史渙
若いころから任侠の徒で、雄壮たる気概の持ち主であった。曹操が最初に挙兵したときから客将として従軍し、中軍校尉を代行していた《夏侯惇伝》。 行中軍校尉を称したことからも分かるように、あくまでも曹操と対等の立場であって配下ではない。郷里を同じくする幼なじみだったのだろうか。その曹操も張邈の客将であった。中軍校尉は、曹操もかつて経験したことのある西園八校尉の一つであるから、史渙の職歴はやや曹操に後れるくらいだったのだろう。 建安四年(一九九)、眭固が射犬に駐屯して袁紹と手を結んだ。四月、史渙は曹仁・于禁・徐晃とともに命令を受け、黄河を渡って征討した。眭固は薛洪・繆尚を射犬に残し、自分は軍勢を率いて袁紹に救援を求めに行こうとした。史渙らは彼が犬城まで来たところで遭遇戦となり、敵軍を大破して眭固を斬首した《武帝紀・于禁・徐晃伝》。曹操は史渙を領軍に任じた《晋書職官志》。 翌五年、曹操は官渡において袁紹軍と対峙していたが、曹操は荀攸の計略を採用し、韓猛の護送する袁紹軍の輜重車数千両を攻撃することにした。そこで史渙と徐晃・曹仁が命令を受けて韓猛を大破し、輜重車をことごとく焼き払った《武帝紀・曹仁・荀攸伝》。 十二年、曹操が柳城討伐を計画したとき、史渙は「道程は遠く、深く進入することになるから、万全の計略ではない」と考え、韓浩へ一緒に諫めようと持ちかけた。しかし韓浩から「このとき天下の患いを取り除かねば後々の憂いになろう。吾と君とは中軍の要なのだから軍勢を意気阻喪させてはなるまい」と反対されている《夏侯惇伝》。その官職が改名されて中領軍となり、長史・司馬が設置された《晋書職官志》。 史渙は征伐にお供するたび諸将の監督役に当たり、信任を受けていた《夏侯惇伝》。また中護軍の韓浩とともに忠勇をもって名を挙げ、列侯に封ぜられた《夏侯惇伝》。 【参照】于禁 / 袁紹 / 韓浩 / 韓猛 / 繆尚 / 史静 / 荀攸 / 徐晃 / 眭固 / 薛洪 / 曹仁 / 曹操 / 官渡 / 犬城 / 黄河 / 射犬聚 / 沛国 / 柳城 / 司馬 / 中軍校尉 / 中護軍 / 中領軍 / 長史 / 領軍 / 列侯 / 行(代行) |
史渙
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史渙 | |
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後漢 列侯・中領軍 | |
出生 | 生年不詳 豫州沛国 |
死去 | 建安14年(209年) |
拼音 | Shi Huan |
字 | 公劉 |
史 渙(し かん、? - 209年)は、中国後漢時代末期の武将。字は公劉。豫州沛国(現在の江蘇省沛県を中心とする地域)の人。子は史静。
人物
生涯
若い頃は任侠の徒にして勇敢であり、忠義と武勇によって著名であった。曹操が初めて旗揚げした時から客分として随行し、行中軍校尉の地位に就いた。遠征時には常に諸将を監督し、曹操からの信頼も厚かった。
建安4年(199年)、袁紹と合流しようとしていた眭固を、曹仁らと共に撃破し、その軍勢を手中に収めることに成功した[1]。
建安5年(200年)、官渡の戦いで曹操は荀攸の計略を用い、史渙と徐晃に韓猛の輸送隊を攻撃させた。史渙らは数千輌の穀物輸送車を焼き払い、袁紹軍は多くの兵糧を失った[2]。
建安12年(207年)、曹操が柳城の袁尚らを討伐しようとした際、遠征して敵地に深く進入することは万全の計画ではないと考え、同僚の韓浩に曹操を諌めようと相談を持ちかけた。しかし韓浩から、「我々2人は中軍の指揮官であるから、士気を削いではならない」と逆に諌められた。
史渙は中領軍まで出世し、列侯に封じられた。建安14年(209年)に死去し、子の史静が後を継いだ。
演義での史渙
小説『三国志演義』では、倉亭の戦いで袁尚と一騎討ちの末、討ち取られる設定になっている。
出典
- 『三国志』魏書9付・韓浩史渙伝
脚注
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