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食べ物と私

食べます。

午前一時とわしわしラーメン

飲み込めなかった午前一時。
バイト終わり、いつものセブンイレブンに寄る。
辛いものかどかんとしたものが食べたくて麺類を物色していると、とみ田の二郎ラーメンが目に入る。

 

私はこの商品と巡り合わせが悪い。
食べたい時に限って、なぜか棚に並んでいないのだ。
おかげで飢餓状態のまま、いつもコンビニを彷徨うことになってしまう。

 

そんな二郎ラーメンが今、目の前に。

 

すごく飢餓状態というわけでもなかったけど、まあ胃には入るだろうと、時間なんか考えず手に取った。
これを逃すときっと次は遠くなる。
レジにはいつもの店員さんでなく、最近見かけるようになった店員さんが立っていた。
いつもの人だと少し恥ずかしいから、ちょっと助かった。

 

家で食べられる、お手軽二郎系ラーメン。
ジャンクなものをお腹いっぱい食べたい時、これ以上の最適解はない気がする。
お店は一人で入る勇気がないのと、急かされてる感じが苦手なのと、そもそも家から出たくないのとであまり行ったことがない。
コンビニさまさまだ。

 

食べ応えのある麺、ガツンとしょっぱいスープに乱暴な野菜。
ほろほろ崩れるチャーシュー、存在感のあるにんにく。

 

いつも少し量が多いくらいなのに、なんだか今日はするすると胃に入った。
どうやら自分が思っていたよりも、私のお腹は空っぽだったらしい。

 

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つまらない話を聞いた。


誰それを妬んでいるとか、羨ましく思っているとか、つまるところの劣等感。
それを一緒に働いている人に向けているらしいから、本当に困ってしまう。
個人的には同じ組織内の誰かの不満を、同じ組織内の誰かに言うことは御法度だと思うのだけれど。

妬んでいる人を蔑ろにするわけにもいかず、妬まれている人を庇うわけにもいかず。
適当に相槌を打っていたら、ちょっと擦り切れた。

 

彼女は一体、私になんて言って欲しかったのだろうか。
それともただ味方が欲しかっただけか。

 

いずれにせよ私は欲しい言葉をあげるような間抜けじゃないし、諭してあげられるほど高尚でもなければ優しくもない。
第一、きっと相談してきているこの人は、私がそこまで頭を回しているなんて夢にも思っていないのだ。

 

心底腹が立つ。

あなたには絶対に、見せてあげないけど。

 

澱を見せられるたび、つくづく人間は他と比べてしまう生き物だなあと思う。
比べるということは、誰かを見下すということにもなる。
そして見下す行為には、どうやら底がないらしい。

 

バイトがニートを。
整形した人が美容に関心のない人を。
後天性の障がい者が先天性の者を。

 

本来、人間に上下は存在しないと思っている。
綺麗事という意味じゃなくて、明確な秤がない。少なくとも、私にはまだ分からないから。
ただ、一個人にとっての下は探せばいくらでもある。

 

下が居ると安心できる。それが余裕になって、余裕は優しさにだって化けるかもしれない。
ヒト、本当に嫌な生き物だ。気持ちが悪い。

 

私は劣等感も優越感も嫌いだ。
それでも残念ながら私も気持ちの悪いヒトなので、そういう節はある。

だって現に、私は今、きっと彼女を見下している。


彼女が私の癌になっていることを知らないように、きっと知らないところで私も誰かを癌にしているのだ。
それが申し訳なくて恥ずかしくて、やっぱり早く死んでしまいたいとも思う。

 

けどそれは出来ないから、せめていつでも離れられる場所で、あるいは独りで、私はいつでも達観してるフリをする。
フリだけでも、素面よりは誰かを見下さないでいられる気がするから。
そうやって私という存在が誰かの、そして巡って私自身の癌とならずに済むことを祈っていたい。

 

そういえば劣等感の原因について、彼女は自分自身の負けず嫌いを挙げていたけれど、本当の負けず嫌いは違うと思う。
負けることが怖くてやるせなくて、きっと土俵にも立てないから。
悔しさに耐えられない、私みたいな人間だ。
では彼女が劣等感と呼んでいたものは、一体何なのか。
それは彼女自身が考えるものだし、きっと今のままじゃ気付けないことなんだろうとも思う。

