最初に観た宮本研作品の上演舞台は、名作『明治の柩』ではなく、とある劇団の分裂騒ぎの引鉄になったといわくつきの『ザ・パイロット』でもなかった。演劇集団変身による代々木小劇場での上演『俳優についての逆説』で、坂本長利さんによる一人芝居だった。一人芝居というものを初めて観て衝撃を受けた。画に描いたような冒険的小劇場公演である。
題名がディドロ『逆説・俳優について』のもじりであるなんぞと気づくはずもない、だいいちフランス哲学なんぞ聴いたことも思ってみたこともない高校生だった。やや経ってから同じ代々木小劇場にて、『ザ・パイロット』が上演されたから、それも観たけれども。
後年あちこちの大劇団公演にて『明治の柩』『美しきものの伝説』『阿Q外伝』を観ることができ、それらがまとまって戯曲集『革命伝説四部作』が刊行されるにおよんで、ああ、ほんらい新劇とはこういうものだったんだろうなあと感じ入ったのだった。
今でも読み直せば、きっと面白いのだろう。上演舞台を観れば感動できるのだろう。が、読み直さないだろうし、公演情報に接する機会があったとしても、観劇に出向くことはあるまい。もはや自分は、文化を享受できる身分ではないと思っている。映画館へも劇場へも出かけなくなって、もう十年以上経つ。
蛇口からは飲料水が出てくる。アスファルトの上を安全に歩ける。パスモを改札機にタッチするだけで鉄道にも乗れる。文明の恩恵には浴せるだけ浴して、ぜいたくな安全安心の暮しをさせてもらっている。これ以上の上級文化の消費・享受は身分不相応というもんだ。
ラジオを聴いていると、年配のゲストが心優しいアナウンサーからインタビューされて、「終活の極意」とやらを得とくとして語っていたりする。毎日が誕生日だと、年寄りにだって明日があると、若者の現在に関心を寄せることが若さの秘訣だと。どれもこれもインチキ臭い。
自分の来しかたと記憶とを(犯した罪をとまでは云わないけれども)、正しく語ればよろしいだけのことだ。そんなもの、どなたのお役に立つはずもない。そういうもんだ。もしも一万人に一人のかたから、その記憶、参考になりましたと反応がありでもしたら、もって瞑すべしである。そういうもんだ。
宮本研を古書肆に出す。以前に秋浜悟史を出したさいに積み残した戯曲集が一冊出てきた。菅 孝行を出したさいに積み残した演劇論が三冊出てきた。いずれも冒険的な小劇場運動の時代に知った著者たちだ。追いかけて古書肆に出す。
秋元松代『常陸坊海尊』の衝撃は圧倒的だった。常陸坊海尊とは、義経の供をして陸奥に下った一人で、歌舞伎の勧進帳では弁慶の隣にいるもう一人の家来である。のちに不死の術を体得して、長く世に源平合戦の無念を語り続けたとの伝説が残る。実際に北関東には、江戸時代の初期まで当寺には源平の戦を伝える古老が住んでいただの、東北地方各地には、当寺にも常陸坊海尊は一時住んだだの、当寺には海尊の墓があるだのという、複数の古刹が残ってある。
仄暗い土俗信仰の雰囲気をまとって、地鳴りのごとくに語られる怨念の世界には、凄まじい迫力と震えがくるような魅力とがあった。同時に、時代も秋元ワールドを待望していたといえる。
一九六〇年代の若者を魅了した標語的合言葉は「革命」だった。が、芸術であれ政治であれ、冒険的な覇権奪取運動なんぞが権力の前に敗れ去ることは必定だった。そして七〇年代、敗北感・虚脱感のなかで、若者たちがすがった次なる合言葉は「土俗の情念」だった。理屈では解析不可能ながら確かな存在感をもって実在する世界、つまり近代的論理などでは歯が立たぬ黒ぐろとして重い世界を、鋭敏な探索者たちは次つぎと掘りおこし始め、若者はそれらに殺到した。
『柳田國男全集』や『折口信夫全集』が、学問的興味からでなく、若者一般の愛読書として版を重ねたのは、後にも先にもこの時期だけだったろう。ほんのひと握りの読書人・学究からしか知られぬ存在だった南方熊楠が脚光を浴び、『全集』刊行までされたのも、時代の空気あったればこそだ。日本近代文学においては、稲垣足穂の大ブームも同時期のことだ。
