された資料はかなり少なくなる。 例えば、ヨーロッパで大反響を呼んだ二十六聖人に関しても、日本では僅かな断片的 な資料が遺されているだけである149 。 それは、キリスト教が禁じられて以後は特に、日本の現地政権および当時の大多数 の人々にとってキリスト教は「邪教」であり、それを信じて処刑された者は、 「殉教」 146 Candida Moss, The Myth of Persecution: How Early Christians Invented a Story of Martyrdom, New York, Harper One, 2014. もちろんこうした見解は、「殉教」の聖性を無謬性のないものとして考える他の神学者 や、主に北米大陸の敬虔なカトリック信徒から攻撃の対象となっている。 147 ル・ゴフは、中世の聖人伝に対して、一つの世界観(イマジネール)を想定したものとして考えるよ う示唆した。Jacques Le Goff, L’Imaginaire médiéval, Paris, Gallimard, 1991, p. vii. 148 日本の二十六聖人が、近世のヌエヴァ・エスパーニャの社会で、どのように信仰対象となっていった かを追った川田玲子の研究など、近年は「殉教」者の英雄化を心性史の一貫として扱ったものある。同『メ キシコにおける聖フェリーペ・デ・ヘスス崇拝の変遷史』(明石書店、2019 年)。 149 日本語の資料については、海老沢有道「日本二十六聖人関係日本文献」 ( 『キリシタン研究』八号、1963 年)p. 137-175. 65 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) 者のような英雄ではなく犯罪者以外の何ものでもなかったという事情があるだろう。 そうした価値観を反映する意見は、多くの反キリシタン文学・資料に遺されている。 『破吉利支丹』においては、 (禁じられている)邪義を広めた結果として無知蒙昧に命 を落とすものが多く、それが「此国の恥辱にあらずや。異国までの聞え、口惜き次第 150 なり。 」 と嘆かれている。このように、キリスト教が違法となっている日本国内と、 日本における「殉教」者が「英雄」として喧伝される国外の価値観の乖離にいち早く 気づいている人物も存在した訳である。しかし、これは、近代の西欧で生まれ、現代 の先進国に通底する価値観となった「信教の自由」の観点から慨嘆されたのではなく、 日本国内の法規や論理が、国外に理解されないことから発したようにみえる。逆に日 本では、「殉教」概念は、もっとも理解されない点の一つであったと考えられる。こ れは、古代ローマにおいて、為政者がキリスト教徒の(皇帝の祭祀に参加しないなど の)違法行為の理由を理解できず、また「殉教」を期待するキリスト教徒が、ローマ 帝国の管理をおしなべて「迫害」として認識することも理解せず、両者の認識が互い に交わることがなかったこと151 (キリスト教徒の論理が「普遍的真理」になるため には、キリスト教の公認化という政治体制のパラダイム転換が必要だった)とパラレ ルな現象である。 キリスト教が異端視されていた江戸時代においては、ことに「殉教」を不可解とす る言及が数多く遺されている。慶長 18 年 12 月(1614 年 1 月 28 日)に全国通達され た「伴天連追放令」を起草した金地院崇伝(1569-1633)は、その禁令の中で、 「殉教」 の行為を以下のように非難している。「かの伴天連の徒党、みな件の政令に反し、神 道を嫌疑し、正法を誹謗し、義を残なひ、善を損なふ。刑人あるを見れば、すなわち 欣び、すなわち奔り、自ら拝し自ら礼す。これを以て宗の本懐となす。邪法にあらず して何ぞや152 。 」崇伝は、 「刑人」すなわち犯罪者であるはずの「殉教」者を、キリス ト教徒が崇拝し、しかも「殉教」崇拝が当時のキリスト教信仰の中核であったことを 洞察し、その「殉教」崇拝こそ「邪法」であるとしている。 当時の日本人から見た「殉教」的行為の異質性は、 『吉利支丹物語』にも記される。 「でうす(神)の御法をきく人は、大海の底の黄金を拾ひ、一眼の亀の浮木にあふより 『破吉利支丹』 (海老沢有道ほか校注『キリシタン書・排耶書』 「日本思想大系」25、東京、岩波書店、 1970 年、所収)p. 450 (450-457). 151 例えば、そうした記録の一つにプリニウスがトラヤヌス帝に報告した手紙がある。Marcel Durry (éd.), Lettres tome IV, Livre X, panégyrique de Trajan, Paris, Les belles lettres, 2002, p. 73-75. 152 海老沢有道校注『排吉利支丹文』 (『キリシタン書・排耶書』所収)p.421 (419-421). この禁令の内容 の史的位置づけに関しては、以下の文献に詳しい。五野井隆史『日本キリシタン史の研究』(吉川弘文館、 2002 年)p. 264-267. またこの禁令の資料的批判を行った研究に、安野眞幸『バテレン追放令――16 世紀 の日欧対決』(日本エディタースクール出版部、1989 年)。 150 66 論 文 猶稀なる事とした、かにほめられて満足し、まことに仏になるぞとおもひさだめて、 火あぶりになるも、牛裂き、車裂き、逆さ磔、かやうの難にあふが、望みの叶ふ成仏 と心得て、命を厭ひ悲しむものなきとみえたり。あはれなる事共かな、知恵のなきも のは、己が耳に聞入、心におもひさだめたる事をば、かつてひるがへす事なし。たと へば二三歳の童が鏡のうちのかたちを見ては、まことのかたちと思ひ、水の中の月を みては、猿猴が手にとらんとおもふ、おろかなる心と等しきもの也。愚人はみなかく のごとし、外道の法魔法なるべし153 。」つまり、「望みの叶ふ成仏」を達成するため に喜んで様々な残酷な処刑に耐えるキリスト教徒を、「知恵のなき」「愚人」、外道に よってたぶらかされたものとしている。 著名な棄教者の中でも不干斎ハビアンの著した『破提宇子』においては、「マルチ ルトテ法ノ為ニハ身命ヲ塵芥ヨリモ軽クサスル事154 」として、 「殉教(マルチル) 」の ために、無辜の人々の命が軽視されることへの不快感が明快に記されている。 こうした「殉教」行為が日本人にとっていかに不可解であったかを考える時、着目 したいのは、「殉教」という行為が、明快な日本語で記されていないということであ る。金地院崇伝は、「殉教」者を単に「刑人」と呼んでいる。『吉利支丹物語』では、 「殉教」を指し示す単語が存在しないないために、 「まことに仏になるぞとおもひさだ めて、火あぶりになるも、牛裂き、車裂き、逆さ磔、かやうの難にあふが、望みの叶 ふ成仏と心得て、命を厭ひ悲しむものなき」ものとして死ぬ人々と言うように、言葉 を連ねて説明をするほかなかった。また、かつてキリスト教徒であった不干斎ハビア ンは、 「マルチル」というポルトガル語の音訳表記を用いている。 本論は、これまで「殉教」を語るために、「殉教」という言葉を当然のように用い てきたが、実はこの語は、明治維新以後、既存の信仰体系が解体されていく中で、キ リスト教が「宗教」と公認された時に、初めて誕生した訳語である155 。当然、それ 以前の日本においては、「殉教」という訳語は存在しておらず、それを指し示すよう な日本語の言葉が存在しなかった。神道や仏教由来の日本の既存の語彙に、キリスト 教の術語の翻訳に相応しい言葉があれば、それが充てられた例も多数ある(例えば、 「ベアト(beatus) 」が「果報156 」 、 「ロザリオ(ポルトガル語では rosário、ラテン語で 153 『吉利支丹物語』 (鷲尾順敬編『日本思想闘錚史料』第 10 巻、東方書院、1930 年)p. 375(5 頁目)p. 371-390. 154 海老沢有道校注『破提宇子』 ( 『キリシタン書・排耶書』所収)p. 442 (423-447). 井手勝美「史料紹介 校註 ハビアン著『破提宇子(ハダイウス) 』 (1620 年) 」 ( 『キリスト教史学』51 集、1997 年)p. 93-127, p. 118. 155 佐藤吉昭『キリスト教における殉教研究』 、p. 6-10. 156 こうした翻訳行為に関しては、以下の単著に様々な試みの例が取り上げられている。米井力也『キリ シタンと翻訳――異文化接触の十字路』 (東京、平凡社、2009 年) 。「果報」の翻訳については、p. 209-210. 67 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) 158 は rosarium) 」が、 「数珠157 」となった) 。しかし、初期キリスト教の普及と浸透の 歴史と深く結びついている「殉教」の概念は、日本に既存の信仰の中から一概にその 訳語を探し出せるようなものではなかった159 。