 

……そしてそのどれもこれも、きっと私には関係のない話。

 

私はすでに、可能な限り、人生ごと戦線離脱してるつもりだ。
だからこそ、適当な人間に大事なものを明け渡したりはしない。
澱に触れたって、引っ張られたって、誰かに何か言いたくなったって、高みの見物でラーメンをすすってやるのだ。

 

私のことは私が全力で守ってあげる。
じゃないと一体誰が、私を救ってくれるというの。

 

スープまで飲み干して、しっかり冷たい水を飲む。
午前一時半。
満足したお腹、すっかり温まった体で、私は眠れない夜に備えるのだ。

好きな私とモーニング

朝五時あたりから、午後十一時。
さすがにぶっ通しではないが一日中、本当に一日中眠った次の日の朝。
なんだか健康的な食事がしたくなって、珍しくモーニングのやっている時間帯にコメダ珈琲へやってきた。

 

寒い寒い一月。
体の億劫さは取れなくて、外に出ることを少し躊躇った。
深夜二時から続けていた作業は終わっているし、何かを生み出せる脳をしているかと問われれば、そうではない。
お店に行ってもやることないし。
そこではたと、そもそも喫茶店は食事をしに行くところだと気がついた。
別にやることなんてなくていい。食べるために行けばいいのだ。
一応充電器と一冊の本を鞄に滑らせ、パソコンは置いてきた。

 

頼んだのはアイスコーヒー…と、モーニングセット。
コーヒーについてくるローブパン、卵ペーストにバターと、健康的なものが食べたかったのでサラダを追加。
夜とは違う風景。明るい朝だった。

 

頼むものには大体フォークがついてくるから、初めてコメダ珈琲で箸を見たと思う。
つるつるとした、使い捨てでない箸を持つことが何となく久しぶりに感じる。
よく考えたら家ではもっぱらカロリーメイトやパンばかり食べているし、箸を使うとしても大体割り箸だ。

 

ちょっとお行儀は良くないかもしれないけど、ふわふわのパンに卵ペースト、そしてサラダのキャベツとトマトを挟む。
パンはそこまで大きくないから窮屈そうだったけど、一緒に食べると元気なサンドイッチの味がした。
包丁を出すことすら億劫な私にとって、貴重な生野菜。美味しかった。

 

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私は私のことがそれなりに好きだと思う。
そういう類のことを言えば、ポジティブだのナルシストだの、縁遠い言葉で揶揄されてしまうこともあるけれど。

 

自分のことが世界一好きだと思うこと、自分のことが世界一嫌いだと思うこと。
自分が愛してやれれば十分だと思うこと、誰かに愛して欲しいと思うこと。
死にたいけど、死ぬのは怖いと思うこと。
全部矛盾しているようで、私にとっては全部両立する感情だ。

 

もっと詳しく言えば、私は根本的に私のことが嫌いだ。
でも嫌い、嫌だって嘆いたって誰かが助けてくれるわけじゃない。
だから、私は私が嫌いにならないような私になるため、たとえば心の平穏を保つための方法を覚えたり、穏やかでいられる環境を整えたり、多分、それなりに考えている。
もちろん上手くいかないこともあるけど。
そして、そうやって自分を納得させるために色々なことを選んできた私のことを、私はちゃんと「良い」と思えるのだ。

 

それに、もともとどうしようもない私なのだから、せめて私は私のことを分かって愛してあげないと、私が可哀想だ。
これはきっと孤独を知ってるから、そう思えること。
独りぼっちを味わった成果だ。
弱いからこそ強くなれるなんて、やっぱり私は私のことを素敵だと思う。
とはいえ文章に起こすと、ちょっと気恥ずかしいけれど。

 

朝食の後の、冷たいコーヒーを飲んでいる。
文は書けないと思っていたのに、なんだか結局こうして綴ってしまっている自分がいる。
こうやって気の向くまま、自分の心に従えるところも、私はなんだか良いと思うのだ。
少なくとも、私自身にとっては。

