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記事 10件
  • 勇者シリーズ(1)「勇者が剣を取る前夜、神を超える人」|池田明季哉

    2022-08-29 07:00  
    550pt

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。前回まで論じてきた、「人間と機械の関係」から独自の想像力を表現してきた「トランスフォーマー」は、1990年以降の「勇者シリーズ」にどのように受け継がれたのか。その足がかりとして独自ローカライズがなされた1980年代末の「トランスフォーマー」シリーズを分析します。
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(1)「勇者が剣を取る前夜、神を超える人」
    前回ではビーストウォーズというシリーズを通じて、動物というモチーフにどのような想像力が与えられていたのかを扱った。もともとトランスフォーマーは、日本の玩具を自動車/銃をリーダーとして再編集することで、そこに理想像としてのアメリカン・マスキュリニティを託したのであった。ビーストウォーズでは、動物というモチーフを導入することで、エコ思想をはじめとする90年代のトレンドに対して、新しいかっこよさを提案することに成功した。しかし特にアニメーションの脚本については、旧来の価値観の重力から完全に自由になることは難しかったと、いったんは結論づけた。
    ビーストウォーズが内包していた芳醇と混沌は、世紀末におけるアメリカン・マスキュリニティのひとつの到達点であり、20世紀という時代における限界を露呈するものだ。考え方によっては、この想像力をうまく21世紀に接続できなかったことが、映画版トランスフォーマーにおけるアップデート不全の遠因とも言えるかもしれない。
    我々は80年代から21世紀に至るまで、トランスフォーマーがどのようにアメリカン・マスキュリニティを変奏させてきたかを確認してきた。ここからは、日本においてトランスフォーマーの想像力が――人間と機械の関係がどのように変化していったのかを見ていきたい。
    少年とロボットの8年間
    日本ではこの想像力は、一般に「勇者シリーズ」と呼ばれる別のシリーズへと受け継がれた。これは1990年の『勇者エクスカイザー』から1997年の『勇者王ガオガイガー』まで8作品が制作されたタカラの玩具シリーズで、サンライズによるTVアニメシリーズと手を組んだ企画だった。これらの作品の権利は現在ではバンダイナムコホールディングスへと引き継がれており、30年が経過した現在でも商品がリリースされ続ける人気シリーズである。
    ▲勇者シリーズの主役ロボ一覧。8作品8体が並ぶ。 『勇者シリーズデザインワークスDX』(玄光社)p2
    前提として、全8作品作られた「勇者シリーズ」は基本的に世界観の繋がりを持たず、すべてが独立した作品となっている。登場人物とロボットの関係や、敵対勢力の位置づけもそれぞれまったく異なっている。一方で、「少年」と「ロボット」の関係というおおまかな主題は共通している。20世紀末の日本における理想の成熟の物語という本連載の主旨に照らして、勇者シリーズはその完成形のひとつといえるだろう。
    勇者シリーズの8作品は「少年」と「ロボット」の関係をさまざまに展開していった。その関係を追っていくことで、成熟のイメージにまつわるバリエーションを網羅していくことができるだろう。まずはその前日譚として、80年代末におけるトランスフォーマーの日本独自展開を整理しておきたい。
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  • 浅草駅から吾妻橋、隅田公園、言問橋、桜橋へ |白土晴一

