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結局のところ、張芸謀(チャン・イーモウ)をどう評価すべきなのか? もうひとつ映画作家としての輪郭がはっきりしてこないし、あまり積極的に評価したいとも思わない。しかしながら、文化大革命を描いた前作『妻への家路』(2014)における前半のクライマックスである主人公夫婦の密会シーン——密会場所である駅の連絡橋にむかう妻(コン・リー)、逃走中の思想犯である夫、夫を追う当局の捜査陣、バレエの主役の座欲しさに父を当局に売った娘の4者のめくるめくカットバック——の、何十カットにも増幅され、サスペンスが宙づりになったまま引き伸ばされていくこのシーンは、まるで映画が発明されて間もない時代の産物のごとく、いまだ私たちがグリフィスの時代、エイゼンシュテインの時代を生きているかのごとく蠢いていた。 張芸謀の最新作『グレートウォール』は、マット・デイモンを招聘し、中国史上最高額の予算をかけたCGベースの史劇アクショ
私事で恐縮だが、私が初めて見たヴィスコンティ映画は、『家族の肖像』(1974)である。日本公開は何年も経ってからやっと実現し、これをきっかけに70年代末から80年代初頭に一大ヴィスコンティ・ブームが起きる。私は同作の日本公開時、中学1年生で、ヨーロッパへのあこがれを最も体現してくれたのが、ヴィスコンティとタルコフスキーだった。ゴダールとトリュフォーへの耽溺はその少し後のことになる。劇中かかる挿入歌(朗々たるカンツォーネ風歌謡)は、当時NHK-FMで毎週土曜の夕方に放送していた『関光夫の夜のスクリーンミュージック』という映画音楽専門番組で録音して、愛聴した。中学時代も今もそういう意味ではあまり変わらないし、成長も正直言って、ない。 当時見た印象としては、貴族的かつ孤独な暮らしを満喫するバート・ランカスターが、騒々しい間借り人一派によって平和を乱され、追いつめられるストーリーとしてのみ認識した
ドイツ在住のアメリカ人父子(アフリカ系)の生活をぼつりぼつりと語る。ドイツにおける黒人というと、ファスビンダー映画の初期を飾った黒人俳優ギュンター・カウフマンを即座に思い出してしまう。しかしそれもあながち的外れでもなく、21世紀になった現在にあっても人種差別の根は張っており、本作の舞台となる大学都市ハイデルベルクではそれが顕著であることが窺われる。どこまでリアルな描写かはいざ知らず、本作における中学生たちの蒙昧な黒人差別はヘドが出るほど無邪気なレベルである。ヨーロッパでさえ、まだこんな蒙昧さに留まっているのだ。マックス・ヴェーバー、ルカーチ、エーリッヒ・フロム、ハンナ・アーレントが若き日に学びを得たこの大学都市であってさえそうなのかと、暗澹とせざるを得ない。 しかし、この映画の主人公である13才の黒人少年モーリス(マーキーズ・クリスマス)がひたすら鬱屈し、内向していくのは、町の人の差別によ
ロンドン・サウスバンクのロイヤル・ナショナル・シアターが2007年に初演し、ロングランとなった舞台『戦火の馬(War Horse)』が、イギリス演劇の上演ライヴを世界中の映画館で紹介するシリーズ〈National Theatre Live 2016〉に含まれて、TOHOシネマズ8会場で上映中である。公演に感銘を受けたスティーヴン・スピルバーグが2011年に映画化したことは周知。今回上映されたのは、2014年にロンドン・ウェストエンドのニュー・ロンドン・シアターで上演された際の実況録画である。 なんといっても本公演の最も大きな特長は、南ア・ケープタウンを本拠とするあやつり人形劇団ハンドスプリング・パペット・カンパニーによる等身大の馬のパペットである。スピルバーグによる映画版は本物の馬とCGの組み合わせで乗りきっていて、その判断も当然のことではある。しかしながら、こうして元となった演劇版のパペ