 

コーヒーはあともう少し、残っている。
何もしないでいいと思いつつ、これから一日何をしようか、胸が躍っている。

シンカンセンスゴイカタイアイス


年末に実家へ帰省する。


本来なら人の多い盆と正月を避けて帰るのだが、忙しい妹にタイミングを合わせることにした。
大掃除やもろもろの書類の整理、大きな洗濯物。
今年中に終えることができなかったことを全て置いて、実家へと向かう。

 

寒さのせいでなかなか家を出られず、乗り場に到着したのは十五分前のことだった。
少し焦ってホームに上がったけれど、どうやら新幹線は少し遅れているようだった。
げんなりするやら、ほっとするやら。
重い土産を揺らしつつ、せっかくだからホームの端っこまで歩く。
目当ては、スジャータのアイスの自販機。
シンカンセンスゴイカタイアイスだ。

 

ずっと食べてみたかったのに、これまで何だかんだ機会に恵まれずにいた。
近づいてみれば、電子マネーのみ対応の自販機で、現金派の私は少しビビってしまう。
それでもどうにかPayPayに少しだけ残っていたお金でバニラとチョコを購入。
今年最後に念願をひとつ、叶えることに成功した。

結局到着予定から三十分後、新幹線に乗車し、東京から乗ってきた妹と合流。
遅延でぐったりしている彼女と共に、例の固いアイスを開けてみる。

 

若干ドキドキしながら木のスプーンをぐさり。
と、気合を入れたのに、噂で聞いていたよりあっさりとスプーンはアイスに沈んでしまう。
そりゃそうだ。新幹線は思いのほか遅延してしまっていた。

そのまま口に運べば、ジェラートのようにやわらかい、それでも濃いチョコレートの味が口に広がる。
バニラの方も食べさせてもらうと、密度の高い冷たさがつるんと喉に入ってきた。
個人的にはハーゲンダッツよりも好みかもしれない。

 

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今年を振り返ってみた時、あまり記憶がない。


多分、少なくとも去年よりは密度の低い年だったのだと思う。
こなしていくまま、なんとなく一年が過ぎてしまった。

 

考えないでいられることはある意味幸せなことだとも思う。
けれどこうして振り返った時、何もできていないようで少しだけ焦ってしまう。
もちろん私の人生で、必ずしも成し遂げなければならないことなんてない。
それはよくよく分かっているつもりだけれど。

 

次の四月で、学生を卒業してから三年目に突入する。
一年目、去年は分からないことだらけで冒険のような気持ちだった。
今年、二年目は少し慣れて、力の抜き方も覚えて。
落ち着いて余裕が出てきたとも言えるけど、この生活が何十年も続くと思うと少し怖い。
いや。多分、物理的に続けられるとしてもあと数年。
時々忘れてしまうけど、いつだって願ってしまうけど、不変なことなんて人生には一つもないのだ。

だからこそ、私はいつも疲れているんだけれど。

 

いつの間にか一時間遅れになっていた新幹線。
アイスを食べ終わり、ぬるりと残った仕事のことを思う。
年末年始だって年が変わるだけで、何ひとつリセットされず、当たり前に日々は続いていく。
優しくて、ちょっと重い。
大掃除やもろもろの書類、大きな洗濯物はどうにもならないまま年を跨いで、自宅で私を待っている。

いましめのはちみつ檸檬

最近少し忙しくて、帰宅時間が遅い。
年末はどこもあわただしいし仕方のないことだと思う反面、人と話す時間が増えてなんだかずっとぼんやりしている感じだ。

 

そんな薄い日々の合間を縫って届いた仕送り、ふたつの檸檬


ちょっと季節外れかなあとは思うけれど、さっそく出来る限り薄く切ってタッパーに敷き詰め、寒さに凍り始めたはちみつを流し入れた。

檸檬のはちみつ漬け。そんなにたくさん食べるものではないけれど、多分、私の好物のひとつ。

 