    2022-08-26 07:00  
    550pt

    リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。今回は都内屈指の都市河川、隅田川周辺を歩きます。「隅田川テラス」をはじめとして、自然の景観を保護すべくさまざまな土木建築が施された隅田川周辺。スカイツリーを眺めながら、庶民の生活感が汲み取れる竣工の歴史をたどります。
    白土晴一 東京そぞろ歩き第17回 浅草駅から吾妻橋、隅田公園、言問橋、桜橋へ
     二十代の頃、アメリカのシカゴに行った。 SF 関連のコンベンションがシカゴで開催され、そこに参加しに行ったのだが、これが 最初の海外旅行だった。  一番安い航空券を利用した単独旅行で、トランジットで降りたアンカレッジ空港で十二時間ほど次の搭乗便を待ち、シカゴ・オヘア空港から宿泊予定のホテルまではタクシーに乗った。いま思えば、そんな大したことではなかったのだが、初めての海外旅行で同行者もいなかったので、なんだかんだドキドキしていたと思う。 それに、これが有名な観光地ならば、まだ気分が楽だったのかもしれないが、そのコンベンションが行われた場所は、アメリカ中西部の新聞として知られたシカゴ・トリビューン本社ビルの近くにあって、完全にビジネス街のど真ん中。コンベンション会場の中は SF ファンばっかりだったので気にならなかったが、会場の外に一歩出れば、二十代の世間知らずの貧乏青年だった私には完全な場違いという感じがした。。
     しかし、初めての海外旅行だったし、怖いもの知らずでもあったので、コンベンション会場だけではなく、見れるものはなんでも見てみようと、時間を見つけては一人でシカゴ市内を徒歩で散策しに行った。  建築好きの方ならご存じだろうが、1871 年の大火で建物が広範囲に消失した影響で、 19 世紀末から多くの商業高層建築が建設されており、その鉄骨構造のデザインや表現はシカゴ派と呼ばれている。その頃から建築好きだった私は、散策中にこのシカゴ派の高層建築を見てテンションが上がり、ダウンタウンをあちこち歩き回った。 そのうちに、やたらに橋が並んでいる川に行き着く。その橋群が跳開橋や旋回橋など日本だとそんなに見ないタイプの橋があったのも驚いたが、それ以上にその川の両側には高層ビルが乱立している景観に驚いた。  地図で見ると、その川の名前がシカゴ川だと分かった。
    ▲出典
     シカゴ川は元々は五大湖の一つであるミシガン湖に流れていた川だったが、都市の発展 に伴い汚水が湖に流れ込む問題が発生し、19 世紀に環流工事が行われ、川の流れを反対にし、湖へ汚水が流れないようにされた河川である。これは 19 世紀の土木工事の中でも屈指のものであると言える。  当時の私はそんなことは知らなかったが、シカゴ派の印象的なビルが両岸に聳える、この都市河川にかなり心を持ってかれてしまった。  私が都市河川というものに興味を持ち始めたのは、このシカゴ川の景観を見たからではないかと思う。  さて、今回は我が東京の誇る都市河川、隅田川沿いを歩いてみる。シカゴ川ほど両岸に有名なビルが乱立しているわけではないが、それでも東京都内ではランドマーク的な建築物を見ることができる立派な都市河川である。 まずは地下鉄銀座線浅草駅から吾妻橋に向かう。

     吾妻橋は昭和6年竣工のソリッドリブタイドアーチ橋だが、色合いからあんまり古い橋には見えない。これは東京都が 2020 年の東京オリンピック前に色彩変更の塗装作業を行ったからで、この赤色は浅草の雷門や仲見世の色を意識したものらしい。 結構、好みが分かれそうな色のようにも感じる。  橋の上から対岸を見ると、東京スカイツリーやアサヒグループ本社ビルが並んでいる。 そして、橋の下には隅田川下りの水上バスの船着場。

     ここから隅田川の上流方向に歩くために、隅田公園へ。


     隅田公園は隅田川の両岸に跨っており、右岸は浅草から花川戸、今戸まで、左岸の墨田区向島、元々は徳川御三家の一つである水戸家下屋敷小梅邸の跡地が利用されている。左岸の水戸藩下屋敷の遺構として池泉回遊式庭園が残っており、見どころも多いが、今回は長く伸びた右岸側を歩いてみる。
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  • 草花と暮らす〜芒種 梅子黄(ぼうしゅ うめのみきばむ)|菊池昌枝

