いんない‐かいは〔ヰンナイクワイハ〕【院内会派】
院内会派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/13 14:56 UTC 版)
院内会派(いんないかいは)とは、議会・議院において、活動を共にする複数の議員で結成される会派。
日本の院内会派
国会の院内会派
- 概要・制度
国会の各議院において、活動を共にする国会議員2人以上で結成する団体[1][2][3][4]。院内団体とも呼ばれる。国会法等の法律では単に「会派」と呼ばれる。院内の構成単位はあくまでも会派であり、政党ではない。
衆参両院とも、慣例により議長と副議長は会派を離脱することになっている。
衆議院・参議院の各院内では、理念や政策を共有する議員が集まって院内会派を作り、議会活動を共に行う。会派の所属議員数によって、委員会の議席数や、発言・質問の時間配分、法案提出権などが左右されるため、政党とは違ったメンバーで構成されることもある。無所属で当選した者が政党会派に参加したり(後述)、無所属同士で便宜的に会派を結成することもある。人数要件を満たせば、院内交渉団体になることができる[5][2]。
なお、所属議員が1人だけの会派(俗に「一人会派」)は制度上認められず、無所属(参議院にあっては「各派に属しない議員」)扱いとなる。ただし、当該無所属議員の所属する政党等が政治資金規正法上の政治団体に該当する場合は、国会における各会派に対する立法事務費の交付に関する法律(昭和28年法律第52号)の適用に限り会派と同等とみなされ、一人会派に対しても立法事務費が支給される(みなし会派)。
- 会派の枠組み
少しでも院内の発言力を高めるため、複数政党によって、あるいは政党と無党籍議員によって、統一会派がしばしば組まれる。
統一会派とは逆に、1つの政党が党内対立のため会派を分裂させる例がある(後述)。
- 会派の名称
- 政党名と一致させる例
- 無党籍議員のくくりを示す名称の例
- 政党名に無党籍議員のくくりを示す名称を加える例、政党名あるいは無党籍議員のくくりを示す名称を連記する例
- 政党名に分派を示す名称を加える例
- 政党名を用いず統合的・単一的・象徴的な名称とする例
- 会派の略称
参議院の公式サイト上では会派名表記の際2文字の略称が用いられているが、「立憲・国民.新緑風会・社民」は2020年9月の解消まで略称が決まらず、同欄が空欄となる異例の事態となっていた[12]。
衆議院の院内会派
会派名 | 所属党派 | 党派別議員数 | 議席数 | ||
---|---|---|---|---|---|
与党 | 220 | ||||
自由民主党・無所属の会 | 自由民主党 | 190 | 196 | ||
無所属 | 6 | ||||
公明党 | 公明党 | 24 | 24 | ||
野党 | 241 | ||||
立憲民主党・無所属 | 立憲民主党 | 147 | 148 | ||
社会民主党 | 1 | ||||
日本維新の会 | 日本維新の会 | 38 | 38 | ||
国民民主党・無所属クラブ | 国民民主党 | 28 | 28 | ||
れいわ新選組 | れいわ新選組 | 9 | 9 | ||
日本共産党 | 日本共産党 | 8 | 8 | ||
有志の会 | 無所属 | 4 | 4 | ||
参政党 | 参政党 | 3 | 3 | ||
日本保守党 | 日本保守党 | 3 | 3 | ||
無所属 | 4 | ||||
無所属 | 議長:額賀福志郎(自由民主党) 副議長:玄葉光一郎(立憲民主党) |
2 | 4 | ||
無所属 | 2 | ||||
合計 | 465 | ||||
参議院の院内会派
会派名 | 所属党派 | 党派別議員数 | 議席数 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
第25回 選出 |
第26回 選出 |
合計 | |||||
与党 | 140 | ||||||