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料理と言っていいのかは定かじゃないけれど、こうやって漬け込んで作るものは好きだった。
味玉だったり、お肉の下味、カレーだってそうかもしれない。
待つことで美味しくなる料理はどうしようもなく惹かれてしまう。
冷蔵庫で美味しさが生まれている感覚に、ちょっとワクワクする。

 

橋本紡さんの『猫泥棒と木曜日のキッチン』で、主人公が煮込む系の料理を好んでいたことを思い出す。
確かその女の子は、ストレスが溜まったら煮込み料理を作る習性のある子だったっけ。
ストーリーの記憶は随分薄まっているのに、そのことだけはよく覚えている。
というか、橋本紡さんの書かれる本は全部に美味しい料理がたくさん出てくるから、いつもお腹が空いてしまう。
彼の食の描写が、私は大好きだった。
ここ数年、あんまり本を読んでなくて、何だかちょっと物足りない。


今のバイトを続けて、一年と半年が過ぎた。
長いとは言わないけれど、最初に入った時のメンツは全員辞めてしまって、バイトでは私が一番古くなってしまった。
だんだんと考えることが多くなって、つまりは忙しい。
いや、忙しいというのはちょっと抽象的かもしれない。
怖いのは、入りたての頃よりもバイト先に貢献できている……バイト先に重宝されていると、私自身が思ってしまっていることについて。

 

ひとつの組織の中での地位を他でひけらかす人は格好悪いと思っている。
もちろん、高い肩書はその人が頑張ったひとつの成果ではあると思う。
特に、職業や役職に関しては提示する必要があったり、他で信用を勝ち取ることができたり、役に立つことは多い。

 

それでも基本的には、やっぱりその組織での地位はその組織でしか通用しない。
たとえばコンビニ店員にとっては、その人が社長であろうがニートであろうが客は客。
外に出れば全員がただの人で、そこに優劣はない。当たり前だけど。

 

しかもその組織でさえ、多分「自分がいなければ回らない」なんてことはめったにない。
代わりの効かない人間なんてこの世にいないのだ。
誰かがいなくなれば代わりの誰かが現れて、組織は問題なく回っていく。
理屈ではなく、社会は多分、そういう風に出来ているのだと思う。

 

だから私がバイト先に貢献してるとか、バイト先に重宝されているとか、そういう考えは全部、褒められたがりな私の幻想なのだ。
というかそこにアイデンティティを求めるのは、本当にしょうもないしカッコ悪い。
けれど私は馬鹿だから、少し忙しくなったらすぐにそれを忘れてしまう。
組織の中で自惚れることは怖いことで、とても恥ずかしいことなのに。

 

いい歳して会社に入らずに、フリーターでふらふらしてるのには、多分そういう理由もあるんだと思う。
きちんとした組織に入ってしまったら、きっと自惚れるか自己嫌悪で今以上に死にたくなるかの二択だ。
もっとも責任を負いたくないとか、拘束時間が長いとか、人間関係が嫌だとか、そもそも入れないだろとか、細々とした理由はたくさんあるけれど。

 

何はともあれ外側よりも内側、現実よりももっと広い私の世界に浸っていたい。
だったらもっと色んなことを書いていけよ、と自分自身に思うけど、密かに月一更新を目標にしているこのブログだって、こうして月末に焦って書き始める始末だ。


年末年始には帰省が決まっている。
そこで……いや、それまでにも読むなり書くなり、もうちょっと内側の活動ができたらなあと思っている。

夢入り現実、アルコール入りチョコレート。

寒かったり暑かったりと、変な気候が続く。
くくりで言えば秋なんだろうけれど、季節の名前にピンと来ない。
夏の余韻と冬のせっかちがせめぎ合ってるような感覚だ。
けれど、そんな中で冬を感じるものがひとつ。

 

毎年楽しみにしているお菓子、バッカス
コンビニで見つけてすぐに買ってしまった。

 

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ちょっと気取った緑色のパッケージ。
ひょっとしたらこの素敵なパッケージに惹かれている部分もあるのかもしれないけれど、ともかく私がずっと好きなチョコレートだ。

 