    2022-08-22 07:00  
    550pt

    滋賀県のとある街で、推定築130年を超える町家に住む菊池昌枝さん。この連載ではひょんなことから町家に住むことになった菊池さんが、「古いもの」とともに生きる、一風変わった日々のくらしを綴ります。第10回では、東京ではない滋賀の町家ぐらしだからこそできる、植物との「自由な関係」を存分に楽しみます。
    菊池昌枝 ひびのひのにっき第10回 草花と暮らす〜芒種 梅子黄(ぼうしゅ うめのみきばむ)
     花が好きで憧れた、亡き先生がいる。たくさんのことを教えていただく時間は叶わなかったけれど、大きな影響を受けているのは確かだ。  私は土や植物、風や雨そして陽射しに直接触れたくて日野町で暮らすようになったのだが、花を日々のことにするのにぴったりでもある。四季折々庭でも散歩に出てもいろんな草花たちに会える。かつて住んでいた東京はどんな植物でもお金で交換してきた。雑草を抜くのにすら仮の住民意識では気を遣う。そんな境界線がきっちりした舗装された世界だった。そのせいか花を活けることは今と違って日常とは少し遠くて、壁ができていた。しかし今、そんな地面続きの家で花を飾ること自体が稽古になって、自由を感じられるようになった。
    ▲亡き師匠に「可愛くないわねぇ」と言われながら、擬人化した花との戯れ方を学んだ東京のお稽古場での成果2点
     常に植物がある暮らしになっと、土はあるし雑草は抜き放題になるわけだが、一体どうすれば共存できるか。雑草を抜こうとする瞬間に、抜くことすら憚れるくらい生命を感じ、大袈裟にいえば「草取り」というマシン化した自分の手による相手の死を目撃してしまう、そんな感覚に変わった。複雑な気分は未解決のままに、とりあえずは雑草を家に飾ることにした。庭にあるがまま、野にあるがままで家の中にきてもらおうと。家は小さいながらに東京の時の倍になったので、花屏風はセットしたまま出しっぱなしだし、前住人である敏子さんがお花を習っていたようなので、蔵にあったお稽古用の花器や剣山などは使わせていただいて飾っている。また古民家には間があるというか余裕があるというか、花を飾れる場所がいくらでもある。そこに金銭の交換はほぼ発生しないから植物と私の隔たりがなくなり、いつでも気づいたら水をあげたり手入れしたりと植物との交歓ができて、慣れてきたら自由な関係になったのだ。なんて贅沢なことだろう。
    ▲ご近所から野菜のみならず、お花をいただくこともしばしば。右は田んぼの縁に枯れたまま立っていたフォルムの美しい赤い草
     春先に木々は芽吹き出す。蕗の薹がいつの間にか出て、梅が咲き始めていい香りが漂い、寒かった日々ももう終わりという華やいだ雰囲気を醸し出す。花壇に好きな草花や野菜やハーブを4月頃に植えると、5月に入り日中が暖かくなってくるとどんどん庭の色合いが変わっていく。土が緩む春がくるや否や、いつの間にか雑草や昨年植えた植物たちも意外なところから出てきて、緑の面積と高さを広げて体積が増えていく。そして雨の多い時期は、全ての植物の葉っぱが日に日に大きくなり、一枚一枚の呼吸が聴こえるし、その熱気がすごい。庭の草は争うように背丈を伸ばし、地面の密度も高くなって家の方に立体で迫ってくる感じがする。植物が動けないというのは嘘で、そういう人の目はコンクリートに住んでいる人のものだ。微生物や虫たちが土を耕し、雨で湿気も十分なそこにネットワークを広げていく植物。庭は熱くなって、生き物であることを感じる瞬間だ。目線を爬虫類のように下げるとジャングルのように見えるから、その中に手を差し込むのは少し怖いくらいなのだ。薄暗くなるとそのむうっとした熱気や匂いで異次元に引き込まれそうな感覚に囚われる。
    ▲鬱蒼としげるジャングルのような庭と、カナコと名付けたカナヘビが毎日ジャングルの中で遊んでいる
     この庭の植物、特に雑草には生き残りをかけた戦略がある。見えない土中に根っこネットワークを伸ばして占領エリアを広げ、あちこちから出現する。2メートルを越す雑草王のような草があり、それはまるでモグラ叩きのようだ。足元の地面の下にこの草のネットワークが張られていていると思うと、ぞくっとする。ドクダミや蕗、ミントも同様だ。だから抜いても抜いてもなくならない。  彼らはきっと連携し合って、被害を受けない場所を集中して選んだりしているのではないだろうか。春、庭の土壌を少し柔らかくするために木の皮を混ぜようと、庭の土を10センチほど掘った。そうしたら庭の8割がたを根っこが占拠していた。最初は栗やいちじくなどの大きな木の根だと思ったのだが、辿って見るとそれはドクダミと蕗だった。栗やサンショウの木が育ちにくいのは、土が固いだけでなくて、根っこネットワークに囲まれて身動きが取れないの原因していたようだった。  次に種だ。種をあちこちにばら撒いておいた紫蘇やレモンバームの一年草が、雨と同時に芽吹きあちこちから出てきてびっくりした。宿根草は枯れたフリをして春突然出てくるだけでなく、種で増えもする。茶庭のように、杉苔の島にそっと咲く半夏生というイメージで植えたのに、2年目の今年は半夏生の森ができた。  そしてあけびやイチゴや葡萄は地上や空に向かって蔓で移動して、緑の領地を広げている。みんな太陽と水を求めて、土中の微生物たちとともに生き残りをかけているのだ。
    ▲好きな草花「半夏生」もドクダミ科。根っこが地中だけでは足りないようで、出てきてしまう
    ▲数十年前にコンクリートで固めた地面の割れ目からレモンバームと青紫蘇、赤紫蘇がわんさか出てくる
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  • 僕のマイムタバコ|高佐一慈

    2022-08-19 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、お笑いコンビ、ザ・ギースの高佐一慈さんが日常で出会うふとしたおかしみを書き留めていく連載「誰にでもできる簡単なエッセイ」をお届けします。最近は「禁煙」に挑戦中だという高佐さん。体調不良のために数日間禁煙を余儀なくされた反動で、猛烈にタバコを吸いたくなった高佐さんが編み出した独自の禁煙法とは……?

