統一事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 18:13 UTC 版)
これらの蓄積を元に、柴栄は唐滅亡以来の統一を目指して奔走する。955年、初めに四川の後蜀を攻めて秦州(現在の甘粛省天水市)を初めとする4州を奪った。 さらに同年の冬から、十国のうちでの最強国である南唐を攻める。南唐も激しく抵抗し、この戦いは3年にわたるが、958年に君主の李璟は降伏し、和睦の代償として南唐の長江以北の領土の割譲や、後周に対して南唐は皇帝号を廃して国主と名乗るなどといった条件を取り決めた。この淮河から長江に至る地域は、中国でも最大の塩の産地が含まれており、南唐の高い経済力はこの地があればこそと言っても過言ではなく、この地の占領はまさに南唐の生殺与奪権を握ったと同義であった。以後、南唐では自国内の塩の供給をまかなうことが出来ず、逆に後周から毎年30万石(17,800キロリットル)の援助を受けるようになる。 南唐を抑えた柴栄は、次に軍事的に最強の敵である北の契丹とその衛星国である北漢を相手取り、959年に燕雲十六州のうち、南寄りの莫州・瀛州と寧州(唐末・北宋の乾寧軍、現在の河北省滄州市青県)・瓦橋関(後の雄州)・益津関(後の覇州)・淤口関(現在の河北省廊坊市覇州市信安鎮)の3州3関を奪取した。 さらに軍を北上させようと幽州へと入るが、柴栄はこの陣中で病に倒れ、開封へ引き返し、間もなく死去した。享年39。
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