1223年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 02:30 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 12世紀 - 13世紀 - 14世紀 |
十年紀: | 1200年代 1210年代 1220年代 1230年代 1240年代 |
年: | 1220年 1221年 1222年 1223年 1224年 1225年 1226年 |
1223年(1223 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
他の紀年法
カレンダー
できごと
誕生
死去
- 2月28日(貞応2年1月27日) - 慶円、平安時代、鎌倉時代の僧(* 1140年)
- 3月25日 - アフォンソ2世[要出典]、第3代ポルトガル王(* 1185年)
- 6月14日(貞応2年5月14日) - 守貞親王、鎌倉時代の皇族(* 1179年)
- 7月14日 - フィリップ2世、フランス王国カペー朝第7代国王(* 1165年)
- 9月13日(貞治2年8月17日) - 覚海、平安時代、鎌倉時代の真言宗の僧(* 1142年)
- 12月20日(貞応2年11月27日) - 大友能直、鎌倉時代の武将、御家人、大友氏の初代当主(* 1172年)
- 宣宗、金の第8代皇帝(* 1163年)
- ムカリ、モンゴル帝国の武将(* 1170年)
関連項目
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1223年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 06:04 UTC 版)
「モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻」の記事における「1223年」の解説
詳細は「チンギス・カンの西征」を参照 ヴォルガ・ブルガールがモンゴル人の軍団と遭遇したのは1223年のことであった。スブタイおよびジェベの率いるモンゴル帝国軍は、ホラズムを出てカフカスを迂回し、キプチャク草原に入って5月31日のカルカ河畔の戦い(現在のウクライナ東南部ドネツィク州付近)でルーシ諸国とキプチャクの連合軍を大敗させた。この時点で、チンギス・ハンの軍は負け知らずであった。彼らは分隊をヴォルガ川を遡ったところにあるヴォルガ・ブルガールへと派遣した。しかしその年の秋、ヴォルガ・ブルガール南部のケルネク(現在のサマーラ州の、ヴォルガ川屈曲部付近)で、ヴォルガ・ブルガールはモンゴル軍を大敗させた(サマラ屈曲部の戦い(英語版)あるいはケルネクの戦い)。ブルガールの王(iltäbär)、ガブドゥッラー・チェルビル(ポーランド語版)(Ghabdulla Chelbir)率いる軍は、モルドヴィン人の公(inäzors)であるプレシュ(英語版)(Puresh)およびプルガス(英語版)(Purgaz)の軍と連合し、スブタイ軍を待ち伏せしてさんざんに打ち破ったという。この戦いについてはブルガールの口承による部分が多く、戦いの実際や被害については不明な点も多い。この戦いの後、モンゴル軍は中央アジアに戻り、ブルガールには戻らなかった。
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