    高佐さんの連載が本になりました!
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    車は高速道路を爆走する。 インターで降りようにも、降りる恥ずかしさを考えると、このまま高速を進んでいった方がマシなように思う。 こうして僕は、周りの目を気にするがあまり、引くに引けなくなってしまうのだ──。
    「こんなに笑えるエッセイは絶滅したと思っていました。自意識と想像力と狂気と気品。読んでいる間、幸せでした。」 ピース 又吉直樹さん、推薦!
    誰にでも起こりうる日常の出来事から、誰ひとり気に留めないおかしみを拾い集める、ザ・ギース高佐一慈の初のエッセイ集が待望の刊行。
    『かなしみの向こう側』で小説家としてもデビューしたキングオブコント決勝常連の実力派芸人が、コロナ禍の2年半で手に入れた言葉のハープで奏でる、冷静と妄想のあいだの27篇です(単行本のための書き下ろし2篇と、あとがきを収録)。

    高佐一慈 誰にでもできる簡単なエッセイ第29回 僕のマイムタバコ
     朝、布団の中で目覚めた瞬間に抱いた嫌な予感は、一秒後、嫌な実感として身体に残った。あ、この感覚ひさびさ、と思った。  寝不足のせいという一縷の望みにかけて布団の中でゴロゴロしていたのだが、あっという間に体温39.5℃、悪寒ぞんぞん、体の節々バッキバキ、頭痛ぐわんぐわん、歩行ふらっふらに。  ただの風邪だと思いたいけどめっちゃコロナっぽいなあ、と半ば確信しながら病院に行き、外の簡易テントで検査を受けたところ、案の定めっちゃコロナだった。医師からも、めっちゃコロナですね、と言われ、カルテにドイツ語で『めっちゃコロナ』と書かれた。
     10日間の自宅療養期間はそれなりに大変だったのだが、今回僕が書きたいのはコロナ奮闘記ではない。コロナが僕に唯一もたらしてくれたプチチャンス、禁煙についてだ。
     発症して3〜4日間は、熱と悪寒と痛みでそれどころじゃなかったのだが、僕は自然とタバコを吸っていなかった。平熱に戻った5日目くらいにふと気付いたのだ。あれ、そういえばタバコ吸ってないな、と。  僕の頭の中では、スキージャンパーが美しい姿勢で大ジャンプしたままだ。このまま着地するのも忘れ、禁煙の空を延々と飛んでいく気満々である。
     風邪をひいたときはいつもそうだ。熱で苦しいのでタバコなんて全く吸いたくなくなり、煙を吸うところを想像してはおえーっとなり、何本か残っているタバコを箱ごとゴミ箱に捨てたくなる。そして、こんなに吸いたくないのだから、たとえ風邪が治ったとしてもこのまま一生吸わずにいられるんじゃないかと、その時は思う。  けれど体調が戻り健康になると、居ても立ってもいられなくなり、いつの間にか口から煙を吐いている。  空を飛び続けることなんて余裕だと思っていた僕は、いつの間にかテレマークで着地している。両腕を水平に開き、腰を落とし、膝を曲げ、くわえタバコだ。
     今回も一週間を過ぎたあたりでどうしても吸いたくなり、一旦タバコとライターに手をかけ、テレマークの姿勢に入ろうと思ったのだが、ふと、せっかくここまで飛んできたのになんだかもったいないなあという気持ちになった。このまま飛び続けたらどうなるのだろう。水平に開きかけた両腕を元に戻し、再びスキー板と身体を並行にさせる。地面スレスレで着地しかけていた僕は、再び上昇気流に乗って滑空した。  もうちょっとだけ飛び続けてみよう。着地は明日すればいい。
     実はこの「明日吸えばいい」くらいの楽な気持ちで禁煙に取り組むことこそが、成功の鍵なのだ。禁煙に失敗する人は、「絶対に吸わないんだ」とつい誓いを立ててしまう。これがいけない。逆に延々とタバコに思考を捕われる形になってしまうのだ。  禁煙しようとしている諸君、お先に。僕はもうコツを掴んでしまったよ。おそらくこの先、一本もタバコを吸うことはないと思う。  僕は余裕綽々で一人つぶやく。 「ま、いつでも吸おうと思えば吸えるって気持ちでいるんだけどね」 「今はたまたま吸ってないだけー」 「あーあ、残ってる一箱見てもなんにも思わないなあ」 「もはや禁煙成功と言っていいんじゃない?(笑)」 「全くイライラしないなあ」 「どうして今まであんな気持ちの悪いもの吸ってたんだろう」 「タバコ吸わずにエッセイでも書いてみようかなあ」 「ていうか全くイライラしないなあ!」 「吸った瞬間の、ストレスがフワーッと解消されるあの感覚、もはや懐かしいなあ」 「いやーそれにしてもイライラしないなあ!!」  完全にタバコに思考を支配されていた。もう吸いたくて堪らない。  ちなみに、この原稿を書いているまさに今この瞬間も、タバコを吸いたくて堪らない。タバコを吸いたくて堪らない、と書いたことでより吸いたくなってくる。禁煙というテーマで書き始めたのに、途中で吸ってしまったら、元も子もない。吸いに行った時点で、この原稿をゴミ箱に入れなければいけない。せめて、吸うのはこの原稿を書き終えてからにしよう。そうだ、原稿一本書いたらタバコ一本吸える。そういうルールにしよう。  ということで、僕は伝家の宝刀を抜くことにした。いや、伝家の宝煙を吸うことにしたと言うべきか。
    【マイムタバコ】
     この言葉を聞いたことはないだろうか。非喫煙者には耳馴染みのない言葉かもしれない。否、喫煙者でさえも聞いたことはないだろう。それもそのはず。これは僕が生み出した言葉であり、禁煙法だ。
     
