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モンゴル・「中国」の接壌地帯としての12-14世紀華北
モンゴル・「中国」の接壌地帯としての
12-14世紀華北
― モンゴル帝国の統治と華北社会の変容 ―
飯
山
知
保
問題の所在
1.華北士人層とモンゴル支配
2.モンゴル時代華北の統治・官吏登用システム
3.渾源孫氏とその栄達
4.おわりに:華北社会の歴史におけるモンゴル支配の意義
問題の所在
近年、10~16世紀の中国1史研究において大きな影響力を持つ、
「宋・元・明移行論(The
Song-Yuan-Ming Transition)
」の隆興は、宋・元・明という断代史的な視点を取り払い、当
該時期の中国社会の文化的・経済的・社会的連続性あるいは断絶を検討した場合、その結
果を“early modern”の到来へと至る歴史の中にいかに位置づけることができるかという
関心の広がりに由来する。その提唱の嚆矢となった論文集 The Song-Yuan-Ming Transition
in Chinese History[Smith and von Glahn 2003]の序論で説明されるその提唱の目的は、宋
から明までのおよそ6世紀を、所謂「唐宋変革」の影響をさらに増幅させ、近代中国社会
1
周知の通り、「中国」とは時代・地域あるいは個人によってもその範囲と語義を変える、非常に
可変的な言葉・概念であり、歴史研究を行なうにあたっては無条件に使用すべきではないだろう。
漢字使用圏の外で、「中国」に相当する最も普及した言葉であろう China proper を文字通り訳せば
「中国本土」となり、これは日本語の研究でも間々用いられる。管見の限り、この用語はモンゴル
高原・チベット・新疆などが「中国本土」とともに清朝皇帝の支配下に置かれ、場合によってその
全体が「中国」と呼ばれる清代以降の状況を指して用いられることが多いように思われる。しかし、
本稿が対象とする13~14世紀の史料上にあらわれる「中国」は、現在の雲南省・貴州省などを包括
することはほぼ無く、China proper にくらべてもさらに小さい、地理的というよりは文化的な概念
である。よって、本稿でも括弧をつけずに用いる「中国」とは、13~14世紀に想像された「中国」
を指す。なおこれは、清代から近代にかけての歴史研究において議論の的となっている「中華世界」
のように、地理上の概念だけでなく、思想・言語・経済やその他の文化活動など多様・多層な事象
から組成される、一種の政治・文明圏を意味するものではない。
- 11 -
CORE
『北東アジア研究』別冊第3号(2017 年9月)
の揺籃となった時代としてとらえることにあった。2 この議論の新鮮さは、従来の中国史
研究において「宋元」と「明清」との間に明らかな研究上の断絶があった状況を鑑み、
元・明を通時的に考察の対象とする点にあったといえよう。そして当該論文集所収の諸論
考において論じられたのは、王朝交替を越えて存続する士人層(科挙受験者層)とその社
会的影響力の増大、農業技術の進展、持続的な経済発展と商業ネットワークの拡大などで
あり、総じて10~16世紀における社会変容の明確な連続性に光を当てる結論を導き出し
ている。唐宋変革から続く社会変容の連続性を重視するこれらの見解は、後続する研究
において事実上議論の前提となっており、1000年から1550年ごろまでを指して、“middle
period”と呼ぶ慣習も定着しつつあるように見受けられる[Ebrey and Smith 2016]
。
その一方、この宋・元・明移行論の空間的射程について注意すべき点として、これまで
の関連研究のほぼ全てが所謂「江南」をその考察対象としているという事実がある。そし
てこれは、宋・元・明移行論の主題のひとつである、
