調停、強制摂食の試み、放火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 16:38 UTC 版)
「エメリン・パンクハースト」の記事における「調停、強制摂食の試み、放火」の解説
1910年の選挙で自由党が敗北した後、独立労働党の党員でジャーナリストであるヘンリー・ブレイルフォードは、様々な政党から54人の国会議員を集めた女性参政権調停委員会の組織化に尽力した。このグループの調停法案は、狭い範囲ではあるが、一部の女性の投票権獲得のための重要な可能性を持っているように思われた。そのためWSPUはこの法案が審議されている間、窓ガラス破壊やハンガーストライキへの支援を停止することに同意した。法案が通過しないことが明らかになったとき、パンクハーストは「私たちの努力にもかかわらず、この法案が政府によってつぶされるなら、その時は......。停戦は終わると言わざるを得ないでしょう」と宣言した。法案が否決されると、11月18日にパンクハーストは300人の女性たちを率いてパーラメント・スクエアまで抗議行進を行った。彼女たちは内務大臣ウィンストン・チャーチルの指示による警官の攻撃的な対応にあった。警官たちは行進参加者を殴り、腕をねじり、女性の胸ぐらをつかんだ。パンクハーストは議会に入ることは許されたが、アスキス首相は彼女との面会を拒否した。この事件は「黒い金曜日」事件として知られる。姉妹のメリー・ジェーンも抗議行動に参加していたが、数日後、3度目の逮捕を受ける。彼女は1ヶ月の禁固刑を言い渡された。クリスマスの日、彼女は釈放の2日後に兄弟であるハーバート・ゴールデンの家で死亡した。 調停法案が提出された後でWSPUの指導者たちは戦闘的な戦術の停止を提唱した。1911年4月にアイリーン・プレストンがパンクハーストの運転手として任命され、参政権についてのメッセージを広めるために彼女を全国に運んだ。1912年3月に第2次法案が危うくなり、パンクハーストは再開された窓ガラス破壊活動に参加することになる。これによって甚大な物的損害が発生したため、警察はWSPUの事務所を強制捜査した。パンクハーストとエメリン・ペシック=ローレンスは、オールド・ベイリーで裁判にかけられ、器物損壊を企てた罪で有罪判決を受けた。1912年時点での組織の最高位の取りまとめ役となっていたクリスタベルも指名手配された。彼女はパリに逃れ、亡命先でWSPUの戦略を指揮した。ホロウェイ刑務所でエメリン・パンクハーストは近くの監房にいる他のサフラジェットの状況を改善するために最初のハンガーストライキを行い、すぐにペシック=ローレンスや他のWSPUメンバーもこれに加わった。自伝の中で彼女はストライキ中の強制摂食のトラウマについて「ホロウェイは恐怖と苦痛の場所になりました。医師が忌まわしい仕事をするために監房から監房へ動き回り、ほとんど一日中、吐き気を催すような暴力的光景が繰り広げられました」と述べている。刑務所の職員が彼女の部屋に入ろうとしたとき、パンクハーストは、頭上に陶器製の水差しを掲げて「あなた方の誰かがこの独房の中に一歩でも入るというなら、私は自分の身を守らなければならない」と宣言した。 この事件以降、パンクハーストはさらなる強制摂食の試みを免れたが、彼女は法律を破ることを止めず、投獄されると抗議のために断食を行った。その後の2年間で彼女は何度も逮捕されたが多くの場合は体調不良のために数日で釈放された。その後、アスキス政権は「猫とネズミ法」を制定し、ハンガーストライキで体調を崩した他のサフラジェットにも同様の釈放を許すようになった。刑務所職員は、有名なWSPU指導者に刑務所内で強制摂食がされたり、ひどい苦痛が与えられれば、悪い評判がたつかもしれないと認識していたのだ。しかし警察官たちは演説や行進をする彼女を逮捕し続けた。WSPUは、柔術の訓練を受けた女性ボディーガード部隊を結成し、実力行使によって警察から彼女を守ろうとした。彼女とその同伴者は警察に狙われ、警官がパンクハーストを拘束しようとする時には激しい乱闘が起きた。 1912年、WSPUのメンバーは投票権獲得のためのさらなる戦術として放火を用いるようになった。アスキス首相がダブリンのシアター・ロイヤルを訪れた後、マンチェスターのオックスフォード街に住むサフラジェット活動家のグラディス・エヴァンス、メアリー・リー、リジー・ベイカー、メイベル・キャッパーが火薬とベンジンを使って爆発を起こそうとしたが、これは軽微な被害にとどまった。同じ晩にはメアリー・リーがジョン・レドモンド(アイルランド議会党党首)、市長、アスキスの乗った馬車に斧を投げつけた。その後の2年にわたって女性たちはリージェンツ・パークの保養所、キューガーデンの蘭園、郵便ポスト、鉄道車両に放火を行った。エミリー・デイヴィソンは1913年のエプソム・ダービーで王族所有馬の前に身を投げて亡くなった。彼女の葬儀では沿道や葬儀会場に55000人の参列者が集まった。この事件によって運動は広く知られるようになった。パンクハーストは、こうした女性たちは自分やクリスタベルに指示されたわけではないと念を押したが、2人は放火を行うサフラジェットを支持すると世間に断言した。同様の事件は各地で起きた。例えば、あるWSPUのメンバーは首相の馬車に小さな手斧で「女性に投票権を」(「Votes for Women」)と刻み込み、また別のサフラジェットは国会議員たちが使うゴルフコースに酸で同じ言葉を焼き付けた。1914年にメアリー・リチャードソンはパンクハーストの収監に抗議するためにベラスケスの絵画『鏡のヴィーナス』を切り裂いた。
※この「調停、強制摂食の試み、放火」の解説は、「エメリン・パンクハースト」の解説の一部です。
「調停、強制摂食の試み、放火」を含む「エメリン・パンクハースト」の記事については、「エメリン・パンクハースト」の概要を参照ください。
- 調停、強制摂食の試み、放火のページへのリンク