遺跡概要
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1961年に近在の中学生によって発見されて一躍有名になった遺跡である。発見以来1970年まで、5次にわたって発掘調査が実施された。その結果、第1層から第9層まで遺物が包含されており、縄文時代草創期から縄文時代後期までの1万年近くにわたって使用されてきた岩陰であったことが判明した。1962年(昭和37年)10月の調査で、とくに第4層からは縄文時代早期の埋葬人骨。また、1962年(昭和37年)8月には日本考古学協会洞穴遺跡特別調査委員会(江坂輝弥等)による調査が行われ、第14層までの掘り下げ、第9層からは、縄文時代草創期の細隆起線文土器、有舌尖頭器、矢柄研磨器、削器、礫器、緑泥片岩製の礫石に線刻した岩版7個などが一括して出土している。 年代測定では6層が1万7000±300B.P.、11層が1万2165±600B.P.。 注目される遺物としては、(1) 投槍の刺さった腰骨や、(2) 女神像線刻礫がある。(1) は、1969年に発見され、当時は縄文時代早期の男性の骨とされていたが、のちの報告書によれば、経産婦の腰骨で、生前かまたは死後まもなく刺突されたものであろうという。同様の傷が他にもあり、死後儀礼の可能性もあるという。(2) の「ヴィーナス像」とも称される女神像線刻礫は、鋭利な剥片石器を用いて女性像を礫に描いたとされるもので、信仰の対象だった可能性が指摘されている。この種の像が出土したのは日本では上黒岩岩陰遺跡が初めてであった。同じ土層からはおよそ1万4千5百年前の、発見当時としては世界最古級の土器片も出土した。 動物遺体ではニホンジカ・イノシシを主体にカモシカ、ニホンザル、アナグマ、タヌキ、ニホンオオカミ、オオヤマネコ、ニホンカワウソ、イタチ、ツキノワグマ、ウサギ、ムササビ、ネズミなど多様な種が出土しており、骨髄を利用した解体痕も見られる。家畜では埋葬事例とされるイヌ(縄文犬)の出土が特筆される。 また、遺跡からはカワニナが大量に出土しており、食用とする説のほか自然堆積や新しい年代のものが混入した可能性が考えられている。
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遺跡概要
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櫛田川左岸の段丘上にある。指定面積は1,695.84㎡。 1996年(平成8年)9月、国道368号のバイパス工事に伴い、三重県教育委員会の発掘調査で発見された。 遺跡からは縄文時代草創期の土偶のほか、竪穴式住居跡4基、矢柄研磨器、隆起線文土器、土器片・石鏃などが見つかった。
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遺跡概要
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相模川左岸の比高11メートルの低位段丘上に立地している。遺跡の川寄りでは水成層の堆積がみられ、後期旧石器時代の本遺跡は相模川べりに位置していたと推定される。 本遺跡は田名塩田地区にある遺跡群(田名塩田遺跡群)の1つで、土地区画整理事業(住宅地化)に伴って1989年(平成元年)から発掘調査が行われ、古墳時代の古墳群(谷原古墳群)や縄文時代の村などが発見されていたが、1997年(平成9年)の調査で旧石器時代の建物跡と推定される遺構が発見された(住居状遺構)。住居状遺構は、直径約10メートルの円形の範囲を円礫(川原石)で囲んだものであり、内部からは柱穴12基と焚き火跡2箇所もあわせて確認している。また、二次加工をともなう剥片や大量の母岩・石核も集中して見つかっており、旧石器時代人の石器製作の場として利用したことがうかがわれる。また、槍先形石器の石材には長野県産、伊豆産、および箱根産の黒曜石が用いられ、遠隔地との交流も示唆される。成形された石器には尖頭器193点のほかナイフ形石器50点あまりの出土がある。 本遺跡は、川辺に接していたと考えられ、サケ・マス類の季節的・集約的な漁場につくられた半定住住居として推定される。 なお、本遺跡の建物跡は、炉跡、柱穴、外周の円礫群などをともない、確実なものとしては大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡例などに並び、日本列島で10例程度しか確認されていない列島最古級の建物跡である。 本遺跡は、1999年(平成11年)1月28日に国の史跡に指定され、相模原市によって史跡環境整備が進められた。
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遺跡概要
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1983年から1985年にかけて函館市教育委員会によって発掘調査が行われた。 館跡は、自然地形を活かし、四方に土塁と薬研または箱薬研状の空堀が巡らされ、全体でほぼ長方形の形状を呈している。内部は東西約70-80メートル、南北約50-65メートルで、約4,100平方メートルの広さがあり、曲輪(くるわ)の内部では掘立柱建物跡や井戸が確認されている。土塁の高さは、北側で約4.0-4.5メートル、南側で約1.0-1.5メートルであり、土塁の外側にあたる北側と西側には幅約5-10メートルの空堀が設けられ、最も深い所で約3.5メートルの深さをもつ。 発掘調査では、15世紀前半ごろを主体とする青磁・白磁・珠洲焼・越前焼・古瀬戸などの陶磁器が出土している。これらの遺物の年代は『新羅之記録』に記された長禄元年のコシャマインの戦いにおける志苔館陥落の時期(1457年)と矛盾しない。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(101番)に選定された。
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遺跡概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/30 14:25 UTC 版)
地蔵田遺跡は、弥生時代前期の遺跡として著名であるが、旧石器時代、縄文時代中期にも人びとの生活が営まれた複合遺跡である。 縄文時代では、中期後半の竪穴住居32軒、土坑などを検出している。出土遺物には東北地方北部に多い円筒上層a式土器、東北地方南部に多い大木7a式土器、北陸系の新保・新崎様式の土器があり、特に北陸系の高坏形土器の出土が注目される。なお、縄文住居の分布は弥生住居にくらべ拡散傾向にある。縄文時代の地蔵田遺跡は、検出遺構、出土遺物ともに御所野台地遺跡群のなかでは下堤A遺跡と共通点が多い。
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