トーンの子孫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 00:04 UTC 版)
4人のトーンの子供のうち3人は夭逝した。長子のマリア(1786年ダブリン生まれ、1803年パリで亡くなる)、末っ子のフランシス・ロードン(1793年 - 1806年)は共に肺結核で亡くなっている。もう一人の子供、リチャード(1787年 - 1789年)は幼児期に亡くなっている。 トーンの子供の中で成人できたのはウィリアム・シオボルド・ウルフ・トーンただ一人であった。トーンの死後、ウィリアムはフランスで母・マティルダに育てられた。ウィリアムはフランス政府に教育を受け、ナポレオン軍の幾つかの栄誉を受けた。そして1810年にはナポレオンの命令で帝国騎兵隊養成学校の軍事教練生となった。彼は1812年5月4日にフランス市民としてフランスに帰化した。1813年1月には第八猟騎兵連隊の中尉となり、ドイツのグランドアーミーに所属した。ローエンバーグや、ゴールドバーグ、ドレスデン、バウツェン、アーヘン、ライプツィヒでの戦いに参加した。彼はライプツィヒの戦いで6箇所に槍による傷をうけ、大尉及びバグネアズ将軍の副官に昇格、レジオンドヌール勲章を受けた。その後、ナポレオンがワーテルローの戦いで敗北すると、アメリカに移住した。母・マティルダ・トーンもアメリカに移住し、ニューヨーク・ブルックリン区のグリーンウッド共同墓地に墓がある。彼はアメリカ軍の大尉を委託され、1828年10月11日にニューヨークにおいて37歳で亡くなった。彼の死後一人娘グレイス・ジョージナが残され、トーンの子孫に当たる彼女の子孫が、現在でもアメリカに在住している。
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