胡威
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 05:57 UTC 版)
胡 威(こ い、? - 太康元年(280年))は、中国三国時代の魏から西晋にかけての政治家・武将。字は伯虎。一名に貔。揚州楚国寿春県の人。祖父は胡敏、父は胡質、弟に胡熊、子に胡奕。
生涯
若くして志を磨き、青龍4年(236年)、父が荊州刺史に就任すると親への孝行のため、(家が貧しくて車馬や奴僕が無く)一人でロバに乗って洛陽から治所に向かった。10日ほど厩舎で泊った後、別れる際に父から餞別に絹一匹を与えられた。清廉な父からの贈られた絹を訝しんで尋ねると「これは俸禄の余りであり、旅の費用にせよ」と答えたため受け取って帰った。この時、胡質配下の帳下都督が先んじて休暇を申請しており、帰り旅で(面識のない振りをして)胡威に近づきをあれこれと世話をした。道中で不審に思った胡威は、誘導して問い質して都督と分かると、絹を与えて送り返した。その後、他の文書のついでにこの件を父に告げると胡質は都督を杖刑100叩きにして、官名から除外した。胡質親子の清く慎ましい様はこの通りで、この一件があって名声は知れ渡った[1]。
成長すると侍御史に任ぜられ、南郷、安豊太守などを歴任し、徐州刺史に昇進した[2]。任地では政務につとめ、教化は大いに広まった。甘露2年(257年)、諸葛誕が淮南で決起すると、兗州刺史・州泰とともに石苞の指揮下に入り、遊軍として外患に備えた(石苞はその後、朱異を迎撃して破っている)[3]。
後に入朝した際に武帝・司馬炎から「貴方と父(胡質)ではどちらが清らかか」と問われると「父には及びません」と答えた。また具体的な部分を聞かれると「父の清廉さは(行いを)人に知られることを恐れ、(一方で)私は人に知ってもらえないことを恐れます」と答えた。武帝はその率直で慎ましい発言に感心した。胡威はたびたび昇進して監豫州諸軍事・右将軍・豫州刺史となり、再び入朝して泰始10年(274年)には尚書・奉車都尉・平春侯として喪礼の議論に名がみえる。また、(278年の杜預の上疏に先立ち)淮北平原における水害の原因は、魏代に乱造された陂池(灌漑施設)であるため、これを破壊するよう求めた。
胡威はかつて、時の政治の寛容すぎる点を諫めると、帝は「尚書郎以下に目溢しはしていない」と反論したため「低位の者の話ではなく、私のような高官を罰しなければ下々の教化はなりません」と主張した。その後は、前将軍・監青州諸軍事・青州刺史に任じられた。太康元年(280年)に西晋による天下統一が果たされ、その10月に在任中に死去した。帝からは持節、都督青州諸軍事、鎮東将軍などを追贈され、諡は烈といった[4]。
脚注
- ^ 『世説新語』で王導が、『全唐詩』でも数編、清廉さの象徴として胡威の名が散見される。
- ^ 『三国志』胡質伝では咸熙年間(264-265年)とする
- ^ 『晋書』石苞伝に「徐州刺史胡質」と見えるが、胡質は故人であり、胡烈は泰山太守で、官暦に徐州刺史がある胡奮も当時は大将軍司馬であるため「胡威」の誤記とした。しかし、先の『三国志』の記述と矛盾する。あるいは「行徐州刺史事」の略か
- ^ 『三国志』胡質伝では安定で死去したとするが、活動場所が大きく異なるため、『晋書』の記述を取った。
参考文献
『晋書』 『三国志』胡質伝および『晋陽秋』
- 胡威のページへのリンク