「非中国王朝」の支配とその影響に
ついての議論に、明らかな制約をもたらしていると言わざるを得ない。すなわち、上記
の諸研究では、非中国王朝の中国(実際には江南)社会における支配力の浸透が限定的で
あったことを議論している。ここに看取されるのは、あえて語弊を畏れずに言えば、非中
国王朝(モンゴル帝国)の支配とは“「中国」の歴史の流れにごく短期間挿入された異常
事態”という、文字通り 19世紀以前から繰り返されてきた歴史観のきわめて直線的な継
承であるが、そこには重大な疑義が存在する。つまり、こうした研究においては、上掲の
The Song-Yuan-Ming Transition in Chinese History という書名から「Liao 遼」「Jin 金」が抜け
ていることが象徴的に示すように、かかる非中国王朝の支配をより長く経験した10世紀以
降の華北3 社会の歴史について、ほぼ考慮されるところがない。換言すれば、13世紀後半
から一世紀に至らないモンゴルの支配をうけた江南の経験をもって、10~16世紀の「中
国」における外来征服者の支配全体を論じているかの如くである。
実は1980年代前半までは、こうした研究傾向には理解可能な理由があった。10~ 16世
紀華北の歴史については、文献史料の不足により、政治史・制度史の枠組みを越えた研究
が困難とされていたのである。しかし、その後のフィールドワークの盛行による碑刻史料
2
なおこれに先行する、先駆的な視座として[中砂1997]がある。
3
中国語圏における「華北」の用法では、陝西や河南がその範囲から外れる場合があるが、本稿で
は12~13世紀にジュシェン(女真)の支配下にあった中国の北半(モンゴル時代の漢語史料におい
て「漢地」と呼ばれる地域にほぼ重なる)を「華北」と呼ぶ。地理概念としての「華北」の生成と
その揺れ幅については、[久保2014]を参照。なお、金代に現出した「漢地=金国」の境界につい
ては、北宋とキタイ=遼との並存のもとで、もともとは境界を越えての行き来に自らの政治的帰属
意識は関係なかったところが、特定の王朝から他の王朝に越境して出仕の対象を変えることが「不
忠」にあたるという規範の出現、そしてそれが当時の「国境」を形成したとする[Standen 2007]
の議論に従う。
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モンゴル・「中国」の接壌地帯としての12-14世紀華北
の発見・活用を経て、1990年代より当該時期華北の在地有力者層の動向、有力な社会集
団としての水利組織・宗教集団・村社の変遷などについての研究が進展している。そして
それらがもたらした華北社会についての知見は、宋・元・明移行論で示された江南社会の
状況が、他地域には敷衍できないことを徐々に明らかにしつつある。
かかる状況をふまえた本稿の目的は、モンゴル支配下で華北社会がいかに変容したのか
を、官員登用を紐帯とした在地有力者層と国家との関係から論じることにある。具体的に
は、モンゴル時代華北における官位獲得に関するふたつの象徴的な事例に基づき、モンゴ
ルの支配がいかに在来の在地有力者層のあり方を変え、そしてそれは10~16世紀の中国
史上にいかに位置づけられるべきかを、①士人(科挙受験能力があるとされた知識人層)
とモンゴル支配、②モンゴルの統治システムの特色、③「非士人」である官員輩出者層の
勃興、の検討を通じて論じる。
1
華北士人層とモンゴル支配
11世紀における科挙の制度的確立と受験者層の急激な拡大以降、中国社会において知
識人とは、実際に受験を志すか否かは別として、ほぼすなわち科挙受験能力の保持者であ
り、新儒学(道学・理学)の重要な目的である経世済民のために、彼らは官位の獲得に一
般的に積極的であった。そのため、1234年の華北征服完了から1314年まで、80年にわたっ