西欧の特殊な歴史的事情を何重にも 負っている「殉教」という概念が、まったく異なる文脈に受容されるのは、単純なこ とではない。したがって、キリスト教の教義を多少なりとも知っている信者は、「殉 教」的事象を「マルチル」 、 「マルチリオ」 、 「丸血留」などと音訳表記することで済ま せていた160 。 一方で、 「殉教」を一貫した信仰行為の類型の一つと認めなかった日本近世初期の為 またキリスト教の術語の翻訳の問題に関しては、海老沢有道『南蛮文学入門』 (教文館、1991 年)p. 67-88; 折井善果『キリシタン文学における日欧文化比較――ルイス・デ・グラナダと日本』(教文館、2010 年)。 157 海老沢有道校注、雪窗宗崔述『対治邪執論』 (『キリシタン書・排耶書』所収)p. 470(460-476)。 雪窗宗崔の文書においては、キリスト教における様々な術語が仏教用語において解釈される。Frédéric Girard, « Réfutation de la doctrine pernicieuse : Sessô et les moines de son époque », in Sakaé Murakami-Giroux (éd.), Actes du troisième colloque d’études japonaises de l’Université Marc Bloch : La Rencontre du Japon et de l’Europe, Images d’une découverte, Aurillac, Publications orientalistes de France, 2007, p. 109-121. 158 もちろん、神を「大日」と安直に訳し、その訳語が余りに日本の一般庶民に腑に落ちるものであった がために誤解を生み、ザビエルがその翻訳を訂正しなくてはならなかったことは人口に膾炙している。こ れは、分かり易い翻訳の誤りの例である。土井忠生「十六・十七世紀における日本イエズス会布教上の教 会用語の間題」(『キリシタン研究』第十五輯、1971 年)p. 25-71. 159 「殉教」を生み出すのに不可欠な環境としての「迫害(persecution) 」に関しては、 「法難」 ・ 「教難」など の同様の宗教・文化的位相を指し示す語が存在する。Roux Pierre Emmanuel, La trinité antichrétienne: essai sur la proscription du catholicisme en Chine, en Corée et au Japon (XVIIe -XIXe siècles), dissertation, École des Hautes Études en Sciences Sociales, 2013, p. 19-21. しかし、「法難」は、「殉教」のような命を賭した犠牲と 必ずしもセットとなるような出来事ではなく、流罪といった刑罰も「法難」と認識されることが多い。寺 尾英智「日蓮の法難をめぐる認識」(『宗教研究』84(4) 2011 年)p. 1207-1209. 同様の指摘は、佐藤吉昭、 『キリスト教における殉教研究』、p. 9. 「殉教」を示す言葉が、漢語訳された先行例としては、「致命(聖 人) 」の訳語が既に十八世紀半ばに見られ、管見の限りでは、これがアジアの言語における「殉教」の語の 翻訳例をとしては最初期の例と思われる。Mathias Fu, 《 福安遭難事實 》, Archives des Missions Étrangères de Paris, vol. 435, f. 529 r. 160 葡日辞書においても、日本の既存の語彙を用いた翻訳が試みられず、表音表記で代用される。Hitomi Omata Rappo, « Les aventures du mot “martyre” entre l’Asie et l’Europe ou les aléas de la traduction », Mélanges de l’École française de Rome : Italie et Méditerranée modernes et contemporaines, 129-1 (2017), p. 143-153. キ リスト教への風当たりが強くなる中で、「殉教」に関連する文献の日本語翻訳も企画されていた。例えば 『丸血留の道』は、1614 年以降に翻訳されたものと指摘されている。浅見雅一、 『キリシタン時代の偶像崇 拝』 、p. 258. そして、実際に村上直次郎が存在を再確認した潜伏キリシタン関連書物においても、 「マルチ ル」をいかにまっとうできるかを切々と説くような文献が見られる。これは、1896 年に村上直次郎が長崎 県庁で確認した 210 葉の古写本で、浦上のキリシタンから没収した十四種の文書が、一冊にまとめられたも のである。あいにく原本は失われたが、村上の写本を藤田季荘が転写し、このうちの三書に関しては 1930 年姉崎正治が研究を発表し、 「マルチリヨの栞」と称した。その三書のうち「マルチリヨの勧め」 ・ 「マルチ リヨの心得」などが『切支丹宗門の迫害と潜伏』内に収録される。(姉崎正治著作集、第一巻、国書刊行会、 1976 年)それぞれ p. 173-228、229-239. こうした殉教文学の分析に、五野井隆史「キリシタンと『殉教』の 論理」 ( 『日本思想史学』第四十号、2008 年)p. 19-27. もちろん、教会用語などの術語の翻訳において、適 切な日本語の語彙が見つからなかった場合に、表音表記をすれば済んだのは、完全に日本語の特質に拠って いた。同様の翻訳方法が、中国語母語話者の間では数人の同意を得るような翻訳を探すことが困難であっ たことをイエズス会の博物学者ホセ・デ・アコスタ(José de Acosta, 1540-1600)が指摘している。Hitomi Omata Rappo, 前掲論文« Les aventures du mot “martyre” entre l’Asie et l’Europe ou les aléas de la traduction ». 68 論 文 政者らは、この行為に一つの訳語を与え、概念化することはなかった。オリヴィエ・ クリスタン(Olivier Christin)は、その翻訳論において、ある特定の言葉が、特に特 殊な歴史的文脈から生まれた場合、本来の意味が与えられた文脈の外では、理解不可 能であったり、翻訳不可能であったりするとしている161 。「殉教」概念は、まさに、 キリスト教が普及し浸透する以前の日本社会において、翻訳不可能であり、同時代の ヨーロッパに通用していた意味で理解されるための素地が不十分な状態で、浮遊する 概念だった。戦国末期以降の日本においては、見せしめとして広く一般化していた磔 刑が、十七世紀に入ると、キリスト教徒の処刑には用いられなくなっていくようにな る162 。このような処刑方法の転換は、キリスト教徒を取り締まる側の人間が、少な くともある種の(公開による)処刑方法が、「殉教」を成立させることを強く意識し ていたということは言えるだろう。しかし、キリスト教徒に特有のある種の行為と意 識されていても、それを類型化された一つの営為とみなし、それを指し示す語を明確 に与えることは、その価値観の存在を公式に受け容れることにつながる。敢えて翻訳 を避けるというのも、一つのイデオロギー的な選択なのである163 。 多くの現代日本のキリシタン研究関連書は、「殉教」という言葉を無意識に用いて いるが、これは当時の日本の言葉でもなく(宣教師側の言葉でもなく)、当時の価値 観を反映した語ではない。本来「殉教」的現象は、キリスト教徒を犯罪者として断罪 した日本側の資料と、「殉教」者を顕彰した西欧側の資料の双方を比較して研究され るべきなのだろう164 。ただし、問題は既述したように前者の資料が、後者に比べて 圧倒的に少ないということである。更に、両者を付き合わせて、果たして何が結果と して導き出されうるのかが、極めて政治的な繊細な問題をはらんでいる。 6. 交わらない視点――不均衡の歴史を超えて―― ポストコロニアル研究の影響を受けて、現代の歴史学研究では、現地の資料を用い るということは当然のように行われている。特に、いわゆる大航海時代の歴史研究に おいては、ロマン・ベルトラン(Romain Bertrand)のような新進の歴史家が、欧米言 語の資料に依拠した歴史叙述を反省し、新たな「均衡の歴史(histoire à part égale)」 161 オリヴィエ・クリスタン、小俣ラポー・日登美、彌永信美訳「 『浮遊する概念』をどう捉えるか」 (前 掲、注 1)p. 41. 162 Hitomi Omata Rappo, Des Indes lointaines aux scènes des collèges, p. 382. 