  • 【トークイベント】8/22(月)これからの公共空間の話をしよう|宇野常寛×門脇耕三×熊谷玄×橋本ゆき×松田法子(Hikarie +PLANETS 渋谷セカンドステージvol.26)

    2022-08-13 09:00  

    PLANETSより「これからの公共空間のあり方」を主題にしたトークイベント開催のお知らせです。
    「渋谷セカンドステージ」では、渋谷ヒカリエ 8/COURTを舞台に、PLANETSと東急株式会社が共同で、渋谷から新しい文化を発信することをテーマに様々なトークショーを開催しています。今回のテーマは「公共空間」です。
    当日は、情報化が進む現代社会における街の公共性のあり方について、ゲストの方と議論します。
    まずは、ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展で日本館のキュレーターを務めた、建築家の門脇耕三さん。
    ランドスケープデザイナーとして様々な地域の風景設計に携わる、熊谷玄さん。
    ダイバーシティ施策やまちづくり・エンタメ支援などに積極的に取り組む、渋谷区議会最年少議員の橋本ゆきさん。
    そして、「ブラタモリ」への出演で有名な、都市と自然の結びつきを研究されている松田法子さんをお迎えします。
    会場参加チ
  • 川上未映子――保守化する娘(後編)|三宅香帆

    2022-08-12 07:00  
    550pt


    今朝のメルマガは、書評家の三宅香帆さんによる連載「母と娘の物語」をお届けします。今回取り上げるのは川上未映子の作品です。母を愛し、自らも母となる「保守化」した娘が諸作品で描かれていた1990年代。一転して川上未映子が2008年に描いた『乳と卵』には、母を愛しながらも、「母性」の暴力性に自覚的であるがゆえに葛藤する娘の姿がありました。(前編はこちら)

    三宅香帆 母と娘の物語第十章 川上未映子――保守化する娘(後編)|三宅香帆
    3.母性の暴力性―『乳と卵』
    2008年、信田・斎藤の著作出版とともに『シズコさん』が佐野洋子の手によって出版された。これは本連載冒頭でも見た通り、「母に愛されない娘の話」ではなく、「母を愛せない娘の話」だった。佐野は戦前生まれの女性なので、むしろ彼女の世代にあってはじめて、母娘問題の口火を切れたのかもしれない。 しかし同時に、2008年、団塊ジュニア世代の作家である川上未映子が『乳と卵』で芥川賞を受賞していた。まさしく母性と母娘の関係をテーマとした小説だった。 娘を産んだことで減った胸を気にして豊胸手術を受けたいと言う母・巻子と、彼女に連れられて大阪にやってきた娘・緑子の関係性が、巻子の妹・わたし(夏子)の目線から描かれる。