しょせんは理屈上の正しさでしかない「善良なる」世界に、若者たちは飽き飽きしていたのだ。そして秋元松代が描く執着と怨念の世界に、観客は魅了された。
秋元作品の命は永いと思う。一連の作品がふたたび顧みられる日は、きっとやって来よう。そのとき多くの日本人が平安に過せているか多難にまみれているかは、私の知ったこっちゃない。秋元松代を、古書肆に出す。
作風に似かよったところはいささかもないが、それぞれの途を独自に歩む劇作家として、川崎照代と吉永仁郎とを古書肆に出す。
気づく能力
書く力よりまえに考える力がなければと云われるが、さらにそのまえに気づく能力が不可欠だ。
鶴見俊輔というかたからは、若き日のほんのいっとき、ご恩を受けた。しかしそれを機に弟子入り志願するでもなく、お礼に参上することすらなく、とうとう謦咳に接する機会がなかった。引込み思案というか、ひとえにわが生意気ゆえの非礼というに尽きる。だがご著書をとおして、私は鶴見俊輔のファンの一人ではあった。
鶴見さんから直接原稿をいただく立場にあった、とある出版社の編集部員との、酒の肴の鶴見俊輔談義のなかで、彼は云った。
「鶴見さんってかたは、ビックリすることの天才だな。だからオメエみたいなモンにまで、眼をおつけになったんだ。ちっとも売れてねえ奴だが、こんなこと書いてる若いもんがあるってんでね」
なるほどさようだ。上手いことを云うと、私も同感した。
昭和思想史を主戦場とされたが、高踏的な哲学論とならぬようつねに注意し、大衆文化の地平から歴史を眺めた。国際政治や軍事外交の話題となっても、参謀の視点からだけでなく、つねに一兵卒の視点を加味しつつ論じた。
文学・芸術への言及も多い。大局を考えるにもいったん個的な視点で濾過してからとの態度は、政治家や経済人よりは文士のほうにはるかに近かったから、当然である。
『思想の科学』という雑誌が、まことに鶴見イズムに合致していたことは、申すまでもない。またべ平連運動なども、鶴見俊輔が発案して小田実が実践したというような色合いの運動だったのではなかろうか。
もしも私に時間と余力とがあるならば、鶴見俊輔を系統的に読み直すことで、散らかりっぱなしの断片的考えがかなり整理されるかと期待されるが、残念ながら時も力もない。
著作部分を古書肆に出す。ただし晶文社刊の『鶴見俊輔座談』シリーズ全十巻を残す。対談・鼎談・座談会の集大成である。もはや著作読解には力及ぶまいから、肉声を思い起こさせてくれる台詞の内に、鶴見さんをせめて思い出そうというのである。
武谷三男の著作集が、歯抜けの状態でいく冊かある。理論物理学者にして科学哲学者だ。雑誌『思想の科学』グループにおける科学部門の最強論客である。
日本が原子力開発へと舵を切るよりもまえから、かような火山列島で原子力発電所なんぞどだい無理だと、武谷三男は断言して憚らなかった。
また唐木順三による遺作『「科学者の社会的責任」についての覚え書』において、科学および科学者への呪詛にも似た根本的科学批判がなされたさいには、武谷三男は科学の達成と科学者の名誉とを擁護する立場から、すでに亡き唐木順三を強烈に批判した。
科学そのものを知ることはできぬまでも、この人に導いてもらって科学的思考のなんたるかを知りたいものと念じた時期もあった。そこでは文学・芸術とは異なるなにかに気づけるのではないかとの希望を抱いた。が、もはやとうてい無理である。
武谷三男を、古書肆に出す。
和をもって
『憲法十七条』の冒頭第一条は、有名な「和をもって貴しとし、さからうことなきを宗とせよ」から始まる。これをもって、古来より日本人は穏健で融和的な国民性をもち、争いごとを好まぬ社会を理想としてきた、なんぞとおっしゃる弁を耳にすることがある。とんでもないデタラメだ。文脈は、党派的利害から大局を視失って長上にそむいたり、近隣と争ったりしてはならぬ。よく話し合えと諭してあるのだ。