163 クリスタン、同上論文, p. 39. 164 Hitomi Omata Rappo, « De “martyre global” à “histoire globale”? Repenser l’écriture de l’histoire du christianisme au Japon », Diogène, “Histoire globale et religion”, No 256, (2016), p. 67-86. 69 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) 学を提唱したことは記憶に新しい165 。歴史学の方法論や枠組みが明治以降の西欧由 来の起源を持っていたとしても、日本固有の資料を用いて日本史を研究する伝統は、 近代以前からのものであり、日本史の中のキリシタン学の分野では、日本語・欧米言 語の資料を交錯した研究も達成されている。 しかし、こと「殉教」に関しては、キリスト教徒を犯罪者として断罪した日本(の 当時の権力者)側の視点と、 「殉教」者を英雄として顕彰した西欧カトリック教会側の 視点は、そもそも調和的に交わるはずはなく166 、また日本の学界ではその「殉教」言 説が、古代教会の「殉教」史や、ヨーロッパ宗教革命期の「殉教」言説のように脱構 築されることは稀である。もちろん、松田毅一氏や高瀬弘一郎氏などは、本稿冒頭で 述べたような、「殉教」を切り口とする日本キリシタン史のあり方に違和感や異議を 唱えている167 。しかし、こうした違和感は、 「殉教」言説のパラダイムを解体する方 向に、研究を導かなかった。むしろ、村井早苗が提唱したように、 「 “迫害と殉教” の 物語から脱却し、キリシタンの問題を日本近世国家史研究のなかに正当に位置づけ、 キリシタン史それ自体で自己完結させるのではなく、キリシタン研究を日本近世史研 究者の共有財産として提出する168 」ことが強く意識されたようである。結果として、 村井自身は、 「殉教」という出来事を導くにいたった日本側の環境、すなわち日本各地 に広がったキリスト教禁教制度の史的展開を研究するにいたっている。高瀬弘一郎氏 は、いわゆる南蛮貿易をめぐる社会経済史的研究、江戸幕府が意識していた国是の問 題も含む外交史研究、宣教師側の宣教体制の制度史などに関する研究を展開した(こ うした問題意識は、岡美穂子、伊川健二、清水有子などの若手のキリシタン史研究者 に受け継がれていると言える) 。つまり、 「殉教」史観からの脱却は、同じ西欧言語に よる資料を利用しながら、日本史研究にも利するような社会史・経済史・外交史研究 を発展させる方向で進められた。こうして日本のキリシタン史が「日本史」の内部に 165 ベルトランは、十六〜十八世紀のインドネシア植民地史を研究するに辺り、オランダ語だけでなく、ジャ ワ語などを用いて、異なる視点に立脚する資料を対照する歴史研究を行った。Romain Bertrand, L’Histoire à parts égales, Paris, Le Seuil, 2011. 166 ホワイトが指摘したような「歴史においては、或るひとつの視点からは悲劇であるものが、別の視点 からは喜劇である」ということが想起される。ヘイドン・ホワイト著、上村忠男編訳『歴史の喩法 ホワ イト主要論文集』(みすず書房、2017 年)p. 52. 167 例えば、松田毅一は、1959 年にスペイン、ナバラ県トゥデーラ(Tudela)市において(学術的な)講演 を行った際に、日本の殉教の逸話に対して「聴衆は感動し、至るところで啜り泣く姿を見受けた」という。 松田毅一「跋」 (同編・監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第二期第七巻、同朋社出版、1997 年) p. 309 (307-313). また、高瀬弘一郎氏は、「たしかに彼ら(宣教師ら)は日本人の霊的救済を目指した。そ のために生命を捧げた者がいたことも事実である。しかし、その一面だけを強調し、キリシタン布教活動 を『殉教史』とのみ見るならば、それは歴史を見誤っていると言わねばならない」と直截的な「殉教」史 観批判を行っている。高瀬弘一郎「解説」 (高瀬弘一郎監訳『大航海時代叢書第二期七 イエズス会と日本 一』(岩波書店、1981 年)p. 645(p. 641-656). 168 村井早苗『キリシタン禁制の地域的展開』 (東京、岩田書院 2007 年)p. 12. 70 論 文 取り込まれた結果、キリスト教の価値観自体を対象化する視点が不足し、「殉教」言 説そのものが内包する問題が研究対象として意識され得なかったのである。 これは、「大航海時代」に、日本同様にカトリック・キリスト教の宣教の対象とな り、 「殉教」的現象が見られた他の地域とは対照的である。例えば、中華人民共和国に おいては、宣教師の顕彰をめぐり、ヴァチカン聖庁と中国政府がかなり乖離する見解 をみせた。この対立は、2000 年に当時教皇だったヨハネ・パウロ二世(Ioannes Paulus II, 1900-2005、在位:1978-2005)が、中国大陸での「殉教」者 120 人を同時列聖をし た際に顕在化した169 。この犠牲者の大半は、いわゆる義和団事件の犠牲者となった 人々だったものの、明代・清代のスペイン人宣教師も含んでおり、中国共産党中央委 員会の機関紙である新聞「人民日報」などでは、かれらは植民地主義の尖兵として捉 えられ、それを公的に英雄視するヴァチカンに対しても、中国政府から強い遺憾の念 が表明された170 。 宣教を通じて誕生した英雄に関し、現在の被宣教地の現地の人々と、ヴァチカンの思 惑が乖離している例は、他にもみられる。北米カリフォルニアで宣教活動を行い、現地 169 列聖を報道したヴァチカンの機関誌の新聞記事を参照。« Agostino Zhao Rong e i 119 compagni martiri fanno onore al nobile popolo cinese », L’Osservatore Romano, Edizione Setimanale n. 40, 6 Ottobre 2000, p. 3-4. この時の聖人の構成員は、以下にリストと略歴がある。Jean Charbonnier, Les 120 martyrs de la Chine canonisés en 2000, Paris, Église d’Asie, 2000. 170 中国の「殉教」者を英雄視する教皇の演説などは、以下にその概括が公刊されている。« De la sainteté héroïque des martyrs à l’humble sainteté de la vie quotidienne : Homélie pour la canonisation de 120 martyrs Chine et de trois religieuses », La documentation catholique, 5 novembre 2000, no. 2235, p. 907. 中国側は「人 民日報」において、列聖儀式のあった 2000 年 10 月 1 日から 6 日にかけて抗議を表明する記事を毎日発表 した。新华社北京, 2000 年 10 月 1 日电 :《 外交部发表声明强烈抗议梵蒂冈 “封圣” 》, 《 人民日报 》; 10 月 2 日电 : 《 国家宗教局发言人电于梵蒂冈『封圣』问题的谈话 》, 《 人民日报 》; 10 月 3 日电 :《 我国天 主教基督教全国性团体分别座谈会表示坚决拥护外交部声明反对梵蒂冈册封所谓 “圣人” 》, 《 人民日报 》; 10 月 4 日电 :《 我国佛教道教伊斯兰教全国性团体分别举行座谈会强烈反对梵蒂冈借 “封圣” 搞反华活动行 径 》, 《 人民日报 》; 10 月 5 日电 :《 上海等六省市天主教会分别座谈会抗议梵蒂冈利用 “封圣” 搞反华的 行径 》,《 人民日报 》; 10 月 6 日电 :《 我国史学宗教学专家举行座谈会揭露梵蒂冈利用『封圣』搞反华的行 径 》, 《 人民日报 》 。特に、史岩:《 揭开所谓 “圣人” 的面目 》, 《 人民日报 》; 10 月 3 日においては、列 聖された人物らの類型が分析されて、一部の宣教師が植民地主義の尖兵であるとの理解が示された。また、 福建省の神父、池惠中は、マテオ・リッチ(Matteo Ricci, 1552-1611)やジュリオ・アレーニ(Giulio Aleni, 1582-1649)のような、いわゆる東西文明交流に貢献した人物を差し置いて、わざわざ「殉教」者を顕彰す るヴァチカンの意図に疑義を呈した。池惠中, 《从礼仪之争的政治向背看梵蒂冈 “封圣” 的政治图谋》 (中国 天主教, S1, 2000) 。つまり、中国宣教史(キリスト教史)は、 「殉教」史観に拠るのではなく、東西交流史 の枠組みで扱われるべきであると明確に指摘したのである。