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東海郡とは? わかりやすく解説

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東海郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/17 01:16 UTC 版)

東海郡(とうかい-ぐん)は、中国にかつて存在した漢代から唐代にかけて、現在の山東省臨沂市江蘇省北部、および安徽省天長市にまたがる地域に設置された。

概要

秦代の東晦郡を前身とする。

紀元前202年前漢高帝5年)、韓信が楚王となり、東海郡・会稽郡泗水郡薛郡陳郡を封領とする楚国が置かれた。翌年、楚王韓信が廃位されると、楚国は二分されて、東海郡は楚王劉交の楚国に属した[1]紀元前154年景帝3年)、東海郡は楚国から削られて、漢の直轄の郡となり、このことが呉楚七国の乱の引き金となった[2]。東海郡は徐州に属し、蘭陵襄賁下邳良成・平曲・開陽利成海西・蘭祺・・南成・山郷・建郷・即丘祝其臨沂厚丘・容丘・東安合郷建陽曲陽司吾・于郷・平曲(侯国)・都陽・陰平・郚郷・武陽・新陽・建陵昌慮・都平の38県を管轄した。『漢書』によれば前漢末に35万8414戸、155万9357人があった[3]

王莽のとき、沂平郡(ぎへいぐん)と改称された[4]

後漢が建てられると、東海郡の称にもどされた。東海郡は郯・蘭陵・戚・朐・襄賁・昌慮・承・陰平・利城・合郷・祝其・厚丘・贛楡の13県を管轄した[5]

西晋のとき、東海郡は郯・祝其・朐・襄賁・利城・贛楡・厚丘・蘭陵・承・昌慮・合郷・戚の12県を管轄した[6]永嘉の乱の後に東海郡は後趙に占拠され、次いで前燕前秦後燕南燕に領有された。東晋安帝のときに劉裕北伐して南燕を滅ぼすと、再び東海郡が置かれた。

南朝宋明帝のとき、淮北を北魏に奪われると、贛楡県に青州が僑置された。東海郡は襄賁・贛楡の2県を管轄した[7]

南朝斉のとき、南東海郡と北東海郡が置かれた。南東海郡は南徐州に属し、郯・祝其・朐・利城・西隰・丹徒・武進の7県を管轄した。北東海郡は冀州に属し、襄賁・僮・下邳・厚丘・曲城の5県を管轄した[8]

東魏南朝梁北海郡を奪うと、東海郡が置かれた。東海郡は海州に属して、贛楡・安流・広饒・下密の4県を管轄した[9]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、東海郡は廃止されて、海州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、海州は東海郡と改称された。朐山・東海・漣水・沭陽・懐仁の5県を管轄した[10]

621年武徳4年)、唐により東海郡は海州と改められ、海州総管府が置かれた。742年天宝元年)、海州は東海郡と改称された。758年乾元元年)、東海郡は海州と改称され、東海郡の呼称は姿を消した[11]

脚注

  1. ^ 漢書』高帝紀下
  2. ^ 『漢書』荊燕呉伝
  3. ^ 班固漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、338-340頁。
  4. ^ 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、338頁。
  5. ^ 後漢書』郡国志三
  6. ^ 晋書』地理志下
  7. ^ 宋書』州郡志一
  8. ^ 南斉書』州郡志上
  9. ^ 魏書』地形志二中
  10. ^ 隋書』地理志下
  11. ^ 旧唐書』地理志一



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