見かけによらず、たっぷりと入っているブランデー。
柔く噛めば、すぐにアルコールがつんと喉を刺激する。
鼻に抜けてくチョコとお酒の香りが好きだった。
おまけに牛乳に溶かしても美味しいのだから、ついつい見つけたら買ってしまう。
とはいえ、運転時には注意が記されてあるほど、このチョコはきちんとしたアルコールだった。
つまり、昼間から咎められることなく、ちょっとだけ脳を浮かせることができるのだ。
残念ながら、私はこれっぽっちで酔ったりはできないんだけれど。


先日、SNSで流れてきたある方の日記を読んで、ハッとなることがあった。

今、私がしつこく続けているゲームのシナリオには、セカイという場所が出てくる。
そこはキャラクターの強い想いから生まれた不思議な場所で、キャラクター達を助けてくれる場所でもある。
詳しくは伏せるが、その文章を書かれた方は十代でこのゲームをプレイしていたらしく、日記にも「セカイ」という単語が出てきた。

 

そこでああ、と、少し思い当たった。
十代の時にこんな設定のゲームにはまっていたら、きっと私は耐えられていなかった気がするな、と。

 

たとえば、のび太くんでいうドラえもん
シンデレラでいうフェアリーゴッドマザー。

わかりやすい例を挙げるとそんな感じだけれど、私の読む物語には大体、不思議な現実的じゃないものとの出会いがあった。
その出会いで主人公の運命は変わる。道が開ける。

 

じゃあ何でその出会いが生まれるのか。
それは簡単。主人公が苦しみ、困っているからだ。
不思議な存在はいわゆるお助けアイテムで、それと対峙する主人公は必然的に不幸な状況にあった。
逆にいえば幸せで順風満帆、死にたいなんて考えたこともない人の前に、不思議との出会いは訪れないのだ。

 

じゃあ、と。まだ十代だった頃の私はそこで考えた。
じゃあ、なぜ私はその存在に出会えていないのだろうと。

 

ドラえもんが来ないのは、私がのび太くんほど出来損ないではないから。
魔法使いが現れないのは、私が恵まれた家庭に育っているから。
不思議な体験に出会えないのは、私の苦しみがそれだけに値しないから。

私に何も起きないのは、まだ苦しみが足りていないからで、この苦しさはごく一般的、乗り越えられるような、しょうもないものなのだと。
苦しみさえ幸せなことで、私の全部はわがままなんだと。

 

当然、頭では全てフィクションの話、現実にはありえないことなのだと分かってはいる。
けれど、物語はいつだって私の拠り所だった。
もっとも、救いになるはずの空想がこうやってこちらを傷つけてくるなんて、ちょっと皮肉な話だけれど。

 

ましてや想いでできたセカイだなんて、今思えばダイレクトすぎる。
もっと若い頃に出会っていれば、きっと私も今よりもっと、少し危ない形で縋っていただろう。

 

ただ、一方で私が今もまだ、何もかもを羨ましがっていることも事実だ。
たとえば、「この人に出会わなかったら人生悲惨だったかも」じゃなくて、「こんな人に出会っていたらどれだけ幸せだっただろう」。
「この選択をしていなかったら今頃辛かったかも」じゃなくて、「違う道を選んでいたら救われたかもしれない」。

 

見えない何かに期待して、いつも自分を損な方に置いてしまう。
それがどれだけ傲慢なことか分かっておきながら。

 

とどのつまり、私はずっとどこかで寂しいのだと思う。

 

けれど、寂しさはずっとずっと人類の大敵だ。
他の誰でもない、私がどうにかしなきゃいけない問題。
一人で抱きしめてあげる問題。

 

なのに最近、この寂しさについて執拗に訴えてくる人が身近にいて、ちょっと参っている。
けど、そんなことを言われたって、だ。
私は絶対に助けてあげない。
だってそれは、他人がどうこうできる問題じゃないから。

 

泣いて喚いて、そうやって誰かに助けてもらえるのは子供の頃だけの話。
フィクションなら年齢は関係なくそこに誰かがいるけれど、私達が生きているのは現実だ。
本当の意味では、きっと人類全員ひとりぼっちだ。
みんな、一人で生きていくしかない。

 