第二条には、まごころをもって、仏・法・僧(三宝)を尊べとある。
第三条には、天皇のいいつけは、つつしんで拝命せよとある。
国の基本デザイン、国家の根本形態についての確認と念押しだ。
第四条には、役人は礼儀正しくせよとある。さすれば民衆も礼儀正しくなる。役人の礼の乱れは民衆の礼の乱れを誘い、騒乱のもとだ。礼が保たれれば、国は治まる。
第五条には、役人は接待・賄賂を受けるなとある。民衆からの訴えには、あくまでも公平であれ。富裕層からの訴えは、石を水面に放り込んだように吸い込まれるが、貧民からの訴えは、水を石にぶっかけたように少しも沁み通らない。これではイカン。
第六条には、勧善懲悪と正直率直を勧めてある。善行達成はかならず褒めて、悪行失敗はかならず糺すこと。また、上に向っては下の失敗を告げ口し、下とは上への不満を共有しようとするような者は、かならずや世の中大乱のもととなる。
第七条には、人それぞれの職務を忠実に全うせよとある。生まれついての賢者も熟練者もあるわけがないのだから、せめて励め。また人材登用にあたっては、適材適所を忘れるな。
要するに、官吏心得の各条だ。役人が襟を正せば、民衆間の規律もおのづから正されてゆくだろうとの楽観論である。むろん阿呆な民衆あればこそかような政府が選ばれたというような、下からの国家論の登場には、まだ千年を要した。
第八条には、役人は早朝出勤、夕刻退席が原則とある。仕事は山ほどあるのだ。
第九条には、信は義のもとだとある。世の秩序・人の道(義)のための最大の秘訣はまごころ(信)である。
このあたり、十七条の中だるみの観あり。ただしそれほどまでに服務規程が踏みにじられた怠慢空気が役所内に充満していたかと想像すると、記述者(聖徳太子かどうか、最新の学問成果を私は知らない)の苛立ちも想像に難くない。
第十条には、他者の意見に耳を塞いではならぬとある。私が正しく相手が間違っていると思うときは、かならず相手も私が間違っていると思っている。完璧な賢者などいないのだから、言い分をよく聴け。自分が少数意見の場合には、ひとまず保留せよ。
第十一条には、賞罰を正しくせよとある。功績ある者を賞さず、罪なき者を罰する例が、近ごろ眼にあまる。政務にたずさわる役人としては致命傷だ。
役所勤めにおける処世術、もしくは今日申すところのコミュニケーション能力と関連するか。第十一条は、勧善懲悪の必要を強調した第六条と、内容的にいくぶんか重複する。
第十二条には、地方の首長は勝手に国税以外の税を徴収してはならぬとある。民衆はすべからく天皇の臣民であって、地方官吏の恣意的支配を受けるべき者など一人もない。
税制改革だ。同時に、第二条第三条の国家基本デザイン問題とも関連する。また当時の地方行政の乱れや行政官の恣意的横暴をも、容易に想像できる。
第十三条には、役人は職掌分掌を守れとある。ただし病欠などの緊急事態にさいしては、互いに助け合い、行政サービスに穴が空かぬように補いあうこと。
第十四条には、役人たるもの他人を嫉妬してはならぬとある。嫉妬には際限がなく、悪循環して互いを滅ぼす。賢人・聖人を五百年も千年も待ってはいられない。
第十五条には、役人たるもの私欲を抑え公益に徹せよとある。私欲はかならず怨恨を発し、制度にそむいて法を逸脱する結果を生む。第一条に「和をもって」と云っておいたはずだ。
役人の執務心得にはちがいないが、やや道徳的訓話の要素が混じる。
第十六条には、民衆を駆り出すには時期を選べとある。公共事業に民衆の労働力を活用するのは古来よりの常道だが、それは農閑期に限る。農繁期に田畑を放置させては、役人自身がどうやって食うのだ。養蚕期に桑の葉を刈らねば、役人は何を着るつもりか。
