【よど号事件】(よどごうじけん)
1970年(昭和45年)3月、日本の極左反政府組織「共産主義者同盟赤軍派(共産同赤軍派)」のメンバーが、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への亡命を果たすべく決行したハイジャック事件。
日本史上初のハイジャック事件でもあった。
事件の発端
当時の日本は、日米安全保障条約の延長問題や沖縄諸島の返還問題、成田空港の建設に関する土地収用問題や、ベトナム戦争に対する反戦運動などから学生運動・労働運動や市民運動が活発であり、デモ隊と警察とが白兵戦を展開することがしばしば行われていた。
そんな中、学生運動に参加していた大学生を中心として誕生した共産同赤軍派は、反政府・反米武力闘争のために「M作戦」「P作戦」「B作戦」と呼ぶテロ活動を遂行しており、このうちの「P」「B」両作戦の一環として行われたのがこの事件であった。
事件の経過
1970年3月31日午前、羽田空港発板付空港(現在の福岡空港)行き351便として飛行していた日本航空のB727-89旅客機「よど」(JA8315)に乗り込んだ犯行グループ(赤軍派メンバー9名)は、持ち込んだ日本刀や拳銃(後に模造品と判明)で乗客・乗員を拘束。機長に対して「平壌国際空港へ向かえ」と要求した。
機長は「北朝鮮まで飛べる燃料がない」ことを理由に板付で給油を行うことを提案。機は一度、(当初の到着予定地だった)板付で給油を行った後、朝鮮半島へ向かって再度離陸した。
ところがこの時、機長が受け取った地図は、当時の中学生が地理の授業で使っていた地図帳のコピーで、航路図も書き込まれていない粗悪なものであった。
ただし、この地図の隅に「121.5MC(メガサイクル。現在の単位標記では「メガヘルツ」)を傍受せよ」との書き込みがあり、機長はこれに従って飛行した。
同日午後3時頃、朝鮮半島上空にあった「よど」は国籍不明の戦闘機によるインターセプトを受け、その誘導に従ってある飛行場に着陸。
その飛行場は平壌国際空港のように偽装されていたが、犯行グループのメンバーによって韓国の金浦空港であったことが見破られてしまう。
韓国当局が説得を続けるも犯行グループは機内に篭城したまま態度を硬化、一時は膠着状態に陥った。
4月3日、北朝鮮政府が「人道主義に基づき」犯行グループを受け入れることを表明。
日本から飛んできた運輸省(現・国土交通省)政務次官の山村新治郎が人質(機内に残っていた乗客及びスチュワーデス)の身代わりとなって決着がつくことになった。
同日夕刻、解放された乗客・スチュワーデスと入れ替わった山村次官を乗せた「よど」は、再度北朝鮮を目指して離陸。
だが、その時点でもパイロットたちにはまともな地図が持たされておらず、地上の管制塔からの誘導もないという状況の下、同日夜、なんとか機長が肉眼で視認できた平壌郊外の滑走路(朝鮮戦争当時に設営された美林(ミニム/ミリム)飛行場跡地)に着陸した。
犯行グループ及び3名の乗員(機長、副操縦士及び航空機関士)、山村次官の計13名は北朝鮮当局により身柄を拘束された後、解放された「よど」の乗員と山村次官が4月5日、機体と共に帰国して事件は終結した。
この事件がきっかけとなって「航空機の強取等の処罰に関する法律(ハイジャック防止法)」が制定・施行され、(航空機を乗っ取る)ハイジャックという行為が正式に「犯罪」として扱われることになった。
なお、本件の犯人グループには、憲法の「遡及処罰の禁止」規定によりこの法律は適用されず、一般の刑法に則り「(機体を対象とした)強盗罪」「(乗客・乗員に対する)略取・誘拐罪」により処罰される。
また、海外に逃亡していたことにより、その期間の時効は停止されている。
事件の背景と主な人物のその後
赤軍派が目的地に北朝鮮を選んだ理由としては、彼らが北朝鮮を「日本に一番近い、帝国主義と敵対している国家」と認識しており、将来、日本政府に対して「革命戦争」を挑む際、この地を革命勢力の拠点とするためだった、というのが有力な説である。
事実、亡命に成功した赤軍派メンバーは当初こそ「同志」として歓迎されたが、後に「主体(チュチェ)思想」への洗脳教育を受けたといわれており、のちに発覚した「日本人拉致事件」への関与も疑われることになった。
一方、事件の舞台となった「よど」の機長だった人物は、当初こそ「英雄」としてマスコミに取り上げられ、注目を浴びたが、後にプライバシーを暴かれた報道被害により日航を退社させられ、晩年は不遇をかこっていたという。(2006年死去)
また、人質の身代わりとなった山村次官は後年、政界へ転身して活躍したが、1992年に家族に殺害され不慮の死を遂げた。
よど号事件と同じ種類の言葉
- よど号事件のページへのリンク