震電とは、大日本帝国海軍が開発した試作局地戦闘機である。略符号はJ7W1。
概要
計画時の呼称としては十八試局地戦闘機震電。
局地戦闘機とは主に爆撃機迎撃を主任務とする戦闘機のこと。航続距離や格闘性能を重視せず、上昇力や大火力が求められる戦闘機である。日本海軍では月光や雷電などがそれにあたる。
さて震電は従来のレシプロ戦闘機の限界を超えるために、エンテ型という形式を採用している。すなわち水平尾翼を廃し、前方に小さな翼を設ける方式である。
さらに、エンジン・プロペラが機体後部に配置されるプッシャ式になっている。つまり、プロペラがない方(上のお絵カキコで言うと画面下方向)が前方となる。一見すると珍しい配置だが、エンテ型の単発レシプロ機においてはその特性上、このプッシャ式の方が通常の配置となる。
この方式が有利とされた理由はいくつかある。
当時の一般的なトラクタ型の戦闘機(零戦を思い浮かべてもらえればOK)においては、操縦席から尾翼にかけての部分の胴体には特に何もない。要するにここはデッドスペースなのである。
そこで震電で採用されたエンテ型+プッシャ式の配置を考えてみると、操縦席の後ろはエンジンカウルであり、従来のデッドスペースは操縦席より前に移動した形となる。
戦闘機の操縦席の前にあるものといえば、もちろん機関銃である。しかも前にはエンジンがないので、心置きなく機体の中心線上に武装を乗せることができ、デッドスペースが有効活用できる。また、これにより重武装を安定して施すことが可能で、さらに命中精度も向上が期待できる。
こうしてデッドスペースが消えたことに加え、エンテ型は前翼も揚力を生むため主翼も小型化でき、結果機体の小型化=空気抵抗の軽減=高速化という目的までもが達成できる。
さらに、エンテ型+プッシャ式の特性上安定性に欠けるが、それはすなわち機動力の高さの証明でもある。
これらの理屈により、高速・高火力・高精度・高機動な機体が出来上がる、というのがエンテ型を推した設計者・鶴野技術大尉の考えであった。
鶴野大尉のこの構想に、源田実大佐が同調。海軍内には否定的な意見もあったとされるが、米軍への新たな対抗策は必要性を増しつつあり、また理論上間違ってはいないということもあり、おおむね賛同されていたとか。
こうして設計された震電の予定スペックは、最高速度750km/h、30mm機関砲4門という圧倒的なものであった。
この高速と重武装を活かし、当時、B-17とP-51に対して一定の戦果を挙げていたドイツのメッサーシュミットMe262と似た、B-29の前方へ展開して斉射、護衛機を速度で振り切り再度前方へ展開して第二撃、という戦法が予定されていたという。
ただし上昇率は雷電が1000m/min程度であるのに比べて750m/minと予定段階から既に低い。あんた高高度爆撃機を迎撃するんじゃなかったのか?
実験は空技廠が行い、試作機の製造には対潜哨戒機「東海」の製作を終えてたまたま手が空いていた九州飛行機が選ばれることとなった。三菱、中島などと違いほとんど名前を聞いたことがないであろうマイナーなメーカーだが、もう既に新型機を作れる余裕のある会社など残ってはいなかった。
加えて言うならば、九州飛行機は決して開発力のない会社ではない。前述の「東海」は運用面での問題こそ大きかったが、機体自体は要求性能をちゃんとクリアし、制空権さえあれば普通に活躍できたであろう名機であった。もう制空権なんてなかったけどな!
試作
そして九州飛行機は差し迫る戦況から通常の3倍くらいのスピードで図面を仕上げ、1945年6月に試作1号機を完成させた。命令からわずか1年ほどでの完成であったが、当初は半年で完成するよう無茶を言われていたため、予定からすれば遅れに遅れた完成である。なお、途中でエンジンを担当する三菱の工場が壊滅的被害を受けたことも遅れに響いていることを添えておく。
試作1号機は福岡の蓆田飛行場(後の福岡空港である)に運ばれ、技術指導のために空技廠から派遣されていた鶴野大尉自らによるテスト飛行が行われた。
が、離陸時にプロペラを地面に擦って曲げてしまった。本人曰く「つい、やってしまったんですな」とのこと。
慌てて試作2号機のプロペラと交換し、側翼の下に小さな車輪を付ける処置が施された。
こうして、8月3日に無事初飛行に成功。しかしその後も飛行を行なったものの、エンジンの故障により三菱重工に連絡を取っている最中に終戦を迎え、震電は圧倒的なスペックを期待されながらもそれを一切発揮することなく翼をもがれることとなった。
戦後
試作1号機は終戦に憤慨した工員らによって破壊され、試作2号機以下は命令により焼却された。後に試作1号機は米軍の命令で復元され、アメリカへと運ばれていった。アメリカでテストされた公式記録はなく、組み立てられることもなかったという説が有力である。
九州飛行機は戦後渡辺自動車工業となって、西鉄のバスなどの製造で成功した。
同社はその後解散したが、親会社である渡辺鉄工は存続しており、今は自衛隊向けの魚雷関連機器などを手掛けている。そして渡辺鉄工のサイトには、かつて技術の粋を尽くした戦闘機を同社の誇りとして語り継ぐべく、震電の特集ページが存在する。
実際の性能
実際の性能ははっきりしない。
試験飛行は合計してもたったの45分間。しかも全力で飛行することも、着陸脚を上げることさえもないままであった。
なのであくまで推測でしか語ることができないのであるが、多くの場合その予定スペックは発揮できなかっただろうと言われる。
確かに理論上は間違っていないが、いくつもの欠点が挙げられる。