自由民主党 | 自由民主党 | 113 | 51 | 62 | 113 | ||
公明党 | 公明党 | 27 | 14 | 13 | 27 | ||
野党 | 91 | ||||||
立憲民主・社民・無所属 | 立憲民主党 | 38 | 22 | 16 | 42 | ||
社会民主党 | 2 | 1 | 1 | ||||
無所属 | 2 | 1 | 1 | ||||
日本維新の会 | 日本維新の会 | 18 | 6 | 12 | 18 | ||
国民民主党・新緑風会 | 国民民主党 | 9 | 4 | 5 | 11 | ||
無所属 | 2 | 1 | 1 | ||||
日本共産党 | 日本共産党 | 11 | 7 | 4 | 11 | ||
れいわ新選組 | れいわ新選組 | 5 | 2 | 3 | 5 | ||
NHKから国民を守る党 | 無所属 | 2 | 1 | 1 | 2 | ||
沖縄の風 | 無所属 | 2 | 1 | 1 | 2 | ||
無所属・欠員 | 17 | ||||||
各派に属しない議員 | 議長: 関口昌一(自由民主党) 副議長: 長浜博行(立憲民主党) |
2 | 2 | 0 | 9 | ||
参政党 | 1 | 0 | 1 | ||||
無所属 | 6 | 4 | 2 | ||||
欠員 | |||||||
神奈川 | 1 | 1 | 0 | 1 | |||
東京 | 3 | 2 | 1 | 3 | |||
愛知 | 1 | 0 | 1 | 1 | |||
大阪 | 1 | 1 | 0 | 1 | |||
兵庫 | 1 | 1 | 0 | 1 | |||
和歌山 | 1 | 1 | 0 | 1 | |||
合計 | 124 | 124 | 248 | ||||
備考
会派の名称及び順序は、衆議院及び参議院の公式サイトにおける表記の例に従う。
いわゆる統一会派について、構成員の政党・政治団体への所属が明らかである場合には、内訳をその人数順に付記する(ただし、無党籍者は末尾とする)。
「無所属」「各派に属しない議員」については、内訳を正副議長、政党・政治団体所属者(人数順)、無党籍者の順に付記する。
帝国議会の院内会派
貴族院の院内会派
大日本帝国憲法下に存在した貴族院は、華族や勅選議員を中心として政党色を排除する形で形成されていった。そのため、貴族院議員は政党には属さずに貴族院内にあった院内会派に属していた。院内会派は当初は爵位などの身分別に形成されるものが多かったが、次第に最大会派の研究会とこれに対抗する複数の中小会派によって構成されるようになっていった。政党政治に否定的な研究会は次第に院外にも発言力を強め、清浦内閣では国民の選挙の洗礼を受けた政党に代わって事実上の単独与党化(政友本党が閣外協力)したために第2次護憲運動が起きるきっかけとなった。
1940年(昭和15年)に新体制運動により衆議院の既成政党が解消され無党派時代を迎え、貴族院でも会派存続が問題されたが、院内会派は政党ではないことから解消することなく、貴族院停会まで会派は存続した。大政翼賛会への参加は任意とされ、当時の二大会派である研究会・公正会からは多くの参加が見られたが、同成会などは2割ほどの参加に留まった。その後、1940年(昭和15年)5月20日に結成された翼賛政治会への参加状況は、衆議院議員が大半であったのに対し、貴族院議員は8割ほどであった[15]。
なお、日本国憲法制定による貴族院廃止時には研究会・火曜会・交友倶楽部・同和会・同成会・無所属倶楽部の6会派が存在した。
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欧州の院内会派
欧州議会の院内会派
ドイツの院内会派
第18被選挙期現在、ドイツ連邦議会には、ドイツキリスト教民主同盟+キリスト教社会同盟(CDU/CSU)・ドイツ社会民主党(SPD)・左翼党(Linke)・同盟90/緑の党(B90/Grüne)の各政党を母体とする4つの院内会派が存在している。連邦議会の院内会派に関する規定はドイツ連邦共和国基本法40条に定めがある。人数要件としては議員総数の5%以上であり、これに満たない場合でも、3名以上の連邦議員をもってグルッペ (de:Gruppe) と呼ばれる院内団体を申請し成立させることは可能であるが、その権限は院内会派より制限される。