て科挙を行わず、再開後もごくわずかな及第者枠しか設けなかったモンゴルの統治期間
は、士人層にとっては「暗黒時代」であったとする研究が前世紀後半までには主流であっ
た。だが近年の研究では、モンゴル支配下においても儒学的教養の研鑽は明らかな連続性
をもって続けられ、またモンゴル政権もそれを高く評価し、研究成果の出版や士人の登用
などを大々的に行ったことが明らかとなっている[宮2006]。実際、華北でも劉因・許衡
といったいわゆる「北方理学」の大物たちは、モンゴル支配下でその学術活動を行い、
『宋
元学案』の編集方針など、後世に多大な影響を与えている。
それでは、科挙制度が安定的な出仕経路として存在しない中、士人たちはモンゴル支配
下で、いかにして官位を獲得し、官界で活動していたのだろうか?本稿ではまず、この疑
問に対する答えを考えるうえで格好の手がかりを提供する、郭郁(c.1259~?)という士
人の出仕と昇進の背景を、彼の業績を称えるために編纂された福州路儒学教授徐東編『運
使復斎郭公言行録』と、その姉妹編であり編纂者不明の『編類運使復斎郭公敏行録』(い
ずれも至順二(1331)年の序文をもつ)に基づいて概観する。4
1259年頃に大名府(現在の河北省大名県)で生まれた郭郁は、6歳で読書を始め、正
確な時期は不明だが、真定の侯克中(生没年不詳)に『易』を学んだ。そして、19歳の時
4
紙幅の関係上、両書の書誌学的な特徴や、史料を引用しての議論は展開し得ない。詳しくは[飯
山2011, pp.370-396][Iiyama 2016a]を参照。
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『北東アジア研究』別冊第3号(2017 年9月)
に「儒雅を以」て江淮行省により江淮行枢密院令史に辟充(推薦されて任命)される。そ
の師である侯克中が、南宋征服に大きな役割を果たし、当時江淮行枢密院の運営に主導的
な役割を果たしていた史格(1221~1279)と「心友であった」ことがその抜擢に結びつ
いた可能性が高い。そして元貞元
(1295)
年、
「貞吉河南王」と「性斎右丞馬公」の庇護を
得たことにより、転機は訪れる。前者はウリヤンカダイ(Uriyangqadai, 1200-1271)の孫、
アジュ(Aǰu, ? -1280)の息子であり、祖父と父に続いて旧南宋領の経略に従事し、当時
は河南行省左丞であったブリルギデイ(Bürilgidei; Chin. 卜憐吉歹,生没年不詳)、後者は
この当時の河南行省右丞の馬紹(生没年不詳)である。ブリルギデイは功臣の子孫である
のみならず、成宗テムル(r.1294-1307)の死後、アユルバルワダ擁立に動いた人物の一
人であった。その結果、仁宗アユルバルワダ(r.1311-1320)の即位後はその信任を受け、
皇慶元(1312)年には、アユルバルワダ側近の儒臣の一人である王約の推挙により河南
王に封じられた、当時のモンゴル政権で枢要な地位に就いた人物である。
ブリルギデイの推挙を得て大都の中書省幕官に転任した郭郁は、中書答剌罕丞相、すな
わちハルガスン(Qarγasun, 生没年不詳)に才能を認められて都省掾となる。大徳九(1305)
年には承務郎宣徽院都事として入流し、大徳十一(1307)
年には、承徳郎江浙行省都事とし
て杭州に赴任した。その後、中央では都事・中書検校など文書行政に関わる中堅官職を、
地方では知州を経験し、延祐七
(1320)
年に父の喪が明けると、知高郵府を皮切りにして、
江南の地方行政上の要職を歴任した後、泰定四(1327)
年に福建等処都転運塩使(三品)に
就任する。吏員の入流までの期間の長期化や、冗官問題が顕在化していた時代背景を考え
れば、例外的に順調な昇進といってよいだろう。この間、自らを『易』に精通した儒者と
して認識していた郭郁は、任官先の士人たちと積極的に交遊し、彼らの出版活動や学術討