本作が先月のサン・セバスティアン映画祭(スペイン)に出品されて監督賞を受賞したちょうど同時期に、私はサン・セバスティアンにいて、でもそれは仕事のためだったので映画なんて見る時間はなく、会場にできたシネフィルどもの行列を指をくわえて眺めるばかりであったが、幸いこうして東京でホン・サンスの新作『あなた自身とあなたのこと』を見ることができた。 ちょっとコケティッシュな女性主人公ミンジョン(イ・ユヨン)が、飲酒の制限うんぬんをめぐって彼氏(キム・ジュヒョク)とつまらないけんかをし、あえなく別居となる。画家らしい彼氏はひたすら未練の彷徨に酔い、ミンジョンは中年男たちとの飲酒に酔う。意識的にか無意識的にかは知らないが、ミンジョンは酒を飲むたびに他人になっていき、旧知の人物からの呼びかけや問いかけに別人として応答する。どこからどう見ても本人なのに(スネのアザはおそらくホン・サンスが付けさせたものだろう)
フレデリック・ワイズマンは、場所を主語にしてカメラを向けてきた映画作家である。学校、病院、軍隊、動物園など、彼の出身地であるアメリカのありとあらゆる場所が被写体となったが、映画作家としての名声を得るにしたがい(依頼のバリエーションが増えるにしたがい)、ヨーロッパの名所をもその被写体に加えた。パリのコメディ・フランセーズ、クレイジー・ホース、ロンドンのナショナル・ギャラリーなどといった、世界を代表する名所が彼によって写された。 最新作『ジャクソン・ハイツ』(2015)は再びアメリカ、それもニューヨークの一街区だけに被写体を絞っている。マンハッタン、ブロンクス、ズデーテン島、ブルックリン、クイーンズと5区しかないニューヨーク市の行政区(パリは20区、東京は23区、上海は16区、ロンドンは33区に区分されているから、NYの行政区分がいかに少ないか、1区の範囲が大きいかというのが分かるだろう)のう
前作『シェフ 三つ星フードトラック始めました』(2014)ではみずから主人公を演じつつ、フロリダからニューオーリンズ、テキサスへと遡行し、アメリカ南部への深い愛を吐露したジョン・ファヴロー監督だが、こんどはディズニー映画を無難に乗りきることによって、次回のわがままを通すための後ろ盾と資金を確保しようとしているのだろうか? であるにしても、マーベルコミックという彼のホームグラウンドにおける『アイアンマン』1&2同様、この人の刻印がはっきりと認められる。 ディズニー映画というと、すぐに歌い上げ調の感動ミュージカルバラードで飾り立ててしまう傾向が近年ますます強まっているが、ジョン・ファヴローはそっちに逃げない。新作『ジャングルブック』は、ディキシーランドジャズをはじめとする南部の音に、涙ぐましい愛情表明を図っている。この表明のためにこそ彼は、本作の監督を引き受けたのではないか。 たとえばクリント
サッシャ・ギトリというとついつい、蓮實重彦が梅本洋一のお葬式で弔辞を読んだ際に出てきた、「この日本でサッシャ・ギトリの全作品レトロスペクティヴが実現するまでは、梅本洋一の死を真に悼むことにはならない」という(弔辞としてはやや人を喰った)言葉を思い出してしまう。あれを聴いた列席者の誰もが「それは無茶な注文だ」と心でつぶやいたにちがいない。しかし今、アンスティチュ・フランセ東京(東京・市谷船河原町)でギトリ作品4本がちゃんと日本語字幕まで付いて上映されたという事実――これには賞讃の念しか思い浮かばない。にもかかわらず、今回私が見ることができたのはたった一本、『あなたの目になりたい』(1943)だけである。情けないとしか言いようがない。 『あなたの目になりたい』は、マックス・オフュルスも顔負けの流麗なメロドラマで、主人公の男女(サッシャ・ギトリ自身と、彼の妻ジュヌヴィエーヴ・ギトリが演じている)