実際に、中国からの抗議を受けて、ヴァチカ ンも方針を変え、例えば同年 2000 年に枢機卿のロジェ・エチェガライ(Roger Etchegaray、1922- )は、マ テオ・リッチの列福手続きを始めたことを宣言した。« La nécessité et l’urgence d’un témoignage d’unité de l’Église en Chine », La documentation catholique, 5 novembre 2000, no. 2235, p. 937. その 10 年後の 2010 年 には、マテオ・リッチの死後 400 周年を記念する催しが中国だけでなく、ヨーロッパ各地で開催された。 中国キリスト教史から「殉教」史観を払拭することは、中国の場合、政府の抗議によって実際に実現したと 言える。Véronique Cheynet-Cluzel, « L’aventure du Grand Dictionnaire Ricci : une rencontre interculturelle », in Bernadette Truchet (éd.), Matteo Ricci (1552-1610), une porte toujours ouverte entre Occident et Orient, Paris, Karthala, 2011, p. 110-112. 71 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) のインディアンの改宗に貢献したというフニペロ・セラ(Junípero Serra、1713-1784) の列聖に対しては、現地のインディアンの子孫から抗議の声が上がった171 。このよう に、植民地化により大なり小なり西欧諸国の実行支配を経験した地域においては、キ リスト教宣教のもたらした英雄像の受容の是非が、直ちに歴史認識問題と捉えられ、 ひいては政治問題につながったのだ。 一方、日本は、植民地化という明らかな形で西欧文明に屈した歴史がないために、 日本のキリスト教の布教史自体が、ポストコロニアルの視点を導入する必要がないト ピックとして(日本人からも)扱われている。それどころか、世界化したカトリック・ ・ キリスト教の形成する文化圏の辺境においても展開された、対抗宗教改革期の新しい ・・・ 「聖人」像が、 「殉教」という形で、日本にすらもたらされたという言説で汲み取られ ることがある172 。これはグローバル・ヒストリーが喧伝されるようになった近年に、 欧米言語の資料と研究のみに依拠して日本キリスト教史の叙述を試みる欧米の研究者 に特に顕著な傾向である。宗教改革期のヨーロッパでは、日本の「殉教」は、宣教の 「勝利」のレトリックとして通用した。グローバル化が尊ばれる現代では、日本の「殉 教」が、今度はいわゆる「大航海時代」以後のカトリック・キリスト教のグローバル 化、もしくは日本の歴史の世界性を証明するレトリックとして機能することになった のである173 。この背景にあるのは、日本が、キリスト教の歴史を日本史の一部とし て受容することになった時期の特殊性である。 171 セラは、強制改宗に伴い大量虐殺にも荷担したと考える人々がいる。Emmanuelle Perez Tisserant, « Junipero Serra : canonisation controversée d’un missionnaire », L’Histoire, n. 418, (déc. 2015), p. 22-23. 列 聖直後の 2015 年においては、各地で物議が醸されたことが、(主にキリスト教文化圏では)報道の対 象となった。例えば、Menachem Wecker, “Junipero Serra: A hero or a villain?”, September 18, 2015, The Washington Post, https://www.washingtonpost.com/entertainment/museums/2015/09/ 18/5e1b83d4-5bb4-11e5-9757-e49273f05f65_story.html?utm_term=.517bc6313b61 (2019 年 1 月 16 日閲覧)。 172 これは、イヴェリア半島の研究者に特に顕著な傾向に見受けられる。例えば、Federico Palomo, « António Francisco Cardim, la misión del Japón y la representación del martirio en el mundo portugués altomoderno », Historica, t. XXXIX.1 (2015), p. 7-40; Fernado Quiles García, Santidad Barroca Roma, Sevilla y América hispana, Sevilla, Universo Barroco Iberoamericano, 2018. また、長年ポルトガルで研究をしてきた岡田美穂子 氏著作のあとがきでも、イヴェリア半島の研究が、未だに帝国史観に支配されていることが端的に述べら れている。岡美穂子『商人と宣教師――南蛮貿易の世界』(東京大学出版会、2010 年)p. 380. 173 この問題については以下の論考で詳細に論じた。Hitomi Omata Rappo, « De “martyre global” à “histoire globale”? Repenser l’écriture de l’histoire du christianisme au Japon » (前掲、注 164)。ポストコロニアルの 研究において、とりわけ宗教(的価値観)に基づく問題に関しては、 「西洋」 「非西洋」の枠組みを超越した 立脚点に基づく研究が成立しにくい理由は、以下に分析されている。磯前順一「宗教研究とポストコロニ アル状況」(タラル・アサド編『宗教を語りなおす――近代的カテゴリーの再考』(みすず書房、2006 年) p. 7-22. 72 論 文 「殉教」という訳語の誕生 現象が認識されていても、安定した訳語の存在していなかった「殉教」概念に、 「殉 教」という訳語がもたらされたのは、明治時代である。明治初期は、近代日本語にとっ て画期であり、 「哲学」 「経済」 「宗教」といった現代思想(また、それだけでなく生活 の全部分を覆うといっても過言ではない)基礎的な枠組みを構築するための概念が、 西欧言語から次々と日本語に内在化していった時代である174 。明治政府は、西欧列強 の圧力により「信教の自由」を標榜し、キリスト教を宗教の一つとして受容したが、そ れは「殉教」を含むキリスト教概念を全面的に受け容れることから始まった。 「迫害」 の主体者であった江戸幕府が、あえてこの概念に訳語を充てなかったことが、イデオ ロギー的選択であったのなら、この概念に漢字の訳語を与えたのは、キリスト教を日 本が真に受容したことを象徴的に表明する行為だったと言える。この訳語が初めて提 示され、その用語が確定したのは、ジャン・クラッセ著『日本教会史』 (Jean Crasset, L’Histoire de l’Eglise du Japon, Paris, Estienne Michallet, 初版 1689・再版 1715)を、明 治政府のお抱えの翻訳者である太政官翻訳係が翻訳・公刊した『日本西教史』(1878 /明治 11 年)である175 。つまり、日本政府が、日本の「殉教」者を讃える内容であ るクラッセの『教会史』を、正式な日本の教会の歴史として認めたことになる176 。 そもそも西欧の概念「Religion」が、日本語の「宗教」として翻訳される過程は、土 着の信仰であった神道を制度的に解体して、仏教を周縁化すると同時に、逆にキリス ト教を「宗教」の中の上位概念として定着することと共時的に進行した177 (この背景 174 こうした翻訳学研究については、広汎な研究が存在するが、以下の様な概説が挙げられる。木村毅「日 本翻訳史概観」 (木村毅編『明治飜譯文學集』明治文學全集七、筑摩書房、1972 年)p. 375-410; 柳父章『翻 訳語成立事情』岩波新書、1982 年); 亀井俊介「日本の近代と翻訳」 (同編『近代日本の翻訳文化』中央公 論社、1994 年)p. 7-50; 柳父章「日本における翻訳――歴史的前提」 (同編『日本の翻訳論 アンソロジー と解題』(法政大学出版局、2010 年)p. 2-34. 175 佐藤吉昭、 『キリスト教における殉教研究』 、p. 6-10. ちなみに、政府が翻訳に用いたのは再版の 1715 年のものである。 176 クラッセの『日本教会史』は、モンテスキューの『法の精神』にも引用されるが、自身は一度も日本 を訪れた事がない。