論のパトロンとして振る舞ってゆく。その様子は、前後の時代の科挙官僚のそれと、なん
ら異なるところはない。
しかし当然、庇護関係は庇護主の死去や失脚により解消される。ブリルギデイは1329
年までに死去したと考えられ、その一族はおそらく天暦の内乱(1328年)で敗北した派
閥に組したため、
河南王号の保持者はモンゴル時代末期に台頭したフフテムル(Küketemür,
? -1375)まで確認できない。『元史』阿朮伝や諸王表などでは、ブリルギデイの存在が
一切記されないのも、彼の一族の没落を傍証するだろう。当時、70才は規定上の致仕(官
職からの引退)の年齢であり、郭郁は既にそれを越えていた。庇護者を失っても官界に残
るためには、「70才以上であっても有能で人望があれば例外とする」という規定が最後の
拠り所となったと考えられる。かかる状況を勘案すれば、自らの下僚や管轄地域の士人か
ら「郭郁は老いて益々有能です」という詩文が満載された上述の『運使復斎郭公言行録』
『編
類運使復斎郭公敏行録』は、まさしく郭郁の官界での生存のために編纂されたと考えるの
が妥当と思われる。
こうした庇護者の引き立てによる昇進は、漢語史料では通時代的に「徼倖」「僥倖」な
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モンゴル・「中国」の接壌地帯としての12-14世紀華北
どと呼ばれ、建前上は激しい批判の対象となった。しかし、『運使復斎郭公言行録』『編類
運使復斎郭公敏行録』を含むモンゴル時代の漢語史料、とくに華北での史料には、「徼倖」
に対する後ろめたさがほとんど感じられず、むしろそれを誇らしげに特記する傾向が確か
に存在する。つまり、郭郁の経歴は決して例外的なものではなく、まさに当時の官界にお
いて王道とも言える成功例であった。その成功をモンゴル支配の文脈の中に位置づけるた
めには、より俯瞰的にモンゴル時代の統治・官吏登用システムを理解する必要がある。
2
モンゴル時代華北の統治・官吏登用システム
モンゴル時代の「中国」における支配の特色は、多層的な統治体制である。その全領域
において、モンゴル帝国は、被征服地の在来の統治システムと、モンゴル的な主従概念に
基づく分民制度の併存という、複層的な支配を行った。被征服地の住民は人口調査を経て、
その職能により家族単位で分類された上で(こうした異なる職能をもつ様々な「戸」を漢
語史料では「諸色戸計」と総称する)、カアンとその一族を含む主要なモンゴル王侯や将
領に分配された。これはモンゴル支配下のユーラシア全体で実施され、一旦分配がなされ
れば、分民の人口増加などは所有者の経営手腕と管理技術に委ねられ、カアンは介入し
なかった。華北では1236年に分配(
「分撥」
)がなされ、職能別に分類された人々が十進
法により編成され(
「十戸」「百戸」「千戸」「万戸」)、王侯らの投下・位下(Mon. ayimaγ)
に組み込まれた。各王侯は「ケシク(Mon. kesig; Chin. 怯薛)
」と呼ばれる世襲の側近集団
を擁し、自己の投下の管理官に任命、あるいは中央政府の官位を提供した。その一方、江
南をはじめとする旧南宋領でも分撥は行われたが、統治の実情は史料の欠落からほとんど
分かっていない。しかし、華北の人間(当時の法制用語では「漢人」)が南方人(同じく
「南人」
)を支配するという構造が、残存する史料から想定可能である。そもそも、江南で
も諸色戸計に関する統治機構(海運万戸府など)は存在し、新たに有力な社会勢力となっ
たが、モンゴル王侯の存在感は希薄であったと考えられる[植松1997][Lee 2014]
。
具体的なモンゴル時代華北の地方統治機構のあり方としては、一般的に、相互に統属関
係に無い三種の統治主体が存在した。すなわち、a. 州県官衙、b. 諸色戸計の管轄機構、c.