- 縦方向への安定性が悪く、試験飛行では常に機首が下がりがち。かと思えば着陸時に急に上がったりする有様。一方横方向への安定性は極めて良好だったとされる。
- 空冷エンジンをあんなところに置いては冷却に難がある。ただし試験飛行ではエンジンの過熱はさほどでもなかった。
あまり関係ないかもしれないが、ドイツには後ろに空冷エンジンを置いていた有名な車がある。この車も冷却で難儀しており、今では水冷になっている。 - しかしオイルが過熱してしまった。全力飛行でないのにこれである。
- エンジンが信頼できないという日本軍の恒例行事。
- 右へのカウンタートルク発生。ただしこれは解決の目途が立っていたという意見もある。
- 着陸脚が長いため脆い。しかし震電より重い彩雲や景雲からの流用であるため、意外とこれは問題にならない模様。なおプロペラを擦った後に取り付けられた補助輪は白菊からの流用。
- そもそも重い。上昇力が求められる局地戦闘機であるはずなのにこれではいけない。また、重いということは速度面でも不利である。
- パイロットが脱出する際、操縦席を飛び出したパイロットに向かってやって来るのは機体の後部、すなわちプロペラである。あまり想像したくないが、つまりパイロットが挽き肉になる。
そこで脱出の際にはプロペラに仕込んだ爆薬でプロペラを吹っ飛ばしてから脱出するというナイスなアイデアが生み出された。なんというか凄まじい。 - エンジンは最後部でなく主翼の上に設置されており、そこから延長軸で後部へ伸ばしているのだが、同じ方式をとった雷電ではこの延長軸の振動が発生している。ただし、震電においては少なくとも試験飛行時は大丈夫だった。
- プロペラの位置や長い着陸脚、離着陸速度の高さから、整備された長い滑走路を要する。
- XP-55アセンダー等、海外の類似した航空機たちはいずれも欠点が多く採用に至っていない。
- 仮に予定スペックを発揮して完成したとしても、当時の日本軍にこんな機体をうまく運用できる力は既に残っていなかっただろうと言われている。一応リベット数の削減など、生産性には結構考慮されていた。
結局のところ完全にはテストされていないので、やはり最強だったのかやはりポンコツだったのかは誰にもわからない。
フィクションにおいては
大人気である。
珍しくも美しいデザイン、数少ないエンテ型という特性、圧倒的だったカタログスペック、謎に包まれた実際の性能等から、多くの作品で人気の戦闘機となっており、登場作品がWikipediaで別ページに記載されているほどである。大抵の作品で宿敵であるB-29やP-51を血祭りに上げている。
有名なのは『紺碧の艦隊』の蒼萊、『ストライクウィッチーズ』の宮藤芳佳のストライカーユニット→震電(ストライカーユニット)、『艦隊これくしょん』の震電改などであろうか。
『スカイ・クロラ』にも酷似した戦闘機『散香』が登場するが、これは震電をモデルにしたのではなく、実際に飛びそうなエンテ型機を突き詰めて行った結果たまたま震電に似てしまったらしい。
『荒野のコトブキ飛行隊』では、何と主人公たちに立ちふさがるラスボス機として登場。しかも、最終的には下記のジェット化改造を施した震電改となって、猛威を振るうことになった。
2023年の映画『ゴジラ-1.0』では、邦画としては極めて珍しい実写の震電が登場。劇中設定では、試作された数機が実戦配備されたものの、戦後の混乱で解体を免れていたもの、とされている。敷島の嘆願で橘が機首部分の装備を一部撤去し、大型爆弾を搭載、ゴジラの口内へ特攻可能なように改造されている。また、搭乗席のある改造が映画のテーマを据える大きな意味を持つ。数ある対ゴジラ対策の中でもオキシジェン・デストロイヤーや抗核エネルギーバクテリアに匹敵する戦果を挙げた名機である。
撮影に使用された実物大模型は現在は大刀洗平和記念館で常設展示されている。
震電改
実際に震電改と称された航空機は存在しないが、震電改と言った場合は主にジェット化された震電のことを指す。
要するに、見たところそのまんまエンジンをジェット化しても飛べそうだというわけである。架空機ではあるが認知度が高いため、ジェット化された震電が登場する作品も少なくない。ちゃっかりプラモデルも存在する。
なお震電のジェット化は本当にその話があったと言われている。架空機でありながら認知度が高いのはこれも一因であろう。
ジェットエンジンは石川島/芝浦(後の石川島播磨重工業/IHI)が開発していた「ネ130」を搭載する事になっていたという説もある。
ただし、ジェット化の話があったこと自体は関係者も認めているが、それが冗談交じりの話程度だったのか、ある程度計画が進んでいたのか等ははっきりしない。
もっとも、そもそもジェット化を想定した設計ではないので、実際にできるかどうかはかなり疑問である。
なお上述した艦これの震電改は艦載機型という意味での改であり、ジェット型ではない。ちなみにもし震電を艦載機化するとしても、長い滑走距離と重量が問題であるし、航続距離が考慮されていないので制空戦には向かず、着艦フックをどこに付けるのかも問題となるため現実的ではない。
現存機
アメリカに運ばれた試作1号機がなんと現存している。しばらくはポール・E・ガーバー維持復元保管施設で分解状態のままレストア待ちとして保管されていたが、現在は国立航空宇宙博物館別館に前方部分だけであるが公開展示されている。
たった45分だけ空を飛ぶことを許された幻の戦闘機は、多くの少年たちの夢の中を飛び回りながら、異国の地で今も静かに眠り続けているのである。
関連動画
テスト飛行時の貴重な映像。この機体が今もアメリカで折れた翼を抱いて眠っているのである。