    あたしな、かわいいなあ、思ってさ、ときどきちゅうしたりするねんよ、寝てる緑子に、と箸の先をひらひらさせながらわたしに向かって云った。すると巻子がそれを云った瞬間に、緑子の顔の色と硬さがぎゅんと変化してそれからものすごい目で真正面から巻子を睨んだ。わたしはそれを見て、あ、と思いつつ言葉が出ず、その目は緑子の顔の中でますます強く大きくなるよう、それを見た巻子は、一瞬顔をこわばらせて、なにやの、と小さく静かに云って、なにやのその目、と巻子は静かに続け、あんたいったい、なにゃの。 緑子は目をそらして、それからメニューが掛かってある壁のあたりを見つめ、しばらくしてから、小ノートに〈気持ちわるい〉と書き、それをテーブルのうえに開いて見せて、ペンで〈気持ちわるい〉の下に何度も何度も線を引いた。 (川上未映子『乳と卵』2008年、文藝春秋)

    緑子をかわいがろうとする母に対し、緑子ははっきりと嫌悪を向ける。「気持ちわるい」という言葉は、愛情が重たく感じられるという意味にもとれるし、母性の愛情そのものを拒否しようとする姿にも見える。緑子は生理が来ることや胸を大きくなることに嫌悪感を抱く娘であり、自らの母性を否定する娘である。同時に、母の母性も拒否しようとする。 このような娘のあり方――母の愛情を拒否しようとする娘の姿――は、2000年代前半には見られなかった描き方だった。 しかし緑子は、母のことを拒否したままでは終わらなかった。緑子にとって母はやはり「大事」な存在なのである。

    あたしを生んで胸がなくなってもうたなら、しゃあないでしょう、それをなんで、お母さんは痛い思いしてまでそれを、(中略) あたしは、お母さんが、心配やけど、わからへん、し、ゆわれへん、し、あたしはお母さんが大事、でもお母さんみたいになりたくない、そうじゃない、早くお金とか、と息を飲んで、あたしかって、あげたい、そやかってあたしはこわい、色んなことがわからへん、目がいたい、目がくるしい、目がずっとくるしいくるしい、目がいたいねんお母さん、厭、厭、おおきなるんは厭なことや、でも、おおきならな、あかんのや、くるしい、くるしい、こんなんは、生まれてこなんだら、よかったんとちやうんか、みんな生まれてこやんかったら何もないねんから、何もないねんから、と泣き叫びながら今度は両手で玉子をつかんでそれを同時に叩きつけた。 (『乳と卵』)

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  • 川上未映子――保守化する娘(前編)|三宅香帆

    2022-08-08 07:00  
    550pt


    今朝のメルマガは、書評家の三宅香帆さんによる連載「母と娘の物語」をお届けします。団塊ジュニア世代の漫画家の多くが「母殺しの困難」「重みとなる母」を描いていたのに対して、1990年代には素直に母を愛し、自らも母性を獲得していく娘が諸作品でみられるようになりました。そうした娘の「保守化」が生じた1990年代の作品史をたどります。

    三宅香帆 母と娘の物語第十章 川上未映子――保守化する娘(前編)|三宅香帆
    1.保守化する娘―団塊ジュニア世代の娘たち
    本連載でも冒頭から見てきたように、信田さよ子が母娘問題について提起した『母が重くてたまらない──墓守娘の嘆き』(春秋社)、斎藤環が『母は娘の人生を支配する──なぜ「母殺し」は難しいのか』(NHK出版)を出版し、母娘問題が注目を浴びたのが2008年。同年『ユリイカ』(青土社)でも「母と娘」特集が組まれた。この現象について、信田と齊藤の対談において二人は以下のように語っている。

    斎藤:「母の重さ」について、僕自身は本を書いたときも今もさっぱりわかりません。ただ、当時30代の女性編集者が「母娘関係について書いてほしい」と熱心に依頼してきて。 信田:私の本もまったく同じ。30代後半の女性編集者から「母親との関係で苦しむ女性たちをテーマに執筆してほしい」と。彼女自身も母の存在に苦しみ、その思いが依頼につながったのです。「団塊母」が「教育熱心」という形で娘を支配し、その期待に応え高学歴を経てメディアで仕事をするようになった娘たちが、一斉に声を上げ始めた。それが「母が重い」というムーブメントに火をつけたと見ています。 (「信田さよ子×斎藤環 根深い「母娘問題」に共存の道はあるのか?」『AERA dot.』2018/2/5掲載 https://dot.asahi.com/aera/2018020200049.html?page=1)