投下・位下であり、b と c は独自に免役や官位の授与を行った。かかる中央政府の意向に
よらない特権の授与は、前後の王朝ではまずみられない事態である。留意すべきは、こう
したモンゴル王侯の自律的権限は、幾つかの先行研究が指摘するような、モンゴル政権下
における、中央から分離しようとする行省・投下・位下の傾向を意味するわけではない点
である。むしろ、そうした中央⇔地方という二極対立的な図式を越え、カアンに従属しつ
つもその自律的な権益を保証され続けるモンゴル王侯の存在が華北では存続したという文
脈で理解すべきである[堤1995]
[岡 2002]
[杉山2004, pp.187-240][飯山2011, pp.236246][川本2013]
。
こうした中、モンゴル王侯とのコネクション(根脚)こそが、モンゴル時代に官位を獲
- 15 -
『北東アジア研究』別冊第3号(2017 年9月)
得し、昇進する際の関鍵となった。なぜならば、モンゴル王侯の意向は、往々にして規定
の官吏登用・昇進制度に拘束されなかったからである。『至正集』巻三十六「送朱安甫遊
大都序」(1317年)は、こうしたコネクションを得ようと、遠く江南から大都にやってく
る求職者たちの姿を次のように記している。「栝距京師半萬里,水浮江淮,陸走徐袞,舟御
輿戛,累數月然後至。至則米珠肉玉,旅食費良苦。然午門之外,東南人士遊其間者,肩相摩,
武相踵也。蓋其遊,未始無所求。其求也,未始無所挟。儒者挟其學,才者挟其文,辨者挟其畫,
巧者挟其藝。隨其所挟,而致其求,求焉而遂,挟焉而獲,則上書闕下,朝奏夕召可也」
。著
者の許有壬(1287-1364)は、モンゴル時代最初の科挙(1315年)の及第者であるが、そ
の彼ですら友人に大都での猟官を勧めたのがこの文章である。社会的身分の高低に関わら
ず、モンゴル王侯の知遇を得られれば、文字通り「朝に奏されれば夕方に召されることも
可能」であった。一旦得られたコネクションは、基本的に庇護者の承認を得られれば被庇
護者の子孫に継承され、庇護者の血脈が失墜しないかぎり、そのモンゴル帝国における政
治的地位は維持されるものとされ、庇護者の地位が躍進すれば、被庇護者のそれも同様に
向上する可能性が十分にあった。
郭郁の栄達は、かかる統治・官吏登用システムの中でなされたのである。しかし郭郁は、
その政治的成功を次世代以降につないでゆくという意味で、モンゴル統治のシステムに最
も順応し、華北で最も成功した人物では決してなかった。次に挙げる渾源孫氏こそが、モ
ンゴル支配下の官界で、モンゴル的な主従関係に基づき、安定して栄達するということが
何を意味したのかを示す、格好の事例である。
3
渾源孫氏とその栄達
山西省大同市渾源県西留村に存在する「孫公亮家族墓」は、華北に現存するモンゴル時
代の家族墳墓(先塋)の中でも、その保存状態がかなり良好なグループに属す。墳墓その
ものの痕跡は現在ほとんど確認できないものの、モンゴル時代の碑刻11座が残っており、
この先塋を建設した孫氏の1190年から1324年までの歴史が、かなり詳細に判明する。5
モンゴル時代に貴顕の位を手に入れた多くの漢人家系と同じく、渾源孫氏はモンゴルの
金国侵攻に際して抬頭した一族であり、金代末期以前のこの家系については、ほとんど何
も知ることができない。その「起家の祖」となった孫威(1183-1240)は、1211年のチン
ギス・カンの金国侵攻開始とともに、両親の制止を振り切って金国北辺の重要拠点であっ
た西京大同府の守将のもとで兵卒となる。その後、詳しい経緯は不明であるが、彼はモン
ゴル軍に参加することとなり、モンゴル側の大同の守将から義軍千戸に任じられ、平山府
の鎧造り職人を統括することとなる。いつの頃からかは不明であるが、孫威はその義兄杜
伸から鎧造りを学んでおり、その技能あるいは統率力が評価されてのことであったと思わ
5
詳細については、[Iiyama 2016b]を参照。
- 16 -
モンゴル・「中国」の接壌地帯としての12-14世紀華北