『ヒメアノ~ル』は、シリアルキラーの猟奇サスペンス、それからフリーターの一念発起的青春譚、ラブコメディといった複数ジャンルが、絶妙に溶け合っているというよりも、たがいに邪魔し合いながら、空々しい断層を作りだしていく点が非常に面白かった。そしてそうした中和しない各要素——猟奇サスペンス、フリーター青春譚、そしてラブコメディ——が、シネコン向け現代日本映画のクリシェに対する当てこすりにもなっている。 連続殺人の猟奇性を体現するのはV6の森田剛で、フリーター青春譚は濱田岳とムロツヨシ、ラブコメディは佐津川愛美と濱田岳がそれぞれ受け持っている。彼らの言動ののりしろのような部分に、他のカテゴリーへの橋渡しの契機があるのだが、互いが互いの偵察と監視をしているような構造なのだ。 シリアルキラーの森田剛にストーキングされた佐津川愛美は、ストーカー被害者としての恐怖と不安に満ちた生活の中で、恋愛も成就させ、
冒頭の、ジャン=クロード・ブリアリがアヌシー湖から悠々とモーターボートをすべらせ、そのまま市街地の運河に入っていき、河口の第一橋である “恋人橋” なる暗示的な名前をもつ橋の下を通過しようとした時に、橋上の女性から「ジェローム!」と声をかけられる一連からして、あまりにもすばらしい流れである。この映画では一貫して、モーターボートの水上での運動感が画面を活気づけることになる。 橋上から主人公の名を呼んだブルネットの女性は小説家で、オーロラという名前らしい。このAURORAという単語を聴くと、F・W・ムルナウ監督『サンライズ』(1927)のフランス語題名『L’Aurore』を思い出す。もちろん、あの伝説的なサイレント・フィルムに出てくる小舟が醸すシリアスな象徴性と、この『クレールの膝』のモーターボートが醸すブルジョワ的な悦楽姓とは180°ちがうけれども。 このオーロラという女性小説家と、主人公ジ
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ作品はご多分に洩れず、留保つきの微笑みと共に迎えるといった案配だった。どうもこの人はあれもこれもとやり過ぎで、引き算をする勇気がないように思える。しかし、時には過剰の只中にまみれてみたいという欲望もまた、人に活気を与える。 昨春に『バードマン』のレビューを書いた際、エマニュエル・ルベツキ(正確なスペイン語表記はエマヌエル・ルベスキ)のグリグリと駆けずり回る超絶技巧のカメラワークが映画賞を総なめするのは腑に落ちない、と書いたが、もう降参である。現代はスピルバーグの時代でもキャメロンの時代でもない。ルベスキの時代である。『赤い薔薇ソースの伝説』(1992)が東京国際映画祭で上映されたのが、このメキシコ人撮影監督が日本に紹介された最初だと思うが、最近5年間を見ると、テレンス・マリックの『ツリー・オブ・ライフ』『トゥ・ザ・ワンダー』の2本、アルフォンソ・キュア
映画は、1999年の山西省の地方都市(汾陽市)から始まり、第2章では2014年の汾陽、さらに最後の第3章では2025年のオーストラリア・メルボルン郊外、というふうに舞台を変えていく。始めは「今どき珍しいスタンダードサイズの画面か」と、映画作家の古典的なこだわりに興味を持った。しかし次の章で現代に近づくと、画面はヴィスタサイズに切り替わり、未来である2025年でワイドスクリーンが採用されるに至って、これは映画としての拘泥というより、時代性の説明なのかと、少しばかり落胆した。反比例するように、人物たちの手元で操作されるタブレットの小画面が、重要性を帯びていく。 しかし、『長江哀歌』や『四川のうた』『罪の手ざわり』といった近作と同様、風景に対する作者の圧倒的な信頼ゆえだろう、スクリーンサイズによる質的変化は、不思議なほどに起こっていない。いや、むしろ人間の孤立感に対する視線が後半になるにしたがっ
昨今のハリウッドはスーパーヒーロー物のオンパレードで、かなり食傷気味である。『アベンジャーズ』なんて、ハリウッド社会も日本のAKB商法を笑えない段階に来ている。この氾濫ぶりは、少年時代の夢を後生大事に守る成人男性が世界中に蔓延し、自我の温存に余念がないという時代が到来したことが唯一の理由だろう。 食傷から身を守るには、確固とした映画観にもとずく腑分けしかない。そこで私は『トランスフォーマー』『ミュータント・タートルズ』のマイケル・ベイに汚い言葉を投げ、『アイアンマン』のジョン・ファヴローや『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』のルッソ兄弟、あるいは『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』のマシュー・ヴォーンに甘すぎる依怙贔屓をしてみたのだが、それも果たしていつまでもつことやら。 『X-MEN』シリーズの最新スピンオフ『デッドプール』は、スーパーヒーロー物やアメコミ原作物に興味
