少し実家に帰っていた。
何かあったからというわけじゃなく、人の多いお盆に移動するのはどうしても苦手で、しばらく帰っていなかったから。
当然お正月も苦手だから、私の里帰りは秋と春になることが多い。
今住んでいる場所と違って、実家はドが付くほどの田舎だ。
九月。
私の好きな月見バーガーの季節だけれど、実家から一番近くのマックは車で三十分の距離にある。
帰省前にちゃっかり二回は食べたのだけど、あと一回は食べたいなあと思いながら自分の家に帰って来た。
二十二時半。
自宅から徒歩三分のマックへ向かう。どうやらまだ秋は健在だったようだ。
ここ数年ですっかり夜型の生活になってしまったから、倍バーガーを頼む頻度がかなり増えた。
でも正直、月見バーガーとして味わうなら、パティ一枚の方がいい気がする。
肉の味が強くなりすぎて、あんまりソースの味が分からない。
けれどまあ私は欲張りなので、分かっていたとしても倍バーガーの方を頼んでしまうのだけれど。
個人的に、秋は春より急かされるように感じることが多い。
基本的に薄ぼんやり生きてる私だけど、毎年毎年、秋は先が見えすぎてしまう。
その結果このままじゃ駄目だとか、動かなきゃとか。
勝手に考えるだけで消耗して、何も出来ないまま冬を迎えている。
そう考えると、今回少し実家に帰ったことは正解なのかもしれない。
……いや、どうだろう。
会うたびに両親は喜んでくれるし、私のことを否定してこない。
でも、多分それは私のことを応援しているわけじゃなくて、諦められたからなのだろうと受け取っている。
きっと両親は大手企業だとか、真っ当な職に就いて欲しいと感じているはずなのだ。
そりゃそうだよなあと思う。私自身も、出来るならそうした方がいいんだろうなあと思う。
けど、なんだかもう飽きてしまったなあとも感じるのだ。
学生時代はそれなりに優秀だったと思う。
褒められることが好きで、叱られることが本当に怖かったから。
でもこの二つをモチベーションに生きてきたから、成長するにつれ、生きる指標がなくなっていった。
社会に出れば、褒められない割に叱られるリスクと恐怖だけが高まっていく。
しかも子供時代は先生や親、大人は神様のような存在だったのだ。
けれど私自身が大人になって、皆同じ人間であることを知った。
当然、褒められること自体の価値も下がっていく。
そもそも褒められることだって、優越感に依存していただけで、本当の意味で褒められたことではない。
叱られるかも。もう褒められることに意味はないけど。
そんな中で何をどうすればいいか分からなくなって、現在に至る。
根本的に、この世の何もかもが死に敵わないことも、人生にやる気がでない理由のひとつだ。
どれだけ楽しいことも心躍ることも、私はどこか点滴のように感じている。
生きるために薬を飲む人こそいるものの、薬を飲むために生きている人が居ないように、点滴は私を延命させてくれるもので、生きる理由にはならない。
死ぬのは怖いし迷惑が掛かるから、点滴代くらいは稼いでいるけど、それ以上となると嫌になる。
生きるためにやりたくないことをしなくてはならない、そんなの耐えられない。私は死にたいのに!
とどのつまり、この歳までそんなワガママをつき通している。
死にたいやら、生きたくないやら。
時々この日記や自分の書いたものを読み返して、改めて思想の暗さにどん引いてしまうこともある。
けれどこれはもう私の中ではただの事実であって、そこまでネガティブな話でもないのだ。
私にとってはこれから待ち受ける人生の話の方が、よっぽど救いのないように思える。
きっと、最期まで死にたいなあと思いながら私はいつか死んでいくのだろう。
一日何も食べていなかったところ、そのままマックを食べてしまったから、ちょっとだけ胃が痛くなる。
明日はきちんと昼間に起きたいのだけれど、今から寝ても間に合うだろうか。