その内容は、やはり日本滞在経験のないフランソワ・ソリエの著作、François Solier (1558-1628), L’Histoire ecclesiastique des isles et royaumes du Japon, Paris, Sebastien Cramoisy, 1628 を、そ のまま踏襲している。ソリエの作品自体は、Luís de Guzmán, Historia de las missiones que han hecho los religiosos de la Compania de Jesus, para predicar el sancto Evangelio en la India Oriental y en los Reynos de la China y Iapon, v.1 & 2, Alcalá 1601(日本語訳はグスマン著、新井トシ訳『東方傳道史 上・下巻』天理時 報社、1944-1945 年)を利用したものである。したがって、日本の実際の状況を知るための史的資料とし ては、心もとない本であるが、クラッセは、イエズス会士で、アンシャン・レジーム期のフランスにおい て、良き死(Ars Moriendi)を追究する精神的著作を次々と出版していた当時の人気著述家だった。その著 作は、死後も増版を重ねており、ヨーロッパで最も普及していた日本の「殉教」教会史を、日本に紹介する ために、この作品が選ばれたのだろう。Pierre Chaunu, La mort à Paris : XVIe , XVIIe et XVIIIe siècles, Paris: Fayard, 1978, p. 333. 177 「宗教」という翻訳語成立の歴史的過程については、以下に詳述されている。長沼美香子「 『宗教』と 73 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) には、十九世紀半ばにおいては、西欧文化圏の一部の宗教研究者において、全人類を 包み込むような普遍的価値を持つ宗教は、キリスト教のみであると信じられていたこ とも考慮しなくてはならない178 ) 。ヨーロッパ的知の枠組みが強力な磁場となってい た明治の知的環境の元で、日本のいわゆる土着の信仰を古いものとして顧みず、近代 以降「世界宗教」としての普遍性を標榜したキリスト教を上位におくことは、明治期 のリベラルな知識人にとって違和感がないことであったと考えられる。したがって、 明治期の日本で、「迫害」を敢行してきた封建的な日本像よりも、キリスト教の英雄 「殉教」の方に注目がいくようになったのは自然なことだっただろう。この時代に、西 欧由来の「殉教」史観を受容することは、旧態依然とした封建的世界観を乗り越える ような新しさがあったはずである179 。(この現象は、近年まで、キリシタン史の専門 家の多くが敬虔なクリスチャンだった、ということとも呼応する180 。) 7.近代以降の「殉教」言説のゆくえ 「殉教」言説の受容は、長崎では、日本二十六聖人の刑場の跡地を探索する努力と して顕現した。これは、日本二十六聖人の「殉教」を顕彰しようとする動きと並行し ていた。二十六聖人は、すでに日本が開国する直前の 1862 年に列聖化されたばかり で、その聖性が世界的に知られるようになっていた。実際、開国後には、日本の「殉 教」者の聖性が、世界に誇るべきものとして見なされるようになっていく。二十六聖 人の処刑跡地に関しては、実際の地形と資料の記録に全く相関性が見られない中、そ の跡地が半ば人工的に決定されていくという現象がみられる181 。いわゆる日本二十 いう近代」 (同著『翻訳された近代――文部省『百科全書』の翻訳学』法政大学出版局、2017 年)p. 161-186. その後、神道は、「宗教」の範疇を越えた国是、すなわち「国家神道」へと変貌した。Jason A. Josephson, The Invention of Religion in Japan, London, The University of Chicago Press, 2012, p. 139. 彌永信美は、明治 以前の日本にも、現代の研究者から見て「宗教」現象と思えるような事象は存在したが、それを「宗教」と 呼ぶことは避けるべきだと主張する。同「日本に『宗教』はあったか?」 、同「日本の『宗教』はどんなも のだったか・近世編」 、同「日本の『宗教』/宗教はどんなものだったか」 ( 『春秋』2017 年 4 月号 p. 20-23, 5 月号 p. 21-24, 6 月号 p. 21-24)。 178 世界的普遍性を内包すると信じられた近代キリスト教の鏡として、他の「世界宗教」の存在が想定さ れた。増澤知子「比較とヘゲモニー――「世界宗教」という類型」 (タラル・アサド編、前掲書)p. 130-149. 179 被植民地において、西欧が構築した概念に依拠して、各民族が自分たちのアイデンティティーを確立 していく過程がみられることを、ヒンドゥー教という枠組みの成立史を通じて増澤知子が提唱した。増澤 知子『世界宗教の発明――ヨーロッパ普遍主義と多元主義の言説』 (みすず書房、2015 年)p. 386-387. 鈴 木大拙(1870-1966)の提唱した「禅」や、新渡戸稲造(1862-1933)の掲げた「武士道」と同様に、 「殉教」 の概念も、近代の日本人が、巨大な西欧文明に対峙して独自のアイデンティティーで武装するために、恣 意的な変容を遂げたのではないだろうか。 180 例えば、海老沢有道氏などが挙げられる。 181 Hitomi Omata Rappo, “Memories of a “Christian Past” in Japan: the Museum of the Twenty-Six Martyrs in Nagasaki”, Anais de histria de alma-mar, XVIII (2017), p. 250-281. 74 論 文 六聖人をヴァチカンが列聖化したことによって、日本の「殉教」教会の歴史は、再び 同時代のヨーロッパ人によって喚起されていた。 1920 年代に、日本が国際社会で孤立を深めると、日本二十六聖人を題材とした映画 を製作して、欧米社会における対日世論を軟化させようとする動きも現れるほどだっ た。日本に「殉教」者が存在したということが、国際社会(という名の欧米社会)に 日本への同情を訴える手段になるとすら考えられていたのだ182 。日露戦争における 日本の勝利を契機に、それ以後欧米諸国において広まった反日感情の一貫としての黄 禍論の隆盛の背景には、日本がキリスト教国では無かったという一面もあると指摘さ ・・・ れている。キリスト教という正しい「宗教」の存在が、文明国に必要不可欠だとも目 ・・ されていた183 。だからこそ、真の信仰の証人である「殉教」者が、日本に存在した ことが、西欧諸国に日本の倫理性を訴えかける手段となると考えられたのだろう。こ うなると、 「殉教」者の存在は、外交の道具にまでされたと言える。 また、第二次世界大戦後は、日本のキリスト教の中心的位置を占めていた長崎に原 子爆弾が投下されたこともあって、「殉教」言説が更に何層もの意味を複雑に擁する ようになっていく。特に長崎では、原爆が投下されたのは、近代以降も差別の対象と なってきたキリスト教信者の居住地区(浦上)で、そのためキリスト教徒の多くが犠 牲者となった。キリシタンとして差別されてきた人々は、戦時中には敵国宗教を信仰 しているとして批判の対象となり、戦後は再びヒバクシャとして差別されたのであ る184 。こうした度重なる犠牲を強いられた長崎のキリシタンおよびキリスト教徒の はんさい 信者の状況をかんがみ、永井隆は、日本の原爆死を「燔祭」であると提唱した。この 考えは、永井隆の随筆『長崎の鐘』 (初版、東京、日比谷出版、1949 年)において展 開される185 。燔祭は、本来は、古代中国で柴を焼き煙を上げて天を祀る儀式を意味 するが、古代ユダヤ教で、動物を丸焼きにして神に捧げる供犠の儀礼を指す日本語訳 語として、『旧約聖書』翻訳にも用いられた。(この儀礼は、『旧約聖書』のギリシア 語訳、いわゆる「七十人訳」ではὀλόκανστος と訳され、その英語の表記は holocaust 182 山梨淳「映画『殉教血史日本二十六聖人』と平山政十――一九三〇年代前半期日本カトリック教会の文 化事業」 ( 『日本研究』第41集、2010 年)p. 179-217. 渡邊千秋「フランコ独裁体制下のスペインにおける 日本映画『殉教血史日本二十六聖人』の上映をめぐって」 ( 『青山国際政経論集』 94 号、2013 年) p. 183-196. 