だから諦めて、受け入れて、折り合いをつけて、宥めて、愛して。
駄目そうなら少しフィクションの夢に頼って、ちょっとアルコール入りのチョコで視界を曇らせて。

そうやって何でもないように、現実を生きていかなくちゃ。

 

パソコンに向かいつつ、明日のことを考える。
十粒入りのバッカスは、まだ少しだけ残っている。

待ってくれてた月見バーガー

少し実家に帰っていた。
何かあったからというわけじゃなく、人の多いお盆に移動するのはどうしても苦手で、しばらく帰っていなかったから。
当然お正月も苦手だから、私の里帰りは秋と春になることが多い。

今住んでいる場所と違って、実家はドが付くほどの田舎だ。


九月。

私の好きな月見バーガーの季節だけれど、実家から一番近くのマックは車で三十分の距離にある。
帰省前にちゃっかり二回は食べたのだけど、あと一回は食べたいなあと思いながら自分の家に帰って来た。

 

二十二時半。
自宅から徒歩三分のマックへ向かう。どうやらまだ秋は健在だったようだ。

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ここ数年ですっかり夜型の生活になってしまったから、倍バーガーを頼む頻度がかなり増えた。
でも正直、月見バーガーとして味わうなら、パティ一枚の方がいい気がする。
肉の味が強くなりすぎて、あんまりソースの味が分からない。

けれどまあ私は欲張りなので、分かっていたとしても倍バーガーの方を頼んでしまうのだけれど。

 

個人的に、秋は春より急かされるように感じることが多い。
基本的に薄ぼんやり生きてる私だけど、毎年毎年、秋は先が見えすぎてしまう。
その結果このままじゃ駄目だとか、動かなきゃとか。
勝手に考えるだけで消耗して、何も出来ないまま冬を迎えている。
そう考えると、今回少し実家に帰ったことは正解なのかもしれない。

 

……いや、どうだろう。

会うたびに両親は喜んでくれるし、私のことを否定してこない。
でも、多分それは私のことを応援しているわけじゃなくて、諦められたからなのだろうと受け取っている。
きっと両親は大手企業だとか、真っ当な職に就いて欲しいと感じているはずなのだ。
そりゃそうだよなあと思う。私自身も、出来るならそうした方がいいんだろうなあと思う。
けど、なんだかもう飽きてしまったなあとも感じるのだ。

 

学生時代はそれなりに優秀だったと思う。
褒められることが好きで、叱られることが本当に怖かったから。
でもこの二つをモチベーションに生きてきたから、成長するにつれ、生きる指標がなくなっていった。

社会に出れば、褒められない割に叱られるリスクと恐怖だけが高まっていく。
しかも子供時代は先生や親、大人は神様のような存在だったのだ。
けれど私自身が大人になって、皆同じ人間であることを知った。
当然、褒められること自体の価値も下がっていく。
そもそも褒められることだって、優越感に依存していただけで、本当の意味で褒められたことではない。

 

叱られるかも。もう褒められることに意味はないけど。
そんな中で何をどうすればいいか分からなくなって、現在に至る。

 

根本的に、この世の何もかもが死に敵わないことも、人生にやる気がでない理由のひとつだ。
どれだけ楽しいことも心躍ることも、私はどこか点滴のように感じている。
生きるために薬を飲む人こそいるものの、薬を飲むために生きている人が居ないように、点滴は私を延命させてくれるもので、生きる理由にはならない。
死ぬのは怖いし迷惑が掛かるから、点滴代くらいは稼いでいるけど、それ以上となると嫌になる。

 

生きるためにやりたくないことをしなくてはならない、そんなの耐えられない。私は死にたいのに!
とどのつまり、この歳までそんなワガママをつき通している。

 

死にたいやら、生きたくないやら。
時々この日記や自分の書いたものを読み返して、改めて思想の暗さにどん引いてしまうこともある。
けれどこれはもう私の中ではただの事実であって、そこまでネガティブな話でもないのだ。
私にとってはこれから待ち受ける人生の話の方が、よっぽど救いのないように思える。
きっと、最期まで死にたいなあと思いながら私はいつか死んでいくのだろう。

 

