張昭とは、三国志に登場する人物である。
概要
字は子布。徐州彭城国(現在の江蘇省徐州市)の出身。若い頃から学問に長けており、朝廷への出仕を断っていた。徐州の群雄である陶謙の招聘を断って陶謙に軟禁されたこともある。
中原の動乱が広がると、江南に移住し、孫策の招聘を受けて仕えるようになる。孫策は張昭を長史、撫軍中郎将に任ずると共に軍事から内政まで諸事を彼に任せるほど厚い信頼を寄せ、「斉の桓公は一に仲父、二に仲父といっては管仲を重く用いたため覇者となった。私がこうして子布を用いるのだから、桓公より名声が低いといえようか」と言っていた。
200年、孫策は死の直前に張昭と周瑜に弟の孫権を補佐して欲しいと頼み、張昭には「もし仲謀が君主の器でなければ、あなた自身が代わりに政務を執って欲しい」と遺した。張昭は悲しみにくれる孫権を叱咤し呉国を取りまとめ君主としての任に当たらせた。またその二年後、孫策や孫権の生母である呉夫人が死に際して張昭に孫権の補佐を依頼している。
孫権の時代でも、張昭は引き続き内政と名士豪族層のとりまとめで活躍する。その一方で孫権に少しでも度を外した行状があると討逆将軍(孫策)は、母上様はあなたを補弼せよと私は命を受けたのですと述べて直諫してはいつも孫権は閉口していたが、その諫めには従っていた。
229年、孫権が帝位に就くと、孫権は周瑜がいなければ今の自分がいなかったと述べたので張昭も周瑜を褒め称えようとしたところ「もしあの時、張公の言うことを聞いていたら今の私は乞食だっただろう」と言ったため張昭は恥じ入り引退を申し出た。208年に曹操が攻めてきた時多くの群臣が戦いに反対し曹操に降伏するよう主張したが、張昭はその筆頭だったのである。
その後の張昭は輔呉将軍となり、学者として『春秋左氏伝解』や『論語注』を書いていただけでなく、孫権に度々意見していたようで、232年に公孫淵が魏から叛くと聞くや孫権はこれに使者を送り、張昭は反対するも聞き入れられなかったので家に閉じこもった。まもなく公孫淵は呉の使者を殺しまた魏に従ったので孫権が張昭に詫びようとするが張昭が家に閉じこもり、苛立った孫権が門の外に土の壁を作れば内側に壁を作り返し、孫権が火を放てばそのまま焼き殺されようとした。慌てた孫権は火を消させて息子達に抱えられて出てきた張昭に謝罪したという逸話がある。ただし「襄陽記」や「漢晋春秋」の作者である東晋の習鑿歯はこの行いが臣下の道に外れていると評しており、ここまで進言が容れられないなら身を引くべきだと批判する。
236年、81歳で没。諡は文侯。死ぬ時に普段着のまま葬って欲しいと言ったためか、葬儀に参列した孫権は平服だったという。呂壱(呂懿)事件や二宮の変で孫権が失政を繰り返すのは、張昭の死後であった。
張昭はその多大な実績から丞相に任ずるよう群臣達から要望があったにも関わらず、孫権はついに張昭を丞相にしなかった。陳寿は『三国志』の評で、張昭は厳格な態度のせいで丞相だけでなく師保(皇帝の師、顧問)に任ぜられなかった、こうした点で孫策に比べ孫権は及ばなかったと書いている。
張昭の家族
- 張承 - 長男(ただし仲のつく字は二男がつけるものであり、おそらく二男の誤り)字は仲嗣
- 張休 - 末子。字は叔嗣
- 張奮 - 甥(弟の子)。
- 張闓 - 曾孫。東晋に仕え、『晋書』に立伝されている名臣。曹操の父を殺した人物とは別人なので注意。
孫に当たる張震、孫和夫人は諸葛恪の縁戚(張承の後妻が諸葛瑾の娘)だったため、諸葛恪の横死後に張震は一族皆殺し、孫和夫人は夫と共に自殺を強要されている。
各メディアにおける張昭
三国志演義
張紘と共に江東の二張と呼ばれる賢者で、孫策の度重なる説得を受けて仕える事となった。
「孔明の大論陣」では先鋒に立って、孔明を反戦に引きずり込もうと議論を展開するせいか、どうしても孔明や周瑜と相反する敵役の位置になってしまうのが悲しいところである。
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コーエー三國志
初代の知力98は司馬懿や龐統に匹敵。まあこの頃は知力と政治力が一緒のステータスだったもので…
知力95、政治98だった三國志Vの時が全盛だった気がする。
とはいえ以後の作品でも政治力は高く設定されており、ほぼ全ての作品で90台後半をキープしている。
それどころか政治力top3に入る事も多く、内政に関しては彼に任せればほぼ問題ない。
三国志大戦
UC張昭の「防柵小再建」というのは公孫淵の事件で引きこもった時のエピソードを元にしているのかは不明。
ともかく再建爺さん、孫呉四天王の一角としての使い勝手の良さから、関連動画も非常に多い。