183 Joseph M. Henning, Outposts of Civilisation Race, Religion, and the Formative Years of American-Japanese Relations, New York Univ. Press, 2000, p. 137. 184 菅原潤「 『ナガサキ』から『フクシマ』へ――本島等による『浦上燔祭説』の解釈をめぐる一考察」 ( 『長 崎大学総合環境研究』第 17 巻 1 号, 2014 年)p. 19-30. 四條知恵「長崎のカトリック教界におけるローマ教 皇来訪の波紋」(葉柳和則編『長崎――記憶の風景とその表象』晃洋書房、2017 年)p. 103-131. 185 この燔祭説には、賛否両論あり議論が交わされてきた。その研究史に関しては、以下に詳しい。四條 知恵「純心女子学園をめぐる原爆の語り――永井隆からローマ教皇へ」(『宗教と社会』18(0), 2012 年) p. 19-33. 75 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) に当たる。この語は、第二次大戦以前の西欧では主に古代ユダヤや他の古代「異教」 の宗教儀礼を指す語だったが、大戦後は戦中のユダヤ人大量虐殺のことも、同じ言葉 「ホロコースト」で指すようになった。 )この永井の「浦上燔祭説」は、長崎の被爆者 を神に犠牲として捧げられる「潔き羔」になぞらえるものである。それは、被爆者を 十字架上で死んだイエス・キリスト自身に擬することにつながる186 。こうして、原 爆被害者の死は、前近代の「殉教」同様に、特殊な信仰上の意味合いを込めて語られ るようになっていった187 。 おりしも日本が国際社会に復帰することになったサンフランシスコ講和条約締結同 年に、チャールズ・ボクサー(Charles Ralph Boxer, 1904-2000)が『キリシタンの世紀』 と題する英語の本(C. R. Boxer, The Christian Century in Japan 1549-1650, Berkeley, University of California, 1951)を出したことも、日本に長きにわたり、 「世界に通用す る普遍的価値観」が存在したということを表明する機会となった188 。これと平行し て、戦後間もなくヨーロッパ系の宣教師らによる日本「殉教」史研究が更に活発化し ていく。これは、十七世紀以降のヨーロッパにおける日本教会史の伝統を汲んだだけ でなく、おそらく彼らなりに、日本の「殉教」者を顕彰することで、戦後に芳しくな かった日本の評判を上げたいという善意があったのではないかと推測できる189 。皮 肉なことに、必ずしも日本の実態を全面的に反映していたわけではない、西欧由来の 「殉教」美談が、一貫して現代においても西欧に受け容れやすい言説(日本像)で有り 続けたのだろう190 。(一方、佐藤吉昭のような戦中に学生時代を過ごした学者にとっ 前注 97 およびその該当本文箇所参照。 四條知恵『浦上の原爆の語り――永井隆からローマ教皇へ』(未來社、2012 年)。 188 ただし、ケンブリッジ大学出版局発行の『日本史』は、 「キリシタンの世紀」という時代設定に懐疑的 である。西欧言語圏の研究者は、日本におけるキリスト教文化の存在を史実以上に誇張する傾向にあると している。John Whitney Hall, “Introduction”, in John Whitney Hall (ed.), The Cambridge History of Japan. 4. Early Modern Japan, Cambridge, New York, Melbourne, Madrid, Cape Town, Singapore, Sãn Paulo, Cambridge University Press, 2008, p. 1, n. 1. 同様の意見は、ロナルド・トビや、宮崎賢太郎も述べている。Ronald P. Toby, State and Diplomacy in Early Modern Japan Asia in the Development of the Tokugawa Bakufu. Stanford, Cal. : Stanford University Press, 1991, p. 19-21. 宮崎賢太郎『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』 (KADOKAWA、 2018 年)p. 20. 189 例えば、フーベルト・チースリク(Hubert Cieslik) 、ヨハネス・ラウレス(Johannes Laures) 、ディエ ゴ・パチェコ(Diego Pacheco)、アルヴァレス・タラドリス(Luis Álvarez-Taladriz) 、ヨハネス・ラウレス (Johannes Laures) 、ゲオルク・シュールハンマー(Georg Schurhammer) 、ジョセフ・シュッテ(Josef Shütte) などの学者である。特にチースリクは、遠藤周作が、『沈黙』執筆のために、キリシタン史を学ぶために 通っていた。「文学――弱者の論理 遠藤周作氏に聞く(インタビュー) 」 ( 『國文學 解釈と教材の研究』2 月号、1972 年)p. 11-29. 190 もちろんこの背景には、前近代から脈々と受け継がれた、東洋の暴君の残虐性といった、ステレオタイプの イメージが根底に残滓としてあったであろう。前注 136 参照。また、映画などを通じた日本における極度の残 虐的イメージに関しては、いわば「暴力ポルノ」としても普及していることを以下で論じた。これは、極度の残酷 さを嗜好したバロック演劇以降の日本イメージに連なるものである。Hitomi Omata Rappo, “Silence, directed by Martin Scorsese. On the Crossroads of History and Fiction”, Histoire@Politique. Politique, culture, société 186 187 76 論 文 て、戦死した朋友がまさに「殉教」者であり、古代キリスト教研究は、鎮魂作業とし ての意味もあったと考えられる191 。また、長崎浦上播祭説のように、原爆の記憶と、 「殉教」史観が結合することにより、キリスト教徒のアイデンティティーが強化され ることを通じ、戦争の言説が再構築された192 。) しかし、こうした「殉教」史観に対しては、つとに松田毅一氏が違和感を表明し、 高瀬弘一郎氏が批判を行っている193 。宮崎賢太郎氏は、数十年に及ぶ潜伏キリシタ ンの信仰をフィールドワークで調査した経験から、「殉教」者は必ずしもキリスト教 信仰だけのために死んだのではないとすら結論づけている194 。潜伏キリシタンの多 くは、キリスト教の教義の実態をほとんど理解しておらず、信仰そのものよりも、先 祖が大切にしてきたものを守るために死んだのだと言う195 。同じく潜伏キリシタン 研究者の古野清人も、潜伏キリシタンの信仰形態は、日本に土着信仰として伝わっ た先祖崇拝にその本質があるとする点では意見を共有している196 。潜伏キリシタン (Revue scientifique du Centre d’histoire de Sciences Po), 31 (2017). http://www.histoire-politique. fr/index.php?numero=31\&rub=comptes-rendus\&item=627(2019 年 1 月 19 日閲覧)。 191 佐藤は第二次世界大戦中に京都大学の理系に在籍していたために、文系学生一般に強いられていた学 徒動員を免れることができた。戦後、京都大学文学部哲学科内に、基督教学講座が新設されて(つまり敵 国の理念として戦時中に敵視されていたキリスト教神学が、旧帝国大学で勉強できるようになって) 、大学 に入学し直し、古代教父の文献を通じた「殉教」研究を開始した。佐藤吉昭、 『キリスト教における殉教研 究』 、p. 431. また、戦争末期に見られた神風特攻隊など、祖国防衛と称して青年たちが経験させられた自爆 攻撃を、「宗教的な意味での献身と深く結びついていた」と解釈している。佐藤吉昭、前掲書、p. 9. 古代 西欧社会に根源をもつ「殉教」精神が、キリスト教の布教以後の日本にも、一貫して刻まれていたとする 佐藤の学究的信念は、戦争を生き延びた自身の体験にうかがえるように見える。キリスト教的「殉教」と、 戦争期に盛んに叫ばれた「殉国」の理念の言説の問題に関しては、以下に論じられている。高橋哲哉、菱 木政晴、森一弘『殉教と殉国と信仰と――死者をたたえるのは誰のためか』 (白澤社、現代書館、2010 年) 。 192 前注 184 参照。これは、ヨハネ・パウロ二世が 1981 年訪日し、長崎を訪れた際にも、その演説で原爆 被害者と「殉教」者の対照性が確認された。