一日何も食べていなかったところ、そのままマックを食べてしまったから、ちょっとだけ胃が痛くなる。

明日はきちんと昼間に起きたいのだけれど、今から寝ても間に合うだろうか。

プルダック・コンプレックス

何となく集中力が続かなくなって、辛いものが食べたくなった。

 

夏から秋にかけてはなぜか予定が立て込むように思う。
全く示し合わせていないはずなのに、昔の友達、数人から同時に誘いのメッセージが届いたり。
いつも小さな世界で過ごしてるからこそ、こうなるといつも混乱してしまう。

 

おまけにここのところ部屋でも外でも忙しく、バイト先では少しだけ不和があった。
たとえそこに私が関与していなくても、人間関係のこじれは苦手だ。

 

つまり、ちょっと疲れているんだと思う。
そしてストレスには辛いものだと相場は決まっていた。

 

カルボナーラ味のプルダック。
チーズと生に近い温泉卵を乗せるのは甘えだけれど、それでもいつも泣きながら食べるくらいには辛い。
達成感のある食事だ。

 

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昔から、私は人間があまり好きじゃなかったと思う。


特に、機嫌の波が顕著な人は苦手だ。
幼い頃、そういう人達は大抵母親だったり先生だったり、私じゃどうにもできない地位の人達だった。

怖くて顔色を伺っていた時期もきっとあったけれど、それなりに歳を重ねた今は努めて気にしないようにしている。

 

私の中の「子供から見た大人」がいなくなったこともあるけれど、何より、人の機嫌は天気のようなものだと気がついた。
雷雨ならさっさと家に籠るべきで、無理に抗おうとするとこちらが怪我をしてしまう。
きっと私もそれなりに、人付き合いについても学んできたのだろう。


それでも結局最適解は、人の輪から外れることだと気がついたのだけれど。

ただ、やっぱり生きてる限り、完全にひとりぼっちというわけにもいかない。


生きていて不意に組織を感じる時、改めて世の中には色々な人がいるなあと思う。

周りを見るほどの視野がない人、欲しい言葉を引き出してこようとする人、違った方向に自信を持ってる人。

 

男なのに、女なのに、若いのに、年配なのに。
色々と声はあるけど、まあ結局のところその人次第だ。
合う人は合う、合わない人は合わない。

 

中でも特に、自分を理解していない人と接した時、私はかなり消耗してしまう。
そういう人と話すと、別れて家に帰ってもずっと棘が刺さったまま抜けなくて、まるで毒でも浴びたようにじわじわとHPが削られてしまうのだ。

 

原因は分かっている。
結局、話していて疲れてしまうのは、自分と近しい人に出会った時なのだろう。

 

自分を理解する、身の程をわきまえるのは案外難しいし、当然私もできてるとは言い難い。
おだてられて調子に乗ってしまったり、変なところでプライドを出してしまったり。
だからいつも喋り過ぎないようにしているけど、いつでも制御できるわけじゃない。
そんな自分が恥ずかしい。

 

とどのつまり、私が苦手とする人は、ひとえにコンプレックスを刺激してくる人なのだ。
勘違いしたまま自分に自信を持っていたり、理想の自分であろうと口で誤魔化したり。
そういう時の自分が顕著に思い出されてしまって、何だかずっと洗われない。

 

こういう時はなかなか戻って来れなくなるから、対処法にも困っている。
これだってきっと事故のようなものだから、早く忘れたり何かに没頭するのが一番良いのだろうけど。

 

いや、一番は省みる必要もないくらい、自分が完璧になることなのだろうか。
けれどそうなるために、私は一体何十年この毒を喰らわなければならないのだろう。

 

辛い麺を食べ終わって、残りのソースにパックのご飯まで入れてしまう。
何にせよ、そんな何十年先の未来を考えられるほど私は気力に溢れた人間ではない。
そして窮屈だからこそ、せめてご飯くらい好きなように食べたいと思う。
何より今の私が一番嫌いなのは、余裕のない時の自分なので。

 

これを食べ終えたら、ちょっとだけ頑張りたい。
そう思いつつも、少しだけ睡魔が顔を出し始めている。