イタリア帰国後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 00:46 UTC 版)
「エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア (1972-)」の記事における「イタリア帰国後」の解説
2002年、反乱の煽動など国家主権の簒奪を求めないこと、国内で貴族称号を用いないこと、イタリア共和国憲法を承認することなどを条件に、半世紀を経てサヴォイア家当主のイタリア帰国を許可する議案が議会で可決された。幼少期に亡命を強いられた父ヴィットーリオ・エマヌエーレと共に、エマヌエーレ・フィリベルトは初めて一族の故国に足を踏み入れた。以降、イタリア各地の王党派組織の会合に出席するなどしている。2007年、エマヌエーレ・フィリベルトはイタリア共和国政府に対し、王政廃止時に没収した財産の返還や、国外追放による商業的損失の補償を求める裁判を起こした。総額1億7000万ユーロに及ぶ請求に対して、共和国政府は「国外追放時の法的処理に問題があったのは事実」として一部の支払いを検討するとコメントした。 2010年、イタリア歌謡曲の祭典サンレモ音楽祭に出場したことで大きな話題を集めた。フィリベルトは祖国への望郷を込めて愛国歌(『イタリア我が愛』)を歌い、君主制への拒否感を持つ層からは強いバッシングを受けた一方、視聴者からは支持票が集まり、最終的には2位に選出されている。またダンスコンテスト番組「星とともにダンスを」にロシア人ダンサーとペアを組み出場し、プロのダンサーを巧みにリードする高い技術が審査員に評価され優勝した。以後、国民やメディアからの注目が高まり、冠番組を持つようになるなど「歌って踊れる王子様」としてタレント的な活動を本格化させている。 バラエティ番組「王子は初心者」では人手不足で困っている人達を助けるため、世間の仕事には疎い王子が様々な職業に挑戦している。これまでにピザ職人やガラス清掃員、漁師、スーパーの店員、ドックシッターなどの仕事をこなし、そのドタバタぶりが人気を獲得している。日本テレビで放送されている「1億人の大質問!?笑ってコラえて!」イタリア支局の取材にも応じてスイスにある豪邸やトリノのサヴォイア王家の王宮群を紹介している。2015年には国営放送(イタリア国営放送)のRai Unoチャンネルで放送されるフィギュアスケート番組にレギュラー出演しており、ジェニファー・ウェスターとアイスダンスで競演もしている。 自らがプロデュースする服飾ブランド・「イタリアの王子様」(Principe d'litalia)を展開する他、映像制作・食料事業に進出するなど実業家としても活躍の幅を広げている。2016年、プリンス・オブ・ヴェネツィア・フードトラック社(Prince of Venice Food Truck)をアメリカのロサンゼルスに設立した。粗悪な料理が提供されることも多いフードトラック事業に参入し、本場のイタリア料理が手軽に食べられる事を目指している。2018年に発生したポルチェヴェーラ高架橋の崩落に対する義援活動など社会貢献にも取り組んでいる。
※この「イタリア帰国後」の解説は、「エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア (1972-)」の解説の一部です。
「イタリア帰国後」を含む「エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア (1972-)」の記事については、「エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア (1972-)」の概要を参照ください。
イタリア帰国後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 07:02 UTC 版)
1962年、再びイタリアに戻り、自身の本のイラストレーターや、彫刻の活動を始める。以後およそ40冊の絵本を発表する。1970年以来想像上の植物の構想を練り始め、1976年に「平行植物」の題で学術書の体裁で出版された。 1999年、イタリアのトスカーナ州で死去。
※この「イタリア帰国後」の解説は、「レオ・レオニ」の解説の一部です。
「イタリア帰国後」を含む「レオ・レオニ」の記事については、「レオ・レオニ」の概要を参照ください。
- イタリア帰国後のページへのリンク