これは古今東西に普遍的問題だ。その昔、アテネ同盟とスパルタ同盟とのあいだでペロポネソス戦争が二十七年も戦われたとは云うけれども、農繁期が近づくと両軍とも自軍兵士の亡骸を回収して撤退していった。農閑期になるとまた進軍してきて戦った。それを二十なん年間も繰返したのだ。
第十七条には、重大事案を独断で決定するなとある。ただし窓口業務の一いちのような日常的小事案は、効率よく自分で処理せよ。もし過失があったら大事となる案件については、かならずだれかと相談せよ。
今日のホウレンソウ問題だが、結局は相談せよとやするなとや、よく判らない。つまりは冒頭第一条と対応させて、結びの言葉としたかった形式整序ではあるまいか。
行政官たちの腐敗堕落をこのまま放置すれば、国が滅びるとの危機感から、徹底した政治改革・行政改革を推進すべく、基本路線を敷こうとしたのが『十七条憲法』だったのだろう。
だれだ! 「和をもって」の一語だけを読んで、日本人は昔から平和を尊重する国民だったなんぞと、勝手に吹聴するのは。
色も匂いも
吉川幸次郎(1904 - 1980)
考えが巧くまとまらぬままに、滑稽なことを云いだそうとしている。文章は生きものでありナマものであって、意味や形ばかりでなく、色も匂いもあるというようなことなんだが…。
聖徳太子『十七条憲法』の第十四条は、「官吏たるもの他人を嫉妬してはならぬ」の条文だ。なかに賢者・聖者の登場には五百年・千年を要するとの、中国の大古典を下敷きにしたらしい譬喩的云いまわしがある。現代の(といっても昭和の)学者による訳釈では、その箇所に註が付されて、参考として吉川幸次郎の見解が引かれてある。
吉川曰く。ほかの部分は文法的にも文体としても立派だ。ところがこの部分だけが、リズムに変調をきたしている。「ここは何かいまの『日本書紀』の本文に乱れがあるんじゃないかというふうに考えるのであります」
漢文記述の『日本書紀』が『群書類従』に収められてあって、推古十二年の「憲法」部分を、無学な私はその現代語訳かせいぜい書きくだし文で読むわけだ。ところが古代中国語のがわから本文を読み味わうことのできる碩学は、古代中国語に倣ったはずの古代日本人がその箇所でヘマをやらかしたとおっしゃる。気の遠くなるような文献吟味だ。
学ぶことにも記憶することにも、天分貧しく努力したことすらない私なんぞには、アルプススタンドの観客の一人として、むしろワクワクする気分すら湧いてくる。
『二都詩問』(新潮社、1971)
福原麟太郎が英詩を語り、漢詩を問う。吉川幸次郎が応えて漢詩を語り、英詩を問う。福原が応えて、さらに漢詩を問い重ねる。吉川が応えて、さらに英詩を問い重ねる。
東西碩学による詩についての往復書簡だ。そう聴かされただけでも、後年の私であればワクワクする。ところが新潮社のPR雑誌『波』に交互連載されていた時分には、毎回断片的な高踏譚を読まされた思いがして、さっぱり面白くなかった。無理もない。文学の核心、言葉の総体(なにが核心でなにが総体かと問われれば、今も答えに窮するが)についてなど、考えてみたことすらない子供だったのだ。
わが所持本は一九九二年刊の三刷本である。これが途方もない名著たる所以を思い知るのに、二十年かかったということだろうか。暗かったのは私一人ではあるまい。初版刊行より二十一年後の、たった三刷りである。
重ねて問い合い、実例を示し合って、最後に英韻律のモデラート性と漢韻律のスタッカート性という地点まで行く。英漢の言語特性に留まらない。美意識伝統の比較対照の問題だ。
学問はそこまででいい。あとは、しからば萬葉調は古今調はという、当方の問題となる。わが美意識伝統の問題として、線路のポイントが切替り、急カーブして別の軌道へと移る。
なにゆえさように乱暴な変換が可能か。じつはそこが面倒なのだが切縮めて申せば、築地の魚屋も地中海の漁師も、さばく魚の種類と刃物の形状とに多少の違いがあったところで、手順と技術にはほとんど相違がないというに似る。生きものナマものを相手にするには、どこに目処を置き、なにに忠実たるべきかを知ってかかるのがコツだというに過ぎない。