カトリック広報委員会編『教皇ヨハネ・パウロ二世訪日公式 メッセージ』 (中央出版社、1981 年)p. 125-128. 世界遺産登録後も、同様の言説が長崎のキリスト教信者 において反復された(朝日新聞 2018 年 8 月 10 日朝刊 23 面「二つの悲劇乗り越えて」 ) 。世界遺産登録後、 ヴァチカンから枢機卿に任命された大司教前田万葉氏も、潜伏キリシタンの子孫であり、なおかつ親戚に 被爆者を多数もつという点で、この二重の「殉教」像と縁を持つ人物である。つまり、長崎の「殉教」に、 江戸時代の弾圧期と原爆の被害者という、史実としては相関性のない事象を重ね合わせる理解は、ヴァチ カンがお墨付きを与えたものと言えるだろう(朝日新聞 2018 年 7 月 31 日朝刊 31 面「法王は祈る ヒバ クシャとともに」)。 193 前注 167 参照。 194 宮崎賢太郎『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』 (KADOKAWA、2018 年)p. 192-193. 195 これは、片岡弥吉『浦上四番崩れ』 (ちくま文庫、1991 年)の巻末解説で、潜伏キリシタンの子孫で ある今井美沙子氏が、 「立派な先祖に恥じないような強くてまっすぐな信仰を持たなければならない」とい うのが親たちの口癖であり(p. 242) 、 「私たちはかつて、このようにまっすぐな心を抱いた先祖をもってい たのだ」 (p. 245)と述懐していることと呼応する。一方で、同じ浦上四番崩れに対し、長崎の現役イタリ ア人神父は、この歴史を「譲れない大事なもの」を思い起こさせるとして、一種の普遍性訓戒を求めてお り、日本人子孫の反応とは対照的である。朝日新聞 2018 年 8 月 25 日朝刊 33 面、 「殉教の歴史『譲れぬも の』を問う」。 196 古野清人は、こうした信仰の有り様は、カトリック・キリスト教とは一線を画すものだとして「キリシ タニズム」と命名した。古野清人『古野清人著作集 五 キリシタニズムの比較研究』(東京、三一書房、 77 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) が、「殉教」という教義上の理念のみを拠りどころに、信仰を維持し続けていたわけ ではなく、例えば村請制のような、日本の社会構造の在り方すなわち構造的外部的要 因が、潜伏という信仰形態の存続を可能にさせたとも指摘されている197 。実際、潜 伏キリシタンが、(同時代の宣教師が伝えたかったであろう)意味でのマルチリウム (martyrium)を理解していたかどうかは疑わしい。宮崎賢太郎氏が長崎でのフィール ドワークで収集した土俗化した「殉教」信仰には、対象者は必ずしも「殉教」の正式な 神学的定義に当てはまらない者が多数みられる。例えば、田植えをしていたところ、 突然の大雨に流されて死んだお初さんというキリシタンの女性が、タタリを起こすの で祀られるようになり、五穀豊穣の神として社に祀られるようになったという事例が ある198 。彼女は、単に水難の犠牲者であるが、 「殉教」者の一人として数え上げられ ている(ヨーロッパからの宣教師が不在でなければ、こうした人物は「殉教」者とは みなされなかったはずである) 。そして、現地の潜伏キリシタンが守ってきた信仰は、 基本的にヴァチカンとは無関係で、当然のことながらヴァチカン聖庁が列福・列聖の 手続きを行って公式に認めた福者・聖者が対象ではない。 「殉教」したことだけが重要 だったのではない。たとえ、西欧の文献に正式な名前も記されることがなかった名も なき人であったとしても、その人物が「先祖であった」ことが特に大切なのだった199 。 むすびにかえて 日本において「殉教」という事象がなかったと言うつもりはない。また、その信仰 が軽んじられるべきだとしているわけでもない。ただ、「殉教」という現代日本語の 意味が、文脈によって全く異なる位相を示す現象を指している現状に、その研究を巡 る複雑さがある。キリスト教が発生した当時の信仰の証人としての「マールトゥス (μάρτυς)」、宗教改革期のヨーロッパにおいて古代の鑑を参照に再定義の対象となっ た「マルチリウム(martyrium) 」 、そして宣教師によって日本に伝えられた「 (カタカ ナによる表音表記の)マルチル」 、明治期に登場した訳語としての「殉教」 、現代日本 語で用いられる「殉教」そして、現代の西欧言語の「マルター(martyr) 」の翻訳語と しての「殉教」――全てが大幅に異なる位相を指し示している。日本では、翻訳語が あまりに巧妙に定着し、翻訳語と原語が等価であるという幻想が根強く、これを長沼 1973 年)p. 4, 78-79. 197 大橋幸泰『潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆』 (講談社、2014 年)p.215-217. 198 宮崎賢太郎『カクレキリシタン 現代における民俗信仰』 (KADOKAWA、2018 年)p. 66. 199 宮崎賢太郎『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』p. 210-211. 78 論 文 美香子は「スキャンダルに満ちた罠」とすら呼んでいる200 。 特に現代の欧米先進国において、 「殉教」という言葉が用いられる時、それは「信仰 の自由」もしくは「表現の自由」といった現代的価値観が阻害された特殊状況を暗に 非難する政治的な文脈であることが多い201 。 「信仰の自由」 「表現の自由」は、現代社 会において基本的人権の一部と見なされる。その価値観に拠れば、宗教的迫害は覆さ れることのない絶対悪であり、一方「殉教」は崇高なものとして尊重されるべきであ るのが自明とされる。日本の歴史が体験したキリシタンの「殉教」も同様の文脈で不 可侵とされてきた側面がある。しかし、現代の「信仰の自由」 「表現の自由」を保障さ れない犠牲者の「殉教」と、十六〜十七世紀の近世日本の「殉教」は同じものなのだ ろうか。現場で行われたことは、当時のヨーロッパで議論となっていた神学と照らし 合わせても、必ずしも「マルチル」ではなかったかもしれない202 (そもそも、前述 したように、同時代のヨーロッパにおいても、宗教戦争のために、本来的な意味が存 在すると信じられていた「殉教」の意義が危うくなり、安定した普遍的定義が存在し ない状況なのだった)。キリスト教信者を奉じた人物が、その信仰ゆえではなく、そ の弱き存在ゆえに、同じく虐げられた存在であったキリスト教徒ではない地元の人々 に神格視され、信仰の対象となった場合も多く203 、これはキリスト教神学的には厳 密には「殉教」信仰とは言えないだろう。しかし、日本での史学研究では、マルクス 主義歴史学と唯物史観から発した民衆・弱者・虐げられた人々に寄り添う歴史学が隆 盛して以降204 (特にポストコロニアル研究以後は、サバルタン・スタディーズの影 響もあり) 、 「殉教」史の構造や在り方を批判的に見ることは、歴史学者としての良心 長沼美香子、 『翻訳された近代――文部省『百科全書』の翻訳学』 (前掲、注 177)p. 22. ここでは、 「ス キャンダル」は「躓きの石」の意味で用いられている。 201 Brad S. Gregory, 前掲、注 138 論文, “Persecution or Prosecution, Martyrs or False Martyrs”. 現在は、必 ずしも宗教ではなく自分の信じる価値観に対して「殉教」が可能であるとされている。これは、2015 年 1 月にフランスの諷刺週刊誌「シャルリー・エブド」パリ本社が銃撃されたことを受けて組まれた以下の特 集からも明らかである。『外交 Vol. 30 特集:価値観への「殉教」神中心主義イスラム対欧米民主主義』 (時 事通信社、2015 年)。特に、鈴木美勝「人権絶対か宗教絶対か――『殉教』の相克」(同)p. 16-23. 202 例えば、幕府の極印のない銀を購入したという罪状で、十字架に磔にされたキリシタン信徒を、他の 信徒たちがまるで「殉教」者であるかのように崇拝し、その遺体を聖なるものと見なす振舞いに出た例を イエズス会士が報告している。この報告を行ったイエズス会士の目には明らかに「殉教」者ではないもの を、同時代の日本人があたかも「殉教」者であるかのように悼んだということで、イエズス会が注意を喚 起している。「一六一四年三月一九日付、ペドロ・モレホンとガブリエル・デ・マトスの文書」(高瀬弘一 郎監訳『大航海時代叢書第二期七 イエズス会と日本 二』(岩波書店、1988 年)p. 117-118. 203 例えば、キリシタン大名小西行長婦人の侍女であったジュリアおたあは、信仰ゆえに伊豆大島に流さ ・・・ れ、そこで死んだ。