ロンバルディア州出身のエルマンノ・オルミ監督は徹頭徹尾、北イタリアのアンチ地中海的な風土と共にある。同州中部の都市ベルガモで生まれ、やがて同州最大都市ミラノで活動することになる彼は、まず北イタリアの電力会社エディソンに就職し、水力発電などについてのドキュメンタリーを40本も撮っている。フランスのヌーヴェルヴァーグと同世代の彼は、やや遅れて1978年の『木靴の樹』で確固たる地位を築いた。 しかし、私が作って1994年に中野武蔵野ホールで公開してもらった16ミリ短編に出演してくれた某イタリア人女性いわく、「エルマンノ・オルミは真のイタリアを写していない」「『木靴の樹』はイタリア映画ではない」とのことだった。われわれ外国人には見当もつかぬリアリティ論議だが、確実に言えることは、真のイタリアが描かれていようといまいと、『木靴の樹』が規格外の傑作であること、そして多少の好不調はあったにせよ、オルミが
大雨の夜、突然に呼び出された若者イザーク(リカルド・トレパ)は、町の有力者の城館に連れて行かれ、城の女主人(レオノール・シルヴェイラ)に求められるまま、ある被写体にむけてカメラを構える。その被写体は、城館の美しき令嬢アンジェリカ(ピラール・ロペス・デ・アジャラ)。ロペス・デ・アジャラはポルトガルの女優ではなく、スペイン出身。『シルビアのいる街で』に引き続き、男性の欲望の視線を独占する役だ。しかも今回は最初から死んでおり、死体役である。なぜこの令嬢が死んだのか、その理由さえ説明されない。ただ彼女は死体としてその城館に寝かされ、美しく着飾っている。まるで生け花のように、残酷なる鑑賞の対象となっている。 それにしても、なぜこの主人公が選抜されたのか。はじめこの若者が城館に到着したとき、尼僧である死体の姉はこの若者の「イザーク」というユダヤ名を聞くや、顔を曇らせ、そんな経験を何度となくしている彼は
私たちが同時代に生きていることのこの上ない僥倖を真剣に受け止めねばならない存在は、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)ではないか。最初に侯孝賢が登場したとき、彼はいい映画を撮る人だった。いまはそれを完全に通り越して、訳の分からぬほどすごいものを提示する、規格外の存在になっている。 新作『黒衣の刺客』が見せつけるのは、侯孝賢の上手さであり、しかも彼がおのれの上手さを、あたかもそれが恥ずべきことととらえているかのように、ひた隠しにする、その倒錯的な隠匿ぶりである。たとえば、旧作『海上花(フラワーズ・オブ・シャンハイ)』(1998)を撮った時点でじつはコスチューム・プレイが得意であることはバレバレだった。並みの監督なら、コスチューム・プレイで一旗揚げたら、一生食い扶持に困らぬよう案配するところだ。ところが侯孝賢の場合、それを手柄にしたくないという態度で20年近くが経過している。清末(辛亥革命の直前)の上
浅野忠信と深津絵里がローカル線の座席で寄り添う宣伝ポスターなどを見ると、黒沢清初の恋愛映画のように予想されたが、蓋をあけるとじつに黒沢清的なホラーであった。しかしこれまでと決定的に異なるのは、死者が生者に対して「世界の秩序を回復せよ」などと恫喝して生者をまがまがしくリモートコントロールしようとしないことだ。死者がこの世でおこないうる最後の行為は、ここでは〈岸辺の旅〉と名づけられる。此岸(この世)──岸辺──彼岸(あの世)という図式だとするなら、〈岸辺の旅〉とは煉獄のような状態を指すのだろう。 ピアノ教師で生計を立てる深津絵里のもとに、数年前に蒸発した夫の浅野忠信が帰ってくる。彼が帰ってくるシーンのカット割りはホラーである。しかし深津は、それをごく自然なこととして受け入れる。「俺、死んだよ」と開口一番、浅野は自分が幽霊であることを白状する。冒頭にしてあっさりと謎は消えた。あとは生者と死者のむ