言葉には意味と音しかないと感じる人には、職人の道は無理である。
梅は咲いたか
西武池袋線をまたぐ山手通りの陸橋のちょうど中央、つまりてっぺんに立つ。駅舎が眼の前だ。通りすがりにいつも詣る不動堂はすぐ足元だ。
図工の先生に引率された生徒たちは、このあたりで一列になっていっせいに画板をひろげ、遠くに見える富士山のスケッチをした。六十五年以上も前だ。車の数は少なく、生徒らがわいわいがやがやしていても、はた迷惑にはならなかった。
道は「改正道路」と称ばれていた。アジア競技大会のときはマラソンコースとなり、貞永選手が走って過ぎるのを、生徒たちは沿道に整列して応援した。
やがて「環状六号線」「カンロク」と称ばれるようになり、しばらくしてから「山手通り」と称ばれるようになった。
今は、ここから富士山は見えない。
昨日に続き、午前の陽射しのあまりの好さに、散歩に出る。午後になれば急に冷え込むだろうからだ。昨日とはうって変って、風がない。木々の葉裏も見えぬし、梢も轟ごうと鳴ったりはしない。今日はなにを目処に、どの道を行こうか。
ご近所の梅は開花しているか。毎年この時季に感じることだが、公園にも個人邸の庭木にも、桜に比べると梅ははるかに少ない。というより、ほとんど視かけない。「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」という言葉もあるとおり、素人では手入れがむずかしいのだろうか。
歩いてみると、八重咲品種や複雑な花構造をもった品種ばかりだ。丈夫で育てやすいのだろうか。家紋や図案にあるような、また水墨画や大和絵に観るような、一重五弁の典型的形状の梅花には、なかなかお眼にかかれない。
咲きっぷりも地味だ。近づいてみたら咲いているから、この時季だし梅だなと思うばかりだ。アッあそこに桜がと、遠くからでも気づく桜の場合とは、雲泥の差だ。
それでも古代の日本人は、ことのほか梅の花が好きだった。桜が花木の主役として前面に押出されてきたのは、平安貴族らが歌遊びのなかで頻繁に登場させて以降のことで、奈良朝以前はむしろ梅が上位だったのではあるまいか。花の色や姿もさることながら、香りが珍重された事情もあったかもしれない。
自分では育ててみた経験もないくせに、私もなぜか梅の花が好きだ。
梅の樹を眺めたついでに、公園内を歩く。閑散として、人影はほとんどない。まだ児童たちを連れた保護者さんたちが集う時間ではないのだ。草本も落葉樹も葉を落しているから、隣接するお屋敷が丸見えだ。
ここはどこの国だろうか。どういうかたがお住いなのだろうか。たいそうお洒落なお屋敷が並ぶ。どんなお暮しぶりなのだろうか。天井も高そうだ。電球交換ひとつにしてからが、たいそうお骨折りではないのだろうか。
余計なお世話だ。今やこういうお屋敷も珍しくない国となったのだ。当方が勝手に、時代錯誤に陥っているだけなのだ。きっとそうだ。
♬ 梅は~咲いたか~ 富士山は~どこかいな
風うなる朝
てっきりこれこそが春一番かと思った。
どこからどこへ向う途中なのか、階上のベランダの手すりをいったん停止場所にして仲間と啼き交しては、またどこかへ飛んでゆく鳩たちが、みづから飛立つというよりは、風に押し出されるかのように発ってゆく。鳥たちも近所の木々も、時折りの突風にまるで追い立てられるかのようだ。耳に懐かしい音を急に聴きたくなって、ふいに散歩に出る気になった。
思ったとおり、神社の巨木たちの梢は轟ごうと鳴っている。常緑樹の枝えだは葉裏を見せて身をうねらせている。荘重たる音であり、眺めだった。
大鳥居をくぐった境内が外苑で、五段ほどの石段を登って二の鳥居をくぐれば内苑である。敷石上を直進すればご本殿だ。かような強風の朝だ。境内に人影はない。