不遇の貴婦人の死は、島民の哀れを誘い「おたいね大明神」として社に祀られるよう になった。片岡弥吉『日本キリシタン殉教史』p. 337. 204 網野史学がその帰結としては最たるものである。網野善彦の研究は、批判も多いものの現在も大きな 影響力を維持している。最近の回顧としては、『現代思想 臨時増刊号 総特集――網野善彦 無縁・悪 党・「日本」への問い』(青土社、2015 年)。 200 79 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) を問われる可能性すらある。歴史上の敗者に対しての哀れみの情を抱いたり、敗者を 対象とする鎮魂の伝統が日本において根強かったことや、各地にみられる貴種流離譚 にまつわるロマンティシズムは、宮崎賢太郎が、つとに解体の対象としてきたもので ある205 。一見すると、日本にみられた「殉教」はヨーロッパの「殉教」信仰に類似 する現象に見える。しかし、そこには、フィリップ・ブックの分析した、ヨーロッパ の古代から近世史において見られる、弱者-強者間の逆転を狙う好戦的なメカニズム は見られないのではないか206 。両者は、現代日本語ではたまたま同じ言葉で指し示 されるものの、それぞれに尊重されるべき別個の史的背景があるというのが、本稿の おってきた内容である。 問題の所在は、全く異なる次元の言葉が「殉教」のレッテルのもとに一つにされて、 古今東西一貫した価値を報ずる普遍的な概念とされていることにある。すべてを貫 くような普遍的価値の存在を、こうした一連の事象の全てに主張することは、現代の 我々の文脈において、一体誰に利するのか。それを各々が自問する必要があるのでは ないだろうか。近代日本語にとっての画期である明治初期に創られた翻訳は、普段意 識されないレベルで、現代の私たちの思考に深く影響を及ぼしており、しかも「翻訳 という現象の常として、透明な不可視性を是とし、その存在を見えなくしようとする 力学もはたらく」のである207 。現在の日本語における「殉教」は、キリスト教の信 仰に限定された被害者・英雄像だけではなく、他の宗教家も用いるニュートラルな語 彙となっている。カクレキリシタン同様に、近世日本で幕府の弾圧対象にあった信仰 に、日蓮宗不受不施派や浄土真宗の「隠し念仏」がある208 。戦後の研究者は、日蓮 とその門徒が受けた迫害を、 (キリシタンにおける言説に倣い) 「殉教」として語るよ うにもなった209 。また、近世を通じて体制に与し、キリシタンと対峙する存在でも あった仏教も、明治維新後の廃仏毀釈運動においては、「迫害」の被害者となり「殉 教」を体験したという見方もある210 。 「殉教」言説は、キリシタンや、普遍を謳うキ 宮崎賢太郎『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』p. 256. 前注 98、109 参照。 207 これは、近代日本において創造された翻訳語を扱う際に、現代日本において日本語を用いて研究する 研究者がおしなべて意識すべき課題だろう。長沼美香子、前掲書、p. iii. 208 これを比較した研究に、大橋幸泰『近世潜伏宗教論――キリシタンと隠し念仏』 (歴史科学叢書、校倉 書房、2017 年)。 209 奈良本辰也、高野澄『忘れられた殉教者――日蓮宗不受不施派の挑戦』(小学館ライブラリー、1993 年) 。宮崎英修『日蓮宗の人びと――その信仰と殉教と』(宝文館叢書、1976 年)。田村芳朗『日蓮――殉教 の如来使』(初版、日本放送出版協会、1975 年;再刊:吉川弘文館、2015 年)。 210 ジェームス・E・ケテラー著、岡田正彦訳『邪教/殉教の明治――廃仏毀釈と近代仏教』 (ぺりかん社、 2006 年)。ただし、この著作においては、 「殉教」という言説の(キリスト教を起源とする)歴史性や、翻 訳語としての特殊性は論じられない。 205 206 80 論 文 リスト教の専売特許ではなくなったのである211 (一方で、神風特攻隊のように、欧 米言語の文脈は、敢えて「殉教」言説の枠外におかれる事象もあることを留意してお きたい212 )。 ある語が受容されるためには、特定の歴史的文脈を背景にしている必要があり、そ れを用いることはある特定の人々やある目的に利するものである213 。 「殉教」が広く 認知されるためには、日本で長い年月が必要だった歴史的経過を考えると、この語で 表現される歴史事象が、外部から与えられたイメージ(イマジネール)に依拠したま まに、グローバル・ヒストリーのレトリックとなって良いのかと危惧する214 。「殉教」 という概念のあり方そのものが、「歴史家は、自らの専門的な術語がどのようにして 形成されたかという問題を、批判的歴史記述の主要な対象とすべきである215 」とい うポーコック(John Greville Agard Pocock, 1924 -)の提言がいかに正しかったかを証 明しているのである。 (本稿のための研究と執筆にあたり、Swiss National Science Foundation、日本学術振興会の助成 を受けた。また指導いただいた彌永信美先生に感謝の念を示したい。 ) 211 最近の事例で、オウム・サリン事件の首謀者であったカルト教団創立者麻原彰晃の扱いに関する議論 が記憶に新しい。麻原彰晃の死刑執行後、その遺体を新たな信仰の拠り所とし、残された信者の間で英雄 視されることが、社会的に広く危惧された。古代ローマ社会においては、 「殉教」者の遺体を聖遺物とする ことで、 「殉教」者を拠り所とするカルトが発展したことを想起されたい。Arnold Angenendt, „Der Kult der Reliquien“, in Anton Legner (hg.), Reliquien, Verehrung und Verklärung: Skizzen und Noten zur Thematik, Köln, Greven & Bechtold, 1989, p. 9-24. つまりこの場合、本来適切ではないと一般的に考えられている人物が、 「殉 教」者と目されることが畏れられたのである。こうした反社会的カルトの存亡をみると、誰が真の弱者なの かということや、弱者に寄りそう歴史学を掲げる安直さについても振り返る必要があるだろう。同種の批判 を、サバルタン・スタディーズの提唱者であるスピヴァックも行っている。Leon de Kock, “Interview With Gayatri Chakravorty Spivak: New Nation Writers Conference in South Africa”, ARIEL: A Review of International English Literature, 23:3 (1992), p. 29-47. 212 日本史上では、無辜の命が大量に無為に失われた記憶としては、キリシタンの「殉教」に加えて、神風 特攻隊があるが、この犠牲者は西欧言語の文脈では「殉教」者として扱われない。逆に、“Kamikaze” とい う語は現在はイスラム教徒を自称する反社会的テロリズムの行為を指すために使われることを述べておく。 Laurent Testot, « Kamikze...Histoire d’un mot », in Philippe Norel (éd.), Une histoire du monde global, Paris, Le Seuil, 2012, p.296-301. 213 冒頭に既述した世界遺産の登録に関しても、 「殉教」事象が観光資源となることへの危惧は報じられて いる。産経新聞 2018 年 5 月 11 日 7 面コラム「モンテーニュとの対話『随想録』を読みながら(25)世 界遺産もいいけれど」(桑原聡)。 214 Hitomi Omata Rappo, 前述論文 « De “martyre global” à “histoire globale”? Repenser l’écriture de l’histoire du christianisme au Japon ». 215 John G. A. Pocock, “Review of Reappraisals in History by J. H. Hexter (1961),” History and Theory, 3-1 (1963), p. 121-135, p. 121-122. オリヴィエ・クリスタン、前掲論文、p. 37. 81 日本の「殉教」とグローバル・ヒストリー (小俣ラポー・日登美) 略号 AHSI Archivum Historicum Societatis Iesus ARSI Archivum Romanum Societatis Iesus AIA Archivo Ibero-americano AFH Archivum Franciscanum Historicum 82