前作『そこのみにて光輝く』が話題となった呉美保監督の新作『きみはいい子』が、前作にも増してすばらしい。『そこのみにて光輝く』の出来は綾野剛、池脇千鶴ら役者陣の熱演に依るところ大きく、佐藤泰志の小説世界へのリスペクトの大きさゆえか、観客は “場末&底辺” パビリオンに入場したような気分も否定できなかった。 ひるがえって本作『きみはいい子』はリアリズムを基調とする。『そこのみにて光輝く』と同じく北海道で撮影された模様だが、『きみはいい子』の提示する都市空間は、郊外的、公園デビュー的、ショッピングモール的なソフトな抑圧のもとにある。つまり、これは現代日本の一自画像である。学級崩壊とモンスターペアレンツに直面した新人教師(高良健吾)の物語と、女児を虐待する母親(尾野真千子)の物語は、その抑圧と閉塞感で同じ因子を微妙に交換し合いつつ、しかし合流しそうでしない。どこまでもパラレルである。 私たちはこの
バルセロナ生まれの映画作家ジャウマ・クリェット=セラの新作『ラン・オールナイト』は、三たびリーアム・ニーソンと組んだフィルム・ノワール調の犯罪アクションで、これがすこぶる雰囲気がいい。 主人公の殺し屋リーアム・ニーソン以下、堅気の道を行く息子のジョエル・キナマン、親分のエド・ハリス(最高の演技だ)、長年ニーソンを追う刑事のヴィンセント・ドノフリオ、叔父のニック・ノルティなど、じつに渋いキャスティングで、ニューヨークの暗黒街を舞台とする一夜だけの殺しの狂宴が、華々しく、そしてやや物悲しげに繰り広げられる。映画は「一晩だけ持ちこたえろ」とタイムリミットを設定してくるのだが、いったいどんな理由でワンナイトなのか、そのあたりの見当がつかない。まあそれがハリウッドの古典的流儀でもあるだろう。 誰も望んでいなかった身内同士の殺し合い。でも誰かの愚かな行為から、あっという間に火は燃え広がる。これは宿命づ
監督と同郷、メキシコ�・シティ出身の撮影監督エマヌエル・ルベスキ・モルヘンステルンによる、劇場の楽屋など舞台裏をグリグリとかけずり回る移動撮影の勤勉さは賞讃に値するけれども、だからと言って、オスカーをふくむあらゆる映画賞の撮影賞を獲りまくるというのは、どうにも腑に落ちない。映像業界のトップ中のトップとして君臨するハリウッドにおいて、たいていコスチューム・プレイが衣裳デザイン賞を独占し、実在の偉人を演じた俳優が主演男優賞を毎年のようにかっさらっていく。大ヒットしたSF超大作の製作者に作品賞までは差し上げられぬが、視覚効果賞は無条件で彼らのものだ。アカデミー賞の投票基準が素人と大して変わらないのは、百年一日のごとしである。たとえば各部門でノミネートされた『フォックスキャッチャー』も、撮影賞はノミネートさえされていない。オーストラリア出身の若手グリーグ・フレイザーの撮影の素晴らしさは本作のルベス
人々の目から遠ざけられていた一本の映画に、あるいは一人の映画作家に、ようやく光が当たる。それはあたかも人類の英知の勝利であるかのような高揚感を、それを受け止める人々にもたらすことがある。アベル・ガンスの『ナポレオン』(1926)が史上最大の上映会として日本武道館に降臨した時。永遠に失われたと思われた伊藤大輔『忠次旅日記』(1927)の一部が本当に私たちの目の前に現れてしまった時。あるいは、清水宏『港の日本娘』(1933)のオーケストラ付き上映のあと、不意に主演の井上雪子が紹介されて客席から上品な老婦人が立ち上がって拍手に応えた時。川喜多一族を頂点とする日本のシネフィリー文化は単に賞讃すべきであって、矮小化すべきものではない。 ところが、再上映という晴れやかな機会が、いかんともしがたい悔悟と焦燥を搔きたててやまぬケースが時としてあるようである。楊徳昌(ヤン・ドゥチャン =エドワード・ヤン)と