ご本殿の右に並び祀られた招魂社に詣でる。日清日露の戦役にこの村から出征したまま還れなかった十一柱が、かつて祀られてあった。のちに日支事変大東亜戦争(碑文のママ)にての戦没兵士を合祀して、今は計七百八十柱が祀られてある。むろん私が知る人は一人もない。今も近隣にお住いかもしれぬどなたかのご先祖かご親戚筋かも、まったくぞんじあげない。しかし今朝は、深ぶかとこうべを垂れる気分になった。
世の中や時代の動きにはいたって疎く、それどころかみづから眼を塞いで遠のきたいとすら心がけている私ではあるが、そんな私をわざわざ曳きずり出して巻き込むかのような災難に、昨年見舞われた。「日本人、地に墜ちたり」としか思えず、憂鬱だった。
私がいくらか系統的に、まとめて読んだ文学はと訊ねられれば、昭和後半のいわゆる戦中派世代による文学ということになろうが、その分野にあっては「かような日本および日本人を護るために、英霊たちは逝ったのではない」という悔恨やら呪詛やら、ヤケッパチの悪態やらを、いく百もそれ以上も読まされてきた。
まさかこの自分が、きわめて薄っぺらなオウム返しのごとくに、先達の口真似をする羽目に陥るとは思ってもみなかった。
外苑へと石段をくだる。参道脇の目立つ処に、丈高き威容でひときわ眼を惹く石碑が立っている。「日露戦役記念碑」で、筆跡は「元帥公爵 山縣有朋」とある。裏へ周ってみると、村から出征していった人びとの名がぎっしりと彫られてある。
外苑の隅っこの垣根ぎわには、人懐こいようなごく目立たぬ石碑が立っている。大鳥居から眼と鼻の距離に駅が開業された経緯を記し留めた碑文だ。大正三年に初提案されたが時期尚早との声多く、実現しなかった。その後も地道な活動を続ける熱心な村人たちがあって、ついに大正十二年十二月に竣工に漕ぎ着けたとある。固有名詞まで彫り込んである。関東大震災直後の復興熱、都市計画熱のなかで、この地の先達たちはどんな想いで鉄道の駅を誘致したのだったろうか。
今日の住民は、駅前に神社があり、塀一枚を隔てて隣接する金剛院さまがあると云うが、事実はむろん逆である。由緒ある神社の鳥居前にして名刹の山門のすぐ前に、野菜や肥料やセメントを運ぶ鉄道駅とはなにごとかと、眉をひそめた村人が大半だったかもしれない。さればこそ熱心な世話焼きたちは、将来きっと地域の発展に寄与するからと、共同体内をいく年にもわたり説いて歩いたのだったろう。
今となってみれば、京都だの鎌倉だのといった古都を除けば、駅からこれほど近くて便利な宗教施設は、全国にほとんど例がないと聴く。
ところで二の鳥居に隠れた塀ぎわに、なにやら古めかしい手水が、今はなんの役割もなく佇んでいる。いや、置き忘れられたようにうずくまっている。江戸時代にこの神社は「十羅刹女社」と称ばれた。石の手水の腹にはっきりと彫り残されてある。本殿、神楽堂、鳥居、狛犬、石碑類、ただ今役目中の手水ほか、境内に据え置かれてある、または建造されてあるなにものよりも、「十羅刹女」手水は古いものだそうだ。事情に暗い参詣人の眼には、けっして止まらない場所に置かれてある。
二の鳥居の眼下が、内苑と外苑の境の石垣に沿って西への脇参道になっていて、境内の外へ出られる。道なりに二十メートル直進した処に、老舗の質屋の看板が見える。道を挟んでその正面が、帝国銀行支店の跡地である。昭和史に特筆される謎事件のひとつである帝銀事件の現場だ。当時の新聞記事の写真や資料映像を観ると、色が異なるだけで、同じ看板が同じ場所に写っている。
わずか四十メートルほどを隔てて、幕末と昭和二十三年とが向い合っている。しきりと風がうなり、木々が騒ぐ朝、不思議なものを視た気分になった。
眼が醒めると
――社員というものは、勤務時間中に仕事に夢中であればいい。部長ともなると、起きている間じゅう、仕事のことを考えている。社長という種族は、眠っていても仕事のことを考えている。――