また、ハンブルク・ブレーメン・ベルリンの3つの都市を含む16の連邦州の州議会やノルトライン=ヴェストファーレン州・ニーダーザクセン州の小規模な公共団体の意思決定機関においても院内会派が存在する。
旧東ドイツでも人民議会では複数の政党が存在したが、人民議会そのものが対外的な民主主義を標榜するための名目的な存在であった。したがって議会内に10あった院内会派も形式的であり、実際の議会政治を運営するための意味はもっておらず、ドイツ社会主義統一党(SED)中央委員会の独裁化を統制するための補助機関にしかすぎなかった。SEDによる一党独裁制崩壊後の1990年に行われた最初で最後の人民議会自由選挙において、多くの政党・政治団体が乱立したが、選挙後は独自の院内会派を形成する間もなく、議会内の課題は速やかなドイツ再統一へ向けた東ドイツの州制度再編と通貨・経済・社会同盟の創設に関する国家条約に集約されたために可及的にドイツ連邦議会内における院内会派のモデルへと淘汰された。
脚注
出典
- ^ 朝倉秀雄、「国会議員リアル白書」、2011年9月、41ページ
- ^ a b 平凡社、大百科事典、1984年、“国会”、“議員立法”
- ^ 会派 - 衆議院
- ^ 「政党」と「会派」はどう違うのですか - 参議院
- ^ 朝倉秀雄、「国会議員リアル白書」、2011年9月、41ページ
- ^ a b c d 会派別所属議員数の変遷(参議院関連資料集) 参議院
- ^ “参院統一会派名 「・」「.」なぜ入り交じる? 背景に各党派のメンツとこだわり”. 毎日新聞. 2019年9月20日閲覧。
- ^ 衆議院会議録情報 第005回国会 議院運営委員会 第11号
- ^ 衆議院会議録情報 第012回国会 議院運営委員会 第8号
- ^ 参議院会議録情報 第012回国会 議院運営委員会 第20号
- ^ 参議院会議録情報 第013回国会 議院運営委員会 第1号
- ^ “参議院会派名表示の案内”. 参議院. 2019年10月4日閲覧。
- ^ “会派名及び会派別所属議員数”. www.shugiin.go.jp (2024年11月11日). 2024年11月13日閲覧。
- ^ “会派名及び会派別所属議員数”. 参議院 (2024年11月10日). 2024年11月9日閲覧。
- ^ 内藤一成『貴族院』2008年、同成社、pp198-200
関連項目
外部リンク
院内会派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 17:00 UTC 版)
貴族院は「衆議院における政党政治の防波堤」となり、「国権主義の保持に寄与する」という建前上、院内に政党勢力を作ることはなく、政党に参加した議員は不文律として貴族院議員を辞職することになっていた。したがって、公式には貴族院議員はほとんどが無所属である(政党の党籍を有したまま、貴族院では無所属として活動した例はあり、加藤高明ら政党内閣の首班になった者もいる)。ただし、議会活動の上での親睦や情報交換を目的とする院内会派は設置された。 大正末年から昭和初期にかけての政党政治の成熟期には、これらの会派の一部が衆議院における政党と結び、政党色を強めることもあった。もっとも、貴族院議員の性質上、再選を目指す必要がない議員も多く、大半の場合、院内会派の拘束力は弱かった。具体的には、大半の会派において、不偏不党と「一人一党」主義を謳い、党議拘束を行わなかった。そのため、衆議院における政党とは明らかな差異が認められる。 第1回から第42回までの帝国議会まで貴族院各会派は所属議員を明らかにしなかったため、構成については明らかにすることは出来ない。主な院内会派は次のとおり。 火曜会公爵議員と侯爵議員による会派。