れる。彼はおそらく武具の製作・修繕を主な担当として、チンギス・カンとオゴデイ・カ
アンの治世に、モンゴル軍に従軍して転戦した。この際、チンギスに鎧を献上して「イェ
ケ・ウラン yeke uran」の名を賜っている。その後、オゴデイ・カアン(在位1229-1241)
の治世にも転戦を重ねる中で、孫威は捕虜となった人々を自らの配下に組み込んでゆき、
同時にオゴデイに鎧を進呈して面識を得ることに成功する。
孫威の息子公亮は、この家系の興隆を決定づけた人物である。父の職位を継承し、当初
は鎧造りによってグユク・モンケ・クビライの3代のカン・カアンに仕えた彼は、私費で
鎧を献上し、クビライの信任を得る。モンゴル高原に生まれ育ち、モンゴル語に堪能であっ
たほかにも、幼くしてカアンの身近に出入りし、モンゴル宮廷の典礼にも詳しかったこと
が、彼にさらなる飛躍の機会をもたらす。もともと鎧造り以上の役職を目指していた公亮
は、監察御史に抜擢され、帝国の中華地域統治に関与し始める。さらに公亮は提刑按察副
使など監察系統の職務を歴任してゆく。南宋征服とともに、公亮は再び技術者としての能
力を買われ、旧南宋領における職人集団の統括制度と貢納品目・数量などの策定を行い、
最終的には江西等処行工部尚書(正三品)として、1285年に致仕した。
鎧造りの職位を父公亮から継承した長男の孫拱(1241-1306)は、祖父や父と同じよ
うに、襄樊攻略に際して、鎧をクビライに献上することでその知遇を得、その後も意匠を
凝らした鎧や盾の献上により、カアンの信任を得てゆく。同時に、南宋侵攻に必要な鎧の
製作に活躍し、保定路に置かれた提挙局を管轄することとなり、やがてはその地の行政権
も手中に収める。その後、成宗テムルの治世に路総管に転身し、益都路総管在任中に死
去した。その弟の孫擏(1249-1296)は、ケシクに勤務してから、おそらくは一族の職掌
をふまえて、中央での武具製作・管理に関連する職位に就き、この職位は次の世代に継承
されてゆくこととなる。
拱の長男の謙(1255-1298)も、叔父の擏と同じく1278年にケシクに入り、皇太子チン
キムに仕え、鎧を献上して褒賞を得ている。1285年には父の職位を継承して保定等路甲
匠提挙となり、ナヤンの乱に際しての武具製作で功績を挙げている。その後、即位直後の
成宗テムルに鎧を献上して知遇を得、続けて珍奇な鎧を献上し続けているが、44才の若さ
で急死し、その鎧造りの職位は従弟の誼に継承された。誼は1310年の時点で僉武備院事
兼領保定等路軍器人匠提挙と、武備院での職位を兼任していることが確認でき、また諧は
1324年には朝列大夫・河東山西道宣慰副使の職位を伴ってあらわれる。詳細は不明であ
るが、鎧造りの職位を継承しつつ、行政官としての経歴を積み重ねていったことがうかが
える。
モンゴル時代の渾源孫氏は、鎧製造という特殊技能により、根脚を重視するモンゴル的
な君臣関係に上手く適応し、貴顕の地位を築き上げたきわめてモンゴル時代的な有力家系
であった。代々の出仕者はまず鎧職人の監督から職務を始め、歴代のカアンに鎧を献上す
ることで知遇を得、そして行政官を兼ねてゆくという経歴を歩んだ。官職とそれにともな
- 17 -
『北東アジア研究』別冊第3号(2017 年9月)
う社会的地位の安定的な確保という点で、同時代の華北社会の中でも、非常に成功した家
系であったと考えてよい。同様な事例は、同時代の漢語史料に頻見される。
4
おわりに:華北社会の歴史におけるモンゴル支配の意義
「宋・元・明移行論」の議論に対して華北の同時代の状況を概観した本稿で得られた知
見は、ただ単に「中国社会」の地域的差異を指し示すのみならず、東北アジアの中でのよ
り広い視野で「中国史」を相対化する必要性を投げかけているように思われる。この際、
前世紀の半ばに提起された、オーウェン・ラティモア Owen Lattimore(1900-1989)によ
る華北の歴史地理的な位相に関する議論は、示唆に富むのではないだろうか。彼は「農牧
接壌地帯」において発生した新たな国家システムや統治体制が、やがて征服活動をとも