    当時2008年段階で30代半ばだったと仮定すると、1970年代前半生まれのいわゆる「団塊ジュニア」世代が、大人になったからこそやっと声を上げられたのではないか、と信田は述べる。 第七章以降で扱ってきたよしながふみ、小花美穂、芦原妃奈子、高屋奈月は、1970年代前半生まれのちょうど団塊ジュニアと呼べる世代の漫画家である。彼女たちは1990年代後半から2000年代前半、すでに「母と娘」がテーマのひとつとなる漫画をヒットさせていた。それらの漫画に熱狂した少女たちは、精神科医たちが分析を綴る前に、少女漫画というフィクションの中で母娘問題に触れていたのである。 しかしよしなが、小花、芦原、高屋の描いた母娘像とは、「母から離れない娘」の在り方だった。つまりはどの作品も、娘が母を好きなのである。精神的な母娘の密着。そのような在り方こそが、団塊ジュニアの漫画家たちが描いた母娘像であった。 これは萩尾望都、山岸凉子といった団塊の世代の漫画家たちが描いた「母が弱いからこそ支配されてしまう」在り方とは異なる。萩尾や山岸の描く母娘密着においては、娘が母を嫌悪するさまが描かれていた。たとえば『イグアナの娘』において娘のリカは自分を呪ってくる母を嫌悪し、家から離れた(第一章参照)。あるいは『日出処の天子』において厩戸王子は母の性を嫌悪した(第二章参照)。 一方『愛すべき娘たち』においてまさに団塊ジュニア世代の雪子は、母の麻里とともに暮らし、そして「ずっとあたしだけのお母さんだったのよ」と呟く。『こどものおもちゃ』の紗南は、自らを育てた血の繋がっていない母も、自らを捨てた血の繋がっている母も、どちらのことも受け入れる。『フルーツバスケット』は亡くなった母を慕う主人公が描かれる。さらに『砂時計』においては自分を置いて自殺した母に対して、母と同じ道を辿ろうとする娘が描かれた。娘の杏は、作中において基本的に母を好きなことは疑わず、「自分が愛されていたかどうか」に論点を置くのである(第九章参照)。 こうして並べると、団塊ジュニア世代の漫画家の描く娘たちは「自分が母を愛していること」にはほとんど疑いを入れず、「自分が母に愛されているかどうか」に注目していることが分かる。これは団塊世代の描く、母を嫌悪していた娘とは真逆のあり方である。さらに氷室冴子、松浦理英子といった1950年代後半生まれ世代の、母を受け入れるか迷っている描き方ともまた異なる。 つまりそれ以前の世代に比べて、団塊ジュニア世代の娘たちのほうが、母を好きなことを疑わない「娘の保守化」が見られるのだ。 信田さよ子や齋藤環は2008年当時、娘の「母が重い」という感情について『イグアナの娘』(萩尾望都、1992年)や『光抱く友よ』(高樹のぶ子、1984年)といったフィクションを援用して解説するが、これらは基本的に娘が保守化する前の、母に嫌悪感を示せていた世代の物語だったことは否めない。
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  • ​​[特別無料公開]高佐一慈「究極の幸せ」(『乗るつもりのなかった高速道路に乗って』より)

    2022-08-05 07:00  

    お笑いコンビ、ザ・ギースの高佐一慈さんによる連載「誰にでもできる簡単なエッセイ」がついに書籍になります!発売を記念して、今回のメルマガでは特に人気の高かった「究極の幸せ」を全文無料公開します。テーマは高佐さんの思い描く「究極の幸せ」について。夜眠る前にある料理を思い浮かべることが、キングオブコント優勝にも匹敵するほどの幸福なんだとか。
    高佐一慈(ザ・ギース)『乗るつもりのなかった高速道路に乗って』 予約受付中!
    PLANETS公式ストアでは、ポストカード付・オンラインイベント参加付の2種類が選べます。詳しくはこちらから。

    車は高速道路を爆走する。 インターで降りようにも、降りる恥ずかしさを考えると、このまま高速を進んでいった方がマシなように思う。 こうして僕は、周りの目を気にするがあまり、引くに引けなくなってしまうのだ──。
    「こんなに笑えるエッセイは絶滅したと思っていました。自意識と
  • PLANETS CLUBより、宇野常寛による限定講座「宇野常寛ゼミ」のご案内