『SR サイタマノラッパー』の入江悠監督の新作『ジョーカー・ゲーム』は「シネマトゥデイ」の取材によれば、この監督の生来のエンタメ志向が発揮されているのだという。「(『サイタマノラッパー』のような)生々しいリアルな青春群像も好きなんですけれど、それだけやっていると妙にかっこつけているというか、子どもの頃の自分にウソをついているような気」がしたため、今回はジャッキー・チェンへのオマージュはじめ「おかげでやりたいことができました」ということなので、その点では喜ばしい。小出恵介、山本浩司、渋川清彦、光石研など、この手のエンタメ大作であまり見ないキャスティングが奏功している。 しかし大上段に構えるならば、ゴダールの『新ドイツ零年』(1991)がスパイ活劇というジャンルの廃炉を宣言して以後の今日、スパイ活劇が可能なのか?という問題がそもそも残る。もちろん『ワールド・オブ・ライズ』や『ミッション:インポ
スペインのスポーツ新聞「MARCA」(一般紙も含めて同国最大の発行部数を誇る)が、エンタメコンテンツ企業「IGN」と共同でオールタイムの「格闘技映画トップ20」(TOP 20 MEJORES PELÍCULAS SOBRE DEPORTES DE LUCHA)を発表した。レスリング米国チーム内の殺人事件をあつかった『フォックスキャッチャー』のスペイン公開に際しての景気づけ行事ということらしい。 http://es.ign.com/movie/90809/feature/top-20-mejores-peliculas-sobre-deportes-de-lucha ▼格闘技映画トップ20 1 鉄腕ジム(ラオール・ウォルシュ 1942) 2 罠(ロバート・ワイズ 1949) 3 シンデレラマン(ロン・ハワード 2005) 4 チャンピオン(マーク・ロブソン 1949) 5 ミリオン
刁亦男(ディアオ・イーナン)の新作『薄氷の殺人』は、去年のベルリン映画祭で『グランド・ブダペスト・ホテル』『6才のボクが、大人になるまで。』といった有力な出品作を差しおいて金熊賞(最高賞)を受賞しているが、ヴェネツィアならこうはならなかったのではないか。いかにもベルリンらしいチョイスだと言える。1999年と2004年の2つの迷宮入り殺人事件、ファム・ファタールと元刑事のノワールである。 すでに多くの人が書いているように、この映画の一番の特長は、あの凍てついた都市の風貌だろう。凍結した路上に怪しく明滅するキャバレー「白日焰火」のネオンサイン、白昼に酔っぱらいが放ちまくる打ち上げ花火。作品を一見するだけではどこでロケされたのかを私の語学力では割り出せなかったが、哈爾浜(ハルビン)が舞台だとのこと。市内の公園がそのままスケートリンクになり、スケート靴のエッジが凶器となる。主人公の廖凡(リャオ・フ
フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーは、ある期間ひとつの場所に留まるということの記録である。教育機関、警察署、高校、修道院、動物園、州議会などさまざまな場所に留まってきた。前2作『パリ・オペラ座のすべて』(2009)『クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち』(2011)ではパリに留まり、しかも共に劇場であるため、演者たちのパフォーマンスが被写体の中心となり、そこではおのずと、労せずしてスペクタクルが生起していた。 最新作『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』では、ロンドンのナショナル・ギャラリー(国立美術館)にカメラが留まるのだが、主眼となるのは、ここに収められた名画群と鑑賞者の視線のカットバックである。このカットバックが本物なのか、それともいわゆる「盗み」なのかは証明できない。ある日は絵画のブツ撮りに集中し、また別の日は望遠レンズを装着して人々の顔を拾うのに集中する(望遠レンズで遠巻