なって周辺地域に伝播し、その過程でさらなる変遷を経つつ、より広域の社会変動をもた
らすという仮説を立てた上で、かかる社会変動が新たな「中国社会」の基盤となるという
現象が、
「中国」の歴史上複数回起きたと主張した[Lattimore 1940]
。さらに、ラティモ
アはその中で、
「遊牧」と「中国」の間に明確な境界線を引くことを、固定された文化・
社会的枠組みの自明的な設定として否定している。
ひるがえって、モンゴル時代華北には、明らかに「北アジア的」特質をもつモンゴル帝
国の分節的国家・社会構造、すなわち岡洋樹氏が指摘する「ハーンを頂点とするヒエラル
ヒー構造を有しながらも、これを構成する社会単位が高度に自立・完結しており、上部の
単位が下部の住民全体の統治に直接関与することのないようなシステム」が、中国在来の
統治システムと並存し、社会・統治システムや在地有力者層のあり方にまで影響を与え、
変容をもたらした[岡2002, p.21]。
「遊牧」か「中国」かという二者択一的な視点によらず、
ラティモアのように接壌地帯そのものの特質により注目するならば、モンゴル時代は明ら
かにその拡大期にあたるだろう。モンゴルの中国放棄の後、華北を征服した明朝では、軍
事制度などにモンゴル時代の遺産は看取される。国家構造という点において、「元明交替」
は、華北の歴史上、
「北アジア的」特質の減退をもたらした、もうひとつの重大な転換点
となったのである。こうした中、モンゴルとの根脚により繁栄した華北の官員家系は、
1390年代以降、軒並み同時代史料から姿を消してしまう。
10~16世紀の歴史を概観するならば、華北における北宋・金代→モンゴル時代→明代
へとの2度の王朝交替は国家と社会との関係の大幅な変化をもたらし、それにともない金
元・元明交替期において在地有力者層が劇的に興亡した。これは、在地有力者層に宋元時
代から明代への一定の連続性(モンゴル時代の社長輩出層が後に鎮の設立者となってゆく
江南の状況など)を有する南方中国の状況とは明らかに相容れない。その後の明清時代を
対象とした社会史研究では、「近世」の到来を告げる大きな転換点としての 16世紀半ばに
おいて、里甲制・衛所制の弛緩・崩壊、社会の「軍事化」、そして白銀の流入などが既存
の社会秩序を動揺させ、その渦中での生存競争の中から、より効率的に社会資本を獲得・
- 18 -
モンゴル・「中国」の接壌地帯としての12-14世紀華北
集積する社会組織(いわゆる宗族や商幇など)が全「中国」的に勃興するとされる[Szonyi
2002][Faure 2007]。しかし、やはりその研究対象は東南沿海地域が主であり、明清時代
の華北社会に関しては、
「後進地域」と見なされ、関心は低調であった。
近年ではこうした傾向への見直しが計られ、当該時期の華北社会研究に南方由来の社会
変動を無条件に敷衍すべきではなく、モンゴル高原あるいは中央アジアとの経済的・文化
的結びつきにも留意すべきという提言がなされている。その妥当性を検証する能力は筆者
にはないが、本稿で概観した華北社会におけるモンゴル支配とその影響は、かかる提言と
軌を一にし、東北アジアあるいは中央ユーラシアの中で「中国」とその歴史をとらえ、あ
るいは脱構築してゆく必要性を改めて提示しているように思われる。
参考文献
Ebrey and Smith 2016: Patricia Buckley Ebrey and Paul Jakov Smith, eds., State Power in China, 900-1-325,
Seattle: University of Washington Press, 2016.
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キーワード
中国華北社会、モンゴル支配、宋・元・明移行論、分節的国家・社会構造
(IIYAMA Tomoyasu)
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