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遺跡概要とは? わかりやすく解説

遺跡概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/18 14:54 UTC 版)

上黒岩岩陰遺跡」の記事における「遺跡概要」の解説

1961年近在中学生によって発見され一躍有名になった遺跡である。発見以来1970年まで、5次にわたって発掘調査実施された。その結果第1層から第9層まで遺物包含されており、縄文時代草創期から縄文時代後期までの1万年近くわたって使用されてきた岩陰であったことが判明した1962年昭和37年10月調査で、とくに第4層からは縄文時代早期埋葬人骨また、1962年昭和37年8月には日本考古学協会洞穴遺跡特別調査委員会江坂輝弥等)による調査が行われ、第14層までの掘り下げ、第9層からは、縄文時代草創期の細隆起線文土器有舌尖頭器矢柄研磨器、削器、礫器緑泥片岩製の礫石線刻した岩版7個などが一括して出土している。 年代測定では6層1万7000±300B.P.、11層が1万2165±600B.P.。 注目される遺物としては、(1) 投槍刺さった腰骨や、(2) 女神像線刻礫がある。(1) は、1969年発見され当時縄文時代早期男性の骨とされていたが、のちの報告書によれば経産婦腰骨で、生前かまたは死後まもなく刺突されたものであろうという。同様の傷が他にもあり、死後儀礼可能性もあるという。(2) の「ヴィーナス像」とも称される女神像線刻礫は、鋭利な剥片石器用いて女性像を礫に描いたとされるもので、信仰の対象だった可能性指摘されている。この種の像が出土したのは日本では上黒岩岩陰遺跡初めであった。同じ土層からはおよそ1万4千5百年前の、発見当時としては世界最古級の土器片も出土した動物遺体ではニホンジカ・イノシシを主体カモシカニホンザルアナグマタヌキニホンオオカミオオヤマネコニホンカワウソイタチツキノワグマウサギムササビネズミなど多様な種が出土しており、骨髄利用した解体痕も見られる家畜では埋葬事例とされるイヌ縄文犬)の出土特筆されるまた、遺跡からはカワニナ大量に出土しており、食用とする説のほか自然堆積新しい年代のものが混入した可能性考えられている。

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遺跡概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/17 06:02 UTC 版)

粥見井尻遺跡」の記事における「遺跡概要」の解説

櫛田川左岸段丘上にある指定面積は1,695.84㎡。 1996年平成8年9月国道368号バイパス工事に伴い三重県教育委員会発掘調査発見された。 遺跡からは縄文時代草創期土偶のほか、竪穴式住居跡4基、矢柄研磨器隆起線文土器土器片・石鏃などが見つかった

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遺跡概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 03:37 UTC 版)

田名向原遺跡」の記事における「遺跡概要」の解説

相模川左岸比高11メートル低位段丘上に立地している。遺跡の川寄りでは水成層の堆積がみられ、後期旧石器時代の本遺跡相模川べりに位置していたと推定される。 本遺跡田名塩田地区にある遺跡群田名塩田遺跡群)の1つで、土地区画整理事業住宅地化)に伴って1989年平成元年)から発掘調査が行われ、古墳時代古墳群谷原古墳群)や縄文時代などが発見されていたが、1997年平成9年)の調査旧石器時代建物跡推定される遺構発見された(住居遺構)。住居遺構は、直径10メートル円形範囲を円礫(川原石)で囲んだものであり、内部からは柱穴12基と焚き火跡2箇所あわせて確認している。また、二次加工をともなう剥片大量母岩石核集中してつかっており、旧石器時代人の石器製作の場として利用したことがうかがわれるまた、槍先石器石材には長野県産、伊豆産、および箱根産の黒曜石用いられ遠隔地との交流示唆される成形され石器には尖頭器193点のほかナイフ形石器50点あまりの出土がある。 本遺跡は、川辺接していたと考えられ、サケ・マス類の季節的集約的な漁場つくられた半定住住居として推定される。 なお、本遺跡建物跡は、炉跡、柱穴外周の円礫群などをともない確実なものとしては大阪府藤井寺市はさみ山遺跡例などに並び日本列島10程度しか確認されていない列島最古級の建物跡である。 本遺跡は、1999年平成11年1月28日に国の史跡指定され相模原市によって史跡環境整備進められた。

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遺跡概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:39 UTC 版)

志苔館」の記事における「遺跡概要」の解説

1983年から1985年にかけて函館市教育委員会によって発掘調査が行われた。 館跡は、自然地形活かし四方土塁薬研または箱薬研状の空堀巡らされ全体でほぼ長方形形状呈している。内部東西約70-80メートル南北約50-65メートルで、約4,100平方メートル広さがあり、曲輪(くるわ)の内部では掘立柱建物跡井戸確認されている。土塁の高さは、北側で約4.0-4.5メートル南側で約1.0-1.5メートルであり、土塁外側にあたる北側西側には幅約5-10メートル空堀設けられ、最も深い所で約3.5メートル深さをもつ。 発掘調査では、15世紀前半ごろを主体とする青磁白磁珠洲焼越前焼古瀬戸などの陶磁器出土している。これらの遺物年代は『新羅之記録』に記され長禄元年コシャマインの戦いにおける志苔館陥落時期1457年)と矛盾しない2017年平成29年4月6日続日本100名城101番)に選定された。

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遺跡概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/30 14:25 UTC 版)

地蔵田遺跡」の記事における「遺跡概要」の解説

地蔵田遺跡は、弥生時代前期遺跡として著名であるが、旧石器時代縄文時代中期にも人びとの生活が営まれ複合遺跡である。 縄文時代では、中期後半竪穴住居32軒、土坑などを検出している。出土遺物には東北地方北部に多い円筒上層a式土器東北地方南部に多い大木7a土器北陸系の新保新崎様式土器があり、特に北陸系の高坏土器出土注目される。なお、縄文住居分布弥生住居にくらべ拡散傾向にある。縄文時代地蔵田遺跡は、検出遺構出土遺物ともに御所台地遺跡群のなかでは下堤A遺跡共通点が多い。

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