    2022-08-02 17:00  
    いつもPLANETS CHANNELをご覧いただきありがとうございます。宇野常寛の読者コミュニティ「PLANETS CLUB」より、限定講座「宇野常寛ゼミ」についてお知らせです。
    PLANETS CLUBが始めた新企画「宇野常寛ゼミ」では、宇野がアニメを語るときに考えていることや、情報社会を分析する際の思考法を、ここだけの内容で伝えています。

    (宇野常寛からのメッセージ) コンセプトは「僕程度には、何でも書けて、話せる人の育成」です。僕が批評家として、さまざまな媒体の編集者として考えていることと、スキルを教える講座です。作品分析、時代への応答、ライフスタイルまでさまざまなテーマを扱います。時々ゲストも呼びますが、基本は僕の指導です。ただ動画を見ているだけでも学べるように工夫しますが、参加型の授業も考えています。「大人の社会科見学」的なアクティビティも用意しています。当面、僕の直接の知り合
  • 『リコリス・ピザ』──ありふれたボーイミーツガールを一変させるラストシーン|加藤るみ

    2022-08-01 07:00  
    500pt

    今朝のメルマガは、加藤るみさんの「映画館(シアター)の女神 3rd Stage」、第31回をお届けします。巨匠、ポール・トーマス・アンダーソンの5年ぶりの新作長編『リコリス・ピザ』。鑑賞後、思わず叫びたくなったというるみさんが、同作の「焦れったいボーイミーツガール」を解説します。
    加藤るみの映画館(シアター)の女神 3rd Stage第31回 『リコリス・ピザ』──ありふれたボーイミーツガールを一変させるラストシーン|加藤るみ
    おはようございます、加藤るみです。
    最近映画館に行くと、冷房が効きすぎていて腕がもげそうになります。 いつもいつも羽織を持っていかなければと思いつつも、ゴリゴリの半袖で行ってしまい、真夏の極寒に震えるわたしです。
    あれ、どうにかなりませんかね。(羽織を持ってきゃどうにかなる)
    さて、今回は待ちに待ったポール・トーマス・アンダーソン(PTA)の新作『リコリス・ピザ』を紹介します。
    ですが、今回は先に謝らせてください。 すいません。 何故なら、すでに映画の上映自体が終了しているかもしれないのです。 7月1日から公開なので、もしかしたらまだギリ上映しているところあるかな……? という感じ。 だけど、どうしてもどうしても……、この作品について書きたくて。 このタイミングになったことをお許しください……。
    PTAといえば、世界三大映画祭(カンヌ、ベネチア、ベルリン)のすべてで監督賞を獲得し、"映画を愛し、映画に愛された男"と名付けたいほど、世界中の映画ファンが熱狂する監督の一人です。 長編の新作としては約5年ぶりということで、わたしも本作を心待ちにしていました。
    あー!! もう! 大好きでした!!
    観終わった後すぐ、誰かとこの気持ちを分かち合いたいって思った。 エンドロールの時、立ち上がって「フゥーッ!!!」って叫びたかった。 あまりにも幸せな映画体験をさせてもらいました。 けれど、「観ている間はそうでもなかった」のがこの映画を観た者なら共感してもらえるポイントではないかと思います。 いや、むしろせっかちなわたしは頭をポリポリ掻きながら少々貧乏ゆすりをしていたかもしれない(笑)。 そのくらい焦れったくて焦れったくて、134分がものすごーく長く感じる瞬間さえあったわけです。 な・の・に、終わった後「最高!!!」と、走り出したくなるなんて……。

    最終的に「これが映画の面白さだよなぁ」と、改めて映画の素晴らしさを痛感し、とってもハピネスな気持ちにさせてくれました。
    舞台は1970年代のロサンゼルス。 高校生のゲイリー・ヴァレンタイン(クーパー・ホフマン)は子役として活躍していた。一方、アラナ・ケイン(アラナ・ハイム)は、カメラマンアシスタントとして社会に出て働くも、将来が見えぬまま過ごしていた。 ゲイリーは高校の写真撮影のためにやってきたアラナに一目惚れするも、アラナは自分が10歳も歳上であることに気後れし、なかなか本気になれない。 15歳の少年と25歳の女性の付かず離れずで、不安定な恋愛模様を描く……。

    小山虎『知られざるコンピューターの思想史 アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ』
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