ロマン・ポランスキーが前作の『おとなのけんか』79分に引き続いて、短尺の室内劇を発表した。『毛皮のヴィーナス』96分。出演者は2人、ロケセット1個、たった一夜の物語。すべての製作条件が安直に見えるが、軽さを失わずにいながら、その内実のなんと緻密なる練り上げようだろうか。 マゾヒズムの語源となったザッヘル=マゾッホの小説『毛皮のヴィーナス』を翻案した舞台作品のオーディションを終えて、その日の収穫の少なさを携帯電話でワーワーこぼしている演出家のマチュー・アマルリックの前に、その名も “ワンダ”(同小説のヒロインの名前)と名乗る無名の女優が急に現れて、時間外のオーディションが──もとい、もはや舞台稽古が始まってしまう。 “ワンダ” を演じるのは、スコリモフスキ『エッセンシャル・キリング』の一軒家の主婦が印象深かったエマニュエル・セニエだが、彼女は『赤い航路』『フランティック』『ナインスゲート』と
重度の心臓疾患を抱えた夫(斎藤工)と妻(三津谷葉子)がバリ島にやって来て、妹夫婦の家に逗留する。表向きの旅目的はバリ島に永住する妹(杉野希妃)の自宅出産をサポートするためだが、真の目的は言わずもがな、夫にエキゾティックな地での客死を用意することであるのは、すべての観客が最初のワンシーンから察せられるだろう。「なんだ難病ものか、勘弁」という声がこの時点で聞こえぬでもない。しかし、これがけっこういいムードなのである。一見すると「ロハス化された河瀬直美」の体だが、一方で「母型化された『センチメンタル・アドベンチャー』」でもある。 神秘的な死地をさがす旅でやって来たこの美男美女の夫婦を見て、最初は、なんとナルシスティックな連中だろうと思った。夫は、容態が悪化すると共に性格もひがみっぽくなっていく。妻は、現地のジゴロと出会って、その性欲丸出しの軽薄さに嫌悪感を抱くが、逆にその嫌悪もろとも呑みこむかの
今年の流行語大賞に「ダメよ、ダメダメ」がノミネートされたようだが、そもそもこのフレーズは、小津と野田高梧が50年も前に発明したものである。どうか思い出していただきたい。 三浦(吉田輝雄)「(幸一に)きのう、あれから友だちんとこ寄ったんですよ。そしたらヤツもあてにしてたところなんで、困っちまいやがってね」 幸一の妻・秋子(岡田茉莉子)「三浦さん、アンタ押し売りに来たの?」 三浦「冗談じゃない、ちがいますよ。これ、奥さんホントにいいんですよ。他のヤツに渡したくないんだ。月賦でいいって言うんです」 幸一(佐田啓二)「月賦?」 三浦「ええ」 秋子「月賦だってダメよ、ダメダメ」 三浦「そうかなぁ、ダメかな。2000円で10ヶ月、安いんだけどなぁ」 秋子「ダメダメ、ダメよ」 三浦「そうかなぁ。僕なら買うけどな」 秋子「じゃあアンタ、お買いなさいよ」 三浦「いやぁダメなんです。金ないんです」 秋子「じゃ
20世紀最大の知性、クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)の遺稿のうち、日本に関するものを採録した "L’autre face de la lune: Écrit sur le Japon" が2011年にフランスで刊行され(Editions du Seuil 刊)、大好評を得たそうだが、それから3年をへてようやく『月の裏側──日本文化への視角』(中央公論新社 刊)として邦訳が出たばかりである。 レヴィ=ストロースが初めて日本の土を踏んだのは70歳近くになってからに過ぎないが、彼と日本の出会いは決して浅くなく、6歳の時にジャポニスムに感化された画家である父から、善行のたびにごほうびでもらった浮世絵のコレクションがその馴れ初めなのである。「悲しき熱帯」ブラジルとの濃密なランデヴーが彼の業績の大部分を占めたため(今夏は別の意味で「悲しき熱帯」になってしまったが)、日本への関心は初恋
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