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手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

聞えないから、音、響き、音を合わすことは「不可能と断定する人びと」への「回答」 小倉祇園太鼓のチームプレーの音色

                                                               

                                                                         

 

 

                                                                                                                      Ⓒ豆塚猛         

communion of mind with mind
2000年~2001年元手話通訳問題研究編集長へのinterview一部公開  個人名はイニシャル表記、写真は著作者の豆塚猛さんの了解などなどいただいています。また、手話通訳問題研究誌から一部引用させていただいています。

 

息(手話)が合ってはじめてひとつの音が出せる
   ろうあ協会の青年の人びとが創造的に受けとめた

 

質問
 6人の息(手話)が合ってはじめてひとつの音が出せる、と言われた小倉祇園太鼓の指導者の方のご意見をろうあ協会の青年の人びとが「創造的に受けとめ自分たちの音が聞こえるという、聞きにくい、聞えない」ということを補完し合っていたということでしょうか。

 

元手話通訳問題研究編集長
 そうですね。

 

  リズムをとることに限界はない
 とキッパリした態度を続けて音楽教育

 

 京都ろう学校に新採の音楽の先生が来て音楽指導されていた時に、

 

「聞えない生徒に音楽を教えてなんになる。無意味だ。」

 

と他のろう学校の先生から集中砲火を浴びていた。

 

 その先生は、「リズムをとることに限界はない」とキッパリした態度を続けて音楽教育をされていたことも思い出しました。

 

 聞えないから、音、響き、音を合わすことは不可能断定する人びとへの「解答」を小倉祇園太鼓のチームプレーの音色からも確信しました。

 

 ろう学校の教師たちの少なくない人びとは、ろう、聴覚障害に造詣が深いというのはある意味で「先入観」であったりもすることをしばしば見てきました。

 

 京都ろう学校に新採の音楽の先生は、結局、ろう学校に居られなくなるようにさせられましたが、その先生の正しい主張を改めて思い浮かべた瞬間でした。

 

 手話通訳研究誌にその先生の寄稿が掲載されているので読んでいただければ‥‥‥と思います。

 

音の響と手の動きを目で確かめ合うことに

  よってほかの聞こえる人と違って
 耳から入った音で確かめて

     調子を取るということではないか

 

質問
 「創造的に受けとめ自分たちの音が聞こえるという、聞きにくい、聞えない」ということを補完し合っていたということはどうしてそう言えるのでしょうか。

 

元手話通訳問題研究編集長

 前回掲載した豆塚猛さんの写真をもう一度見ていただきたいと思います。

 

 いちまいの写真に多くのことが織り混ざれていることを繰り返し強調してきましたが。

 

 小倉祇園太鼓叩いている様子をよく見ていただくと音の響と、手の動きを目で確かめ合うことによって、ほかの聞こえる人と違って耳から入った音で確かめて調子を取るということではないのかが写真からも見て取れます。

 

 このことはとても大切なことです。

 

 ある人は聴覚障害があるから「目が耳以上にが優位にたつ」主張されていますが、そうではなく聴覚障害があるので目で見る、集中することによって学習能力が高まっていくと言えるのではないかと思っています。

 

 聞く意識が眼と共に高まっていく、そのように考えることができるのではないかと思っています。