会社員時代に、先輩から教わった。なるほどそうだよなあ、という実例と、あながちそうとばかりも云えまい、という実例との両方を、その後の人生で目撃してきた。
記憶すべきことも日記として記録しおくべきことも、なにもない日だって多い。就寝時に明日書くネタが思い浮んでいる日は、むしろ少ない。床に就いてから眠るまでのあいだに、そう云えばあんなこともあったなあと、思い出すこともある。眼醒めぎわの半睡半醒の床のなかで、ふいに断片と断片とに脈絡がついて、ネタがまとまることもある。起きて行動開始してからでさえ、これから書くべきことの輪郭が見えてこないことだって、むろんある。
ただこれは確かだ。眠っているあいだにも、脳はなにかを考えている。と申せば大袈裟だが、眼醒めているあいだに考えられた雑多なことどもを省略したり結び付けたり、なにか整理に類する作業を続けてくれているようだ。つまりは社長さんならずとも、人は睡眠中にだって考えている。
パソコンデスクに向っても、まだ整理が完了していない日もある。書きながらわが胸裡を探り、整理しなら書く。削除や整序を重ねながら、自分がおぼろげに感じていたことの容貌をはっきりさせてゆく。
どうやら一段落にまで整理しとげられればまだしも、ついに未整理のままに了ることだってある。手職の職人衆・職工衆がおっしゃるところの、オシャカを造ってしまった場合だ。いつか再利用できるかもしれぬからと「未投稿下書き」の函に放り込まれる。だが実際に再利用された試しは、ほとんどない。
片手仕事の非常勤講師が大学から求められる役目は、ほんのいくつかしかない。ご多忙の教授がたが面倒くさがる、下級生への基礎訓練と、客寄せパンダと陰口を叩かれながらも学生諸君を面白がらせて出席率(登校率)向上に寄与する大教室パフォーマンスとである。しかし諸般の事情から、最上級生のお相手を仰せつかる場合もあった。
あるとき彼らに卒業後の身の振りかたについての考えを訊いてみた。フリーター身分で芸術を志すだの、どなたかに弟子入りするだの、世の就職活動とは異なる独自の人生設計を考えている若者が混じるかと思いきや、十人が十人ともから「就活」との応えが返ってきた。ならば、こんなことしてはいられない。ゼミの時間割を一部変更した。
お辞儀と扉ノックを教えた。名刺交換を教えた。手製の名刺を作らせて、事務局就職課の課長に挨拶してこいと命じた。就職課の課長へは前もって菓子折りを提げて面会にお伺いして、わがゼミの学生がもしご挨拶に参上したら、作法どおりに名刺交換してやって欲しいと願い出た。課長からは、こんな教員もあるのかと面白がられた。
また言葉の「ふくらし粉」を教えた。余計な言葉を徹底的に削ぎ落して手短かに、順序は起承転結ではなく結論から述べよ。すると会話がぶっきらぼうになる。そこへ言葉の「ふくらし粉」を挿入するのだ。
「あいにくですが」と口を衝いて云えるようになれ。それが云えれば「せっかくですが」「残念ですが」「申しあげにくいのですが」とも云えるようになるから。
「恐れ入ります」と云えるようになれ。そうすれば自然と「恐縮です」「痛み入ります」も云えるようになるから。
「かしこまりました」と云えるようになれ。すると「承知いたしました」「うけたまわりました」「拝聴(拝見)いたしました」とも云えるようになるから。
今日から就活面接までの期間は、眠る前に「あいにくですが、恐れ入ります、かしこまりました」と呪文を三回唱えてから眠れ。「ムリムリ、無理イ~、超ウケる~」「マジ、めっちゃヤバ過ぎる~」なんぞという世の中は、どこにもネエんだっ。
このジジイ、急になにを云いだしやがったかと、若者たちが思ったか思わなかったか、反応はとくに確かめなかった。細かい喋り言葉(音と韻律と構え)が、人の考えに巨きな影響をきたすとは、荻生徂徠も本居宣長も柳田國男も云っているとまでは、若者たちに伝えなかったけれども。