少数派だったが、終身議員のみで構成されているのが強みで、一枚岩の安定した影響力を保持した。徳川家達(第4代議長)、近衛文麿(第5代議長)、徳川圀順(第7代議長)、徳川家正(第8代議長)なども所属したが、慣例として議長在任時は無会派となった。 研究会長らく貴族院院内会派として最大勢力であった。1890年(明治23年)に子爵議員の政務研究会として創設された。会は選挙で選出された常務委員9人により指導され、会員の議員はその決定に従う投票行動を強く要求された。また会員外の議員が提出した法案への賛成も会の許可を得なければならないとされていた。そのため強力な団結力を誇り、政府にその存在を印象付けた。ただし1927年(昭和2年)に決議拘束主義を緩める新規則が制定された後は、団結力が弱まり、会内の民政系と中立派が独自に行動するようになった。子爵議員の選挙母体として尚友会を有した。 公正会1919年(大正8年)に男爵議員を中心に結成。 茶話会平田東助らが中心となって結成した官僚系勅選議員の会派。山縣有朋の系統につながる議員を結集し、貴族院における官僚派・反政党主義の牙城となった。 交友倶楽部原敬らの画策により結成された官僚系勅選議員の会派。伊藤博文や西園寺公望の系統につながる、政党政治に理解のある議員を結集し、実質的に貴族院における政友会の別働隊となった。 同成会土曜会の後継会派で官僚系勅選議員が中心となった。親民政党議員が多く、貴族院における民政党の別働隊として活動した。 三曜会貴族院議長の近衛篤麿も所属した。 同和会茶話会の後継会派で旧茶話会と無所属議員を中心として結成された。反研究会・反政友会色が近く、同成会とともに貴族院における民政党の別働隊として活動した。 無所属倶楽部1941年(昭和16年)4月30日に発足。広田弘毅や後藤文夫といった勅選議員が中心となって結成。後に東郷茂徳や小林一三なども加入している。 1920年(大正9年)7月における各会派の所属者数は次のとおり。1920年(大正9年)7月における各会派の所属者数は次のとおり: 研究会 143 公正会 65 茶話会 48 交友倶楽部 44 同成会 30 無会派 67 計 397 1940年(昭和15年)に新体制運動により衆議院の既成政党が解消され無党派時代をむかえた。更に10月に公事結社として大政翼賛会が結成されると、貴族院でも会派存続が問題となった。しかし院内会派は政党ではないことを根拠に解消されることなく、貴族院の会派は憲法改正による貴族院の廃止まで存続した。大政翼賛会への参加は任意となったため、当時の二大会派である研究会と公正会からは多くの参加が見られたものの、同成会などでは2割ほどの参加に留まった。その後、1940年(昭和15年)5月20日に結成された翼賛政治会への参加状況は、衆議院議員が95%以上だったのに対して、貴族院議員は8割ほどだった。 1947年(昭和22年)3月、最後の帝国議会終了時における各会派の所属者数は次のとおり。 研究会 142 公正会 64 交友倶楽部 41* 同成会 33 火曜会 32 同和会 30 無所属倶楽部 22 無会派 8 計 373 (*ただし4月に交友倶楽部所属議員1名が死去) 貴族院に替わって上院の役割を担い第二次世界大戦後の国会を構成した参議院には、終身任期ではなく6年任期の公選による議員で構成されることになり、当初旧貴族院議員の多数が転身して立候補し当選しているが、彼らはやはり「不偏不党を謳った院内会派」である『緑風会』を構成、一時は参議院最大会派として国政に大きな影響力を持った。しかしやがて所属議員の多数は、55年体制の下で政権与党として戦後日本の政治を担っていた自由民主党などの保守政党に吸収されていった。
※この「院内会派」の解説は、「貴族院 (日本)」の解説の一部です。
「院内会派」を含む「貴族院 (日本)」の記事については、「貴族院 (日本)」の概要を参照ください。
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