じゆう‐とう〔ジイウタウ〕【自由党】
読み方:じゆうとう
明治14年(1881)板垣退助を中心に結成された政党。フランス流急進的自由主義を唱えた。明治17年(1884)解散。
大同団結運動ののち、明治23年(1890)に大井憲太郎らがを再興した政党。第1回総選挙後、大同倶楽部・愛国公党と合同して立憲自由党を結成、翌年自由党に改称。明治31年(1898)進歩党と合同し憲政党に改組。
昭和20年(1945)鳩山一郎を総裁に日本自由党として発足した政党。鳩山の公職追放後、吉田茂が総裁となり第一次吉田内閣を組織。のちに民主自由党と改称。昭和25年(1950)民主党の連立派を併せて自由党となり、昭和30年(1955)に日本民主党と合同して自由民主党となる。
平成6年(1994)4月、細川護煕内閣の退陣後、自由民主党の渡辺美智雄を非自民政権の首相にするため、先行して同党を離党した議員らが結成した政党。結局、渡辺の参加を得られず新生党の羽田孜内閣の連立与党となり、同年12月新進党結成により解散。
平成10年(1998)に新進党の分党に伴い小沢一郎らが結成した保守政党。平成11年(1999)1月自由民主党と連立政権を組織。同年10月公明党が加わると、翌年自由党は連立政権を離脱。この際、離脱に反対した議員が保守党を旗揚げし分裂。平成15年(2003)民主党との合併に伴い解散。
平成28年(2016)に「生活の党と山本太郎となかまたち」から党名変更をした政党。平成31年(2019)4月に国民民主党に合流。
《Liberal party》英国の政党。ホイッグ党を前身として、1830年代に同党の急進派を中心として改称。保守党と交互に政権を担当したが、労働党の進出などで第一次大戦後は衰退。20世紀末に自由民主党となった。
自由党
自由党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 22:36 UTC 版)
「自由党 (日本 1989 - )」の記事における「自由党」の解説
1998年、新自由党は、党名を自由党と改め、石川が副総裁(党首)に就任した。党首にもかかわらず肩書を「副総裁」としたのは、小沢自由党との混同を期待するためと見られている。「消費税廃止」「渋滞解消」などが主要政策。 自由党へ党名変更した直後の第18回参院選に、石川は愛知県選挙区から出馬したが、同じ参院選には小沢一郎が率いる自由党も候補者を多数擁立しており、2つの自由党が並立する異例の事態になった。 もっとも、石川自由党は政党要件未達により「その他の政治団体」としてマスコミに扱われたが、小沢自由党も現職議員の都築譲を公認せず無所属で立候補させたため、石川自由党と小沢自由党とを混同した報道が一部で見られた。結局、石川は91,467票を獲得。落選したものの、国会に議席を有する既成政党の擁立した一部の候補者に得票数で肉薄した(なお、都築は218,403票を得たが落選)。 続く第19回参議院議員通常選挙でも、石川は愛知県選挙区から立候補したが、連続落選。この時は小沢自由党が宮田正之を公認したためか、石川の得票は18,584.777票と激減している(小数点以下は按分票。なお、宮田は131,886票を得たが落選)。 現在では、現存の「政党」(政党要件を満たし届けのあるもの)と同一または紛らわしい名称を「政治団体」が用いることは、政治資金規正法などにより禁止されているため、当時の選挙で「自由党」の名称が重複したようなことは起こらない。
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「自由党」の例文・使い方・用例・文例
- 自由党の機関紙
- 彼らは自由党員たちと同盟した。
- 投票の結果は自由党の勝利だった。
- 彼は初め自由党員だった.
- 彼は自由党に属している.
- 自由党が政権を握っていた.
- 自由党.
- わが党は自由党とはっきり一線を画している.
- 自由党政権が覆ったのは主としてこの理由による.
- 労働党は自由党にすり寄って政権の座を維持しようとした.
- 自由党
- 自由党員
- 自由党は政権に離れている
- 自由党はいよいよ旗色を現した
- 自由党は政府の横暴を訴えた
- 英国では自由党と保守党が対立している
- 自由党員は、死刑への彼らの反対を喧伝するのが好きである
- 自由党は改革を要求した
- 自由党という政党
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